オリンピアからの旅立ち 古代オリンビックは神にささける祭典中の競技として始まった 者ホリスの枠を超えた聖地でのイへントを通して ギリシア人 ( ヘレネス ) 意識は形成されていったのてある そして、近代オリンビックにおいては、 オリンピアの地で採火された聖火がリレーされて開催地に届く オリンピア遺跡のヘラ神殿で行われる近代オリンピック聖火の採火式 ( ◎ ( 株 ) フォート・キシモト、写真提供 / アマナイメージズ )
していました。前六世紀以前には、エリスと聖地の近くの町ピサとが主催権を争い、一時ピ サが祭典主催者となったこともあったようです。エリス、ピサ両者のあいだで武力衝突が生 じたこともありましたが、リ 前五世紀以降はそのようなこともなく、祭典はエリスの主催で続 けられました。競技会の審判団もエリスの一般市民のあいだから選出されました。 オリンピアは、ゼウスを主神として祀る神域でした。ゼウスはギリシア神話に登場する神々 の中でも最も権威のある神です。ギリシアには大きく分けるとオリンポスの神々とクトーン セウスはオリンポス山に住む神々の中で最も高位の、家 ( 地下 ) の神々とがありましたが、、 父長的存在の神でした。地図を見ると分かるように、オリンピアはオリンポス山からは遠く キリシアには、たとえばドドナのような、ゼウスを祀る聖地が 離れた地にあります。また、、 特にオリンピアは有名でした。。 セウスは雨、嵐、雷などの気象現象を 他にもありましたが、 つかさどる神でしたから、その神域はどちらかと言えば人里はなれたところ、山間部などに 位置することが多かったのです。オリンピアもドドナも同様で、いずれもいまだに決して交 通の便のよい地とはいえません。 おば 発掘調査によれば、オリンピアからは前一〇世紀頃のゼウスの像と思しき小像が出土して いることから、この地でのゼウス信仰はすでにこの頃には誕生していたようです。しかし、 オリンピアに特徴的なことは、出土品の中に生活用品が見当たらないことで、ここから、オ リンピアは人の居住する集落ではなかったと推測されています。この点でアポロンの神託で よく知られているデルフォイとは、違います。デルフォイは集落の中に神域が成立し、神域
ソフォクレスの作品のなかには、いまご紹介した悲劇の中の最高傑作と評価する人の多い オイデイプス王』とともに、それに劣らず傑作という評価の高い『アンテイゴネ』も挙げ ることができます。神の法と国の法、公と私の間題がテーマですが、時間の関係で今回は取 り上げられませんので、是非ご自分でお読みいただきたいと思います。 ヘルシア人』と『トロイアの女たち』 現存最古の悲劇はアイスキュロスの『ベルシア人』で、これは前四七二年に上演されまし た。ベルシア帝国の大軍がギリシア本土に二回目に侵攻してきて、サラミスの海戦でギリシ ア連合艦隊がベルシア王クセルクセス指揮下のベルシア海軍を破り撤退させたサラミスの海 戦から八年、市民たちはこのときの勝利の自信と優越感を鮮明に記憶していたはずです。そ のようなときに観客である市民の前で上演されたこの悲劇では、ベルシアの王都スーサの先 ヒダレイオスの墓の前で、ダレイオスの妻にしてクセルクセス王の母アトッサがサラミスの 海戦でのベルシア軍の敗戦と自国の兵士たちの悲惨な戦死の知らせを受け、嘆き、息子の身 の上を案じる様子が、展開されます。ベルシア撃退に大きな功績を挙げ、その結果、他の諸 ホリスの支持を得て、大国化へ躍進していたアテナイで、このような対戦相手の国もとの様 が描かれるのです。 コロス ( 合唱団 ) おお、王なるゼウスよ、今やあなたは、ベルシアの
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一九八〇年夏のモスクワ大会では日本、アメリカ、西ドイツをはじめ多数の国々が参加を取 りやめたように、古代オリンピックにも政治が、あるいは、国家間の対立が影を落としてい たのでしようか。このような点について比較してみると、古代ギリシア世界と現代世界との 相違について、また共通点について理解を深めることもできるでしよう。 全ギリシア的だった古代オリンピックでは、参加者は国境をいくつも越える旅をしなけれ ばなりません。彼らの道中の安全を確保できるように、エケケイリアと呼ばれる三ヶ月間の 休戦をエリスが宣言し、休戦の開始を伝える使節がおそらく開催年の春にギリシア各地に派 遣されました。使節から休戦発効の通告を受けた各国は、もし戦闘状態にあるならばこれを 意 人 一旦停止し、また、他国に対する侵略行為も停止しました。もっとも、たまたま紛争下にあ る国のなかにはこの休戦協定に従わず、戦闘を続けたり、他国に侵略してしまうというケー 典 祭 スもありました。その場合には、エリスは当該国に罰金刑を言い渡し、その年の祭典への参 加を禁じたのです。たとえば前四二〇年の大会の休戦期間中に武力行使をしたという理由で、 神 スパルタが祭典への参加を禁じられました。スパルタは自国にエケケイリアを伝える使節が まだ到着していなかったと抗議しましたが、それは聞き入れられませんでした ( トウキュデ イデス『戦史』第五巻四九章 ) 。 オ 回 第 竸技種目 競技に参加する選手は自国で最低一〇ヶ月のトレーニング期間を経てから大会の一ヶ月前
