していました。前六世紀以前には、エリスと聖地の近くの町ピサとが主催権を争い、一時ピ サが祭典主催者となったこともあったようです。エリス、ピサ両者のあいだで武力衝突が生 じたこともありましたが、リ 前五世紀以降はそのようなこともなく、祭典はエリスの主催で続 けられました。競技会の審判団もエリスの一般市民のあいだから選出されました。 オリンピアは、ゼウスを主神として祀る神域でした。ゼウスはギリシア神話に登場する神々 の中でも最も権威のある神です。ギリシアには大きく分けるとオリンポスの神々とクトーン セウスはオリンポス山に住む神々の中で最も高位の、家 ( 地下 ) の神々とがありましたが、、 父長的存在の神でした。地図を見ると分かるように、オリンピアはオリンポス山からは遠く キリシアには、たとえばドドナのような、ゼウスを祀る聖地が 離れた地にあります。また、、 特にオリンピアは有名でした。。 セウスは雨、嵐、雷などの気象現象を 他にもありましたが、 つかさどる神でしたから、その神域はどちらかと言えば人里はなれたところ、山間部などに 位置することが多かったのです。オリンピアもドドナも同様で、いずれもいまだに決して交 通の便のよい地とはいえません。 おば 発掘調査によれば、オリンピアからは前一〇世紀頃のゼウスの像と思しき小像が出土して いることから、この地でのゼウス信仰はすでにこの頃には誕生していたようです。しかし、 オリンピアに特徴的なことは、出土品の中に生活用品が見当たらないことで、ここから、オ リンピアは人の居住する集落ではなかったと推測されています。この点でアポロンの神託で よく知られているデルフォイとは、違います。デルフォイは集落の中に神域が成立し、神域
互助組織としての組合が結成されるほどでした。 参加資格はヘレネス 競技会への参加資格を定める条件は、殺人行為などを犯していないということを除けば、 ギリシア人 ( ヘレネス ) であること、これだけでした。 参加資格に関しては、たとえば、次のような逸話があります。あの有名なアレクサンドロ 成 ス大王の祖先であるマケドニア王アレクサンドロス一世 ( 在位前四九七頃 5 前四五四頃 ) が、オ 形 識 リンピアの競技会への出場を希望したときに、ヘレネスではないから出場資格なしとして排 意 人 除しようとする者たちがいたことを、ヘロドトスは伝えています ( 『歴史』第五巻二二章 ) 。こ のとき、アレクサンドロスはマケドニア王家はさかのぼればアルゴス出身であると述べ立て 典 祭 て、出場を認められたということです。ただし、このエピソードはアレクサンドロス自身に よる作り話であったという見方をとる研究者も少なくありません。 神 アレクサンドロス一世から数えて五代目のマケドニア王がフィリッポス二世、つまりアレ クサンドロス大王の父です。このフィリッポス王 ( 在位前三六〇 / 三五九 5 前三三六 ) は、オリ ンピックで優勝したことが確かな最初のマケドニア王ですが、彼はオリンピアの神域内にフ オ ィリッペイオンと呼ばれる円形堂を建設し、その中に自分と妻オリュンピアス、それに彼女蛔 第 との間の息子アレクサンドロス大王、そして自分の両親であるアミュンタス三世とエウリュ デイケの五名の立像を設置しました。残念ながら、これらの像は一体も現存していませんが、
オリンピアからの旅立ち 古代オリンビックは神にささける祭典中の競技として始まった 者ホリスの枠を超えた聖地でのイへントを通して ギリシア人 ( ヘレネス ) 意識は形成されていったのてある そして、近代オリンビックにおいては、 オリンピアの地で採火された聖火がリレーされて開催地に届く オリンピア遺跡のヘラ神殿で行われる近代オリンピック聖火の採火式 ( ◎ ( 株 ) フォート・キシモト、写真提供 / アマナイメージズ )
第 1 回 オリンヒックーー神にささげる祭典とギリシア人意識の形成 近代と古代のオリンピック 早いもので、来年はオリンピックの年、今回の開催地は中国の北京です。前回、二〇〇四 年の開催地はギリシア共和国の首都アテネでしたが、それは二度目のアテネ・オリンピック でした。近代オリンピックが最初にアテネで開催されたのは一八九六年のことで、それは記 念すべき第一回大会でした。近代オリンピック大会は古代のオリンピックの復興という名目 で始められ、最初の開催地はギリシアの首都アテネとされたのですが、古代のオリンピック は、ペロポネソス半島西部エリス地方にあるオリンピアで四年に一度開催される運動競技会 で、神にささげる祭典の一環として行われました。これにちなみ、現在でもオリンピックの 聖火は大会ごとに、このオリンピアの遺跡にあるヘラ神殿の前で採火され、その地から開催 地までの長い長い距離の聖火リレーが始められるのです。 現在のオリンピックの場合、開催地は複数の国が立候補し、国際オリンピック委員会 (— (0) 委員の投票で決定されていますが、古代オリンピックはいま述べたように、聖地オリ
