レスをとりあげてみましよう。ヘロドトスとともに古代ギリシアを代表する歴史家トウキュ ディデスが、ペリクレスを評して、「かれは当時のアテーナイでは第一人者と目され、弁舌・ 実行の両面においてならびない能力をもつ人物であった , ( 久保正彰訳『戦史』第一巻一三九章、 岩波文庫、以下同 ) と述べています。このペリクレスは、アテナイの名門貴族の出身で、生ま れは前四九五年頃です。アテナイの民主政の制度の充実を図り、また、ギリシア世界の中で はしゃ のアテナイの国力と名声を最大にした立役者でもありました。アテナイは、もう一方の覇者 であったスパルタとその同盟諸国に対する戦争を前四三一年に始めます。現在ベロポネソス 戦争と呼ばれている戦争 ( アテナイ率いるデロス同盟軍と、スパルタ率いるべロポネソス同盟軍との 彼ま惜しいことに前四二九年にアテナイで 戦争 ) を指導したのも、このペリクレスでした。 / ー そのころ流行っていた疫病にかかって亡くなりましたが、その死の少し前、アテナイ市民た ちに対して以下のような演説を行いました。開戦から三年目、アテナイに侵攻してきたペロ えんせん ポネソス軍に国土を荒らされたうえに、疫病で多くの死者がでて、厭戦気分が高まり、指導 者ペリクレスに対して不満をあらわにしていた市民たちを前にしての演説でした。それは彼 の死のわずか数ヶ月前のことでした。 私は敢ていうが、ポリス全体が安泰でさえあれば、個人にも益するところがあり、その 益は、全体を犠牲にして得られる個人の幸福よりも大である。なぜならば、己れ一人盛 運を誇っても己れの祖国が潰えれば、個人の仕合せも共に失せる。反して己れは不運で
時のアテナイの指導的政治家であ 0 ・第 ~ 叭久・ - りみ・づ・た戦者週グなか、叨測」 . ) してト ウキュディデスが記述しているものの一部です。ここでペリクレスはアテナイが命を懸けて るる 守るに値する優れた国であることを縷々述べるのですが、その最も重要な部分がこの引用箇 所です。多数者の利益が重んじられるが、一人一人は法的に同等の権利を有し、平等である 一方で、自分の欲するままに行動する自由もある、と述べています。 これだけ読みますと、アテナイは理想的な社会のように見えますが、実際にはここで語ら れている自由と権利の平等は、成年男子市民のみが享受できるものでした。女性や在留外国 人、奴隷は完全に除外されています。この演説の中では、女性や奴隷はまるで存在していな いかのようです。言い換えれば、ペリクレスが称揚しているデーモクラティアに参加できる のは、アテネに生活する人々の五分の一にも満たない市民の男だけだったのです。見方を変 えれば、いま引用したペリクレスの演説の中に描かれた社会は、そこから排除された多くの 人々に支えられなければ実現できなかった社会であった、ということが言えます。 デーモクラティアへの参加と排除 旅行でいらした方はよくご存じだと思いますが、アテネとその周辺地域は、ゴッゴッした かんばく 岩肌が露出したような、丈の低い灌木が茂る山と、オリープやブドウの果樹栽培が中心の、 ひょく 決して肥沃とは言えない土壌が特徴的です。このような自然環境は、アテナイ最盛期の前五 世紀でもそれほどの違いはなかったようです。アテナイの場合、穀物栽培にはあまり適さな 138
頭派と反対する民主派のあいだで、前四〇四年秋に内戦が始まりました。アテナイ人どうし の過酷な戦争を終結させるに当たって、両派の間で和解協定が結ばれました。この和解協定 には、内戦時のできことについてはアムネスティアを適用するという項目が含まれていまし た。内戦は前四〇三年秋に終結し、民主政が回復しましたが、その際には外敵との戦争の場 合よりも遥かに根深く残る心理的な傷を記憶から消去すること、つまり「水に流すという 便法が必要だったのです。 アムネスティアの別の例としては、アテナイの隣国メガラで前四二三年に生じた内戦を収 拾する際、市民のあいだで過去の確執を水に流す誓約が交わされたという記述が、トウキュ ディデスの史書第四巻七四章にあります。