他人の争いごとを覗き見しつつ、法廷の論議に聴き耳を立てては、 意地悪のエリス〈争いの女神〉によって、仕事から気持ちをそらされるようなことがあ 5 四行、岩波文庫、以下同、〈〉内は引用者注 ) ってはならぬぞ。 ( 松平千秋訳『仕事と日』 ったい何事かと思えば、次に続く文言から事情が分かります。 その〈穀物の〉貯えが十分にあれば、他人の持ち物を狙って、 こまもはや再び 訴訟を起し論議を闘わすのもよかろうが、お前ーー さように振舞うことは無理であろう。されば今は直ちに、 われらの係争を正しい裁きによって解決しようではないか、 ゼウスの御心にかなう最善の裁きによってな。 以前われらは遺産を分けたが、お前はしきりと殿様方にとりいって、 なにかと余分にさらっていった 好んでかかる裁きを下し、賄賂を貪る殿様方にな。 ( 芻 5 行、〈〉内は引用者注 ) 二人の間の間題がお分かりになったのではないでしようか。そうです。父の死により兄弟は 遺産を相続することになりました。古代ギリシアでは長子相続の慣習はありませんでしたの のぞ わいろむさぼ ねら
アドリア海 。。イオニア海 テュレニア海 シチリア セリヌみををけス マケ・ニア 。ラ 0 ティオン カルキケ りンポ赤乞イダ。 エピルス 、′ぐ / テッサリア アイトリア フォキス ロクリス エウポイ ポイオテア , デメアカイア。ネ アッティカ。 、キ豈オン。メガ - 工リス アルカァ第やい、ス を安ク , イ矛スハ . = 外、ドス半 . 一、アルゴリス 0 アルゴ 。 ! まメッセニアスパタ = イオニア海 ら三ラクサイ : 。
三美神像バルテノン神殿を飾った 大理石の浮き彫り装飾板の一部はイ ギリス人工ルギン卿によって英国へ 持ち帰られ、大英博物館でエルギン・ マーブルとして展示されている ( 大英 博物館蔵 ) 「キジの壷」に描かれ た重装歩兵。古代ギリ シアの陶器画 ( 壷絵 ) は数多く残っているが、 そのなかでも名品の一 つである ( ヴィッラ・シュ リア国立美術館蔵、写 真提供 / W. P. S ) アポロン神殿遺跡から出土した馭者 のプロンズ像 ( デルフィ美術館蔵 )
上の人物から登場人物を得て、いわば高貴な人々の命運を舞台上に展開させるのに対して、 喜劇は同時代の一般市民たちの生活を題材として、政治家や有力者たちを滑稽に描き、揶揄 ちょうしよう 嘲笑の対象としています。しかし、たとえば現存最古の喜劇『アカルナイの人々』は、ペ ロポネソス戦争の終結を願う主人公ディカイオポリスが単独でスパルタと和平を結んで平和 な生活にもどるのに対し、主戦論者たちは戦争に苦しみ、ディカイオポリスと戦争の是非を めぐって議論するにつれ、舞台上では次第に和平論への傾きが強くなっていく、というもの で、アリストフアネスの政治への姿勢が鮮明に打ち出されています。彼の作品は多くが戦争 反対の立場を主張するもので、『女の平和』『女の議会』のいずれもが平和を訴えています。 古代ギリシアでは、一般に女性は抑圧される存在でしたが、とりわけ前五世紀のアテナイ では、国力の増大と大国化が進行するにつれ、戦争に直接関与しない女たちの社会的な立場 はそれまで以上に弱くなっていきました。そのような女たちを主人公にした喜劇を、アリス トフアネスは三作も残しています。そうすることで、社会の矛盾をより鮮明に描くことがで きる、と判断したのでしよう。このように、喜劇もまた、自国のおかれた状況を相対化し、 市民たちに複眼的な見方を持つよう促したのです。 日本での上演 このような悲劇、喜劇は日本にはどのように伝えられたのでしようか 驚いたことに、『オイデイプス王』は早くも一八九四年 ( 明治二七 ) に、翻案ではありますが、 第 6 回演劇ーープロバガンダの提示と事実の相対化
ンピアで神にささげる祭典の一環として挙行されつづけました。祭典はもともと宗教儀礼と いう特質をもっていたので、聖地オリンピア以外のところで開催されることはありませんで した。近代オリンピックと際立って異なっていた点は他にもあります。選手はすべて男性で、 既婚の女性は観戦も認められなかったのです。理由はいまもって分かっていません。代わり に、ヘライア祭という未婚の乙女だけの競技会がありました。ヘラはゼウスの妻で、女神オ ちのなかでは最も権威ある存在でした。ゼウスに愛された女神たちはヘラの怒りに触れない ように戦々恐々でしたが、少女たちはきっとのびのびと競技を楽しんだことでしよう。 古代オリンヒックの始まり 古代オリンピックの起源については、史料の記述にもとづけば、前七七六年に始まったこ とになっています。発掘による調査でも、この年代は事実とさほど異ならないと推定されて います。初期の祭典は、ペロポネソス半島西部という狭い地域のエリートたちが寄り集まっ て開いていたらしく、ギリシア世界全域から参加者が集う祭典へと発展するのは、前七世紀 末頃のようです。以来、じつに一〇〇〇年以上、四年に一度の開催が続けられ、通説によれ ば、ローマ帝国のテオドシウス帝による異教祭祀の禁止令を受けて、紀元三九三年の第 しゅうえん 二九三回大会を最後に終焉を迎えたということになっています。 現在のオリンピックは、スイス・ローザンメに本部を置く国際オリンピック委員会が主催 する国際大会ですが、古代のオリンピックはオリンピアの神域を管理する小国エリスが主催 9 第 I 回オリンピック -- 神にささげる祭典とギリシア人意識の形成