洋ら , を 0 ーい強を一動 能行 li を こ こ 体ち 全が 物行 ズ目 サジサコ の吹き抜け空間が幽玄に照らし出されてイラが納められているのではないかと思 いる わせるほどだ。このように一目見ただけ なにより驚くのは、注意しないとぶつでも、ソーンという建築家は、コレクタ かりそうになるほど廊下や部屋を占領し 1 がもっているパラノイア的な精神に支 ている、建物の断片や装飾品などの存在配された人物であることがわかる。 だ。ギリシャ建築やロ 1 マ建築に見られところで、この博物館は入場料という るオ 1 ダ 1 部分や女神像や刳り型などのものをとらない 。これは大英博物館もそ 装飾があるのはわかるが、まるでがらく うなのだが、なんともイギリスの太っ腹 たじゃないか、という代物が壁に埋め込加減をみせている。集めてきたものはみもわかるが、私立の施設においても無料章 まれていたりする。極めつけは、地下にんなのものですから、国が費用を負担しというのはまれなケ 1 スとはいえ、イギ第 あるエジプトにあるようなミイラを入れて無料で公開します、ということなので リスにはある る大理石の石棺で、あたかもソーンのミあろう。しかし国立の施設であればそれ つまり、コレクタ 1 が国であれ個人で 盟朋刪弸靄盟 ス 1 ミ 04- をさ ・町「 , 卩ロ卩ロ 回囘コロ . ま回、回。凵山
対象を大きく提える拡大する眼があるての最高の建築家といわれるジョン・ソ遺産からなっている。取られたほうから なら、小さく提える縮小する眼もある ーン John Soane ( 一七五三ー一八三七 ) は、みれば略奪品だが、取ったほうからみれ 実は対象を拡大するとは、自分が小さく自邸を図面や模型、希覯本、建物の断片、ばコレクションなのである。そういった なることであり、反対に縮小するとは自破片などのコレクションで埋め尽くし、縮小する眼でロンドンを見ると、ロンド 分が大きくなることでもある。つまり、博物館として公開している。いったいそンこそイギリスというよりむしろ世界の ミクロ決死隊で体内を巡るのか、ガリバ の意図は何だったのか ? 縮図であるように思える。 1 になり小人の世界に迷い込むのかの違同じく一九世紀にはロンドン動物園が いといえよう。本章では縮小する眼を使誕生し、動物のコレクションはもちろん ってガリバ 1 となり、小さくなった対象のこと、一九三〇年代にはモダニズム建 を集めてみることにする。ここでコレク築のコレクションとしての役割を、動物 博物館というコレクション ション収集について考えてみたい。あ園の獣舎群が果たすこととなった。さら サー・ジョン・ソーンズ る意味コレクションほどイギリス人的特に、日本にも世界の有名建築や世界遺産 博物館 質を示している行動はないのではないだをミニチュア模型として再現したような ろ、つか テ 1 マ ・ハ 1 クかあるか、イギリスには イギリス人ⅱコレクタ 1 とい、つイメ 1 ミニチュア鉄道が実際に走っており、多イギリスで最も有名な建築家とは誰 ? ジは、博物学が誕生する一八世紀くらい くの観光客が訪れている施設もある。まと聞かれたら、かって五〇ポンド紙幣に からできてきたと考えられる。その本質た世界中の子供に人気がある機関車ト 1 登場した、セント・ポ 1 ル大聖堂の設計 は一八世紀の科学者の多くが、専門家とマスは、イギリスの縮図であるソド 1 島者クリストファ 1 ・レンとイングランド いうより大いなる素人 = アマチュアとい での出来事がお話になっている。そして銀行 Bank of England を設計したジョ う側面を有していたことと関係している忘れてはならないのは、大英博物館であン・ソ 1 ン、そして大英博物館の中庭に のだろう。一八世紀から一九世紀にかける。ここは世界中から集めたヘリテジ = 架けられた大屋根グレート・コート 縮小する眼 第五章
