諷刺新聞『シャルリ・エブド』への自己同一化のほうは、デモの動機づけの中に何らかの拒否 感が強く存在していたことを明らかにする。再建すべきとされた共和国は、その価値観の中心 に冒漬への権利を据え、当面ただちに適用すべき対象として、社会的に不利な立場に置かれて いる集団に支持されている少数派の穴を , する人物を冒漬する義務を想定していた。大量 失業時代であり、マグレプ出身の若者たちが就職の際に差別されているという社会的現実があ り、フランス社会の頂点に陣取ってテレビ討論に出たり、アカデミー・フランセーズに人った りするイデオローグたちによってイスラム教が毎度毎度悪魔のように語られているという現況 を念頭に置けば、一月一一日のデモ行進に隠された暴力はいくら強調してもし過ぎではあるま 、 0 数百万のフランス人が大急ぎで街に出て、自分たちの社会に優先的に必要なこととして、弱 者たちの宗教に唾を吐きかける権利を明確化しようとした。彼らはその折に、本人たちの主張 にもかかわらす、フランス史の中心軸から逸脱した。かのヴォルテールの名が、しはしばシャ リルリによって、ドクトリン上のリファレンスとして挙けられた。その点は、七八九年の革命 ャ家たちが、あるいは一九〇五年の政教分離賛成派の面々が、正しくもそうしたのと同じだ。し ひもと かし、『哲学辞典』を改めて繙いてみたまえ。そこに見出されるのは何よりもまず、著者の父 章 祖の宗教であるカトリシズムと、カトリシズムの唯一の源泉であるユダヤ教に対する見な・がら 第 らかいだ。同『哲学辞典』は、イスラム教やプロテスタンティズムにはほとんど関知していな
一〇号線、そしてさらに高速道路 < 一〇号線に沿って南西部へと浸透していき、その後ガロン ヌ川の流域を遡ったのが分かる。 この試論はフランス社会の現在の危機を探究するためのものであり、フランスの起源よりも 将来を考えるためのものなので、この試論の枠内では、家族構造の平等主義と脱キリスト教化 の間の一致や不一致について深く考察することは必要でない。 目下進行中の事態を理解する上 でより有益なのは、家族構造の平等主義と「脱キリスト教化された」メンタリティーのそれを 加算し、いわば積み上げて、フランス全土における平等主義的資質の総合的な地図を確定する ことだ。もし家族が兄弟を平等なものと捉え、そしてもし宗教的懐疑論が人びとに、司祭たち や神に服従しなくてもよいと述べるなら、その地域の文化がもっている潜在的平等主義のレベ ルは最大となるだろう。もし家族が不平等主義的で、カトリシズムのフレームの中で生活を営 むならは、潜在的平等主義のレベルは最小となるだろう。両者の傾向が不一致のまま組み合わ されるなら、スコアは中間的なものとなるだろう。 機 危そこで私は地図 1 ー 3 において、家族的平等主義と無宗教を加算して〇から三までの間の変 教数となる平等の総合スコアを算出した。中間的な地域の大きな拡がりは、平等原則と不平等原 宗 則の間に緊張があることを、フランス全土にいわば潮の満ち引きのあることを示唆している。 章 一九八〇年代の初めまで、フランスの選挙での投票行動の地図は、とりわけカトリシズムの影 第 響の大きさを明らかにしていた。その後、カトリック教会の存在感が薄れていくにつれ、潜在
