飛翔 - みる会図書館


検索対象: 僕たちの背に翼はない
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1. 僕たちの背に翼はない

時間ができた時。逆に、仕事に煮つまった時。テランスはメ トロを乗り継いでルーヴル美術館へ足を運ぶ。彼にとっての《運 命の絵》に会うために フレムト・ダンテの「飛翔」。 この P60 号の絵は、ダンテの代表作でもなければ人気作で もない。しかし一目見た瞬間からテランスの心をわし掴みにし て離さなかった絵だ。 絵の中心に描かれているのは初老の男だ。顔立ちも服装もく たびれている。見たところ農夫か工員といったところだ。黒っ ぽい服を着たその背中に、巨大な純白の翼が生えている。 男は空へ向かって飛翔する。上へ上へと。 はるかな眼下に、建物が寄り添って立つ集落が見える。その 小ささが、男の到達した高みをいっそう際立てている。 夕暮れ時なのだろう。地上の建物から東へ長く伸びる影も、 細かく描き込まれている。 なんという、巧みな構図。はるかな空の高みから地上にまで 至る広大な空間が表現されている。絵画が二次元であることを 忘れさせてしまうような奥行き感だ。 そして、男の背中に生えた翼の、透明感のある美しさ。羽毛 の一本一本までか確かな質感をもって描き出されている。輝か んばかりに白く、清らかな羽。天使の翼というのはきっとこう いうものだろう。 しかし、何よりも圧倒的なのは、男の表情だ。 翼を手に入れたことへの戸惑い。高さに対する恐怖。それら が、飛ぶことの喜びに取って代わられつつある様子が、まるで その場に居合わせたかのように生き生きと伝わってくる。 歓喜、興奮、陶酔。 1 2

2. 僕たちの背に翼はない

いない。気づけばテランスはルーヴル美術館のリシュリュー翼 をよろめく足取りで進んでいた。 元は宮殿であった壮麗な建物は、増築に増築を重たおかげ で今ではとてつもなく広大で、迷路のように複雑な構造を持っ ている。慣れない来場者にとって、目的の作品にたどり着くこ とは容易ではない。しかし画塾に入る前からこの美術館に通い つめているテランスは、一刻の時間も無駄にせず、まっすぐそ の絵に向かった。目隠しされていたってたどり着けただろう。 フレムト・ダンテの「飛翔」。 彼の《運命の絵》、愛してやまない美しい別世界は、いつも 通りの静謐さでそこに存在していた。 タ閭迫る空の複雑な色彩。 翼をはためかせて飛翔する男の歓喜の表情。 耳を打つ風の音さえ伝わってきそうな臨場感だ。 テランスはいつもと変わらぬ感動に満たされた。いや、絶望 の中だからこそ、その絵はいつも以上に崇高に輝いて見えた。 絵を見上げながら懸命に嗚咽をこらえた。人目がなければ泣き ながら床にくずおれたいぐらいだった。神々しい美の前にひれ 伏したかった。 そのとき、誰かがテランスのすぐ隣に立った。「飛翔」を見 上げているようだ。自分と同じ絵を好むのがどんな人かが気に なって、テランスはつい視線を隣へ投げかけた。 年恰好からして大学生、だろう。艶のある金髪と、簡素だが 清潔な感じの純白のシャツが、きちんとした印象を与える。こ ちらに向けられている横顔は、はっとするほど整っていて、睫 毛が長くて・・・ 38

3. 僕たちの背に翼はない

それ以来、ロコミでぼっリぼつりと肖像画の依頼が来るよう になった。テランスも自分からモデルを雇って人物画を描いて みたりした。 仲間で金を出し合って展覧会を開いた。盛況とはお世辞にも 言えなかったが、予想以上に大勢の人が足を運んでくれた。テ ランスの絵が一枚売れた。 ちゃんと地面に足がついている。一歩一歩進んでいる。 何かが急に変わったわけではないし、ハッピーエンドも約束 されていないが。 今でもダンテの『飛翔』は好きだ。ときどきルーヴルまで 見に行く。 でも、空に飛び立ちたいとは、あまり思わなくなった。 翼を持たない凡庸な人間は、毎日歩き続けたとしても、結局 大した距離を進めずに終わるだろう。 でも、それでいいのだと思える。 大事なのは、選んだ道を自分の足で歩き続けることだから。 いくら願ったって背中に翼なんか生えてこない。俺たち は自分の足で歩いていくしかないんだよ。 二人きりの夜中に、本音らしく零れ落ちたアスティの言葉を 59

