ヒボクラテス - みる会図書館


検索対象: いまに生きる古代ギリシア
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1. いまに生きる古代ギリシア

人、キオスのヒボクラテスは、数学の初めての『入門書』を著しましたが、それはすでに立 方体の体積と弓月形の求積法に関する間題提起をしていたそうです。しかし、それは現存し ません。おそらく後代のエウクレイデスの幾何学に吸収されて、ユークリッド『原論』の一 部を成すにいたったからでしよう。 ピタゴラスあるいはピタゴラス学派はまた、 = = 調和的な音 ( ハルモニア ) についても数理論 との関連で説明できることを発見しました。ある長さの弦を二分の一にするとオクターヴ高 い音が得られ、弦の比が二対三のときは完全五度、三対四では完全四度が得られること、つ まり、音には数的調和がひそんでいることを発見しました。今日の音楽理論の基礎はピタゴ ラス学派が築いたといわれています。 ヒボクラテス 本郷の東京大学の構内を歩いていて、ヒボクラテスの木と説明書きのあるプラタナスを見 つけました。エーゲ海の東の端に位置するコス島から一九七二年に移植した木で、この木は いまも、日本各地の医学 「ヒボクラテスの誓い同様、医師の良心の象徴といえましよう。 部のある大学にはこのヒボクラテスの木が移植され、学生たちを見守っているようです。 「医学の父」と呼ばれる古代ギリシアのヒボクラテスは、前五世紀半ばに小アジアのエーゲ 海沿岸のロドス島の北に位置するコス島に生まれ、この島に医学の「研究所」を開いたとい われています。彼の名にちなんで『ヒボクラテス全集』として伝えられている医学のテクス 128

2. いまに生きる古代ギリシア

みき 治療のとき、または治療しないときも、人々の生活に関して見聞きすることで、およ そ口外すべきではないものは、それを秘密事項と考え、ロを閉ざすことにいたします。 以上の誓いを私が全うしこれを犯すことがないならば、すべての人々から永く名声を博 し、生活と術のうえでの実りが得られますように。しかし誓いから道を踏みはずし偽誓な どすることがあれば、逆の報いを受けますように。 ( 『ヒボクラテス全集』エンタブライズ株式会社 ) 医学は日進月歩ですから、古代の医術がいまも用いられているはずはないのですが、医師 と患者の関係、医師の女性患者に対する態度には、当時の社会慣行を打破するほどの勢いが あったようです。医師の姿勢が抑圧された者の心身の解放をも可能にすることは、現在でも 耳にすることがありますが、古代の医者もまたそのような存在であったようです。 『ヒボクラテス全集』に見る古代ギリシアの女性たち ここでは、『ヒボクラテス全集』のなかに現れた女性の社会における状況をとりあげてみ ます。他の回では、この間題をとりあげることができませんでしたので、この場を借りると いうわけです。『ヒボクラテス全集』に収められた七〇編のうち八編は女性の病に関する著 作ですので、女性の患者が相当数いたことは確かでしよう。すべてが男性によって書かれて 1 引 第 9 回学問の誕生

3. いまに生きる古代ギリシア

トは、前五世紀末から前四世紀に複数の著者によって著されたものですが、そのなかのどれ とどれがヒボクラテス自身の手になるのか、明らかではありません。さらに、ギリシアの医 術も、初めは宗教や魔術に近いものとみなされていたようです。たとえば、ペロポネソス半 島北東部のエピダウロスは医神アスクレピオスの聖地です。エピダウロスにやってくる患者 は境内の治療用建物にこもり、夢を見た後に病が癒えていることを知るというのですが、コ ス島のヒボクラテス医学の場合は、そのような宗教的・魔術的な要素はまったくなかったよ うです。 る なお、この『全集』に含まれてい 上 見る「誓い」が「ヒボクラテスの誓い」 のと呼ばれているもので、欧米の医学 の教育機関では卒業式でこれを宣誓 ラ ク ポする伝統があります。日本でも一部 あの医科大学で実践しているようです。 内その誓いとは、次のようなものです。 ン ャ 医神アポロン、アスクレピオス、 学ヒュギェイア、パナケイア、および すべての男神・女神たちの御照覧を 129 第 9 回学問の誕生

