ーイサーン - みる会図書館


検索対象: アジア小農業の再発見
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1. アジア小農業の再発見

第 5 節農民になるー自立のための農業創造・ネグロス民衆の実践・ 土地なき百五十年・ 飢える子どもたち・ 農業で生きてゆけるのか・ 動き出す循環の地域づくり・ 地主が私兵をくりだす・ 開発の嵐の中で・ 第 6 節政治を動かすーイサーン小農民のたたかい・ 座り込む農漁民・ 開発と農漁民・ キャッサバ農民立ち上がる・ 土地の権利を求めて・ 合流する農民のたたかい・ エピローグ〃つなぐということ ーあとがきにかえてー 257 2 お 岩崎美佐子・ 265

2. アジア小農業の再発見

端のラオス国境、ウボン・ラチャタニではメコン川に合流するムン川に造られたダムで水没する零 細漁民の闘いが始まっていた。 そうした動きが合流したとき、かってない農民運動の渦がイサーンの地に巻き起こったのだ。イ サーン小農民会議には五万人の農民が結集し、九三年十月には約二万の農民の大デモを生んだ。さ らに九四年二月、あるものは歩き、あるものはトラックに分乗して、バンコクへの長い行進が始まっ た。鍋釜を背負い、路上で生活しながらの、文字通り長征であった。九五年一月には約一万人が同 じようにバンコクへ向け行進、当時のチュアン首相を交渉に引き出した。 しかし、その同じ年、イサーン小農民会議は従来通りの先鋭的な民衆運動を続けるか、政府との 協調を含むより穏健な話し合い路線に転換するかという路線論争が起こり、方針転換が図られる。 この動きについて、「政府からの資金供与を受けてより農協的な運動を指向する人々が主流になっ た」とタイ在住のジャーナリスト岡本和之は述べている。リーダー層の多くに政府の懐柔策が入っ たという人もいる。その後を受け継いで、対政府要求を掲げて大勢の人々を結集する運動を繰り広 げているのが冒頭紹介した「貧民フォーラム」だ。一九九七年七月の「アジア農民フォーラム」に 参加したバムルン・カヨタはイサーン小農民会議の初代書記長、そして貧民フォーラムのリーダー として、一貫して農民の闘いの先頭に立ってきた。 貧民フォーラムが掲げる一一一一項目の要求の多くは、土地問題や価格問題など権利や政策に関わ る問題だが、新しい動きもある。単に政府に「ああしろ」というだけでなく、どういう営農を自分 262

3. アジア小農業の再発見

北タイの小規模農民層であった。イサーンとよばれるタイ東北部は、タイの中でももっとも貧しい 地域だ。乾燥が激しく、いつも水不足に悩まされている。村のまわりを取り囲んでいた豊かな森 は、七〇年代から八〇年代にかけて消滅し、乾季には赤茶けた大地がどこまでも続く。イサーンは 国内外への出稼ぎ労働者やバンコクのスラム住民の一大供給基地でもある。八〇年代から始まるタ 実イ経済の高度成長、それを押し進めた工業化政策は、一方でバンコクを中心に新中間層ともいえる の 民豊かな階層を生みだしたが、同時に成長からはじき出された膨大な階層を生みだした。正確にいえ る ば、経済成長のために自分たちの生存基盤を吸い取られ、切り捨てられていった層である。この周 え を辺化された代表的な階層がイサーンの小農民であった。その層が動き出したのだ。 地 タイの経済成長路線を言い表わす言葉として、よく Z<—O ( ナイク ) という言い方が聞かれる ざ韓国や台湾型の ( 新興工業経済地域 ) を意識しての言葉であり、「新興農業工業国」とでもい 根 う意味である。この言葉が示すように、タイの経済成長は農業の商業化・工業化・輸出産業化をテ 域 、フロイラー ェビ、熱帯果樹といったものから日本 地コとして進められてきた。コメ、キャッサバ、、 志向けの野菜まで、農産物が外貨稼ぎに一番手として位置づけられた。こうして稼いだ外貨で工業発 す展を促す、という仕組みである。農業を商業化・工業化・輸出産業化するためにとられた政策がア 越グリビジネスの育成であり、アグリビジネスと農民との契約農業であった。農産物は生産から加工、 章 流通、販売に至るまですべて資本に統合され、コントロールされる。そのことをより効率的に行な 第 うため、生産方法や流通の古いやり方は否定され、農業に近代化と市場経済化・自由化が押し寄せ * 8 255

