の日刊紙『ュランズ・ポステン』のエピゴーネンにすぎなかった。『ュランズ・ポステン』は、 早くも一一〇〇五年からイスラム教をテーマにした諷刺画をいくつも掲載し、「討論を提起した」 のだった。最も注目されたデンマーク人漫画家クルト・ベスタゴーの画では、ムハンマドのタ ヒ方のイデオローグとただちに連帯した『シャルリ・エブド』 バンが爆弾に模されていた」 は、いわは一介の模倣者にすぎなかった。ここでもまた、音頭をとるのはプロテスタンティズ ムのヨーロッパだと確認できる。プロテスタンティズムが主流の地域におけるイスラム教徒の 人口比率は、フランスや、ドイツのカトリシズムの地域に比べてずっと低いのだけれども。 さらにもう少し年月を遡ろう。オランダのイスラム恐怖症政党のリーダーだったピム・フォ ルタインが暗殺されたのは二〇〇二年五月六日だったから、『シャルリ・エブド』での殺戮に 一三年近くも先立っていたわけだ。あの暗殺事件の直後、オランダは、少なくともフランスに 平おける二〇一五年一月七日の直後と比べられるほどに国中が大騒ぎになった。フォルタインは れ社会党にいたことがあり、プロテスタンティズムの地域であるオランダ北端の出身だった。 置二〇一四年に、ドイツで「ペギーダ (a«QC—Q<<) こと、 Patriotische Europäergegen 境 die islamisierung des Abendlandes が結成された。この団体名は、フランス語に直すと「西 洋のイスラム化に反対する愛国的ヨーロッパ人」となる。ただ、この翻訳では、 Abendlandes たそがれ 章 ( 夕暮れの国、夕日 ) という言葉の黄昏のニュアンスが失われる。急成長にともなう内部危機 第 のせいで、この運動体が毎週月曜の夜にドレスデン〔ドイツ中部、ザクセン自由州の州都〕で実 16 )
アイルランド、北イタリア、北西スペイン、フランス周縁部などであった。これらの地域に共 通する非平等主義的な人類学的素地が、ユーロ圏における不平等主義出現の主要な基盤を構成 しているのだった。そこで、今やわれわれの分析モデルにもう一つ別の、これまた星座のよう に諸地域に散在する要素を、ゾンビ・プロテスタンティズムと名づけて付け加えなければなら よい。ゾンビ・プロテスタンティズムは、ゾンビ・カトリシズムに比べてより北方に所在し、 同じように不平等主義的だが、イスラム恐怖症といえる思念の採用においてはより積極的だ。 ルター派のドイツの場合には、反ユダヤ主義が擡頭した頃もそうであったようにと、やはり付 け加えておくべきだろう。宗教実践としての死のあとのゾンビ・プロテスタンティズムの延命 においては、運命予定説の教義に由来する不平等主義のいっそうの徹底が予感される。ゾン ビ・カトリシズムとゾンビ・プロテスタンティズムという二つの集合が、オランダとドイツで 混じり合い、補完し合っている。 ニ 0 一五年一月一一日のヨーロッパ主義的大ハプニング デモ行進の先頭に立って歩いた国家元首たちは、不平等のヨーロッパを演出していた。イス ラエル首相べンヤミン・ネタニヤフのケースは脇に置く。彼があそこにいたのは、まったく別 の配慮、特にフランスでユダヤ教を実践している人びとが晒されることになったリスクに関す る配慮によって正当化されていたからだ。また、ロシア外相セルゲイ・ラブロフのことも、こ 170