オリンピアのゼウス神殿跡 ( ◎ギリシャ政府観光局 ) テルフォイの神域。アポロン神殿 と円形劇場の遺跡 第 1 回オリンピック - ーー神にささげる祭典とギリシア人意識の形成
部分が次第に拡大し、それにつれて集落が周辺部に移動したことが、発掘調査からわかって います。つまり、オリンピアはもつばらゼウスを主神として祀る聖地であって、人々は四年 に一回開催されるゼウスの祭典のためにこの地に集まってきたのでした。 しんぼく わざくら オリンピックの歴史の初期には近隣の豪族たちが親睦を兼ねてこの聖地に集まって、技比 べをする程度だったようです。競技の種類もわずかでした。しかし、交通の便のよくない山 よう・しよう・ 間の地ながら、このペロポネソス半島西部では交通の要衝に位置しましたので、人々の往 来もあり、集まりやすかったようです。しかも、エリスは小国でしたので、政治的な強権を 振るうこともなかったため、次第に周辺の諸国の人々が、さらには、ギリシア世界の各地か ら人々が祭典に参加するためにやってくるようになり、オリンピックは全ギリシア的な祭典 となりました。ついでに言っておきますと、古代ギリシアにはギリシア世界の誰でもが国境 を越えて祭典に参加できる、全ギリシア的な祭典が四つありました。いわゆるギリシアの四 大祭典で、オリンピア祭、デルフォイのピュティア祭、ネメア祭、イストミア祭がそれです。 古代オリンピックと休戦協定 近代オリンピックはクーベルタン男爵の提案で、古代のアマチュア精神を現代に活かそう と始められました。では、実際のところ古代のオリンピックはどうだったのでしようか 一九四〇年に予定されていたオリンピック東京大会が、次いで一九四四年のロンドン大会が 第二次世界大戦で中止となったように、あるいは、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して
ンピアで神にささげる祭典の一環として挙行されつづけました。祭典はもともと宗教儀礼と いう特質をもっていたので、聖地オリンピア以外のところで開催されることはありませんで した。近代オリンピックと際立って異なっていた点は他にもあります。選手はすべて男性で、 既婚の女性は観戦も認められなかったのです。理由はいまもって分かっていません。代わり に、ヘライア祭という未婚の乙女だけの競技会がありました。ヘラはゼウスの妻で、女神オ ちのなかでは最も権威ある存在でした。ゼウスに愛された女神たちはヘラの怒りに触れない ように戦々恐々でしたが、少女たちはきっとのびのびと競技を楽しんだことでしよう。 古代オリンヒックの始まり 古代オリンピックの起源については、史料の記述にもとづけば、前七七六年に始まったこ とになっています。発掘による調査でも、この年代は事実とさほど異ならないと推定されて います。初期の祭典は、ペロポネソス半島西部という狭い地域のエリートたちが寄り集まっ て開いていたらしく、ギリシア世界全域から参加者が集う祭典へと発展するのは、前七世紀 末頃のようです。以来、じつに一〇〇〇年以上、四年に一度の開催が続けられ、通説によれ ば、ローマ帝国のテオドシウス帝による異教祭祀の禁止令を受けて、紀元三九三年の第 しゅうえん 二九三回大会を最後に終焉を迎えたということになっています。 現在のオリンピックは、スイス・ローザンメに本部を置く国際オリンピック委員会が主催 する国際大会ですが、古代のオリンピックはオリンピアの神域を管理する小国エリスが主催 9 第 I 回オリンピック -- 神にささげる祭典とギリシア人意識の形成
