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検索対象: 図説ロンドン都市と建築の歴史
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1. 図説ロンドン都市と建築の歴史

、 1 、ま ド・い . 4 " - な、いえ珸第り 夛、 ション・ノルダンによるロンドンの地図 ロンドン・シティ地区 ( 上 ) とウェストミンスター地区 ( 下 ) を描いたもの。現在の行政の中心地区 ウェストミンスターは、ロンドンの中心から離れた村であったことがわかる。 L 0 N D 0 N え 0 を 0 ー 0 9 ) や を 3 い朝・ : 亠 i WESTMTNSTER. タ全タや会 第 1 章俯瞰する眼

2. 図説ロンドン都市と建築の歴史

の地図をつくろうとした経緯に由来する。はないか。だからこそフィリスは、ロン いくら東京版『』のような 彼女が友人のパ 1 ティ 1 に行こうとしてドンのすべての通りを歩き、名前を確認地図があったとしてもひじように難しい ことなのだ。 迷ったときに見ていたのは俯瞰する眼、し地図をつくっていった。 いわば神の視線のみでつくられた地図で ロンドンの住所表記は、すべて通りの 『ロンドンー』は、人間の視線から あったのだろう。おそらくその地図には、名称となっている。そしてどのようなせ上空から俯瞰する神の視線へと移り、そ 幅の広い通りしか名前が書かれておらず、まい通りでも、すべての通りにその名称してそれをもう一度人間の視線にまで下 肝心の通りの名称がわからなかったのでの書かれた標示板が建物などの壁に貼っげた地図であるからこそ、デフォルメさ てある。通りの形状によってその名前がれ、使いやすい地図となったのである。 れ画たとド道ンポスが か景れ画ンのロ 工院 ロ 1 ド Road 、ストリ 1 ト Street 、アレ 一描風か景ロへ。トウ寺 ュての , 描風。マ部ン イ AIIey' アヴェ一一ユー Avenue 、ウェ シっン頃にのる一一セ宀タい スて くンい口の 都市計画という神の眼 マよド年 イ Wa 、レイン Lane 、ミュ 1 ズ Mews 、 士にン早ドてら図塔大ンれ 道スロ 2 もンれか地ンル 修リたい最口さン路ド一ト描 クローズ Close 、ウォ 1 ク Wa 一 k などに分かれている。ま ロンドン全体の地図ができたのは、い たサ 1 クル Circle 、クレセントわゆるルネサンス期の一五五〇年前後と Crescent 、パーク Park 、プレされる。それまでは土地所有者によって な叫イス P 一 ace など広場系に由来す部分的な地図はつくられていたようだが、 は、るものもある。なかには同じ名全体を対象としたのはそれが最初である。 、 ( を尠称の住所があ 0 たりするが、地むろん、それまでにも町の風景や出来事 域コ 1 ドを示す、などを対象とした絵は描かれていたが、他の によって区別することができる。ョ 1 ロッパ諸国に比べると、専門のサ 1 これと対照的なのが日本におべイヤ 1 がいなかったため、測量された ける住所表記で、京都や札幌を地図の出版は遅れていたとされる 」↓」 ~ 「除き、基本的には地区という面正確な測量に基づく最初の地図は、一 六四一一年と四三年に国会の命令によって 的な領域に名称がついている だから、イギリスをはじめ西洋作製された、ロンドンの郊外とシティの て . から日本に来る外国人にとって、平面図 ()A PLAN of the City and Sub ・ 目的の場所を正確に探しあてる urbs of LONDON as fortified by Order

