生んできましたが、そもそも、「無知の知」という言葉は、プラトンの著書には見当たりま せん。しかも、「知らないという状態の知は、いわば「高次の知」とよぶべきものですが、 それは「知ってるか / 知らないか」だけを対象とするだけで、知の内容を間題にしないので くうそ というのです。また、デルフォイの すから、たとえ可能であっても、空疎な知にすぎない、 しんげん 神殿に捧げられた「汝自身を知れ」という箴言はソクラテス哲学の核心に位置づけられてき ましたが、ソクラテス自身は、「自己を知っている」と表明することはありませんでした。 つまり、あくまで謙虚に知を追い求めつづけた、というソクラテスの姿がここに浮かび上が ってくるのです。 この納富氏の指摘は重要です。自分が無知であることを知らない人々のなかで、ただ 一人 的 ソクラテスだけは自分が無知であると知っている、というのであれば、なにやら、ソクラテ 今 の 法 スが、自分は他の無知な人間とは別の存在だと考えているように思えるのです。かって私は 話 対 的 そう理解し、「かねがねあまり好意を抱いてもいなかった、と自著に書きました ( 『ソクラテ ス テ スの隣人たち』山川出版社 ) が、そうではないことが明らかになったからです。ソクラテスは あくまでも「自分は知らないと思う、と言うのみで、「汝自身を知れという箴言にしたがい、 学 さら 哲 「絶えず自己を知に関する吟味に曝すこと ( 納富、前掲書 ) を自己に課していたのです。決し 回 て現状肯定に甘んじないソクラテス、自足を知らないソクラテスの姿がここに浮かび上がっ 第 てきました。
クラテスの同時代人たちも多数いたにもかかわらず、彼らの著作は断片のみが残るにすぎな いために、ソクラテスの陰に隠れて見落とされがちなのです。ソクラテスは、過去と同時代 の活発で知的な動きのなかで誕生したのであって、突然の出現とみなすべきではありません。 私たちが知りうるのは、彼がソクラテス的対話を実践したということです。この、「方法と 」こ、ソクラテスという人物について簡単にご紹介しましょ しての対話」について説明する前ー ソクラテスの生涯 ソクラテスは前四六九年にアテナイで生まれました。前四九五年頃に生まれたペリクレス よりも約二五歳年少、ほぼ一世代の年齢差です。ソクラテスはもの心ついたときからペリク レスの活躍を見聞きし、アテナイの繁栄がその頂点にある黄金時代を経験し、ペロポネソス 戦争をはじめから終わりまで経験しました。戦争中のソクラテスはアテナイ市民として少な くとも二度の戦闘に重装歩兵として従軍し、前四〇六年には評議員となっています。 その一年の任期のあいだに、アテナイ民主政の汚点として歴史上に記憶される事件が起こ りました。ペロポネソス戦争も末期のこの年、アテナイ海軍は小アジアとレスポス島のあい だのアルギメサイ群島沖でペロポネソス連合艦隊と海戦を行い、久しぶりの勝利を収めたの です。しかし、海戦終了の直後に嵐が襲来して海が荒れたため、戦闘中に船から海に落ちて 波間に漂う兵士たちを救助することは困難で、彼らを残して艦隊は戦場を後にしてサモス島 第 8 回哲学一一一ソクラテス的対話法の今日的意義 1 1 1
の基地へと引き上げてしまいました。 その後、海戦を指揮した将軍八名のうち帰国した六名が評議会でこの海戦について報告を しました。ソクラテスもその報告を聞いていたはずです。これら六名の将軍は兵士の収容を 行わなかった廉で直ちに収監され、民会 ( 第川回で詳述 ) が招集されました。これら六名を一 括して裁判にかけてしまおうという提案が出されましたが、その日議事取り扱いを担当して いた当番評議員五〇名のうち、一括裁判は違法だからという理由でこれに最後まで反対した のはソクラテスただ 一人だったのです。彼は、何事であれ法に反することを自分はしない、 と主張したのですが、少数意見は通らず、六名の将軍は民会での投票で個別の事情を考慮さ れずに死刑の判決を受け、処刑されました。ほどなくしてアテナイ市民たちはこの一括裁判 を悔やみはじめ、その裁判が不当だったことは誰もが認めるところとなりました。