脱キリスト教化されているフランス、もう一つはごく最近に脱キリスト教化されたフランスで あり、その両者のテリトリーを示してくれるのが地図 1 である ティモシー・タケット〔フランス革命史を専門とする米国人歴史家。一九四五年生まれ〕の研 究のおかげで、一八世紀におけるカトリシズムからの脱却は、諸個人の現象ではなく、地域共 同体レベルの現象だったということが分かっている。当時、別の地域共同体はカトリック教会 ( 8 ) に忠実であり続けたのである。 一七九〇年の聖職者民事基本法は、各教区の信者による司祭と司教の選出を制度化しようと していて、この法典への恭順の誓いが主任司祭たちに要請された。その誓いをおこなうことへ の受諾と拒否を示しているのが地図 1 1 -Q で、これはティモシー・タケットの研究に依拠し てここに示したものなのだが、司祭たちの内心を知らせてくれるものではまったくなく、各教 区の意思を教えてくれるものなのである。主任司祭たちが聖職者民事基本法を受け人れた地域 は、広大なパリ盆地を中、いに、サンⅡカンタンからポルドーへ広がっている地域と、地中海沿 岸地方であり、その地中海沿岸地方はドローム、イゼール、アン、ソーヌⅡ工Ⅱロワールの各 一方、カトリック教会が共和国の要求を受け 県を含む一種の回廊でパリへとつながっていた 人れることを拒否する司祭たちが多かったのは、フランスの周縁部に散在するいくつかの地方 においてだった。すなわち、フランス西部の全体、フランス南西部と中央山岳地帯の大きな部 分、ジュラ山脈地帯、アルザス、そしてフランスの北端である。
国全体から見ると少数派である。フランス社会を徐々に侵しているメンタルなアンバランスの 唯一の要因であるとは見做しがたい。 無神論の困難さ 今日じわじわと、しかし逆らいがたく高まってくる宗教的な居心地の悪さへの、フランス本 土の世俗主義的中核の貢献を過小評価しないようにしよう。今日、無神論者であることは以前 よりも難しくなっている。無信仰者たちの多いフランス中心部は一七九一年から一九六〇年ま での間に、カトリック教会によって完全に見捨てられたわけではなかった。カトリック教会は 否定的なモードにおいて存在していた。もちろん敵としてだが、ひとつの確かな形而上学的目 安として、避けるべき極として存在していたのである。無信仰者は自らを自由思想家として、 教義の監獄から脱走してふたたび自由を見出したことを喜ぶ者として、自らを定義していた 。宗教的信念が 教権という敵が存続しているかぎり、神なき人間は最終的な問いを免れていた 機 危消えた後に何があるか ? 主として、もちろん近代的な政治的イデオロギーだ。脱キリスト教 教化したフランスに、ます革命が、次に共和主義的左翼 ( 本物のそれ ) が、そして遂には左翼の 宗 力と脱キリスト教化の間に起こった地図学的一致のフィナーレともいえる共産党が、連続して 章 現れた ( 地図 1 ー 6 ) 共産党が成熟した第一一次世界大戦直後には、共産党への投票はフランス 第 本土において宗教実践のほば完璧なネガのように分布していた例外は僅かしかなく、それは
の形を生み出したことを認める必要がある。ドイツとフランスでは、カトリシズムを実践する 地方は全国土の三分の一しか占めておらす、それらの地方は一九一四年から一九一八年までの 第一次世界大戦によってそれぞれのネイションに完全に統合されていた。しかし、カ = リジズ・・ 云・・の崩壊 - はライン川の両側でユ・に・・ゴ・・ツバ主 - 義 マーストリヒト条約締結に到るヨーロッパ主 義ーーーに大きく貢献した。そのことはフランスのケースでは、主要な選挙や国民投票の結果を 表示する政治地図によって明らかになる。 カトリシズムの瓦解から発生し、た不にフランスにおいて、ネイションのシステムの中核部 分に受け継がれている平等主義および普遍主義と相俟って、異質な要素の混合ではあるけれど もたしかに壮大なイデオロギー、すなわち、マルチナショナルなナショナリズムの試みを浮上 させた。 