ては、たとえば、思いつくだけでも蜷川幸雄氏演出の『メディア』、『エレクトラ』、鈴木忠 志氏演出の『バッカイ』 ( 上演タイトルは初め『バッコスの信女』、のちに『ディオニュソス』と改題 ) などがあります。しかも、チケットを人手するのに苦労するほど、人気が高いのです。私は なが 当日券を求めて行列し、立ち見で観たこともありますが、客席を眺めますと、半数以上が若 い人で占められていました。探せば毎月、日本のどこかでギリシア悲劇を題材とした芝居が 上演されているといってもよいでしよう。そればかりでなく、ギリシア国立劇場が来日して、 現代ギリシア語で公演するということもありました。二五〇〇年近くも前に作られた作品が、 なせこのように現代人を惹きつけるのでしようか まず、ギリシア悲劇とはそもそもどのようなものなのか、これについてみておきたいと思 います。 演劇の竸演 古代のアテナイでは毎年春、現在の三月から四月にかけて開催された大ディオニュシア祭 において悲劇と喜劇のコンテストがありました。ちょうどそれは、オリンピアの祭典でオリ ンピック競技会が開催されたのと同様で、いずれももともとは宗教的な行事の一環だったの です。また、ギリシア人の競争好きがここにも現れているといえるでしよう。 コンテストは、アクロポリスの南側のふもとにあるディオニュソス劇場で行われました。 私は今年、三月下旬のアテネに行ってきましたが、ディオニュソス劇場の遺跡は、観客席の
しようけい このようなフィリッポスの行為は、マケドニア人がギリシア文化に対して抱いていた憧憬 とコンプレックスとを物語っているといってよいでしよう。 ここで、マケドニア王をへレネスではないとしてオリンピックから排除しようとした側に 目を向けますと、この「ヘレネス、という語はせいぜい前六世紀になってできた言葉である ということが最近指摘されるようになりました。そうであれば、前五世紀の歴史家へロドト スが述べている「ギリシア人 ( ヘレネス ) は血を同じくし、言語も共通で、宗教儀礼や生活 ま、意外と新しく、たとえばオリン 習慣も同じである」 ( 『歴史』第八巻一四四章 ) という認識ー ピックが始まった前七七六年にはまだ存在していなかったといわなければなりません。しか まギリシアの各地から人々がオリンピアにやって来て、オリンピック競技会に も、その認識ー 共に参加するにしたがって徐々に明確になっていったと考えてよいようです。ポリスについ ては次回に詳しく述べますが、諸ポリスの市民たちはポリスの構成員としての自覚を強めて それぞれの国内整備を進めるとともに、それと並行して、ポリスの枠を超えた全ギリシア的 神域における祭典を通してギリシア人としての一体感を形成していったのです。つまり、古 代ギリシア人が自分たちはギリシア人であると自覚し、あるいは自己認識をもって抱くよう になった一体感は、徐々に形成されたものであって、その形成にはオリンピックの存在が大 きく関与していたということなのです。 現在のオリンピックも、ただ大会開催期間中の参加者の一体感の高揚にとどまらず、人類 が地球人としての自覚を共有するにまでいたることを期待したいものです。
はむずかしかったでしよう。戦車競走に莫大な資力が必要なことは先に述べましたが、他の 競技においても、参加者はギリシア世界の各地からオリンピアへと長旅をしなければならず、 それには時間とお金がかかったのは言うまでもないからです。しかも、運動競技でよい成績 をおさめる為には日常的な肉体の鍛錬も必要ですが、それもまた時間的な余裕がなければで きません。ですから、初期の参加選手は貴族層に限られていたようです。 優勝者に与えられる賞品はオリープの枝で編んだ冠だったというのは、有名な話です。冠 は金銭に換算すればとるに足りない価値しかありませんでしたが、それがもたらす栄誉は絶 大でした。現在のオリンピックでも優勝者は獲得した金メダルに象徴される栄光とともに、 その価値をはるかに上回る様々な社会的、経済的な特典をその後の人生において得ることが 多いようですが、古代オリンピックの優勝者たちが享受した名誉は大変大きなものでした。 がいせんしき 優勝者は帰国すると凱旋式で迎えられ、報奨金や劇場の最前列での観劇や、迎賓館で食事す る終身の権利などを得ました。また、外交使節や軍事指揮官などの重要な役割を委ねられる こともありました。また、財力、体力の持ち主であることの証が得られたことから、政治家 としての影響力を行使することもできます。とくに、相当な財力がなければできない戦車競 走での優勝は、政治的野心を持つ者には魅力的でした。 このようにオリンピックの競技会における優勝が大きな名誉と富、社会的上昇のチャンス をもたらす以上、オリンピック優勝を職業として目指す専門家が出現するのももっともなこ とです。その傾向は時代が下るにしたがって顕著となり、ローマ時代に至ってはプロ選手の