4. アジア小農業の再発見

関東で始まった試みは東北から九州にまで拡がっていますが、農業者自身が分散自家採取して、 種苗の交換に参加することは大きな意義をもっと確信しています。古くから「品種にまさる技術なち し」と言われていますが、各地の風土にもっとも合った品種こそ地域興しにつながっているのです。 ハンダナ・シーバ 【証言 2 】地域で農民の種子銀行を 生命の操作と独占に対する私の現在の仕事には、二つの流れがある。一つには、地域で種子銀行 を設立して原種の多様性を守る国内のネットワーク「ナーウダニヤ」 ( ヒンディー語で九つの種子という 意味 ) を通して、私たちは生命と多様性に対する機械的な捉え方のオルタナティ。フを模索している。 もう一つには、農民の運動に始まった「サッティャグラハ」 ( 真理把持の意味。ガンディーの戦闘的非暴力 の手法をさす ) や、第三世界ネットワークで始めた公共的所有権の運動などの公共の知的財産を守る 運動で、知識や生命そのものを私有財産化する考えに対するオルタナティブの構築を目指している。 第 4 節伝統技術で自立するー紡ぐイサーンの女たち 干ばっと近代化のはざまで ノン・ルア郡は、東北タイの中心都市コンケンの市街地から北へ、国道一二号線を一時間半ばか り走ったあたりにある。同郡下に散らばる七カ村の女たちは元気である。イサーン ( タイ東北地方の * 5

5. アジア小農業の再発見

森がなくなった跡地に入り、キャッサバやトウモロコシを作付けして生活していた農民を、緑の 回復と保全を名目に追い立て、そこを企業や有力者に払い下げてパルプ原料となるユーカリ植林を 進める政府事業が、八〇年代末から九〇年代にかけて大々的に行なわれたが、これも農業の工業化 の一つとみてよい。さらには工業開発のための道路やダム建設のための農漁民の追い立ても、各地 で頻発した。 一九九二年三月、こうした問題を抱え、孤立した運動をやっていた東北タイの農民グループと z tO 関係者が一堂に集まり、イサーン小農民会議が結成された。これまで個別の闘いを余儀なくさ れていた農民グループが横につながったのである。開発による土地や川からの農漁民の追い出し、 物価は上がるのに逆に引き下げられる農産物価格、借金だけが増える契約農業、等々、そこはさな がらアジアの小農民が開発と経済成長の中で直面している諸問題のデパートであった。こうして東 北タイを中心に小農民のエネルギーが爆発した。 イサーン小農民会議はその要求を三つの争点と九つの課題として掲げた。それは次のようなもの であった。 〈争点一〉四者推進方式による契約農業やダム建設など政府の政策に起因する問題。 〈争点一一〉政府と農民間の土地紛争。森林保全地域や公有地、王室所有地で生活し生産活動を営ん でいる農民の土地に対する権利の獲得。 256

6. アジア小農業の再発見

現金が入る、そんな選択が村を支配するようになった。そんな村々で、彼は小さな積み上げを一つ ひとつ重ねてきた。 イサーンはタイのなかでも最も貧しい地域である。干ばつがひどく、雨季になっても雨は不規則 にしか降らない。土は痩せ、雨が降れば粘土のように粘り、乾季にはかちかちに固まってしまう。 当然農業の生産性は低く、農産物価格の低さや流通段階での取り分の多さもあいまって、農民の生 ーツⅡ約三円 ) 活は苦しい。一九八九年で東北タイの一人当たり年間所得は約五八〇〇バーツ ( 一ヾ だったのに対し、首都バンコクのそれは二万五〇〇〇バーツであった (SANITSUDA E KACHAI 著 『 BEHINDTHE SMILE 』一九九〇年刊 ) 。およそ五分の一である。その後のタイの急速な経済成長は、こ の格差をさらに広げた。わたし自身が聞き取りで調査した結果では、九〇年代においてその格差は 十倍ということであった。 一方で暮らしにはますますお金がかかるようになった。八〇年代後半以降、東北タイでは農村へ の電気の普及が急速に進んだ。電気が入ると同時に、テレビが入り、冷蔵庫が入り、それにつれて きらびやかな都会の上流階層の優雅な生活のありさまが村の中に飛び込むようになった。お金と都 会の生活を求めて、働けるものは男も女も次々と故郷を後にした。バンコクにパッポン通りという 歓楽街がある。その地域の風俗産業で働く女性の七〇 % はイサーンの女なのだ、と手工芸センター のソムョットは語った。 2 師