4. いまに生きる古代ギリシア

者が直接診察をする場合も少なくなかったようです。また女性の医者がいたことは、前四世 紀半ば頃の墓碑銘から一人は確認されています。その女性フアノストラテは助産師であり、 医師であって、誰にも苦痛を与えなかった、と銘文は語っています。 『ヒボクラテス全集』のなかで婦人科医学への関心は高いのに、産科学に関する論文がない のは、通常の出産は、助産師や妊婦の身内や近隣の女たちによって処置されていたからのよ うです。実際、史料に現れる女性の職業としては、娼婦に次いで助産師が多いのも確かです。 もちろん、『ヒボクラテス全集』も女性が男性より劣る存在であるという当時の通念を反映 させていて、病の症状や治療法は婦人科系疾病をのぞき、男性を基準として考えられていた ため、女性患者は女体の特性を無視され、男に準じる扱いを受けていました。 また、当時の女性に求められていた役割は何よりも子供を産むことでしたが、それは他の 史料ばかりでなく、『ヒボクラテス全集』にもはっきりと読み取ることができます。婦人科 系疾病を取り上げるにも、不妊の治療のような生殖機能に関わる側面に関心が集中している のです。容易に想像できることですが、当時の女性にとって不妊は近代社会におけるよりは るかに深刻な間題であったはずですから、不妊の女たちが向ける、すがるような思いを医者 が受け止めた結果であるのかもしれません。もっとも子宮口を開けるため、ヤギの脂肪、イ なんこう チジクの樹液等でできた軟膏を用いる治療などが勧められたらしいのですが、卵巣の発見は 前三世紀まで待たなければならなかったから、効果ある治療は難しかった、と推測されてい ます。 134

5. いまに生きる古代ギリシア

な = ぃ 学飛 間翔 のす 世る 哲学、歴史学、数学、医学など、 学問の分野における 古代キリシアの偉大な文化遺産は、 現代世界かかかえる諸問題への 対処にも示唆を与える 里 OJ( 丈 渡辺崋山筆「ヒボクラテス像」 日本でヒボクラテスは、黎明期 の蘭方医・杉田玄白以来、蘭学 者にとって著名な存在で、医学 の守護神として肖像が掲げられ ていた。本作は洋学者の崋山 らしい写実的な描写で、崋山の 故郷に近い三河吉田宿の医 師・浅井完晁に贈られたもの。 ( 九州国立博物館蔵 ) ラファ工ロ作ヴァティカン宮殿・ 署名の間の壁画「アテネの学堂」。 中央の向かって左がプラトン、そ の右がアリストテレス ( ヴァティカ ン宮殿、写真提供 / W. P. S )

6. いまに生きる古代ギリシア

また、『ヒボクラテス全集』には、女が独身を通して、性交渉を持たないのは生理学的に 問題があり、性交は女を健康にする、あるいは、妊娠すると慢性の頭痛も治る、というよう な記述が見られます。女の体に対するこのような見方は、たとえば母性愛を賞賛する傾向な どとともに、女は誰でも結婚しなければならないという社会通念となって、少女たちや女性 一般にプレッシャーをかけることになったでしよう。実際、アテナイの市民の娘で独身を貫 いた例は、残存する史料のなかには見当たりません。 ただし、妊娠した際の母体の危険を考慮し、受胎のチャンスを避けるよう助言する例や不 妊や流産が女性に不安感を抱かせるのを防ぐべきであるとする主張が見られるのは、注目に 値します。出産よりも個々の女性の身体と精神への配慮がそこに見出されるからです。 男性優越の通念が原因でもたらされる医術上の諸問題を克服しようとする医師の側の動き は、男性本位で組み立てられていた当時の社会構造に照らしてみるならば、感動的でさえあ がんめい ります。それは、科学的認識、合理的思考が頑迷な思い込みを打破する力を持っていること、 社会をよりよい方向へと導いていく力を持っていることを、具体的に示しているからです。 135 第 9 回学問の誕生

7. いまに生きる古代ギリシア

いるのですが、女性に関する記述が全体の中でこれだけ高い比率を占めているのは注目に値 します。なぜなら、ただでさえ史料の少ない古代ギリシア史研究において、女性によって書 かれた文献はもちろんのこと、少し譲って女性に関する史料を探しても、決して多くはない からです。これは、古代ギリシア世界において女性が文字で自分の思いを表現する機会が稀 であったということ、それほどに女性の表現活動が制約を受けていたこと、さらには、女性 は社会的にマージナル ( 周縁的 ) な存在であるとみなされていたことを物語っています。 古代ギリシアの女性に関するフェミニズムの立場からの研究は、一九七〇年代半ばにアメ リカで始まり、以後、欧米におけるこの分野の研究は長足の進歩を遂げました。八〇年代、 九〇年代前半には、毎年おびただしい数の研究書や論文が発表されました。先に述べたよう に文献史料が少ないために、神話分析や図像解析によって間題の本質にアプローチしようと いう工夫がなされてきましたが、そのような実情の中で、『ヒボクラテス全集』のなかの婦 人科関係の記述は、医学史の観点からはもちろんでしようが、女性史研究の側からもきわめ て貴重な史料となっていて、優れた研究成果が出されています。 これまでのところ史料が最も多く残存し、研究が進んでいるのは、前五世紀から前四世紀 にかけてのアテナイの場合ですが、そこでは、女性はできるだけ人前に出ず、身内以外の男 という社会通念がありましたから、男の医者が女 性と顔をあわせるのは避けたほうがよい の患者を診察する場合は、女の助手が仲介役となって触診を担当したり、患者の側に内診を させて、結果を報告させる、という方法がとられたりしました。しかし、もちろん男性の医 まれ 132