カトリック的フランスと世俗的フランスーーー一七五 0 年 5 一九六 0 年 機 危実際、カトリシズムに特徴づけられるフランスがただ一つ存在しているのではない。そうで 教はなくてカトリック的フランスが二つあるのだ。すなわち、一八世紀の中葉にはすでに教会を 宗 捨ててしまったカトリック的フランス①と、一九六〇年頃まで信仰を維持していたが、そのあ 章 と遂に熱心さを失って、これまた無信仰に沈んだカトリック的フランス②である。フランス本 第 土には、したがって今日、脱キリスト教化された二つのフランスが並んでいる。一つは昔から
諷刺は猥褻だと言うことを拒否できるわけがない。 今述べたことは、問題のごく小さな部分で しかない。イスラム教はもうそろそろ全体として受け人れられ、かってカトリック教会がそう 3 だったように、ネイションの構成要素として正統化されるべきなのだ。われわれはモスクの自 由な建設を受け人れるべきだし、さらにはこの領域での遅れを取り戻すべきである。 いまざっと描いてみたのはユートピアではない。 これは共和国の実在した過去への復帰の要 ライシズム 請なのだ。世俗至上主義が支配的なこの時代においてわれわれは、かってカトリシズムに与え たものをイスラム教に与えなけれはならない。イスラム教圏出身の人口規模はささやかなもの だし、それがさらに郊外で細分化されているのだから、カトリック的周縁部の諸地方との比較 は不用意に推し進めるわけにいかない。イスラム教徒は、年寄りたちを数えるか、若者たちに 注目するかで数値が揺れるが、せいぜい五 % から一〇 % までの間だ。しかも、グループは分散 していて、元の国籍も、宗教実践の度合いも同質的でない。そこから考えて、かってカトリッ ク教会の傘下にいた人口ほどの重みを持っことは将来にわたってあり得ない。カトリックだっ た諸地方は国土の三分の一を占め、当時ははるかに同質的で、中産階級や指導階層にも、今の イスラム教徒人口に比べたら遥かに多く人を擁していたのだ。というわけで、ややもすれば今 後まとまって出現してくるかのように言われているイスラム教の人口は、その勢力において、 かって共和国の中でカトリック教会が代表したものの三分の一から二〇分の一というところだ。 結局、リアリズムと実際上の必要の名において、ずばり完全に、しかも愉快な気持ちで、今
論 結 かたまり びとを人口の一つの塊として捉えると、その行動や態度は国全体の標準からかなりかけ離れて 。平均結婚年齢の高さ、夫婦間での受胎調節・家族計画の拒否、その結果である子だくさ んの家族。出生率が二五 % も高く、カトリック教会が人口競争で共和国を征服しようとしてい るのではないかとさえ思われるくらいだった。国民文化の中心部には、当時全ヨーロッパに類 例のない自由奔放なセックス・ライフが定着していた。イギリス・ドイツ・イタリアの貴族や プルジョワが自由な環境を求めてパリを訪れ、それをそこに見出していた 世俗文化とカトリック文化は、公式には互いに敵対的であったが、だからといって隙間なく ープル ・パンセ 遮断されていたわけではない。カトリック教徒が教会から離脱して自由思想の側に鞍替えし ない日はなかった。両陣営の間の混合結婚も多かった。たいていの場合、支配的な中心部の文 化に好都合なカップル化だった。むろん緊張関係もいたるところに存続していたが、この複文 化的宇宙は、ユダヤ教徒やプロテスタントのようなマイノリティがついに自由を見出すことの できた環境でもあった。フランスは気紛れかと思えば規律正しく、内心ではアナーキストなの に、国家をとおしては、または教会をとおしては権威主義的だという具合で、ヨーロッパを魅 了していた。「自由、平等、友愛」という標語のおかけだけではなかった。文化的多様性にお いて、他のどのネイションにも優越していたからである。 傑出した遺伝学者で、エキセントリックなイギリス人を絵に描いたような人物だった・ ・ co ・ホールア、〔一八九二 5 一九六四年。作家ハクスリーの親友でもあ「た〕 ' ・の話を聴ご、一省 273
