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検索対象: 図説ロンドン都市と建築の歴史
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1. 図説ロンドン都市と建築の歴史

城壁 現在の道路 ビショップス・ゲイト 9 200 年頃建造された市壁 ロンドン・ウォール ′ル ファ 1 ドによる『ロンドン上・下』 ( 鈴街並みにはまっすぐなものはなく、特に 木主税、桃井緑美子訳・集英社・一一〇〇一 ) 「シティ」と呼ばれるところでは、街を を読むとその様子が生き生きと伝わって歩いているとまるで迷路の中を歩いてい ロンドンがローマに支配された様子は、 くる。要は先住民であったケルト人 ( こる感覚に襲われる。ところが、ロンドン フィクションとはいえエドワ 1 ド・ラサれものちにアイルランドやスコットランド博物館を扇形の中心として、二方向に広 に移動 ) が平和に暮らしていたところ、 がる通りに挟まれたバ 1 ビカン地区の様 ロ 1 マ帝国の北ョ 1 ロッパ侵略の拠点と子は、高さ的な凹凸はあるものの、景観 して、船での移動が可能なテムズ川が近としては整った様相を見せる。地図で確 くにある町に白羽の矢が立ったわけであ認すると、この一角だけ北東にずれた矩 る。そしてなんなく侵略を終えたロ 1 マ形であることがわかる。これにロンディ 人はその町をロンディニウム Londin- ニウム時代の地図を重ねると、ロンドン・ ウォ 1 ル London Wall を挿んで、一一世 ium と名づけた。 現在、セント・ポ 1 ル大聖堂の程近く紀初期につくられた矩形をした砦があっ で、ロンディニウム時代のロンドンにあたところとびったり一致するのである。 った市壁の痕跡を見ることができるのは、 ちなみにロンドン・ウォ 1 ルは、市壁 ロンドン博物館 London Museum を端があった場所と一致していることからそ 緒にバ 1 ビカン (Barbican) 地区にかけの名前がついている。この通りは、ロン ての一帯と、タワ 1 ・ヒルと呼ばれるロドン博物館を西の始まりとして、通りの ンドン塔周辺である。都市ロンドンの歴名前としてはビショップス・ゲ 1 ト Bish- 史が展一小されているロンドン博物館は、 ops Gate との交差点で終わっているが、 見地味な近代建築であるが、戦後世代その先、ハウンズディッチ Houndsditch 、 眼 る を代表する建築家パウエル・アンド・モマイノリ 1 ズ M 一 no ュ es と名前を変えて す 続き、ロンドン塔 The Tower of Lon ・切 ャ PoweII and Moya (A.J. P. Powell 九二一ー二〇〇三、 J. H. Moyal 九二〇ー九 don に至る。そこまでの位置が、市壁が章 第 四 ) の設計によって一九七五年に建てらあった場所と一致している。 れたものである ロンディニウム時代、この砦は、ロン もともとロンドンのほとんどの通りやドンを防備するために極めて重要な役割 オールド・ オールダーズ・ゲイト グレシャム・スドートロスペリ ス ニュー・ゲイト 壁と断面 グレイスチャーチ . ン コ第夭 ウォーレ プルック、 4 2 セント・ポール大聖堂ワットリン・ ストリー キヤノン・ストリート ラド・ゲイ 0 →ーーヴ→ 0 ド川・ 0 ー マ レ イ ・イリ、ン グタ 4 世紀に建造された河岸沿いの城壁 ローマ時代のロンドン・ウォールと現在の道路との関係 ロンドン・ウォールが道路と重なっていることがわかる。 3

2. 図説ロンドン都市と建築の歴史

シック的 ) に修復しようとする一八六〇指をくわえて黙って見ていればいいのだきた時間と空間を保存するということだ。 年頃から始まった動きに対して、アンタろうか断じてそうではない。誤解しておそらく西欧の建築家は、この思想に準 はならないのは、廃墟趣味に陥ることをじながら、建物が建てられた後に、それ イ・スクレイプ運動なるものを展開し、 を設計した建築家の意図に反して改悪さ ラスキンが推奨しているのではないとい 古建築物保護協会を設立する。 では、私たちは建物が壊れていく姿をうことである。大事なのはその建物が生れたり、自然災害を受けることで失われ た時間と空間を、現代そして 未来の世代のために取り戻す 使命感が、日本人の建築家に 比べると強いのだ。言葉を換 えてい、つなら、ラスキンの思 想は、建築家に対しては、「建 築をつくる際はすぐ壊れない よう誠心誠意命をかけよ」で あり、人々に対しては、「建 築を大切に使え」という呼び かけなのである。ラスキンの 生きた一九世紀ヴィクトリア 朝時代のイギリスは、パクス・ プリタニカという繁栄を手に した反面、このことを忘れか けていた。もうおわかりのよ うに、この呼びかけを忘れな 沈 ) だが地間習 がが当陽業人的 な陽 ( 本太商、学 っ太地はにには物 の生な , = 第、のは宅の へ市住う悚るるれ きす知 流都にし 陸の酌と ( 向で対も く ( る方がにか R 多向きかる ) 陽の ム ) 方でうが太な テ ( むがろ上社の性 XXXXXiXvX 1 17

