、ド多 : ぎみ 3 第耳 ラスト・プロムスでの盛り上がりの様子 コンサートの第ニ部では、聴衆は、音楽を聴くというのではなく、 音楽を見て、聴いて、感じて一緒に楽しむことに専念している。 機的につまり機能的に配置されているこ とがあるが、最大の特徴は、ラズダンの 設計理念のひとつである、建築が都市の 景観を構成するランドスケープ・ア 1 キ テクチャ ( 景観としての建築 ) としての 役割を有することにある。テムズ川に向 かって雛壇状に広がる建築は、チャ 1 ル ズ皇太子が一一一口うように、見ようによって は発電所なのかもしれないが、テムズ川 の対岸エンバンクメントから眺めると、 荒々しいコンクリ 1 トの造形が、雛壇の 上にある連続した建築群として、見事に 都市景観を構成していることかよくわか このランドスケープとい、 2 言葉自体は、 一八世紀のイギリスの庭園作法において つくられた概念であり、当時の庭園をラ ンドスケ 1 プ・ガ 1 デン風景庭園と称 している。ラズダンはこのランドスケ 1 プという概念を一一〇世紀の建築・都市設 計に応用したのである。ロンドンではな いか、イングランド南東部のノーリッジ眼 にあるイ 1 スト・アングリア大学 Uni- vercity 0f East Anglia ( 一九六一一ー六八 ) 章 のキャンパスもラズダンが手がけており、第 連続した校舎群の存在は、ピクチャレス クの手法を存分に使ったランドスケ 1 1 13
ロイヤルトフェスティ / ヾル・ホール ( 上 ) 正面フェスティバル・テラス。 2007 年 6 月に大改修が終わり、テムズ側正面はカフ ェ・テラスとなった。 ( 下 ) ホワイエ。ゆった りとしたホワイエ空間において音楽と飲食、 演劇がつながっている。
サ 1 トが開かれるようになっている。そ見える。演奏会が始まる直前にあわてて こから一段下がった部分、ここはほば舞ホ 1 ルに入り、終わるとそそくさと帰っ ケ 台の下あたりになるのだが、現代ア 1 テてしまうのが当たり前の日本人を見ると、 チ イストらによる写真展や絵画展などが開なんでそんなに人生急ぐの ? というイ サ かれる、広いギャラリ 1 用の空間となっギリス人の声が私には聞こえてきそうで ン コ ていて、現代演劇が行われることもある。ある。 外 野 る また地下一階は、音楽関連の本が充実し このロイヤル・フェスティバル・ホ 1 れ 畆るた書店「フォイルズ、と入口部分に世界ルからテムズ川の遊歩道を歩いて五分く 楽中の不思議な楽器を触って遊べるスペ 1 らいのところに、かって、チャールズ皇 、 . 朝 : 週が クスとなっている。つまり、ここでも音楽太子から発電所と揶揄されたコンクリ 1 のク と芸術、音楽と出版がつながっている。 トの圧倒的な量感をもっナショナル・シ 夏ピ この部分は最近増築された部分である アタ 1 National Theater ( 一九六七ー七 日本のコンサ 1 ト・ホ 1 ルにおいては、六 ) がある。この建物を設計したのは、 ピをまるでオ 1 ディオ・マニアのように残響デニス・ラズダン DenysLasdun ( 一九 の奏 で演 ス 二秒とか、なにかと音響重視になりすぎ一四ー二〇〇一 ) で、日本でいうと丹下健 ヒて、このような充実したホワイエ空間を三のようなイギリスの近代建築の巨匠で ドで 目にすることはまれであり、唯一、前ー ある。ちょうど世代的にも丹下と同じで、 ッろ ス叱國男設計による東京文化会館 ( 一九六一 ) 第一一次世界大戦前にスク 1 ルでモダ のホワイエ空間くらいしか思い浮かばなニズム建築の洗礼を受け、ル・コルビュ これも前述したように、前川が東京ジェからの強い影響を受けた。この は、一一階には本格的な料理を出すレスト にロイヤル・フェスティバル・ホールをスク 1 ルに関しては後述するが、ロンド ラン、三階は幕間の休憩時間にテムズ川実現するという想いをもったからに相違ンの建築、イギリスの建築、そして世界 を眺めるためのテラス、そして各階ホワないだろう。 の現代建築を考える上で、ひじように重 イエの両側にはカフェ・スタンドとい、つ コンサ 1 トに来ているイギリス人を見要な役割を果たしたことだけはここで述 具合に、飲食と音楽空間をつなげている。ていると、本来の目的である音楽鑑賞よべておく さらに、一階にあるパプの前の空間は、 り、それに付随する出来事のほうが重要ラズダンによるナショナル・シアタ 1 開演前に若手の音楽家によるミニ・コンであり、かっそれを楽しんでいるようにの特徴は、大中小の三つの演劇空間が有 7 1 12