マをイ のの 味特 外亠た 館古れ 」 . 術るさ , 、・ま美よ出 ジにみ ツン生 一ら まタソか グレート・コート内観 フォスターの言十によって、失 われた中庭 ( グレート・コート ) が復活し、裏側であった中庭に 面した立面が、表に変身した。 てよ かブ シヾ の済 ン繭経 キなの 一大今 ガ巨昨 館 Sir John Soane ・ s Museum として一 般に公開されている自邸である 外観はなんでもない普通の建物である が、一歩足を中に踏み入れると不思議な 世界が広がっているなんてことをロンド ンではよく経験するが、まさにこの博物 館はその典型的な建築といえる。内部は 全体的に薄暗いが、中庭を通して巧みに 採光がなされており、地下から三階まで
ハイボイント 1 竣工時航空写真 周囲のヴィクトリアン様式の住 宅と比較すると、当時のモダニ ズム建築であるハイボイント 1 の住民に与えた衝撃がよくわか る。 T H E V E R T ー C A L G A R D E N C ー T Y にご詩第心帳ヤよに製心れ宀可 , ト【 004 ” b - 、道 i - いイ、 0 ール 0 、ーい、女、、・「・ 04 小編確・を・編 . ルー 03 一局 ~ いは ' 藤森照信氏は、遠目モダニズム近目様式く見ると「なんだろう ? ーという装飾が 建築といっている。つまり遠くから見るほばすべての建物に施されていることが わかる と全体的な構成は幾何学的でも、近づい てみるとそこには装飾的要素があるとい たとえば、建築は時代が必要とする様 うことである。確かに村野の作品には、式ⅱ実用様式である、と言ったモダニズ 古典主義建築に見られるオ 1 ダ 1 や動物ム建築の父、オット 1 ・ヴァ 1 グナ 1 の顔やらが建物のあちこちに見え隠れし 9t0 Wagner ( 一八四一ー一九一八 ) は、 ていて、見るものを飽きさせない。この自らの主張とは反対に、壁面いつばいに 「なんだろう ? 」という気持ちを起こさ植物のツタのような装飾を這わせた建物 せること、ある種の物語性を想起させるをつくるなど、今見るとどこがモダニズ こと。建築における装飾の意味とは、究ム建築の始まりなのか、先生のおっしゃ イ」な 新極的にはこのような作用を見る人に与える建築とはこれなんですか、という声が 和田けるることにあるのではないだろうかむろ聞こえそ、つで、なんだか裏切られたよう 工垂スし ん「なんだろう ? 」と思うのは現代人ばな気がする。おそらく同じような声を発 ュ評ギ絶 かりで、一九世紀まではそれはこんな理したであろうヴァーグナーの弟子にアド レ なし 1 的と由があるからだと説明できるのが知識人ルフ・ロースという建築家がいる。ウィ ・ト守 。 , 保の証だ 0 た。 1 ンにも口 1 スの作品があるか、何より 次にウィ 1 ンの話。一九世紀末から二 も彼を有名にしたのは、「装飾は罪悪で 〇世紀の初めにかけてのウィ 1 ンは、文ある」という彼の言葉だろう。当時、「建 化的に新旧の芸術や思想が渦巻き、混沌築時評」の人気ライタ 1 でもあったロ 1 とした状態になっていた。むろん建築にスは、まさにヴァ 1 グナ 1 や他の建築家 おいても同様だったが、ただ、今ウィ 1 による装飾的な使用を、現代人は刺青な ンに行ってもそのときの興奮状態はあまどしない、それはホッテントットのやる り伝わらず、当時前衛的だった建物はすことだ、と今なら確実に差別主義者とし つかり街並みに馴染んでいる。ここでもて訴えられるような言動を行っている 先ほどの村野の作品と同じく、モダニズ確かにロ 1 スが建てたウィ 1 ン郊外に ム建築の始まりといわれる建築には、よある住宅は、外観は白いキュ 1 プで装飾 0 0 70