システムに、具体的に差異を体現する一人の人間をぶつければ、普遍的人間は自ら知らずして 最も純粋にエスニックな状態に戻されてしまい、矛盾をもたらす者の人間性を否定するような 反応も起こしかねない 共和主義的な反ユダヤ主義 第三共和制下にも、明らかに普遍主義的外国人恐怖症の発作であったものを見つけることが できる。ただし、それが現れたのはパリ から遠く離れた地においてだった。ごく短期的な ことではあったが、植民地だったアルジェリアに、自由主義と平等主義を帯びた共和主義的な 、、、反可ヤ主義が犠缶したのだ。これを私は『移民の運命』で詳しく分析しておいたので、そち ちらも参照いただきたいが、要するにドレフュス事件の最中の一八九八年五月、当時フランス共 人和国の一部分だったアルジェリアが国会に「反ユダヤ」の議員を四人送り込んだのだ。しかし ンながら、北アフリカのヨーロッパ人たちにおける反ユダヤ主義は、そのヨーロッパ人たちがフ ラ フランス系であれ、イタリア系であれ、スペイン系であれ、フランス国内のカトリック的な反ュ 右ダヤ主義とは性質を異にしていた。アルジェリアにおけるヨーロッパ系の人類学的素地は、い ささかの疑いの余地もなく自由主義的で、平等主義的で、そして完全に世俗主義的だった。 共 章 和主義的な植民者たちの間で、カトリック教会は重きを成していなかった。アルジェリアのユ 第 ダヤ人たちは、フランス本土のユダヤ人たちの場合のように、あまりにもよく同化することを 199
れた。 一九八〇年代の後半以降、カトリシズムの崩壊が類似の結果をイタリアにもたらした。イタ リアでは地域政党「北部同盟」が外国人恐怖症の対象を国内に向け、南部 ( いわゆる「メゾジ ォルノ」 ) の人びとを標的にした。その地域的震源はポー 〔イタリア北部を横断している川〕 の北東に位置していた。その辺りは、一九六〇年頃まで宗教的実践の比率が最も高かった反面、 イタリアのうちでも人類学的与件が普遍的なものに対して開かれていない地域であった。 かっては共産主義による抑圧があったせいで、ポーランドと西部ウクライナで防衛的カトリ シズムが活性化した状態に維持されていた。 西部ウクライナのケースは、より正確には東方典 礼カトリック教会、すなわち元々は正教会であったが、一七世紀の途中にカトリック教会の教 義を受け人れた教会である。一九九〇年以来の急激な出生率低下が示すように、自己防衛のカ トリシスムは、、 しったん共産圏が崩壊してしまうと、それ以上生き延びることがなかった。そ の消失のあとにひとつの空白が生まれた。この空白が例によって不安を生み出し、外国人恐怖 機 危症を擡頭させたわけだが、この要素は物質的な文脈に関係していない。なにしろ、冷戦後の経 教済的適応はポーランドにおいては成功したが、ウクライナでは完全に失敗したのだから。ポス 宗 ト共産主義の東ヨーロッパの文脈において、代替メカニズムは必然的にロシア恐怖症の擡頭と 章 いう形をとった。かって西ヨーロッパで、類似の現象が場所によってイギリス恐怖症、スペイ 第 ン恐怖症、フランス恐怖症、あるいはイタリア恐怖症を引き起こしたのと同じことである。
宗教の崩壊と外国人恐怖症の急増 歴史の中で起こった諸宗教の崩壊を比較するアプローチを採ると、移行期の精神的アンバラ ンスというあの問題を提起せすにはいられなくなる。実際、・・・信印が変質し・た - 切崩壊し・たりすを、 と、そべにしばしば革命的な事件が起こる。形而上学的な枠組みが消失すると、人びとの間 にほとんど機械的に代替イデオロキーカ浮上する。それらのイデオロギーは、それぞれが標榜 する価値において多様だが、たいて物理的に・暴ガ付ものとなる。 フランスでは一七三〇年 5 一七四〇年頃、司祭になる者がパリ盆地と地中海沿岸地方で枯渇 してしまっていたが、王国のその他の域では引き続きそれまでどおりの水準で現れていた 大革命はカトリシズムの危機から半世紀後に起こった。