4. 僕たちの背に翼はない

ことを、悪いとも何とも感じていないようだ。 そして何よりも彼の神経を逆撫でしたのは、アスティのこと あいつは俺のものだ、と高らかに宣言するかのような。 なら何でもわかっていると言いたげなドルべースの自信たつぶ 何も知らないくせに りな物言いだった。 55 「この絵は僕のものです。絶対に手放すつもりはありません。 とってね。どうか買い取らせてください。お願いします」 があったという証拠を残すのは危険なんです。むしろあなたに 「脅すわけではありませんが、あなたとアスティとの間に接点 「これは売り物じゃありません」 テランスは反射的に答えていた。 スの顔をのぞき込んでいた。 気がつくとドルべースが、如才のない営業用の微笑でテラン 画伯。いくらでも構いませんから」 「この肖像画は私が買います。代金をおっしやってください、 のに ら、強気な少年もときどき「翼が欲しい」と願っているという 師匠と称するこの男の傍らで日々危険な仕事に携わりなが いくら願っても あの言葉も。 に満ちた横顔も。「いくら願っても翼なんか生えない」という、 ダンテの『飛翔』を食い入るようにみつめていた、あの憂い

5. 僕たちの背に翼はない

こみいった夢を見ていた気がする。 テランスは夢の世界に心を半ば残したまま目覚めた。ぽんや りとした不安感に包まれていたが、すぐに夢の内容を忘れ、続 いて不安感も忘れた。 夜は長かった。体調が悪い時にありがちな、決して明けない ような気がする夜だった。 アスティがべッドの傍らで、テランスの蔵書である美学の本 を読んでいた。 ローティーンが読むようなレベルの本ではないはずだが、ア スティは本に熱中していて、テランスの覚醒にも気づいていな いようだ。 暗閭を背景にして、読害灯の光を真正面から受けている。 肌の白さが、まばゆいばかりだ。 「うれしかったんだ。ダンテの『飛翔』。僕の大好きな絵を、き みも好きだと知って」 何か伝えたい事があるからというより。こちらを見てほしい、 声を聞きたい、というやむない欲求に駆られて、テランスは言 葉を発していた。 少年は本から顔を上げてテランスを見た。その瞳が光を受け 止めてきらりと輝いた。 「絵なんか好きじゃない」といういつもの否定、本気で信じ させるつもりもないような挨拶代わりの嘘が返ってくることを テランスは予期したが、アスティの返事は思いもかけないもの だった。 「あの絵、翼の描き方が良いよな。羽ばたいている感じがうま く出てて」 47

6. 僕たちの背に翼はない

しかし、友人は大きく手を振ってテランスの言葉を否定した。 「違うって ! そんなお綺麗な話じゃなくてさ。その女のため ならすべてを失ってもいいーーー破滅しても後悔しない。それぐ らい激しくのめり込めるような、いい女に会ってみたいもん だ、って話だよ」 「ナナみたいな」 別の友人がすかさず補足した。 ナナというのはきっと、先日公開されたばかりの映画『女優 ナナ』のことを言っているのだ。大勢の男を狂わせ、翻弄し、 破滅に追い込む高級娼婦ナナ。あの印象派の巨匠ルノワールの 息子が監督し、ルノワールの妻だったカトリーヌ・エスランが 主演を務めた点でも話題になっている。 「『運命の女』は知らないけど。『運命の絵』になら、もう出会っ てるよ。僕の人生を変えた、すごい絵にね」 テランスは力をこめて叫んだ。 「フレムト・ダンテの「飛翔』。これを超える絵を、僕はいまだ かって見たことがない。十年以上前に初めて出会って以来・・ 僕は覚めない恋をしているんだ、あの絵に。画家になろうと決 心したのも、あの絵を見てからさ」 「さ・す・が、「絵バカ」のテランス。女よりも絵かよ」 仲間たちは無遠慮に爆笑した。 「当然だろう ? 僕たち絵描きにとって、絵以上に重要なもの があるっていうのか ! ? 」 テランスは心外だという表情を作って、胸を張った。 大きな声を出してみせたが、実際はそれほど興奮しているわ けではない。「絵バカ」と呼ばれるのは嫌いではないのだ。む しろ褒め言葉だと思っている。 5