ーは ー第 ( 」 " いしゾ コヴェント・ガーデン ( 右上 ) 内部地下部分。 1 階もギャラリ ーとなって演奏会などパフォーマンス が行われる。 ( 左上 ) 広場内施設外観。 ロンドンで 1 、 2 位を争う観光地。い つも多くの人で賑わっている。近くに ロイヤル・オペラやロンドン交通博物 館などがある。 ( 右下 ) 周囲建物の回廊。 きれいに改修され、カフェやブティッ クなどおしゃれな店が入っている。 ( 左 下 ) セント・ポール教会前の大道芸 この場所で大道芸を行うには厳しい審 こでパフォーマンスがで 査がある。 きれば芸人として一流の証。 / ヾンケティング・ / 、ウス ( 上 ) 外観。外観がルネサンス様式に 見られる 3 層構成となっている。階 層によって窓回りの様式も異なる。 ( 下 ) 内部。 2 階ホール内。シャンデ リアがぶら下がり、ショーンズが作 製した仮面を被って舞踏会が開かれ たことが想像できる。
をおすすめしたい。ポートランド・プレ双方の通りから見ると、いわゆるアイスられており、まさにピクチャレスクの都 イスを南に進んでいくと、突き当たりに トップになる風景が二つ生まれることに市への応用となっている。そもそもこの どっしりとした建物があることに気づく。 なり ( 南から見るとオ 1 ル・ソウルズといピクチャレスクの効果を実感するには、 道幅が広い理由は、鈴木氏の解説を参考うナッシュの設計した建物 ) 、歩いている対象から少し離れること、ショ 1 ウイン にすると、もともと地主であったフォ 1 人の視線をつかむような都市計画のひとドウから離れること、離れてものを視る レイ卿の建物があったが、ナッシュが計 つの手法の代表的な例となっている こと、これが絶対条件となる。 画を進める際に、リ 1 ジェンツ・ さらに南下すると、湾曲した有名なリ への眺望権を主張するなどしてごねた結 1 ジェント・ストリ 1 トの街並みが現れ ゴシック・リバイバル 果、ばかでかい通りになったという。そてくる。ショッピングもいいか、ちょっ という変換 れのみならず通りがクランクしてリージと顔を上げて周りの風景に注目されたい。 エント・ストリ 1 トへとつながった。し建物を通りに沿って湾曲させることで、 かし、このクランクがあることで、南北連続したアイストップ ( シーン ) がつく 離れてものを視る、要はちょっと冷静 工あ を ~ ~ 心門 - カ 、一」るイ 央し く主 で望っ な 物さ ス建広 笠第イのな プ正よ ~ イあで ・道お 、ン広そ 屯・ホュた リーシェント・ストリート ( 上 ) ナッシュによるオール・ソウルズがアイストップになっていることがわか る。そこで左に迂回してポートランド・プレイスにつながっている。 ( 下 ) 大き く湾曲した道に沿って建物が建っているので、スカイラインも湾曲を描く。
ラ・ロトンダ ( 上 ) 外観。平面は完全な正方形。その中央に円形の広間があり、その 上にクーボラが載っている。住むための住宅ではなく見るために建て られた住宅。完全な対称性と整数比による構成は、建築の理想形を象 徴している。 ( 下 ) 内部。宇宙は数学という言葉がわからないと理解で きないというガリレオの思想が、いかに当時建築に反映していたのか。 この内部空間はミクロコスモスを建築という言語を使って表現してい る。 ( 写真提供 : アフロ ) 1 ンズは、イタリアで見た広場を再現し ようと考え、パラツツォ様式で統一され た四階建ての建物とその一階がア 1 チ型 の回廊となった住宅建築をつくり、すべ ての建物から広場が見渡せるように考え ここでも演劇的なしゃれつ気のあるジ ョ 1 ンズの工夫が込められている。つま り建物と広場が、役者と観客のように見 る見られるという関係になっているのだ。 今でも隣のセント・ポ 1 ル教会 ( 一六三 一ー三八 ) の前で大道芸が見られたり、 こ 0 第 3 章離れた眼 49