結 ニロ ことなら、エスタブリッシュメントにとって理想的な外国人恐怖症であるロシア人恐怖症に罹 りたかっただろう。しかし、お誂え向きのスケープゴートになるには、ロシア人たちには二つ の特徴が欠けている。一つは、西洋の社会空間に身体的に大人数で存在していること、そして もう一つ、これがより重要なポイントなのだが、弱者であることだ。何といっても、地中海世 界から来た移民を叩くほうが、ロシア軍に立ち向かうのよりもリスクが小さい。 二つ目の円環であるイスラム恐怖症型 ( プロテスタンティズムの頭文字「」 ) はもっと 北寄りで、ユーロ圏と一体になってはいない。しかしプロテスタンティズムは、子孫のゾンビ に、持ち前の教育への熱心さをよく受け継がせる一方で、普遍的なものに対する根源的にネガ テイプな関係をも伝えた。すでにかなり以前から、ゾンビのプロテスタンティズムがヨーロッ オランダ、デンマーク、ドイツの北部と東部ーーーで、イスラム恐怖症の触媒として作用 している。 現代フランスのネオ共和主義システムを支配しているのは、経済システムの危機にまださほ ど苦しんでいない中産階級である。この中産階級はフランス流の「福祉国家ーの掌握権を手中 に収め、産業と労働社会層を犠牲にすることを受け人れた。心理的に不安で、イデオロギー的 不安定の兆しを露呈するようになってきている。中産階級に属する諸階層の人びとの間でイス ラム恐怖症の水準が徐々に高まって来ているのが感じられる。「イスラム教徒たちーという、 彼らの妄想のカテゴリーが、こうして民衆層と並び、彼らの二つ目の問題となる。闘いの相手 279
の邪魔をしないだけでもよい。できれは、戦闘的な無神論からくる侮辱や攻撃から、またラデ イカルなライシズム〔世俗至上主義〕という、今ではむしろ信仰の自由に対する新たな脅威と なってしまっているものから、それらの家族を護るのがよい。付け加えていえば、この極端な ライシズム 世俗至上主義はそれ自体が新しい種類の信仰なのだから、カトリシズムや、プロテスタンティ ズムや、ユダヤ教や、イスラム教とまったく同じように公立の学校の中に人り込ませてはいけ ないのだ。 イスラム教と平等 ち フランス社会に対してイスラム教が投けかける問いの主要なものは、形而上学的に空白化し 人 スている社会の中で、古い宗教として、代替物として名乗り出るが、よろしいか ? ということ ラでまよ、 0 もともとイスラム教を担っていた人 イスラム教はもはやそんな力を持っていない。 のびとの集団は他の集団と同様に、若干遅れながらも世俗化の過程にある。しかし、を・テ教ー ムはカトリシズムやプロテスタンティズムと同じように、その固有の価値観をしまではその一口仰 。ることが可能だ 4 ・プ・てし・ま・つ、た人びどに伝達し生きた信仰として消えた後も イ われわれはゾンビのカトリシズムの存在を、次にはゾンビのプロテスタンティズムの存在を認 章 5 めざるを得なかった。今度はゾンビのイスラム教の存在を考えてみることができなくてはいけ 7 さて、イスラム教が持っているもので特徴的なのは、人び・ど・の平等とい・う力強・い価直観
の違いを説明します。フランスのシステムの脱線は、西洋のシステム、より正確にはヨーロッ ハのシステムの脱線の一構成要素にすぎません。さらに、究極の謙虚さをもって述べておきま しょつ。ヨーロ ッパにおけるイスラム恐怖症の震源は、後述のとおり、フランスの外に、もと もとプロテスタンティズム、なかでも運命予定説の不平等主義的概念を不幸にも受け継いだル ター派信仰の強かった地域に位置しています。この事実確認に、カトリシズム側のどんなルサ ンチマンも関係していません。なにしろ、本書の著者の出自にカトリシズムはほとんど縁がな いのですから。 私は特別な思い人れをもって、この論述の冒頭にウィリアム・プレイクの詩の最終節を掲け ました。この詩節が人間について、神的なものについて述べているからですが、同時に、プレ イクを読むことがいつも私に勇気を与えてくれたからです。私はまた、これが本書のフランス 語原典にも英語で載るように意を用いました。フランス人たちに、世界には彼ら以外に多くの 人びとが存在することを思い起こさせようとする意図的配慮です。 エマニュエル・トッド