8. いまに生きる古代ギリシア

究成果報告書 ) ・参考文献 ・メルクーリ ( 藤枝澪子・海辺ゆき子訳 ) 「ギリシアわが愛」合同出版 ( 古典文献 ) ・ルグレ ( 奥村賢訳 ) 「アンゲロプロス沈黙のパルチザン」フィルム ホメロス ( 松平千秋訳 ) 「イリアス」岩波文庫 アート社 ホメロス ( 松平千秋訳 ) 「オデュッセイア」岩波文庫 納富信留「哲学者の誕生ーソクラテスをめぐる人々」ちくま新書 へシオドス ( 松平千秋訳 ) 「仕事と日」岩波文庫 ・・・ロイド ( 川田殖訳 ) 「アリストテレスその思想の成長と構造」 へシオドス ( 廣川洋一訳 ) 「神統記」岩波文庫 みすず書房 イソップ ( 中務哲郎訳 ) 「イソップ寓話集」岩波文庫 ・ピショ ( 中村清訳 ) 「科学の誕生 ( 下 ) 」「ソクラテス以前のギリシア」 「ギリシア悲劇全集」人文書院、全 4 巻 せりか書房 「ギリシア喜劇全集」人文書院、全 2 巻 ・ダール ( 中村孝文訳 ) 「デモクラシーとは何か」岩波書店 「ギリシア悲劇全集」岩波書店、全昭巻 + 別巻 伊藤貞夫「古典期アテネの政治と社会」東大出版会 ヘロドトス ( 松平千秋訳 ) 「歴史」岩波文庫 橋場弦「丘の上の民主政古代アテネの実験」東大出版会 トウキュディデス ( 久保正彰訳 ) 「戦史」岩波文庫 プラトン ( 三嶋輝夫・田中享英訳 ) 「ソクラテスの弁明・クリトン」講談佐々木毅「よみがえる古代思想」講談社 藤縄謙三「ギリシア文化の創造者たち、社会史的考察」筑摩書房 社学術文庫 同「歴史の父ヘロドトス」新潮社 クセノフォン ( 佐々木理訳 ) 「ソークラテースの思い出」 . 岩波文庫 桜井万里子「ヘロドトスとトウキュディデスー歴史学の始まり」山川出版社 アリストテレス ( 村川堅太郎訳 ) 「アテナイ人の国制」岩波文庫 ヒボクラテス ( 大槻真一郎編訳 ) 「ヒボクラテス全集」全三巻、エンタブ・モース「社会学と人類学」弘文堂 ・ゲルナー「ムスリム社会』紀伊国屋書店 ライズ社 アポロドロス ( 高津春繁・高津久美子訳 ) 「ギリシア神話」講談社 D. FehIing, Die QueIIenangaben bei Herodot Berlin/New York, 1971. オウイデイウス ( 中村善也訳 ) 「変身物語」岩波文庫 (Herodotus and his ・ Sources' 】 Citation, lnvention and Narrative Art, tr. by J. G. Howie, Leeds, 1989 ) ( 研究、その他 ) R. Friedman, "Location and dislocation in Herodotus," in C. DewaId and 桜井万里子編「世界各国史ギリシア史」山川出版社 J. Marinc01a (eds. ) , The Cambridge Companion ( 0 Herod0tus, Cambridge, 2006. 桜井万里子・本村凌二「世界の歴史五ギリシアとローマ」中央公論社 桜井万里子・橋場弦編「古代オリンピック」岩波新書 F.Hartog, Le Miroir d'Hérod0te: Essai sur la représentation de l'autre, Paris, 1980. 西村賀子「ギリシア神話」中公新書 藤縄謙三「近代におけるギリシア文化の復興」藤縄謙三編「ギリシア文化 (The Mirror of Herodotus: The Representation 0f the Other in the Writing の遺産」南窓社 of History,t 「 . by J. LIoyd, Princeton, 1988 ) 木村健治「日本におけるギリシア・ローマ演劇上演史研究」 ( 科学研究費研 G. He 「 man, RituaIised Friendship 年 the G 「 eek City, Cambridge, 1987. 究成果報告書 ) G. E. R. LIoyd, Science, FoIkIore and IdeoIogy:Studies in the Life Science in 久保正彰「ギリシア悲劇とその時代」「ギリシア悲劇全集別巻 1 」岩波書店 Ancient Greece, Cambridge, 1983. 松本仁助、岡道男、中務哲郎編『ギリシア文学を学ぶ人のために」世界思 R. Thomas, Herod0tus in Context: Ethnography, Science and the Art or 想社 Persuasion, Cambridge, 2000 木村健治「日本におけるギリシア・ローマ演劇上演史研究」 ( 科学研究費研 190