このよ、つな、ロンドンを地域に分割し、 が貧民と分類された。プースは、貧困を = 「定義するのにからⅡまでのクラスを設ゾーンニングを行い、地域的特色を高め 定している。からのクラスは、不定ていく都市計画の手法は、前述した =c-•) 期労働者 ( 定職につかない人 ) で週二一 0 ロンドン・プランに影響を与えていく。 シリング以下の収入しかなく、とは同心円という視線は、第二次大戦後のグ リ 1 ンベルト (GreenbeIt) やとい 労働者階級であるが、給料がよく定職に ついており、とⅡは中産階級以上を構う外環状道路の建設につながっていく。 成していた。プ 1 スは、ロンドンの市民ところでヨ 1 ロッパ、特にフランスに の三〇パ 1 セント以上が貧困の状態で生目を向けると、一九世紀の初めに思想家 活しているとし、その理由を市民本人のオ 1 ギュスト・コント Auguste Comte 責任だけではなく、それ以外の社会の構の実証主義思想によって、社会学の基礎 造的問題が存在していることにあると指がつくられている。イギリスでもコント の思想に影響を受けた、ハ 1 バ 1 トス 摘している すなわち、余剰労働力を必要とする不ペンサー Herbet Spencer やパトリッ 安定な季節労働市場の労働者、パートタク・ゲデス Patorick Geddes ( 一八五四 ー一九三一 l) がイギリスにおける社会学 イムというよ、つな不完全就業の労働力、 面画た ←創そして多くの労働者階級の家族が、子育を提唱していく。さらに、ゲデスに影響 / ケにく使て期と老齢期間に貧困を経験してしま、つを受けた建築家の 0 ・・アシュビ 1 ス査なが アト画調で真 え彩け写ライフサイクルが存在する。プースは各 C. R. Ashbee ( 一八六三ー一九四一 l) は、 「水こだと ロンドンの古い建物が壊されるのを防ぐ 地域をクラス分けし、その貧困の度合い ためにそれらの調査を始める。それは、 によって七つの色分けを行った。これに れている 眼 一六世紀のストウに初まった都市の叙述 この貧困地図は、一三四の地域におけよって、一目で貧困の分布を理解するこ る一八八九年から九〇年にかけておよそとができ、テムズ川から遠ざかるほど貧を、調査・分析・提案というプロセスを俯 三万人の住民を対象とした貧困度を示し困度が薄れていく傾向を指摘する。つま意識して、テキストと地図そしてダイア章 ている。ホワイトチャベル Whitechapel り口ンドンの中心部が最も貧困度が高く、グラムによって置き換え、記録をしてい第 やテムズ川南岸のサザ 1 ク Southwark 同心円状に貧困が薄れていくという、貧く方法であった。それは俯瞰する眼と地 などの地域は、世帯数の四〇パーセント困と人口密度の明白な関連性を見出した。を這う眼が共存する都市の叙述である 1
ゆっくりと流れるテムズ川南岸に沿った リス人は新しいものが嫌いだということ 一〇キロにおよぶ建築群は、ロンドンのを意味しているわけではないことに注意 建築と文化をつなげようとする理念に支したい。また、建築史を冷静に見つめな スタ えられているのである おすと、イギリスにはイギリス特有の様 式をもっ建築はないことがわかる。ある のは、フランスから影響を受けたゴシッ 建築と時間の連鎖 ク様式、イタリアからのルネサンス様式 とパラディオ様式、ギリシャ様式の復活 イギリス人は古いものが好きだといわである新古典様式、ゴシック様式と中世 れている。かといってこのことは、イギ社会の復活であるゴシック・リバイバル とア 1 ツ・アンド・クラフッ運動。いす れもいわば二番煎じなのである これは単純にイギリスの建築にはオリ ジナルの要素がないのではないかといえ ばそうではなく、一一番煎じあるいはリバ イバルという手法にこそイギリスのオリ ジナルが含まれているといえる。さらに は、オリジナルという前提こそ疑ってか かるべきものではないのかという批判的 姿勢こそ、イギリス人のイギリス人たる ゆえん 所以であるともいえる。こんなところの 精神構造は、笑う自らを笑うという、な齦 モんとも不思議なユーモアの精神に相通すプ るものがある。 テ イギリス人の古いもの好きを示すこと第 プサとしてよく話題になるのは、中古住宅の グ評価がある。年数が経てば経つほど価値 イル 115