まで進むことができる。統合の失敗について嘆くよりもむしろ、われわれがすべきは、ゾンビ のイスラム教がフランスの政治文化をポジテイプに回復することに貢献するのではないかと問 うてみることである。というのは、人類学的に明白なのが、いったんアラブ文化の中にある反 リ盆地ないしは フェミニストな要素が解体されれば、イスラム教はその平等主義にゆえに、。、 地中海沿岸地方の平等主義と高度に共存可能であることだからだ。 私は今日のフランス社会について、主観的な価値であり、かっ客観的な現実である不平等性 の作用を受けていると述べた。不平等への傾向をあらかじめ持っている地域と階層、すなわち ゾンビのカトリシズムと社会的上層階級によって、イデオロギー的、政治的権力が握られてい ち たることを示した。その結果、フランスの中央部に所在して、平等主義的でフランス革命を成し ス遂げ、真に共和主義的な共和国の開花の立役者となった文化が相対的に崩壊していることを認 ラめなくてはならない。国民文化のこの転倒の主要な政治的エージェントは社会党であった。社 の会党こそが一見慎み深く見えながら、強い力をもって不平等主義をプロモーションしているの ムゞ」 0 ス平等の価値に照らして、アラブ家族とそのイスラム教は、ゾンビのカトリシズムの地方やネ イ オ共和主義のイデオロギーよりも、フランス中央部の伝統に近い。イスラム教圏出身のフラン 章 ス人が極左への強い投票傾向ーー「赤い郊外地域での共産党への投票の継承性ーーを持って 第 いる点にわれわれはそれを感じとることができた。したがって人類学は、その有効性と固有性 263
いて、かのドレフュス事件二九世紀末のフランス世論を二分し、最終的には共和制の強化につ ながった反ユダヤ主義の冤罪事件〕の間、フランス軍に属するカトリック教徒たちに作用して、 彼らが国家に対して過度に不服従の態度を取らないようにしたのだ。また、第二次世界大戦中 の一九四二年一一月二七日、フランス海軍の司令部がトウーロン港で自軍の大艦隊を自ら沈没 させることを選んだのも、同種の精神性のゆえではなかったか〔ヴィシー政権下のフランスの 提督が自国海軍の大艦隊を沈没させたのは、ドイツ軍に奪われないためだけでなく、連合国側のイ ギリス軍にも使わせまいとする意図からだった〕。大統領府に陣取っていながら何も決定できな い無能さは、人びとがときおり示唆していることに反して、その名に反して中道的で生ぬるい イメージのある急進社会主義のメンタリティーから来ているものではない。それには文化的で 集団的な由来があるのだが、事実を言えばカトリシズムのサプカルチャーが持っ潜在的可能性 の一つにすぎす、それがカトリック教徒のゾンビとして原型ともいえるフランソワ・オランド に見事に伝えられているというわけだ。彼の前に現れた多くの人物たちと同様、取るに足らぬ 機 危存在として生まれた彼は取るに足らぬ存在に還るだろう。 教フランスの政治システムの大変調を理解するために、、 しまや基本的な問題に立ち向かう必要 宗 がある。カトリシズムからの転向者を吸収することで再活性化した社会党とは実は何であるの 章 力とい , っ . しオ 意識的で明示的な政治のみをコメントの対象とする習慣のせいで、われわ 第 れは長い間、保守派の一部が左翼に移ったのだと想像してきた。人類学は、グループとグルー
は主として、 のカトリック と地滑りしてしくとしう象であった。この 現象は、統計的数値に表われている以上に重要である。その動力学的エネルギーが当該陣営に、 攻勢をかける側の有利さを与えたからだ。そこから新しい人物たちが輩出し、新しい思想が生 まれ出た。フランス・キリスト教労働者同盟 (ocæeo) が宗教色を払拭してフランス民主労 働同盟になったし、いわゆる「第二の左翼」が、旧いタイプの世俗主義や儀式化 した社会主義に忠実であることにとどまっていた「第一の左翼」よりも優勢になった。この動 きこそがマーストリヒト条約につながったのだ。投票に階層的特徴があったとはいえ、通貨的 ュートピアがまずは社会主義者のアイデアであって、保守勢力は必すしもつねに熱心にではな く追随し、追認したのだということを忘れてはならない。 ジスカールデスタンの率いた保守政 党も、ジャック・シラク二九九五年 5 二〇〇七年の任期を務めた第一三代フランス共和国大統 領。