3. 図説ロンドン都市と建築の歴史

城壁 現在の道路 ビショップス・ゲイト 9 200 年頃建造された市壁 ロンドン・ウォール ′ル ファ 1 ドによる『ロンドン上・下』 ( 鈴街並みにはまっすぐなものはなく、特に 木主税、桃井緑美子訳・集英社・一一〇〇一 ) 「シティ」と呼ばれるところでは、街を を読むとその様子が生き生きと伝わって歩いているとまるで迷路の中を歩いてい ロンドンがローマに支配された様子は、 くる。要は先住民であったケルト人 ( こる感覚に襲われる。ところが、ロンドン フィクションとはいえエドワ 1 ド・ラサれものちにアイルランドやスコットランド博物館を扇形の中心として、二方向に広 に移動 ) が平和に暮らしていたところ、 がる通りに挟まれたバ 1 ビカン地区の様 ロ 1 マ帝国の北ョ 1 ロッパ侵略の拠点と子は、高さ的な凹凸はあるものの、景観 して、船での移動が可能なテムズ川が近としては整った様相を見せる。地図で確 くにある町に白羽の矢が立ったわけであ認すると、この一角だけ北東にずれた矩 る。そしてなんなく侵略を終えたロ 1 マ形であることがわかる。これにロンディ 人はその町をロンディニウム Londin- ニウム時代の地図を重ねると、ロンドン・ ウォ 1 ル London Wall を挿んで、一一世 ium と名づけた。 現在、セント・ポ 1 ル大聖堂の程近く紀初期につくられた矩形をした砦があっ で、ロンディニウム時代のロンドンにあたところとびったり一致するのである。 った市壁の痕跡を見ることができるのは、 ちなみにロンドン・ウォ 1 ルは、市壁 ロンドン博物館 London Museum を端があった場所と一致していることからそ 緒にバ 1 ビカン (Barbican) 地区にかけの名前がついている。この通りは、ロン ての一帯と、タワ 1 ・ヒルと呼ばれるロドン博物館を西の始まりとして、通りの ンドン塔周辺である。都市ロンドンの歴名前としてはビショップス・ゲ 1 ト Bish- 史が展一小されているロンドン博物館は、 ops Gate との交差点で終わっているが、 見地味な近代建築であるが、戦後世代その先、ハウンズディッチ Houndsditch 、 眼 る を代表する建築家パウエル・アンド・モマイノリ 1 ズ M 一 no ュ es と名前を変えて す 続き、ロンドン塔 The Tower of Lon ・切 ャ PoweII and Moya (A.J. P. Powell 九二一ー二〇〇三、 J. H. Moyal 九二〇ー九 don に至る。そこまでの位置が、市壁が章 第 四 ) の設計によって一九七五年に建てらあった場所と一致している。 れたものである ロンディニウム時代、この砦は、ロン もともとロンドンのほとんどの通りやドンを防備するために極めて重要な役割 オールド・ オールダーズ・ゲイト グレシャム・スドートロスペリ ス ニュー・ゲイト 壁と断面 グレイスチャーチ . ン コ第夭 ウォーレ プルック、 4 2 セント・ポール大聖堂ワットリン・ ストリー キヤノン・ストリート ラド・ゲイ 0 →ーーヴ→ 0 ド川・ 0 ー マ レ イ ・イリ、ン グタ 4 世紀に建造された河岸沿いの城壁 ローマ時代のロンドン・ウォールと現在の道路との関係 ロンドン・ウォールが道路と重なっていることがわかる。 3

4. 図説ロンドン都市と建築の歴史

セシル・ブラウンによ って空爆されたシティ 地区を描写した鳥瞰図 ( 1 5 年 ) 日本だったらそんなも のを描く暇があれば最 後まで戦えという声が 聞こえそう。 6 A 5 ー 0 リ N ー T 5 0 F T H E M . A. R . 5 . P し A N 4 , District ( , む砒 ) This 面「 社襯 e は i ま 。・ 13. ) ア覊襯製 介 0 ~ Edmonton 作就可。 King'8 C ′ 0 ? なれ d ~ 磁 , .4 ~ の′ 0 確 k ⅵ ~ 8 3 可 Ca 襯れ T 。れ , . The アと 00 リ 0 れ盟名 の Y ひ′ K3 をの ~ 広朝れ の ( . 16 ). The 朝′ m に直屈側 d ( & ・ 5 ) 朝öm 歳物臥 . ) A ・ 0 0 第を 0 ー 「 The M ARS Plan 」 住居地区の計画 植物の幹が道路となった 構成で増築が可能となっ ている。 記憶から記録へ 都市計画という概念が生まれる前提と して、地図の作製があった。その作業の さらに前提には対象地区をくまなく調査 し、記録するという作業がある。そして 地図作製の延長線上に、ガイド・マップ の作製というおまけがつく。 ロンドン市民の生活や習慣、歴史を書 き留める作業が一六世紀と一九世紀に行 われている。一六世紀末、テュ 1 ダー朝 時代における歴史家ジョン・ストウ John Stow による『ロンドン踏査』 (A Survey of London) と、一九世紀末、ヴ イクトリア朝時代における実業家チャ 1 ルズ・プース CharlesBooth による『ロ 会やシンポジウムが開催されている。こ のあきらめというか余裕を見せるという のも、敵をいらだたせる戦術のひとつで はないかと思ってしまうのであるが、神 の眼とテクノロジーを駆使した空からの ドイツの攻撃に対し、同じ神の眼と地表 における人間の眼による都市計画によっ て、ロンドンは対抗しようとしたのであ