ソクラテ スの、多数派の圧力に屈しない信念の正しさは、このように立証されたのです。 なお、ソクラテス七〇年の生涯で公職についたのが分かっている限りただ一回というのは、 いかにも少一ない という印象を持ちます。これについては当の本人が、対話するのに忙しく て、国事に携わる時間がなかったと述べています ( プラトン『ソクラテスの弁明』 「無知の知。という言葉に対する日本的誤解 でま、、 しよいよその対話について見ていきましよう。と言っても、ソクラテス自身は何も 書き残しませんでした。私たちがソクラテスについて知ることができるのは、主に弟子プラ かど 112
ソクラテスは、弟子のプラトン、孫弟子のアリストテレスとともに古代ギリシアの大哲学 者として名前が挙げられます。哲学はギリシア語のフイロソフィアに相当する日本語で、明 にしあまね 治の思想家西周 ( 一八二九 5 九七 ) が考案した語です。愛するという動詞 ph 一一 eo ( フィレオ ) と、 知を意味する名詞 soph 一 a ( ソフィア ) との組み合わせですから、知を愛すること、知への愛 というのが文字どおりの意味です。 古代ギリシア哲学はソクラテスに始まる、という言い方がされることがありますが、これ はソクラテスの前に哲学は存在しなかったということではありません。一九世紀に「ソクラ テス以前の哲学」という言葉が生まれましたが、その意味するところは、ソクラテスが人間 自身の問題である善とか美を考察の対象にする以前に、人間を取り巻く自然界に関心を抱き、 その意味を考えはじめた人たちがいたということです。紀元前六世紀、小アジアのミレトス に生まれたタレスはアリストテレスによって「哲学の創始者」と評価された人物で、「万物 の元は水であると唱えました。彼は前五八五年に小アジアで起こった日食を予告したとい われていますが、彼の観察の鋭さ、正確さを物語っています。以後、世界をいかに認識し、 理論化するかを試みたアナクシマンドロス、ピタゴラス、デモクリトスらが続きました。 ただし、ソクラテスが先人たちとは異なった新しい流れを作り出したのだから、ソクラテ ス以前、以後という表現は成り立つ、という考え方はもはや捨て去るべきだと言う意見があ ります。なぜなら、哲学者ソクラテスは突然出現したわけではなく、タレス以来すでに 一五〇年におよぶ知的、精神的な探究の運動があり、また、その精神運動の波動を受けたソ 110
ソクラテス的対話の継承 ソクラテス的対話がどのようなものか、これでお分かりいただけたのではないでしようか そして、今日からでもそれを私たちも実践できるのではないか、という思いに駆られたので はないでしようか。身近な人々とこのような対話を行うことは、自分自身にも相手にも何ら かのよい方向への変化をもたらすのではないか、という期待が持てます。実際に、このソク ラテス的対話を実践する国際的なグループが存在していることを最近知りました。 ソクラティク・ダイアローグ ( ) というドイツを中心にヨーロッパ各国で行われてい る対話による哲学的実践ですが、この場合の対話の特徴は、一人対一人ではなくて、複数の 参加者によるグループ内の対話であることです。このについては、大阪大学大学院文学 研究科臨床哲学研究室刊行の『臨床哲学のメチェ』第七巻 ( 二〇〇〇秋冬合併号 ) で知ること ができます。この定期刊行物はいまインターネットでダウンロードできます。また、同臨床 哲学研究室では医療における医者と患者とのコミュニケーションの改善のためにソクラテス 的対話を取り人れる試みをしているとのことです ( 中岡成文「医療におけるコミュニケーション と『ソクラテス的対話』」 http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/eth/OJI ・ l/nakaokal. html) 。この場ムロのソ クラテス的対話が、先に触れたインフォームド・コンセントと異なることは、すでにお分か りのことでしよう。医者と患者とが上下の関係に立たずに、よりよい結論に到ることを目指 して、相互に協力し合いながら対話を進めていく、という方法です。時間がかかるでしよう し、命にかかわる重病の患者、あるいはその家族と医者との立場の違いは厳然として存在し 120