するイギリス社会の特徴を解読する最大る。音楽、演劇のシーズンである一〇月築家、ロバ 1 ト・マシュ 1 、レズリ 1 ・ のキ 1 ワ 1 ドなのである。 から六月まではもちろんのこと、オフシ マ 1 ティン、ピ 1 タ 1 ・モロ Peter 1 ズンの七月から九月までは、別のかた Moro ( 一九一一ー九八 ) の設計によって ちでさらに楽しむことができる。たとえ建てられたことは前述した。当時最新の ば、前述した有名なプロムナ 1 ド・コン音響技術が使われたこのホ 1 ルは、戦後、 サ 1 ト ( 通称プロムス ) は、円形をした世界中でコンサ 1 トホ 1 ルが建設計画さ ロイヤル・アルバ ート・ホールでおよそれるなか、その見本として参照された。 二カ月にわたって開かれる。特に九月第たとえば、横浜にある建築家・前川國男 イギリスには、イタリアやフランス、 二週の最終日、ラストプロムスはお祭り による神奈川県立音楽堂・図書館は、そ グレート・ あるいはドイツに数多く見られる大騒ぎで、老若男女、ことによったら外国のコンペ ( 設計競技 ) の際の設計主旨に、 アーティスト 芸術家はいないとよくいわれる。確か人までもが、ユニオンジャックを振りなロイヤル・フェスティバル・ホ 1 ルを参 にそうで、ルネサンスの芸術家、印象派がらイギリス国歌や「威風堂々」を大声照にするということが書かれていた。 の画家、ロマン派の作曲家など、それらで歌っており、普段比較的おとなしいイ このロイヤル・フェスティバル・ホ 1 の国と比べるとお寒い状況だ。唯一イギギリス人であることを考えると、あの円ルこそ、つなぐレンズによってつくられ リス人のなかで人気ナンバ ・ワン有名形空間での彼らの騒ぎようは尋常ではなた典型的な建築空間だと考えることがで 人のシェイクスピアにしても、一九世紀 い。また、八月の週末、ハムステッド・ きる。一一〇〇五年から始まった改修工事 にドイツ人によって発見されるまで、普ヒ 1 スの野外劇場ではピクニック気分では二〇〇七年に終了し、新しいフェステ 通のイギリス人は彼の名前さえ知らなか芝生の上に寝転がり、音楽会と花火が同イバル・ホ 1 ルが誕生した。ホ 1 ル本体 ったのである。ともあれ、芸術史を見る時に楽しめるのである は、すぐ横にある鉄道橋の騒音を完全に ならば、イギリスでは芸術系は弱いとい また、筆者が留学期間中一〇〇回以上遮断するために、コンクリ 1 トで囲まれ う定説ができてしまったことがわかる は通ったであろう、テムズ川の南岸サウた四角いポックスが軽央に宙に浮かんで しかし、芸術を楽しむ、あるいは芸術スパンク地区にあるロイヤル・フェステいるように構成されている。ホ 1 ルの座 を消費するとい、つことでいえば、イギリ イバル・ホ 1 ルは、そもそも一九五一年席の傾斜がわかる形状の床スラブの下の スはそれらの国に引けをとらないばかり いわゆるホワイエ空間には、イギリスら に開かれた博覧会である英国祭において か、ダントツの一位だとさえいえる。ほ唯一仮設ではない恒久的な建築として、 しくパプが一つとカフェが二つ、チケッ トを買うためのボックスオフィスがある ば年を通して、音楽、演劇、美術をロ当時 (London County Council= ンドンの至るところで楽しむことができロンドン市議会 ) の設計部に所属する建ホ 1 ルのテムズ川側にある各階ホワイエ 建築と芸術の連鎖 110