5. 図説ロンドン都市と建築の歴史

このよ、つな、ロンドンを地域に分割し、 が貧民と分類された。プースは、貧困を = 「定義するのにからⅡまでのクラスを設ゾーンニングを行い、地域的特色を高め 定している。からのクラスは、不定ていく都市計画の手法は、前述した =c-•) 期労働者 ( 定職につかない人 ) で週二一 0 ロンドン・プランに影響を与えていく。 シリング以下の収入しかなく、とは同心円という視線は、第二次大戦後のグ リ 1 ンベルト (GreenbeIt) やとい 労働者階級であるが、給料がよく定職に ついており、とⅡは中産階級以上を構う外環状道路の建設につながっていく。 成していた。プ 1 スは、ロンドンの市民ところでヨ 1 ロッパ、特にフランスに の三〇パ 1 セント以上が貧困の状態で生目を向けると、一九世紀の初めに思想家 活しているとし、その理由を市民本人のオ 1 ギュスト・コント Auguste Comte 責任だけではなく、それ以外の社会の構の実証主義思想によって、社会学の基礎 造的問題が存在していることにあると指がつくられている。イギリスでもコント の思想に影響を受けた、ハ 1 バ 1 トス 摘している すなわち、余剰労働力を必要とする不ペンサー Herbet Spencer やパトリッ 安定な季節労働市場の労働者、パートタク・ゲデス Patorick Geddes ( 一八五四 ー一九三一 l) がイギリスにおける社会学 イムというよ、つな不完全就業の労働力、 面画た ←創そして多くの労働者階級の家族が、子育を提唱していく。さらに、ゲデスに影響 / ケにく使て期と老齢期間に貧困を経験してしま、つを受けた建築家の 0 ・・アシュビ 1 ス査なが アト画調で真 え彩け写ライフサイクルが存在する。プースは各 C. R. Ashbee ( 一八六三ー一九四一 l) は、 「水こだと ロンドンの古い建物が壊されるのを防ぐ 地域をクラス分けし、その貧困の度合い ためにそれらの調査を始める。それは、 によって七つの色分けを行った。これに れている 眼 一六世紀のストウに初まった都市の叙述 この貧困地図は、一三四の地域におけよって、一目で貧困の分布を理解するこ る一八八九年から九〇年にかけておよそとができ、テムズ川から遠ざかるほど貧を、調査・分析・提案というプロセスを俯 三万人の住民を対象とした貧困度を示し困度が薄れていく傾向を指摘する。つま意識して、テキストと地図そしてダイア章 ている。ホワイトチャベル Whitechapel り口ンドンの中心部が最も貧困度が高く、グラムによって置き換え、記録をしてい第 やテムズ川南岸のサザ 1 ク Southwark 同心円状に貧困が薄れていくという、貧く方法であった。それは俯瞰する眼と地 などの地域は、世帯数の四〇パーセント困と人口密度の明白な関連性を見出した。を這う眼が共存する都市の叙述である 1

6. 図説ロンドン都市と建築の歴史

ロンドン はじめに ロンドン建築・都市史略年表 主な参考文献・図版引用文献 建築と人間の連鎖 建築と時間の連鎖 建築と芸術の連鎖 第七章つなぐ眼 厳かな空間 円環する場 地下世界 第六章潜入する眼 偉大なるアマチュア 動物園 博物館というコレクション 第五章縮小する眼 都市を生物として見る モダニズム建築の装飾性 神は細部に宿る 第四章拡大する眼 ゴシック・リバイバルという変換 ビクチャレスク 遠近法 第三章離れた眼 組織としてのロンドン 博物誌と百貨店という見世物 壁と断面 第ニ章切断する眼 記憶から記録へ 都市計画という神の眼 庶民のための地図 第一章俯瞰する眼 図説 目次 都市と建築の歴史 あとがき 052 058 005 008 008 012 022 030 031 035 039 043 064 065 069 073 078 078 084 089 094 095 100 105 109 110 114 118 139 140 143