それ以前、カトリック教会は信者たち に対し、全員に施される洗礼と、生前の善き行いに応じた救済をとおして、永遠の生命を求め かなる目標が、地上の国にお 一七八九年、こ ることにおける平等と自由を保証していた 機 、な、、 / に転、された。 的 教ヴォルテールの『哲学辞典』には、完全に反宗教的で、論争的で、刺戟的で面白い思想が開 宗 陳されているが、あの著作が刊行されたのは一七 , ハ四年、すなわち、フランス王国の三分の二 章 の地域においてカトリック教会が崩壊したあと、さらに二〇年を経てからであったことに注目 第 しておこう。
論 結 後フランス文化の中に、ネイションとしてのわれわれの存在の中に、イスラム教の一地方が存 在するということを認めればよいのである。また、新たなヴァンデ戦争を避けるということも 大事だ。ヴァンデ戦争というあのぶつかり合いは、むしろカトリック教会を強化したからだ。 第二次世界大戦後にひとりでに溶解していったのは、共和国に受け人れられたカトリシズムだ った。さて、カトリック教会が階層秩序の原則に則り、あらゆる点で共和主義的理想と対立し ていたのとは反対に、われわれの新しい一地方であるイスラム教は平等を信じる。したがって、 イスラム教を積極的に統合すると、共和国文化の転覆よりも、むしろ強化に役立つだろう。 われわれはイデオロギーよりも、むしろ時間の働きに期待して、緊張の緩和と平和的な人間 関係の到来を待つべきだ。そのことが、より多くの宗教的相対主義へ、より多くの混合結婚・ 異民族間結婚へ、そしてさらに、自らの信仰と宗教的な出自を問われるとやや当惑し、そう 易々と、すらすらと、明確に述べることのできないフランス人の発生へとつながるのだから。 たしかに、先進資本主義が生み出す、ボラニー的な意味での空白を考慮すると、当該人口の 速いテンボでの同化が再開するかどうかは不確実だ。しかし、折り合いをつけるという選択は、 対決が失敗するしかない局面で、成功する可能性を持っている。実のところ、折り合いをつけ るという選択は、その成功の確率がどんなレベルであっても受け人れることができる。なせな ら、対決が失敗に終わる確率は一〇〇 % であるから。 291
っての指導規範としてカトリシズムが存在していた地域ーーーケベック、バスク地方、アイルラ ンド、フランドル地方ーーでは、その消失が一九七〇年代以降、ナショナリズムを大きく伸張 させることにつながった。世俗性への移行はカナダとスペインとアイルランドでテロリズムを、 そしてベルギーでは、より穏便ではあるが、おそらくより持続的な恐怖症の発作を生み出した。 フラマン人たちは、彼らの国で支配的なグループとなったにもかかわらず、フランス語の使用 をひどく嫌うことにおいて、いまなお際立っている。これらの事件はすべて、消費社会の繁栄 と発展の時期に起こったのである。 重要なのは、カトリシズムから外国人恐怖への移行を説明する論理を理解することだ。カ トリック教会は階層秩序の原則に執着しているが、それにもかかわらす伝統的に普遍主義的 「カトリック」とは普遍的という意味だーーである。一九六〇年頃までカトリック教会は、 しくつかの地域文化に対して、ひとつの抑制剤として、 普遍的なるものにあまり開かれていない、 さらには自文化中心主義を制御する要素として働いていた。ケベック、バスク地方、アイルラ ンド、フランドル地方の文化は、ドイツの文化と同様、家族における平等という原則を欠いて いる。そこでカトリシズムが、それらの文化の人類学的与件である自文化中心主義をひとつの システムへと、たしかに権威主義的で垂直的ではあるが、普遍的な使命を帯びたひとつのシス テムへとロしていた。この制御装置が消失したとき、論理的な帰結として、宗教よりもいっ そう深い次元に存在する家族構造に由来する不平等主義的ないし非平等主義的な気質が解放さ