ただし、この誓約は破られ、アテナイ派の市民約 一〇〇名が処刑されてしまいました。これに対して、先に触れた前四〇三年のアテナイの大 赦はほぼ順当に実施されましたので、アリストテレスはこのときの大赦に関して、「当時ア テナイ人は過去の不幸に対して公私ともに他に例を見ぬほどに美しく、かっ政治家的な態度語 をもって処したと思われる」 ( 村川堅太郎訳『アテナイ人の国制』第四〇章三節、岩波文庫 ) 、と賞 想 思 賛しています。もちろん、民主政回復後も数十年のあいだ、市民のあいだのわだかまりは内 治 政 戦の後遺症として存続しましたが、とにもかくにもアテナイ人は自己の記憶を絶っという選 回 択をして再出発を図りました。社会的によりよく生きるために記憶の破棄が主体的に選択さ 第 れたのです。 人は時に生存のための便法として、記憶を消去することが必要であることを、この例は示
クラテスの同時代人たちも多数いたにもかかわらず、彼らの著作は断片のみが残るにすぎな いために、ソクラテスの陰に隠れて見落とされがちなのです。ソクラテスは、過去と同時代 の活発で知的な動きのなかで誕生したのであって、突然の出現とみなすべきではありません。 私たちが知りうるのは、彼がソクラテス的対話を実践したということです。この、「方法と 」こ、ソクラテスという人物について簡単にご紹介しましょ しての対話」について説明する前ー ソクラテスの生涯 ソクラテスは前四六九年にアテナイで生まれました。前四九五年頃に生まれたペリクレス よりも約二五歳年少、ほぼ一世代の年齢差です。ソクラテスはもの心ついたときからペリク レスの活躍を見聞きし、アテナイの繁栄がその頂点にある黄金時代を経験し、ペロポネソス 戦争をはじめから終わりまで経験しました。戦争中のソクラテスはアテナイ市民として少な くとも二度の戦闘に重装歩兵として従軍し、前四〇六年には評議員となっています。 その一年の任期のあいだに、アテナイ民主政の汚点として歴史上に記憶される事件が起こ りました。ペロポネソス戦争も末期のこの年、アテナイ海軍は小アジアとレスポス島のあい だのアルギメサイ群島沖でペロポネソス連合艦隊と海戦を行い、久しぶりの勝利を収めたの です。しかし、海戦終了の直後に嵐が襲来して海が荒れたため、戦闘中に船から海に落ちて 波間に漂う兵士たちを救助することは困難で、彼らを残して艦隊は戦場を後にしてサモス島 第 8 回哲学一一一ソクラテス的対話法の今日的意義 1 1 1
してしまうのですが、二大国のそれぞれは、アテナイは他の国々が民主政を維持するよう、 スパルタは寡頭政を樹立するよう支援しました。このように、当時のギリシア世界において は、民主政と寡頭政とどちらが望ましいか、合意や定説があったわけではありません。アテ ナイでは試行錯誤を重ねながら、民主政が制度上整備されていったことはすでに述べました が、プラトンやアリストテレスのような哲学者たちは、民主政よりも、むしろスパルタの寡 頭的な政体に好意的だったようです。それはなぜだったのでしようか。 前五世紀後半、民主政がラディカルなところにまで到ったアテナイで、前四二九年にペリ クレスが疫病で没した後に、何人もの政治家たちがペロポネソス戦争を戦い抜くための指導 彼ヘリクレスのよ 者として現れましたが、その一人にクレオンという人物がいました。 / は、。 うな伝統的な名門での政治家ではなくて、手工業者の家に生まれ、また軍人としての力量も 十分ではなかったのですが、弁論に長けていたようで、民会で主戦論を熱っぽく唱えて、人々 の支持をとりつけ、その結果、アテナイはペロポネソス戦争終結のタイミングをはずしてし まい、敗戦へと突き進んでいきました。クレオンのように弁論で一般市民を動かす政治家を いました。英語のデマゴーギーはここに由来します。民主政とデー 「デーマゴーゴス、とい マゴーゴスとは不可分では決してなく、クレオンのような政治家が出現するにあたっては、 本人の性格も関係したと私は考えます。しかし、ペロポネソス戦争の惨敗に直面して、極端 なところまで達した民主政に疑問を持つ人々がいたのも無理ありません。市民であれば誰で も民会で発言できる直接民主政は、効果的な安全装置がないという間題点を抱えています。 164