7. 図説ロンドン都市と建築の歴史

・ド 1 ト 3 KEYTOMAPPAGES がら、ロマンチックな世界観をもつだろ幼い頃から家族でヨーロッパ中を旅行八〇〇キロ ) を調査しきる。地図の校正 也こよ一人の製 とデサインは自ら行い、イ ( ー うし、ルネサンス以来の画家を見るまでしたフィリスは、画家になりたかった。 もなく、イタリア人であれば、それを絵父親は地図作製会社を立ち上げたが、経図工を雇っただけで、地図作製を決意し として美しく表現することが可能であろ営的センスがなくあえなく破綻する。そてからわずか一年後の一九三六年に最初 れにもかかわらず、資産があったのか、 の『 <-N 』一万冊を世に出した。当初、 フィリスはソルポンヌに短期留学するな販売は難航したが、そのうちニュ 1 ス・ て 4 意で目。に しはをススス スタンド大手の WH Smith が受け入れ、 ど、お嬢様教育を受けることができた。 マ け応番ジママ 分対 5 一 1 7 か 8 一般市民が手にすることが可能となって ペン分は 卒業後、フィリスは百貨店に勤めるが、 乙数ら一ス ' 部を いく。第二次大戦後の発展については彼 シか 1 ペマ 画家である兄の友人で、同じく画家のリ / 番ら 2 7 ジ細い ペ 4 か。 7 一詳て 、ジるでべにれチャ 1 ド・ピアソ 1 ル Richard pearsall 女の自伝 "From Bedsitter ( 0 House- ン 字り一す部 1 らか ロ 数おペ味全はさ分 と結婚し、八年かけてスペインを旅行し、 hold Name" ( 一九九〇 ) とホームペ 1 ジ リで生活をする。その後、滞在中のヴに詳しいが、ここではいったい『』 ェニスで夫に何も告げないまま別れ ( さとはどのような地図なのか、何が彼女を すがア 1 ティスト ) 、ロンドンに戻ったと地図作製に駆り立てたのかを考えてみる いわれている。そして、一九三五年、二 前述したように『ロンドンー N 』は 測量に基づいた地図としては正確さに欠 九歳で肖像画家としてデビュ 1 する ける。通りの幅が、そこに通りの名称を ある日フィリスは、友人のパ 1 ティ 1 記入するため実際のものより広くなって に行く際、当時最も信頼されていたとい いるのがその理由だが、だからこそこの われる地図を見なから友人宅に行こうと ーテ地図か使いやすいものとなっているとい したが、 迷いに迷ってしまった。パ イ 1 会場でその話をしているときに、彼える。正確であればわかりやすいかとい 眼 る えば、そ、つではない。重要なのは、測量 女はロンドンの完璧な地図を作製するこ す とを決意する。そして、次の日からさっという科学の視点を入れながら、つまり俯 「俯瞰する眼」でロンドンを見ると同時に、章 そく口ンドンの地図作製を始めたのだ。 毎朝五時に起床。眠りにつくまでの一歩いている人間の視線でこれがつくられ第 八時間、二万三〇〇〇あるロンドンの通ていることである このことはフィリスか最初にロンドン りという通り、計三〇〇〇マイル ( 約四 0 2 1 5 1 0 ATFORD BROMLE 8 129 3 15 0 0 0