一九三二年生まれ〕の共和国連合も、単一通貨を発明するのに必要なエネルギ 、創造性、そして究極的には信念を持ちはしなかったであろう。 機 危人口学者エルヴェ・ル・プラーズとの丑著『不均衡という病』の中で、彼と私は、カトリッ ク教会が・ 0 伝統的拠点地域」お〔最的」崩壊した結果とし生まれ〈人類学的・社会学 宗 的パワーをゾンビ・カトリシズムと名付けた。私は本書のもっと後のほうで、フランス周縁部 章 でカトリック的サプカルチャーの残存形態がカトリシズムの死んだ後もなお生き延びていると 第 いうことを示す教育上、経済上の他の諸現象を検討するつもりだ。この転生はおそらく、一九
教員と教育カウンセラーは「中間職」に属し、一九九一一年には政治的に「上級職ーに追随した。 「諾ーはまた、保守派への投票傾向の要因として昔から最もよく知られている変数にも依存し ていた。高齢という変数である。年金生活者たちは実際五五 % の比率で条約を承認した。 いわゆる「〔投票所〕出口調査」では、階層と年齢による投票行動の階層化しか掴めない。 ウィ マーストリヒト条約をめぐる国民投票の結果分布図を検討すると、「諾」の票に宗教的な、あ るいはむしろポスト宗教的な意味が濃厚だったことが明らかになる。パリ 地方は上級管理職た ちが多く住む首都だけあって、たしかに大量の「諾」を投じた。しかし、カトリック的伝統を 持っフランス周縁部の諸地方の単一通貨への賛同もまた鮮明だった。それを示しているのが地 ウィ 図 1 ー 4 である。相関係数プラス〇・四七が依然として一九九二年の「諾」を、二〇〇九年に 世論研究所が測定したカトリシズムの実践率に結びつけている。 ( 周知のように、 二つの系列の数字の間の一次相関係数はマイナス一とプラス一の間で変動す る。二つの系列の間の関係はポジテイプであったりネガテイプであったりするが、係数の絶対 機 危値が一に近づけば近づくほど相関関係がより緊密だといえる。 ) 教注意しておきたいのは、階層の変数と宗教の変数が絶対的に相互独立的ではないということ 宗 である。なせなら社会の上層部は今日なお、民衆よりも宗教を実践している割合が大きい。一 章 1 八世紀末にはヴォルテール風に反宗教的・反教権的だったプルジョワジーが、一九世紀には部 分的にカトリシズムに回帰したのであって、その現象は国内の脱キリスト教化した地域におい ウィ ウィ
働総同盟 (ot+) は、国土の中央部と地中海沿岸部で発展した。伝統的な保守勢力と、フラ ンス・キリスト教労働者同盟、およびその後のフランス民主主義労働同盟 (e) は、国土の周縁部に存在するカトリシズムの拠点地域を地盤とした。この二つのフラン スの対立が一七八九年から一九 , ハ〇年まで、フランスの社会および政治の基本的な構造を成し たのである。カトリシズムの拠点地域における宗教実践の退潮にもかかわらす、国民空間のこ の分割はいわば水面下で、人びとに意識されすに作用し続けている。 宗教社会学がこうしてわれわれに開示するのは、「共同体主義」〔ここでは、民族的・宗教 的・文化的価値を共有する人びとが集まり、他者たちに対して閉じたグループを形成して暮らす傾 向を指す〕に近年熱っぽく対抗している世俗主義の言説の反歴史性だ。ああした言説はいわは、 一度も存在したことのない過去を参照しているのである。二世紀にわたってフランスはまった く同時に革命の母であり、かっカトリック教会の長女であるという一一重の状態にあり、実際上 はローカルなレベルで共同体主義的なあり方をしてきたのだ。第三共和制の真髄は実は、単一 危性と不可分性というジャコバン的な言説をおこないながら、プラグマティックな共同体主義、 教あるいはむしろ、より正確には、共和国と教会の一世紀半にわたる紛争によって、プラグマテ 宗 ィックなものに変えられた共同体主義を実践してきたというところにある。共和国の象徴たる 章 女性像マリアンヌは、ついに聖母マリア様との共存に馴染んだのである 第 フランス的ライシテ〔世俗性〕は具体的には、神を信じるか信じないかというプライベート