アイスキュロスは、自分たちの勝利の裏面を市民に突きつけ、多面的に自己を見るよう促し たのです。この『ベルシア人たち ( ベルサイ ) 』のプロデューサーはまだ二〇歳代前半の若 さのペリクレスでした。′ー 彼ま、最盛期アテナイの指導的政治家となるのですが、この時のア イスキュロスの悲劇上演を当事者として関与することにより、観客である市民ともども大き な教訓を得たに違いありません。 同じく敗戦の苦しみのなかの他者を描いた悲劇としてはエウリピデスの『トロイアの女た ち』があります。トロイア戦争で敗北し、もはや頼る男たちもいない状況のなか女たちは自 国の英雄、亡きへクトルの忘れ形見であるアステュアナクスを何としてでも守ろうと苦心し すいほう ます。しかしそれも水泡に帰し、幼子は無残な殺され方をし、女たちは奴隷となって異国の 地ギリシアへと引き連れられていくのです。この悲劇の上演は紀元前四一五年でした。その 前年にアテナイはメロス島の小ポリス、メロスを、デロス同盟に加わらないという理由で攻 略し、男たちを処刑。女と子供を奴隷として売却してしまいます。『トロイアの女たち』の こに違いありません。このように、 観客たちは前年のアテナイの無慈悲な行為を思い浮かべオ けんでん 演劇の競演はアテナイ国家のプロバガンダを喧伝するとともに、それを相対化する機能も持 っていました。 アリストフアネスの喜劇 その機能はアリストフアネスの喜劇についても言いえます。悲劇が遠い過去の神話・伝承
それでは、ここでポリスの司法制度について概観しましよう。司法制度に関しては、最も 基本的で重要な原則は、民衆法廷と民衆訴追です。民衆法廷とは、文字どおり、一般市民が 法廷で原告と被告の言い分に耳を傾け、被告の有罪あるいは無罪を投票し、多数決で判決が 決定する、という制度でした。裁判はまず訴追があってはじめて始まりますが、その訴追は 市民であれば誰にでもその権利がありました。アテナイでは警察制度や検察制度がありませ んでしたから、市民が評議会あるいはアルコンに告発することで、裁判が起こされることに なります。それは、公的、私的犯罪一般についても、役人の在職中の不正についても同様で した。アテナイの役人の多くは、任期一年で重任はできず、しかも、複数 ( 多くは各部族から 一名ずつ、都合一〇名 ) からなる同僚団を成して、公務に従事しました。さきほどご紹介した ドレーロスの法律と比べますと、デモクラシーの原則が鮮明に見てとれます。任期が一年で、 選出は抽籤、しかも同僚団制度、これだけ注意深く個人の勝手な行動を抑止するように工夫 された制度ですが、それにもかかわらず、汚職はありました。まさに、「浜の真砂は尽きる とも : ・・ : 」という感じです。 公職就任前の資格審査 アテナイでは前回お話ししたように、三〇歳以上の市民であれば誰もが、軍事、財務担当 の役職の一部を除き、抽籤で選出されて公職につくことができました。ただし、抽籤で選出 152
ひろう デロス同盟の諸ポリスが納めた貢租を観客の前に運び出して披露し、アテナイの国家威信を 誇示することが行われるようになりました。その際には、ポリスに対する功労者の名前を公 表するとともに、国費で扶養されて成年に達した戦死者の遺児たちが、国家の支給する重装 の武具を着けて行進し、一種のお披露目をしました。戦死した父たちに代わって、その息子 たちを国が養育し、立派に成人になったことを、国の内外から来た人々に示すためでした。 竸演とプロ。ハガンダ 大ディオニュシア祭は国が主催する祭りでしたから、いま述べたような祭典の中の一こま は、アテナイ「帝国の制度を誇るために設定された、といえるでしよう。