よ〔みー 第ー町 , 一飜蘿当 りが人間も建物も芝居がかっており、イ ギリスだなと感じる瞬間である そのドローイングのなかに不思議な絵 がある。ソ 1 ンは多くの絵を残している が、実はそれらのほとんどは、彼自身で はなく絵の上手な彼の弟子が描いており、 うな服を着た強面の人が立っていてぎよ この絵もその弟子によって描かれている っとするのだが、実はその人に頼めばニそれは、ロンドンにあるソーンが関わっ ッと笑って、ドロ 1 イングのコレクショた建物や計画案の建築の模型をどこかに ンを見せてくれる。吹抜けに面した壁が集めた様子を描いたものである。なぜ不 ドロ 1 イングの収納棚になっていて、少思議かというと、ひとつは対象が模型で章 しずつ開いていくと何重にもなった壁があること。普通、絵にするならば本物の第 つぎからつぎへと開かれ、最後は吹抜け建築を対象にする。それが模型であるこ が現れる仕組みとなっている。このあたとの不思議さ。もうひとつは、自らの設 博物館ドーム及び朝食室 断面図 1 階部分の明るさと地下 室の暗さは、朝と夜ある いは生と死との対比を表 しているのであろうか。 イングランド銀行完成図 ( 廃墟図 ) M. カンディ作図 ( 1830 年 ) 廃墟が完成図とは驚きである。 300 年後の建物の予想図なの であろうか。時空の往還を建築の本質と捉えている。 こわもて
彡 0 ・言・リッ ・ 40 ・いド COUNTY OF LONDON PLAN DEVELOPMENT AND ZONING 「 County Of London PIan Development and zoning 」 LCC によるもので、カラー印刷され分析がより明解にわかるようになっている。 ロンドンの政治的中心であるストランド からウエストミンスター舅「 estminster に広がるいわゆるウエスト・エンド WestEnd 地区、そしてロンドンの北、東、 南に延びる郊外地区、の三つである。 シティ地区は中世から続く古い建物が 建て込んだ状態だったが、そのなかで建 物の一部を壊して建て替えるというよう な改築が進められ、さらに、ピュ 1 リタ ンによる修道院解散後の敷地には新しい 建物が建てられようとしていた。一六世 紀のシティ地区は、まさに古いものと新 しいものが人にも建物にも混在する状態 であり、大きな変貌を遂げようとしてい たのである ウエスト・エンド地区には、シティ地 区から移ってきた政治を担う役人や法律 家が居住するようになり、これら専門職 に従事するグル 1 プのために街がつくら れる この一一つの地区から少し離れた郊外地 区には、シテイやウエスト・エンドで商す 業を営む富裕な住民に奉仕する多数の職俯 人やその徒弟である職工が住むようにな章 る。一六世紀以降、海外貿易を可能にす第 る船大工や船員が定住したのもこの地域 であった。
シック的 ) に修復しようとする一八六〇指をくわえて黙って見ていればいいのだきた時間と空間を保存するということだ。 年頃から始まった動きに対して、アンタろうか断じてそうではない。誤解しておそらく西欧の建築家は、この思想に準 はならないのは、廃墟趣味に陥ることをじながら、建物が建てられた後に、それ イ・スクレイプ運動なるものを展開し、 を設計した建築家の意図に反して改悪さ ラスキンが推奨しているのではないとい 古建築物保護協会を設立する。 では、私たちは建物が壊れていく姿をうことである。大事なのはその建物が生れたり、自然災害を受けることで失われ た時間と空間を、現代そして 未来の世代のために取り戻す 使命感が、日本人の建築家に 比べると強いのだ。言葉を換 えてい、つなら、ラスキンの思 想は、建築家に対しては、「建 築をつくる際はすぐ壊れない よう誠心誠意命をかけよ」で あり、人々に対しては、「建 築を大切に使え」という呼び かけなのである。ラスキンの 生きた一九世紀ヴィクトリア 朝時代のイギリスは、パクス・ プリタニカという繁栄を手に した反面、このことを忘れか けていた。もうおわかりのよ うに、この呼びかけを忘れな 沈 ) だが地間習 がが当陽業人的 な陽 ( 本太商、学 っ太地はにには物 の生な , = 第、のは宅の へ市住う悚るるれ きす知 流都にし 陸の酌と ( 向で対も く ( る方がにか R 多向きかる ) 陽の ム ) 方でうが太な テ ( むがろ上社の性 XXXXXiXvX 1 17