フォームド・コンセントが必要である、とか、セカンド・オピニオンを聞いたほうがよい、と かいうことが言われます。インフォームド・コンセントもセカンド・オピニオンもカタカナで 書かれていまして、これがもともと日本語にはなかった言葉であることを意味しています。 しかも、日本新には訳しにくい一一一口葉であるということも推測できます。 「インフォームド・コンセント」は最近では目新しい言葉ではなくなりました。患者が自分 の受ける医療行為 ( 投薬、手術、検査など ) について十分に説明を受け ( インフォームド ) 、 治療の方針に合意すること ( コンセント ) です。日本では最近まで、病気になると、たとえ 命にかかわるような重病でも、「先生にお任せします、という態度をとることが多かったよ ことわざ うです。「餅は餅屋、という諺の心は、専門家が最もよく知っているのだから専門家に任せ るほうがよい、ということです。しかし、「紺屋の白袴、「弘法も筆の誤りという諺もあ りますから、セカンド・オピニオンを求める必要もあります。診断内容についていろいろ細 かな質問をしたり、詮索したりするとお医者様が不快に思うのではないか、という憶測もあ りました。実際に不快な表情をされる医師もいるようですが、最近はずいぶん変わったよう ですね。コンセントを受けておかないと、後で医療訴訟などを起こされる恐れがある、とい おもわく う医師側の思惑も働くようです。このような医療の現場においても、「ソクラテス的対話」 を取り入れようという提唱が始まっています。 では、このソクラテ的対話とはどのようなものなのでしようか。医療の現場や教育の場で 効果があるのならば、私たちの普段の生活にも応用できるのではないでしようか。 109 第 8 回哲学 - ーーソクラテス的対話法の今日的意義
対話相手と追究する知の真実 このようにソクラテスを理解するならば、ソクラテス的問答あるいは対話の意義もより鮮 明になります。さきほど申しましたように、ソクラテスは著作を一切残しませんでした。し かし、プラトンの多くの作品のなかで、ソクラテスはもう一人の話者と対話するすがたで描 かれています。ソクラテスは相手が当然知っていると思っている事柄について質間して、実 は肝心なことを知らなかったのだということを明らかにする、というやり方で対話は進みま す。もし、無知な相手より知らないということを知っているだけ自分のほうが知恵者である という前提で対話が進められるならば、その対話は、相手をやり込めるという印象を与えか ねません。しかし、ソクラテスの「無知の知」がどういうことなのか、について正しい理解 を得られた今では、ソクラテスは知の真実を相手とともに追究しようとして対話を進めてい るのだ、と理解できます。 プラトンの対話篇は創作ではありますが、ソクラテスの行った対話、間答の方法を忠実に 再現しているとみなしてよいでしよう。それは、もう一人の弟子クセノフォンの作品『ソー クラテースの思い出』と比べてみると納得できます。クセノフォンはソクラテスの弟子でし たが、プラトンとは異なり、自己を取り巻く世界を現実的に、即物的に眺め、解釈する、 けな わば生活人、常識人でした。もちろんこれは彼を貶して言うのではなく、プラトンとは資質 の異なる人間であると言いたいのです。それほどプラトンとは性格が異なるにもかかわらず、 作品のなかで描かれているソクラテスの対話の進め方は、方法としては類似しています。も 1 18