このように、大 ディオニュシア祭は単なる祭典に留まっていたわけではなくて、ポリスの結東とアテナイ「帝 国」の繁栄を希求する姿勢、言い換えれば、プロバガンダを提示する場としての機能も持っ ていました。この点を強調して述べる理由は、かって演劇に関する研究は、個々の作品、つ まりテクストの分析、解釈、に留まっていましたけれども、そして、そのような研究が実り ある成果をもたらしたことも確かですが、現在は競演の場である祭典のもつ意味も考慮に入 れて、その全体のなかに演劇を位置づけて評価するのでなければ、悲劇、喜劇を十分に理解 したことにはならない という立場が重視されるようになっているからです。 祭りは、前夜祭とそれに続く六日間にわたって行われました。祭りの二日目に喜劇五篇が 上演され、三日目から三日間は悲劇の上演に当てられました。三人の作者がそれぞれ一日ず
に終わります。悲劇は妻が原因だったという少々男性中心の見方が出ていて、この点に私は 少し不満を感じます。 このように今に至るまでオルフエウスの神話は映画や舞台に取り上げられ、多くの観客を ひきつけています。男と女の究極の愛の困難性は、古代も現代も変わらない人類の課題であ るからでしよう。とすれば、この神話はこれからも様々な形で取り上げられていくに違いあ りません。 オペラの世界では、フーゴー・フォン・ホフマンスタールの台本によるリヒャルト・シュ トラウスの『ナクソス島のアリアドネ』もたびたび上演されています。日本では、二〇〇二 年に新国立劇場で上演され、好評を博したようです。喜劇調のこのオペラが依拠した神話は、 悲劇に終わるオルフエウスの物語とは違って、次のようなハッピー・エンドの物語です。 アリアドネはクレタ島のミノス王の娘です。ミノス王は、ラビリントスと呼ばれる迷宮の おうし 奥深く ミノタウロスという、頭が牡牛で体が人間という怪物を閉じ込めていました。と いうのは、妻パシファ工が牡牛に恋して、このミノタウロスを産んだからです。ミノスはミ みつぎもの ノタウロスの供物にするため、アテナイから毎年少年と少女を七人ずつ貢物として差し出 すように命じ、それはアテナイにとっては大きな悩みの種となっていました。アテナイ王ア イゲウスの子テセウスは自ら七人の一人となってクレタに渡ります。このテセウスにミノス 王の娘アリアドネが恋し、結婚の約東をして、テセウスのミノタウロス退治を成功させます。 アリアドネは、、 しったん迷い込んだら出られない迷宮から無事に戻れるように糸玉をテセウ
名は、抽籤で選出されるようになると、その権威が低下しました。 現代の日本の場合、公務員は原則として公務員試験に合格した者が就任します。国家公務 員の場合、毎年、公務員の試験があり、試験は—種 5 Ⅲ種、あるいは職種別に実施されてい ます。このような試験に合格するために受験者は専門の勉強をしますから、合格した人はあ る程度専門知識を持っていることが前提となります。 ところが、アテナイの場合、公務員というのは、現在とは少々というより、かなり違って いました。そもそも公務員に相当する役職を担当するのは一般市民から選出された、いわば ' 素人が・・一・年壬期で・担当し引した。言い換えれば、市民が一年交代で役人となるシステム、と いったらよいでしようか。任期一年というのは、もちろん、腐敗を防ぐためでしたが、市民 のあいだで平等に公務を負担する、という意味もあったでしよう。アマチュアリズムが尊重 されたのです。アマチュアで大丈夫なのか、と高度に専門分化し、複雑化した社会に生きる 私たちは一抹の不安を感じてしまいます。しかし、一人前の市民であれば、役人となるだけ の素養は身に着けていて当然とみなされたようです。 デ 1 モスと若者の成長 では、その素養を普通の市民はどのようにして獲得したのでしようか。それは、アテナイ のデモクラシーの制度に由来していたと考えられます。アテナイでは、前五〇八年のクレイ ステネスの改革で、従来の村落 ( デーモス ) がポリスの最小の行政単位デーモスとなりました。 いちまっ 143 第 10 回デモクラシーについて ( l)