ネオ共和主義 一九九一一年 5 二〇一五年ーーーヨーロッパ主義からネオ共和主義へ ネオ共和主義的現実ーーー中産階級の福祉国家 シャルリは不安なのだ ライシテ ( 世俗性 ) 左翼 カトリシズム、イスラム恐怖症、反ユダヤ主義 第 3 章逆境に置かれた平等 世俗的で平等主義的なフランスが直面する困難 難局にある資本主義の人類学 不平等のヨーロッパ フランス、ドイツ人たち、アラブ人たち ドイツと割ネ 二〇一五年一月二日のヨーロッパ主義的大ハプニング ロシアという例外 リの不思議 場所の記憶 176 143 リ 4 147 170 110
地図 2 ー 4 都市部におけるゾンビ・カトリシズム ダンケルク カレー プローニュ = シュル = メール へテューメ リール ドウ工 = ランス シャルルヴィルニ モプージュ ヴァランシェンヌ プレスト シェルプール プリュー ルーアン分アラス ル・アーヴルアミアン C ) 〇サン = カンタン メジェール ティオンヴィル カンペール ラヴァル 〇ポーヴ , 〇ランス パリ エヴルー ナンシ メス 0 シャルトル一〇トロワ ストラス プール コルマール ・ル・マン ( つオルレアン 〇プロワ ヴァンヌ アンジェ ベルフォール アイション ミュルーズ ( ) トゥールプールジ C) ・ブザンソン ショレ ヌヴェール〇シャロン = シュル = ソーヌ ロリアン、 サン = ナゼール ナント 0. ニオール O ボワチェ ラ・ロシェルリモージュ フ・ロツンユ = シュル = ョン マコン ロアンヌ〇 プール = ガン = プレス アングレーム〇 クレルモン = フェラン ペリグー アヌシー リョン シャンべリ 〇 9 サン = テティエンヌ グルノープル プリーヴ = ラ = ガイヤルド ヴィエンヌ 〇 バイヨンヌ ポルドー 〇モントーバン アジャン〇 モン / 、リ ァレスヴァランス ム、〇 ( 0 アヴィ = = ン 0 トゥールーズ タルプ / ヾジ工 ェクス = マルセイユ トウーロン ベルピニャン アジャクシオ カトリックの影響力 影響力強い - 影響力弱い ロ影響力ほとんどなし 102
域の中心として存在している。かくして、すでに見たとおり、レンヌやリョンはいすれも依然 としてゾンビ・カトリシズムにとどまっているし、マルセイユは相変わらず、独特の魔法のよ うな無秩序の中でマルセイユであり続けている。 パリは地方都市と異なり、世界都市とも呼べそうなものに発展し、地球上の諸民族が会する 場所になっている。移住プロセスの世界化をフランスよりも先に経験した米国の諸都市におけ る同化メカニズムに関して分かっていることを参照すれば、受け人れ国の既存の人類学的シス テムが移民の流人によって崩壊すると想像するのは誤りであろう。ニューヨークでも、ポスト ンでも、シカゴでも、サン・フランシスコでも、ロサンジェルスでも、家族は相変わらす絶対 核家族として描かれ得る。自由主義的だが平等主義的ではないイギリス流の当初の原型は、ス コットランド、アイルランド、ドイツ、スウェーデン、ポーランド、ユダヤ、イタリア、日本、 平韓国、中国などからの三世紀にわたる移民流人を経ても元どおりで、変化していない。移民の 畩子孫は二世代目か三世代目になると、もともとの家族システムがどのようなものであっても、 置受け人れ社会の家族システムを採用する。 境 逆 場所の記憶 章 米国での移民の動向が与えてくれる歴史的教訓は、人類学にとってきわめて重要だ。この教 第 訓は、家族を通して伝わる価値に想定されているパワーを相対化してくれる。そして子供たち 177