惹きつけることができるというのでしようか。 ここで私は、フランスが今日最悪のネイション〔国民〕であるという印象を与えたいわけで はありません。フランスを批判するのは、そうすることがフランス市民としての自分の義務だ と考えるからであり、また、フランスがひとつの人類学的ケースとして特別に興味深く、他の さまざまなネイションの現実を考察する上でも非常に参考になると思えるからです。フランス の人類学的一一元性ーーー同一の国土に平等主義気質と不平等主義気質が共存していること 注目すると、比較研究の手法により、したがって格別の精確さをもって、先進世界の宗教的危 機、平等原則の失墜、そしてこの二つの崩壊に起因するスケープゴート探しを分析することが できるのです。 本書はたしかにフランスについての本ですが、私の確信するところでは、先進国のあらゆる 読者に語りかけ、話を通じさせることができるはすの本です。この本にはフランスに関して宗 教、格差、外国人恐怖症の変数が挙げられていますが、読者はきっと即座に、それぞれ自分の 国の変数を当てはめてみるでしようから。 フランスはおそらく、ここで取り上げた宗教的・社会的危機が最も顕著になっている国です らないでしよう。本書の中にも書き記しておきましたが、ヨーロッパにおけるイスラム恐怖症 の重心は欧州大陸のプロテスタンティズムの地域ーー。ーすなわちデンマーク、オランダ、ドイツ 北部。ーーに在るのです。それゆえ、シリアやアフガニスタンその他からやって来る難民の波に
ばならないだろう。ミシェル・ウエルべックの『服従』が書店でよく売れたのはフランスでだ け - 」亠よ、よ、 0 イタリアでも、ドイツでも同じだった。だからといって、。、 ノリを新しい思想の首 都だなどと思うのはとんでもよ、司違 ナしド、したわが国の貿易収支は、他の多くの製品においてと 同様、イスラム恐怖症のシリーズにおいても明確に赤字なのだ。 ドイツとネ ドイツにはイスラム恐怖症のありきたりのすべての要素が高いレベルで揃っていて、その中 に、『ドイツが消える』のようなメイド・イン・ジャーマニーのベストセラーも含まれる。こ の本は二〇一〇年秋に出版され、二〇〇万部以上も売れた。著者はテイロ・ザラツインといっ て、社会民主党に属する政治家である。生まれは、プロテスタンティズムのドイツのただ中、 テューリ ンゲン自由州〔ドイツ中部の州、州都はエアフルト〕のゲーラである。彼の本はスキャ ンダルとなり、ザラツインはその出版の後にドイツ中央銀行理事のポストからの辞任を余儀な ( 8 ) くされた。この本の原題 e ミ sc ミ 0 ds 0 、 ( s ~ ab は文字どおり、「ドイツが自らを抹殺す る」という意味だ。こうなると、われわれは認めなければならない。二〇一四年に『フランス の自殺』を出した我らがエリック・セムールなどは、重心がフランスよりももっと東、もっと 北にあるイデオロギー的推移のささやかなエピゴーネンにすぎないのである。同様に『シャル ・エブド』も、この諷刺新聞がムハンマドを徹底してからかい始めたときには、デンマーク 164
施していた反イスラム・デモはひと頃の勢いを失ったようだが、いずれにせよ、この運動体の 本拠地ドレスデンは、これまたプロテスタンティズムの地域である。 先鋭なイスラム恐怖症がどんなものであるかをさらに見ておくなら、ドイツには、「ペギー ダ」の不気味な夜の集会よりもすっと興味深い事例がある。法務エリートた ちと一般の人びとに共通する無意識がそれである。これが示すのは、イスラム恐怖症にとって、 反ユダヤ主義と一致するのがどれほど容易なことかという点だ。 二〇一〇年の終わり頃、四歳のチュニジア人少年がケルン市内の医院で割礼を受けた後、出 血して病院に運び込まれて治療を受けるということがあった。検事が、執刀した医師ーーシリ ア人ーーを「加重情状付き身体毀損」のかどで起訴した。一審の区裁判所は公訴棄却とした。 だが、検事は粘り強い人物で、ケルン地方裁判所に控訴した。地裁は医師を放免したが、しか し二〇一二年五月七日の判決で、割礼について、体を「取り返しのつかないかたちで永続的 に」変形させる以上、刑事罰の対象となる傷害罪であるとする司法判断を下した。