トンの著書を通してです。幸いなことに、現在プラトンの著作はすべて翻訳されているので、 私たちはそれを日本語で読むことができます。その著作の中で描かれているソクラテスは、 という考え方もでき プラトンの理解したソクラテスであって、ソクラテスの実像ではない、 るでしよう。この問題自体が深刻です。しかし、同じくプラトンの弟子であったクセノフォ ンによる『ソークラテースの思い出』 ( 佐々木理訳、岩波文庫 ) という本もありまして、私たち は複数の視角からソクラテスの実像に近づくことができます。もちろん、人間としてのソク ラテスその人を全面的に理解することはまず不可能です。しかし、彼が弟子に対して行った 実践方法については、かなりその全体像を捉えることができるのではないかと思います。そ 間答を通して正しい認識、新しい理解を世に送義 れがさきほども触れた対話法です。つまり、 的 り出す、ということなのです。 今 の 法 では、ソクラテスの対話あるいは間答とは何でしようか。それをまず見ておきたいと思い 話 対 的 ます。プラトン作『ソクラテスの弁明』は、ソクラテスが訴えられて、法廷で自分の立場を 述べたときの言葉を、かなり忠実に再現している、と理解されています。そのなかで、ソク ラテスはデルフォイの神託について語っています。ソクラテスの弟子の一人がデルフォイに 学 哲 と巫女 ( ピュ 出かけていって神託を伺うと、「ソクラテスよりも知恵のあるものはいない 回 ティア ) が答えたのでした。自分に知恵があるとは思えないソクラテスは、この神の言葉の 第 意味を考えあぐね、知恵があると思われる人のところに出かけていって話してみたのですが、 話してみると相手が実は知者ではないことを知り、それを彼に分からせようとしたため、か
ソクラテスとアテナイの裁判制度 あが 第 8 回で述べたように、ソクラテスは前三九九年に、「若者を堕落させ、また国家が崇め るところの神々を崇めずに別の新奇な神格を崇めることによって不正を犯している ( 三嶋・ 田中訳『ソクラテスの弁明・クリトン』講談社学術文庫 ) という罪状で告発され、裁判にかけられ ました。告発したのはアニュトスら三名でしたが、このアニュトスはペロポネソス戦争後に 勃発した寡頭派 ( 「三十人僭主」派 ) と民主派のあいだの内戦では後者に属して戦い、前 四〇三年の民主政の回復に貢献した人物でした。そのアニュトスと彼の仲間がソクラテスを なぜ告発したのでしようか。古代からよくいわれているのが、ペロポネソス戦争後に成立し た寡頭派政権の首謀者にソクラテスの元の弟子たちがいたために、その弟子を教育したソク ラテスの責任が間われた、というものです。ただし、内戦が終結した際に、内戦中の行為に たいしゃれい ついて罪を間わない 、とする大赦令 ( アムネスティア ) が発布され、ソクラテスを寡頭派と の関連で告発することができないため、右に挙げたような罪状で告発したのだ、という解釈 があります。それも一つの理由かもしれません。 この罪状を見ると、宗教的な弾圧のようにも受け取れます。しかし、当時の事例を調べる 限り、一般的に宗教上の弾圧があったという事実は確認できません。罪状に関して、アニュ トスら原告が告発した内容と、ソクラテスに下された有罪判決の内容とは必ずしも一致して いないかもしれないのです。そこにアテナイの裁判制度の特徴がみてとれます。 159 第Ⅱ回デモクラシーについて ( 2 )
主張するどちらの刑が適切か、陪審員が判断し投票す るのです。ソクラテスの場合、原告は死刑を主張し、 ソクラテスは、迎賓館で食事を供される刑が自分には ふさわ 相応しいと述べながらも、弟子たちに説得されて三〇 ムナの罰金を提案しましたが、陪審員たちの反感を買 しようよう い、死刑判決を受けたのです。ソクラテスは従容と して毒杯を仰ぎ、死を受け入れました。 館アマチュアの判断、エリートの判断 術 ン このソクラテスの裁判に、思慮に欠けた民衆が不当 タ な判決を下し、ソクラテスを死に追いやってしまった、 と解釈し、彼の死を衆愚政治の結果と見る考え方があ メ ります。しかし、二八〇名の陪審員の一人ひとりがど の スのような考えから有罪の投票をしたのか、それは分か ラ クらないのです。判決文などというものもありません。 出てきた結果がすべてですので、一人一人の陪審員の 画 胸のうちは分かりません。なかには、「三十人僭主」 ダの時代に家族を殺されたり、財産を没収されたりした 161 第 11 回デモクラシーについて ( 2 )