ーホマード ド , ポーボアー を一汐ウン イズ 1 ント オン運河リージ = ント運河 ' ーハガーストン ントン ) い インズベリ ・フべリー・ - ヘルス・センタ ークラーケンウ ダルストン キングズラント キヤノンべリー ロンドン・ フィールズ ウェル当トリートコモン サウス・ノック一ビクトリア・パーク ル一 ホッストン キーリングハウスーー・ イベスナル・グリーン ベスナル・グリーン博物館 ミース・ガー ショアディッチ ・バ、ヒルをフー丿 以ピタルフィールズ リバブール・ストリート駅 . ホワイトチャベル ガーキノ赤ワイトチャベル バービカン・センター ミスフィールド・ / カンス第 。セントラルマーケット ロンドン博物館 証券取一所 ギルドホル ランド銀行 ー . ′王立取引所 ント・ポール大聖堂 / テロイズ カレ ミレニアム橋 ブラック ライアース轎 グロープ座サザーク大聖堂 ショナルンアター 、イワード・ギャラリ は一タレー駅 プイ + ン・ ' リザベ ・ホール ヤノい アェステヾル・ ステップニ タワー・バムレツツ ~ ースト・手ンド ・タワー・ブリッジ ロノドン・シティ・ホール テザインを ミュージアム ロサーハイズ・ トンネル ロサーハイス・ 工コロジカル / ヾーク 、ワッピング テムズ川 ロザーハイズ ・グリーンランド・ドック サッーク・ / ←ク ーユインン デトフォ + ド , パーク ォルワース ハージ土ス・ハツ サザーク ケニントン・バーク ントン リュイシャム 000m
ャラリ 1 より少し高いチケット代だがこ 大な収益金で、ヴィクトリア女王の夫君楕円形をしており、その上にクリスタル・ ハレスで使用して技術的な裏づけがとれれはオ 1 ケストラの目の前で音楽を聴く 1 ト公が、このサウス・ケンジン アルバ ことができる。また一階席、一階席、三 トン south Kensington 地区に土地をた鉄とガラスを使ったド 1 ムが乗ってい 1 トる。周囲を取り巻く外壁には、芸術と科階席には個室もあり、周囲を取り囲んで 購入したことから始まった。アルバ いることから、ヨ 1 ロッパによくあるオ 公の意図は、この地区に博物館、学校、学をテ 1 マとする装飾が施されていて、 ペラ・ハウスの雰囲気を醸し出している 大ホ 1 ルなどを建設して、文化・教育の一九世紀折衷主義建築の様相を呈してい も、つひとつの円形空間は、全面テント る。収容人数は八〇〇〇人というから、 中心にすることであった。 が張られた巨大なもので、二〇〇〇年の 1 ト公が没した後東京でいえば九段下の武道館を一回り小 一八六一年にアルバ ミレニアムを記念して、テムズ川の東岸、 は、ヴィクトリア女王がその遺志を引きさくしたスケールだ。 ちょうど筆者が留学中、一九四一年か大きくテムズが蛇行するグリニッジ 継ぎ、一八七一年にロイヤル・アルバ 1 1 ト公のらこの場所で毎夏開かれているプロムナ Greenwich 地区につくられたミレニア ト・ホ 1 ルは完成した。アルバ ード・コンサート Promenade Concert ム・ド 1 ム MiIIennium Dome である 思いである芸術と科学の表現の場という ことから、最初はその名もずばり「芸術 ( 始まりは一八九五年 ) の一〇〇周年にあ一九九七年に誕生したプレア政権の労働 と科学の殿堂。 (HallofArtandScience) たり、最終日であるラスト・プロムス党は、祝千年紀のイベントとして、保守 と名づけられる予定だったが、今の名前 Last proms を含めて何度となく足を運党の提案した企画を推し進めた。これに んだ。毎回、ギャラリ 1 に落ち着いた。建物の設計に関しては、 gallery と呼ばは二つの理由があると推察する。ひとっ ドレスデン・オペラ・ハウスの設計で有れる四階のいわゆる天井桟敷席の立ち見は、労働党は自分たちが戦後第一党とし 名な劇場設計の権威、ドイツ人建築家ゴ席 ( ちょっと下がれば寝転んで聴くこともて返り咲いた象徴である、一九五一年の Gottfried Sem- できる ) の券を購入し、コンサ 1 トを聴フェスティバル・オプ・プリテン Festi ・ ットフリ 1 ト・ゼンパ per ( 一八〇三ー七九 ) をはじめ七人の建いた。