8. 図説ロンドン都市と建築の歴史

最初のレンズでは、ロンドンを上からとしての地図が誕生することで、ロンドのであることはあまり知られていない 見ていくことにする。ロンドンを俯瞰しンの街を計画的につくり直そうとする発まずはこの話から始める た形で見ようとしたのはいったいいっ頃想が芽生えてくる。都市計画という ' 神そして一六六六年、ロンドンを襲った からなのか。その記録として誕生したのの眼クが誕生するのである。つまり、誰大火に対して建築家らによって策定され が地図なのだが、その地図ができたこと一人口ンドンを上から見たことがないにた初めての都市計画とはどのようなもの で生まれたのが、都市計画という思想なもかかわらず、想像力を測量という科学であったのか。さらに第一一次世界大戦中、 のではないか、という流れがここでの肝に置き換えて、都市ロンドンを計画的にドイツの攻撃を受けながらも、すでに戦 となる。 後の再建の道を模索していたイギリス人 建設しようとしたのである 九世紀までは地図は高価なもので、 の精神構造とは。最後に、ロンドンを記 最初にロンドンの風景が描かれたのは、 ずいぶんと昔のことのようである。それ一般庶民は目にすることさえなかった。憶することから記録することへ変えてい は上からというより斜め上から見た風景一九世紀後半には理想的な住宅地の構想った二人のイギリス人による行動とは何 のイメ 1 ジであり、一見地図のように見のもとに、二〇世紀には第一一次世界大戦だったのかを見ていく。 えるが、実際は建物の側面が描かれてい時の攻撃を受け ( 正確にはそれが壊滅的で あることが予想された段階で ) 、ロンドン るものだ。 一七世紀の初め頃までは、このような全体のヴィジョンが新しくつくられる しかし、ロンドンに住む誰もが、上 ( 神 頭の中でのイメ 1 ジとしてのロンドンの 庶民のための地図 風景描写が中心であった。やがて一七世の眼 ) から見たロンドンを同時に人間の 紀のなかばから数学者やサ 1 べイヤーと眼 ( 視線 ) で確認できるようになったの ロンドンで生活を始めようとするとき、 呼ばれる測量士がロンドンを測量し、正は一九三〇年代になってからで、画家志 確な地図が誕生する。その、いわば科学望のひとりの女性の執念の賜物によるもます最初にやらなければならないのは、 俯瞰する眼 第一章

9. 図説ロンドン都市と建築の歴史

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10. 図説ロンドン都市と建築の歴史

ー第員血み rtp これ t こ 、 00 尸右こ はに of PARLIAMENT in the イ e 1642 and ドンは大火と戦禍を契機に、物理的にも 1643 。 ) である。この地図作製の目的は、精神的にも大きくその都市構造を変えて 一六二五年に即位したチャ 1 ルズ一世と 議会との確執に始まる。この確執がイギ最初の構造変化がこのロンドン大火以 リス全土を巻き込んだ内戦へと発展する後のことだ。よく知られているように最 なか、一度はロンドンから離れた国王が初は対岸の火事よろしくたいしたことが ふたたび自らの権力を取り返さんがためないと思われていたのだが、あれよあれ に戻ってこようとすることに対する議会よというまに四昼夜通して燃え続け、シ 側の防御、つまり市壁作製のためのプラティの五分の四およそ四〇〇工 1 カ 1 ン ( 基本設計図 ) であった。ロンドンを一万三〇〇〇の家屋と八七の教会が灰と 国王の攻撃から防ぐには、まずはロンド なってしまった。しかし、この火事で命 ンのプランを作製するという発想が重要を落とした人は、大火というわりには少 であり、それも今までのようなパノラマなく、二〇人足らずだった。その理由は、 やイメ 1 ジではなく、「俯瞰した眼 ( 神前年大流行したベストによって一〇万人 の眼 ) ーを借りたかたちで現実の姿を映が亡くなっており、そのため多くの人が し出すという建築への意志がはたらいてベストを恐れてシテイから避難していた からだといわれている そして、地図の作製に拍車がかかった大火の記録として、炎上の様子を描写 のは、一六六六年のグレ 1 ト・ファイアした絵が多く残されているが、そのほと といわれるロンドン大火によるものだつんどがのちに描かれた想像画である。再 た。歴史的にみても、そもそもある程度建のためにすぐさま必要なことは、消失 の大きさを有する都市がその骨格を変え地区を正確に把握することにある。当時、 るには、三つの理由が挙げられる。ロン 一六六〇年に設立された王立協会 (Royal ドンや江戸のような大火、リスポンや東 society) のメンバ 1 か、ロンドンの再 一上判然京のような地震、そしてロンドン、ベル建に動き出す。ますサーベイヤ 1 であっ リン、東京のような戦禍によるものであたジョン・リ 1 ク JohnLeeke とウィリ 行のハも夥る。東京はすべてにあてはまるが、ロンアム・レイバ 1 ン William Leybarn '