割礼はユダ ヤ教およびイスラム教の伝統で、かなり広範にアメリカ的なものともいえる ( 米国人男性のお よそ半数は割礼を施されている ) が、それがドイツの裁判所によって、不可逆的な身体毀損と 定められた。なせなら、「身体的インテグリティ〔身体を完全な形に保全すること〕への子供の 権利は親の権利より優先されなけれはならない」 : : : というのだった。 この司法判断は、ドイツで滑稽なほど大まじめな議論を引き起こした。その果てに、い 166
リ盆地のカトリシズムは、それがまだ生き生きとしていた時には、たとえば一 , ハ世紀ないし一 七世紀には、荒々しい様式で平等主義かっ普遍主義だった。プロテスタントは、フランスでは、 ( 3 ) 一七九三年のヴァンデ地方人やイギリス人に先立って、中央部のシステムに巣くう還元主義的 〔多様な具象をややもすれば性急に抽象的普遍へと還元する傾向の意図〕な情熱の対象となった。 フランスのプロテスタンティズムは直系家族型だった南部の周縁的地域に特によく定着してい たのだが、長い闘いの果て、カトリシズムによって実際上、撲滅されてしまった。そのカトリ シズムは当時、主要な基盤をパリ盆地に有し、形而上学的な自由と平等の理想によってフラン ス革命を予示していた。カルヴァン派の運命予定説のほうは南フランス・オック地方の直系 家族を惹きつけた。この直系家族は長男を相続人に指名することに慣れ親しんでいて、自由も 平等も信じていなかった。 フランス中央部の普一義、で、一 思心 ( フランス命で減速されたのち、第三 共和制〔一八七〇 5 一九四 の下で最終的に穏健化した。第三共和制は、印由と平等い薗 則への忠実さを堅持しつつ、それ。もついには世界の多様性をーーーます第一にフランス国内の 多様性をーーー寛容に受け人れるに到った。カトリックの共同体も各地方で受け人れられた。 ことではない。そ いすれにせよ、普遍主義者であることは、「フレンドリーで感じがいいー れは、どんな場所にいても、どんな時代にあっても自らに同一である , オ普遍的人間「ーー我 ら、我 ! の「ア・プリオリ」とともに機能することなのだー もし世界の現実がこの精神
諷刺新聞『シャルリ・エブド』への自己同一化のほうは、デモの動機づけの中に何らかの拒否 感が強く存在していたことを明らかにする。再建すべきとされた共和国は、その価値観の中心 に冒漬への権利を据え、当面ただちに適用すべき対象として、社会的に不利な立場に置かれて いる集団に支持されている少数派の穴を , する人物を冒漬する義務を想定していた。大量 失業時代であり、マグレプ出身の若者たちが就職の際に差別されているという社会的現実があ り、フランス社会の頂点に陣取ってテレビ討論に出たり、アカデミー・フランセーズに人った りするイデオローグたちによってイスラム教が毎度毎度悪魔のように語られているという現況 を念頭に置けば、一月一一日のデモ行進に隠された暴力はいくら強調してもし過ぎではあるま 、 0 数百万のフランス人が大急ぎで街に出て、自分たちの社会に優先的に必要なこととして、弱 者たちの宗教に唾を吐きかける権利を明確化しようとした。彼らはその折に、本人たちの主張 にもかかわらす、フランス史の中心軸から逸脱した。かのヴォルテールの名が、しはしばシャ リルリによって、ドクトリン上のリファレンスとして挙けられた。その点は、七八九年の革命 ャ家たちが、あるいは一九〇五年の政教分離賛成派の面々が、正しくもそうしたのと同じだ。し ひもと かし、『哲学辞典』を改めて繙いてみたまえ。そこに見出されるのは何よりもまず、著者の父 章 祖の宗教であるカトリシズムと、カトリシズムの唯一の源泉であるユダヤ教に対する見な・がら 第 らかいだ。同『哲学辞典』は、イスラム教やプロテスタンティズムにはほとんど関知していな