実は音響的には、料金が高い席で val 0f Britain ( 英国祭 ) と、このミレニ 築家による案が提案されたのだが、結局も円形という形態的特性から音が部分的アムのイベントを重ねていたことである 当時飛ぶ鳥を落とす勢いで多くの建築物に集中したりして良くはないのだが、は英国祭においても当時のモダニスト建築 を設計していたイギリス人建築家、ジョれやかさという心理的効果のために、音家によって博覧会施設が設計され、戦後、潜 ジ・ギルヾ ノ 1 ト・スコット George 響的効果を凌ぐほど素晴らしい空間とな戦勝国とはいえ疲弊したイギリスに活気章 Gilbert scott ( 一八一一ー七八 ) の案が採っている。一方、アリ 1 ナ arena と呼を取り戻そうという気運が存在した。そ第 ばれる一階の土間席も座席がなく立ち見して現在のサウスパンク地区にあるロイ 用された。 ( すいていれば座ることができる ) で、ギャル・フェスティバル・ホールがその中 ホ 1 ルの形態は正確な円形ではなく、 103
当止は 雇にロユ印印ユ 0 堺 で て ロ ズ ド 状 が建 市 築 全 、、と 交 す 究ー 通 と ク ' ス 前 を カゞ 重提 っ 爆 - マ に乏 に セント・ポール大聖堂 し影 リ 発 お 南側側面の外観。中央の い響ュ表 0 ナ ドーム部分のデザイン る も を 1 す は、バチカンのデザイン の受チ 人 る が参考にされた。外観、 の 0 ナ ロ ン 内部空間ともロンドンで 最大規模である。 度か も れ や な の は で 交 り ロ あニ 通 ま シ 量 ア ′つ オこ な め の ど 0 に ロ 実 よ市 の る計 ン 現 析 ド性提画 を は案家 ン 0 最か行 っ も ら ・つ づ過 な て o く 激 し、 し、 な がる 九案 ど でお 四 あそれ ら く っ た く ら 、だ 者ドい 市 L ろ市本 議 C つ計気 旧王立海軍病院 会 C 画だ ロンドン東部グリニッジにあ ク ) るレンによる建築。テムズ川 カゞ を通りドックランドへの軸線 史カ がパースペクティブを使って 上わ 強調されている。 叫リンゞー れ川嚇第リいド 。軈艀 - 第瞽イ聞 ケンシントン・バレス 18 世紀以降、国王や王族が 住む王宮として使われた。レ ン他彫刻家や画家によって改 修されてきた。すぐ近くに日 本を含め各国大使館の大使公 邸がある。⑩ Visit Britain) 、朝 : ⅱい日Ⅱい : いⅡ 第 1 章俯瞰する眼
ん、し、はい・ RVEiGH OF I'HE 引 R 量 .TS iÄ、 ES AND CHVRCHES CONTAINED 、 VTI'HIN THE 】ⅣⅨ OF 1 E OFLONDON 日に、•r ー、し江 5. BY . 」黛 , 、 ・ 1 を、 N ー、 G ミ第 1 ロ 1 生 M 、【 ARR 第江、 & 、 T 、 51 スー [ 「 [ 田口 ( 4 第の 3 日 OR 丁 0 凡 4 、工物 0 “・人・を BY.THEORDER 0 ー T こ [ ORD ーー 20 ス LD - し、 A 、 D ( ℃、い一 0 、、、こしし 0 ー一 [ 32 動ロ 1 工 ( ro P00 0 ! 3 は p ア ( ー e - ーめ日′ 0 し ! は′ 0 ー 0. ー′ⅱにⅱ m “宀”上土 ニ↓を二盞 : 積 3 ド ~ 宿いを二、啼第第ぃ 1 ) 1 新 リークとレイバーンによって 作成されたロンドン大火後の 炎上の様子と焼失部分を示す 地図 ( 1666 年 ) よく見るとロンドン橋の 3 分 の 1 までが焼け落ちているの がわかるが、テムズ川が防波 堤となり南岸には拡がらなか った。 ノ、′′ウ′る響 4 ヤ第産、ソ第れノ′′ 0 ′の′和 : 4 ア影をノ、上′′諸、つ : 第 0 ・′こ′諸′ 0 ・冖第′イプ′ 0. 、 :. ■を ーつ金言但躙盟龍ー ! ! 1 、 ~ - ー“ー ~ レンによるロンドン再建計画 ・、 - 洋 -p ノ . イケ分 0 な (. ~ 案 ( 16 年 ) ランスのバロック的都市計画 , となっている。もし実現して 当厩ー = 舞蟲ニ ,. 籌第 : ~ 当 = 。、たら今の。ンドンはどのよ ー第翕三三 ~ = 宀 = = 2 = 褫豸た : 身・・ニ ~ う。 = な。て。、た。 " 。想像す ると楽しい。 第 1 章俯瞰する眼 17