7. アジア小農業の再発見

別名 ) の伝統を活かした織物と草木染めで、男以上の収入をあげ、堂々たる自立を果たしているから 女たちはプレバンという名前のグループを作っている。「美しい布」という意味である。メンバー は二四〇人。この地域で織物の活動が始まったのは、いまから十年前の一九八七年である。コンケ 実ンに拠点をおく Z ch O 、「東北タイ農村女性地位向上のための手工芸センター」の指導がきっかけ の 民だった。同センターの代表であるソムョットは、「この仕事を始めたのは、村人とくに女性が出稼ぎ る をしなくても、村にいて生活できる経済的基盤をつくりたかったからだ」といっている。ソムョッ え をトはまだ三十代の若い ZtO 指導者である。南タイの豊かな農家に生まれ、バンコクの有名大学を 域 地卒業して、そのまま社会運動に飛び込んだ。イサーン ( 東北タイ ) の農村に入り、渦巻く矛盾に出 ざ会って、はじめは何をしたらよいのか、途方にくれた。しかし村で、高床式の家の床下におかれた 根 織り機を見たとき、彼は「これだ」と思った。 域 地 「農民は生きていくためのいろいろな技術を持っている。織りと染めは、祖母から母、娘へと 受け継がれてきた大切な技術だ。またそれは、蚕を飼い、繭をとるという農業生産活動と結び ついて、村人の暮らしを支えてきた。イサーンのさまざまな風習にも、自分たちが織った布が 必ず使われる。それは生きる技術であると同時に農民の文化そのものなのだ」 そうした技術も、押し寄せる経済成長の嵐の中で、次第に人々の暮らしから消え去ろうと していた。自分で時間をかけて織るより、大量生産の安い化繊を買い、その間出稼ぎに出たほうが 第 3 章越境する志ーーー ヾ一」 0 255

8. アジア小農業の再発見

循環の輪をもう一度・ 村に有機物がない・ 0 農業の地域離れ・ 地域を変える社会運動・ 第 2 節循環をとりもどすー自然の力を活かす韓国自然農業・ 若者を引きつける農業・ 自然の力を引き出す・ 有畜複合で循環させる・ 高い収益性と所得・ 第 3 節農民の力をとりもどす・ 多面性と循環ー米沢郷牧場の思想と実践・ 2 農民の知的財産をとりもどす・ 第 4 節伝統技術で自立するー紡ぐイサーンの女たち・ 干ばっと近代化のはざまで・ 家計を支える女性たち・ サトウキビ刈りの出稼ぎへ・ 学校給食を実現・ 協同組合づくりへ・ 217 220 238 226 234 216

9. アジア小農業の再発見

と実践がもつ意味はますます重要になってきたと、この仕事に関わる誰もが感じている。 第 6 節政治を動かすー・イサーン小農民のたたかい 座り込む農漁民 実 の 民 ハンコクの首相官邸前の大通りを占拠していた約一万の人々が、三カ月と一週間ぶりに座り込み 農 る を解いたのは、一九九七年五月二日のことであった。農民への土地の権利の保証、ダムや道路建設 え をで立ち退きを迫られている農漁民生活権問題、契約農業における企業の不正問題、農産物価格問題、 地労働災害、都市スラム問題など一二一にのぼる要求を、政府がすべて飲んだためだ。座り込んでい ざたのは、タイ語でサマチャーコンチョン、英語名が「 Fo 「 umofthe poo 「」という組織である。「貧 根 民フォーラム」とでもいえばよいだろう。東北タイの農漁民を中心に、労働者や都市スラムの人々 域 地も参加するネットワーク型の民衆組織だ。 五月二日にすべての要求を政府に飲ませて、全面勝利で終わった座り込みは、年明け早々の一月 志 る す二十五日にはじまったものだった。前年、一九九九年の秋にも同じような座り込みが、やはり首相 越官邸前で行なわれていた。私がその現場を訪れたのは十一月一日だったが、そのとき座り込みはす 章 でに三週間目に入っていた。同じ年の六月、私たちアジア農民交流センターと山形県の置賜百姓交 第 流会が農民交流で日本に招いたワッタナーが、めざとく私を見つけ笑いながら手を振っているのが 255

10. アジア小農業の再発見

家計を支える女性たち 織物による女性自立の活動は、そうした状況のなかで生まれた。この活動を農村の女性に広める 目的で、一九八七年に手工芸センターが設立され、同センターの呼びかけで、村々に次々と織物の 女性グループが作られていった。 実七カ村にある織物グループのなかでももっとも大きいのはファー村のグループだ。ここで織物の の 民活動が始まったのは一九八九年である。三七人のメンバーでグループがつくられ、いまでは約八五 え人の女性が織物に取り組んでいる。この村の世帯数はおよそ九〇戸だから、加入率は九四 % に達す をる。村で最大の組織といっていいだろう。 域 地年齢層も幅が広い。まだ学校に通っている十三歳の少女から六十歳の高齢者までいる。グループ ざ設立に当たって、メンバーは一人当たり二〇バーツずつを出資した。グループが活動をするうえで にの基本財源である。同時に手工芸センターから六〇〇〇バーツを借りた。メンバーはここから織物 地に必要な木綿糸などの材料を買う資金を借り入れる。木の皮や草、花、土、虫などさまざまな自然 志の素材を使って糸を染め、織る。センターからの借入金の利子は月一 % である。日本の基準でみれ る すば高利だが、 タイでは低金利の貸付金だ。元本はセンターに返し、利子分はグループで積み立てて 越さまざまの活動資金とする。 章 村を歩くと、高床式の家の土間におかれた機織り機で布を織る女性の姿が目に付いた。昔の日本 第 と同じように、イサーンでもかっては機織りは女性が必ず身につけなければならない技術であった。 237