7. 僕たちの背に翼はない

地上のしがらみを離れ、自由に空を舞うことの幸福感。 夜の闇に半は飲み込まれつつある地上の様子が、男が後に残 してきたものの重さを象徴しているかのようだ。 日に焼けた男の顔に刻み込まれた、おずおずとした、だが強 烈な陶酔の表情を見るたびに、テランスの心はかきむしられる。 この絵が象徴しているのは絶対的な解放だ。 所へ飛んで行きたい。 背中の翼で空気を打ち、力強くはばたいて、見知らぬ遠い場 吸い上げられたい。 ままならない地上の世界をすべて捨て去り、広大な空の中へ 自分も飛びたい、この男のように。 13 こ。ここから飛び去るための翼が欲しいと。 だからテランスは、自分の《運命の絵》を眺めながら願うの るのに、抜け出す道がみつからない。 本当にやりたいことからどんどん遠ざかっているとわかってい 後ろめたさと不安に苛まれる日々は、もうたくさんだ。自分が このままではいけない、と思う。今の生活から抜け出したい。 を淡々と生産するだけの毎日。 送っている。贋作職人だ。金をもらって、魂のこもらない絵画 ところが今のテランスは芸術家というより職人に近い生活を に、贋作の制作に手を染めたはずだった。 い。そう願って画家を志したはずだった。その夢を支えるため 自分もいつか、人の心に楔のように打ち込まれる絵を描きた

8. 僕たちの背に翼はない

まだ子供と言っていい年頃なのに、すでに犯罪の世界にどっ ぶり浸っているのは、それなりの事情があってのことだろう。 心安らぐ生活だとは到底思えない。 「本当に偶然だね。僕も大好きなんだ、この絵」 「俺は、別に、好きだから見てたわけじゃない。たまたま通り かかっただけさ」 きみが本音を言わないことには、もうとっくに慣れている。 「この絵は、空を飛ぶことへの憧れをかき立てるよね。きみ も・・・・・・翼が欲しいと思う ? どこか遠い所へ飛び去るための翼 が ? 」 アスティは無言で、よろよろと歩み寄るテランスを見上げた。 綺麗な大きい瞳に吸い込まれそうになる。 テランスは不意に、目の前の少年の華奢な体型を強く意識し た ( 普段は、チンピラらしいやさぐれた態度のせいで、それほ ど非力な印象は与えないのだ ) 。そして、手を伸ばせば容易に 触れられる、距離の近さも。 その瞬間、テランスの心と体の均衡が一気に崩れた。 己が何を欲しているのか自覚しないまま、彼は衝動に任せて、 アスティを抱きしめた。 女の体型とは似ても似つかないが、まだ男になりきっていな い柔らかい体が、すっぽりと彼の腕の中に収まった。 湧き上がる狂おしい感情のままに、彼は抱きしめた腕に力を 込めた。

9. 僕たちの背に翼はない

「そう・・・・・・そうだよ。あの翼はすばらしい。開き加減が絶妙 だ。ちょうど風を捕えようとしている瞬間を切り取っているか ら、力強さと躍動感が表現できている」 テランスは興奮のあまり、ひとりでに早口になっていた。 「あの絵を見ているといつも・・・・・・飛びたくなるんだ。空を自由 に駆け回れる翼が、僕にも生えていたらいいのに、と思える」 アスティはしばらく無言でテランスを見返していた。やがて、 膝に乗せていた開きかけの本を閉じ、 「画伯。あんた、もしかして、今の仕事から足を洗いたい・・・ とか考えてる ? 」 と、静かな口調で franc ( 率直 ) な質問を投げ込んできた。 テランスはしばらく絶句した。自分の中でさえまだはっきり と形になっていない思いをずばりと言い当てられ、動揺してい アスティは肩をすくめた。 「ど・・・・・・どうして、そんなことを・・ 48 まかせるかっていう話をする時、すごく楽しそうだったからさ」 てたよ。贋作の描き方とか、どう工夫すればプロの鑑定士をご 「でも意外だな。・・・・・・俺、あんたはこの仕事、好きなんだと思っ 関わると、いろいろ危険も多いから」 んとなく』で続けられる仕事じゃない。俺たちみたいな悪党と 「納得できてないのなら、こんな仕事はやるべきじゃない。『な 台詞が、ぼつりと吐き出された。 子どもの瑞々しさの残る顔立ちに似つかわしくない老成した りたい』とか言うのって、自分の生き方に納得できてない時だ 「よくわかんないけど。人が『空を飛びたい』とか『自由にな