3. 図説ロンドン都市と建築の歴史

おかめ んとも奇妙な造形、ゴシック・リハイハ 灯台下暗し、傍目八目、近視眼的思考物事を立体的に捉えるところや、あるい ものごと ルの建築に触れる。それは一一〇世紀のモ などなど、人間わき目も振らずに物事には歴史的に提えるようなときにも、 熱中していたりすると本質がよく見えなスペクテイプに視る、つまり少し対象物ダニズムが誕生する批判的対象、つまり くなることを表す言葉がある。逆の代表から離れて客観的に視るというように比様式折衷主義という一九世紀最大の建築 潮流であり、かっモダニズムの源泉であ 的なものとして、 パースペクテイプ per ・喩的に使われるようになったのである spective ( 透視図・遠近法 ) という表現本章では、ますイタリア生まれの遠近るという一一重の役割を扣っているという がある。語源的には、画面を透かして ( 通法が、ロンドンの建築と都市をいかにつ意味で重要なのである。人間が歴史を振 くってきたのかを見ることにする。そしり返り、それを叙述したり、保存しよう して ) 視るという意味の言葉であり、ル ネサンス時代の一六世紀にイタリアの建て、その遠近法によるものの見方、さらと本格的に考えだしたのは、考古学が盛 築家・画家によって編み出された図法のには従来の都市づくりとは異なる概念でんになる一九世紀からであり、建築の場 ことをいう。目の前にある風景を、見たある「ピクチャレスク」という、一八世合、ギリシャ、ローマを模範とする新古 ままに自然に描くための画法であり、同紀イギリス生まれのものの見方を取り上典主義といわれる時代に入ってからなの 時代に発展した光学や数学という科学的げる。このピクチャレスクこそ、一一一世だが、なせかイギリスだけが、中世のゴ 思考に密接に結びついているとされる。紀の現代まで脈々と、イギリスに生き続シックを模範とした。この奇妙な行為は、 れ 離 つまり、それまで遠近観もなく各人のイけてきたものの見方や考え方、さらにはラテン文化への愛憎だと提えておこう。 いずれにせよ、ちょっと離れて物事を章 メ 1 ジのままに描かれていた森羅万象、都市計画におけるキ 1 ワ 1 ドであること 視ること。この行為からイギリス建築は第 特に自然の風景や建物など眼に映った画を紹介したい。 始まったといっても過言ではない。 像に網の目をかけて幾何学的分析を施すさらには一八世紀と一一〇世紀の間、 九世紀ヴィクトリア朝時代に花開いたな 極めて人工的な手法である。さらには、 離れた眼 第三章

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とは先に述べた。 eyes can see more than one. とい、つこり解決にむけて協力していく。これはギ セクションにはもうひとっ別の意味もとわざがある。「二つの眼で見ないと物リシャ時代に始まった民主主義政治の根 ある。辞書を引くと小クラス ( グル 1 プ ) 、事は ( 立体的に ) 見えない」という興味幹であるが、ギリシャ時代とは比べよう ( 官庁・警察の ) 課、 ( 団体の ) 派、党、 ( 会深い表現となっている。視覚的意味合 いもなく発展していった近代社会では、こ 議などの ) 部会、同種の楽器部、など、 ということなら、英語の表現のほうが面の集まり方つまり組織のつくり方が重要 な問題となる。 何かを分類し共通点でくくることができ白いが、ここでは日本のことわざにこだ わってみたい。三人というのがミソで、 る集合体を指す。何かを理解するには、 イギリスでは一六世紀、エリザベス朝 まずそれが何かを洗い出し、その類似点二人だと喧嘩をしてしまうのか、人間関時代にすでにクラブといわれた集まりが や相違点を探し、分類する必要がある。係のバランスがとりづらいようだ。何か生まれている。一八世紀には、あのサミ 分かる = 理解するとは、分けることなの社会に問題があったとき、意見をもちょュエル・ジョンソン博士によってその名 である。これも一八世紀の百科全書派が 編み出した知の方法論であることは、つ とに指摘されている セクションと似た意味で、デパ 1 トメ ントとい、 2 言葉もある。もちろん百貨店 を示すデパートメントストアのデパ 1 ト メントも同じ意味。こちらも辞書を引く と、 ( 会社などの機構の ) 部門、部、局、課、 ( 学校の ) 学部、学科、 ( デパ 1 トの ) 売 り場、 ( 知識・活動・責任の ) 分野、領域、 範囲となっている。百貨店とは、切って ばらばらにしたものをもう一度集めて販 売する場所なのだ。ここではスパッと切 ったあとに集める行為、つまり組織につ いて考えてみよう。 三人寄れば文殊の知恵ということわざ か日本に亠のるよ、つに、英玉Ⅲにも Two リュへトキン十 T E C T 0 N の集合写真 ( 上 ) 1935 年に撮影さ れた集合写真。労働者 住宅のコンべで獲った 、 ' 賞金でパリへの建築見 学ツアーに飛行機で出 かけるところ。 ( 下 )T E C T O N の所員の結 婚式。 T 定規でウェデ イング・アーチをつく って祝福する。これも ユーモアなのか。フリ ーメーソンの儀式も想 起させる。 0

5. 図説ロンドン都市と建築の歴史

み方は、本来のそれとは何か違うのではないかと思える。事実、極端ではあるが、 中世ゴシックのいにしえを懐かしむ気持ちから、古建築の保存運動が生まれたの も一九世紀である。このことからも回顧主義的現象が起こったのが肯ける。 ところが二〇世紀になると、これまでの都市の楽しみ方が変する。ようやく 定年を迎え、子供たちも独立し、これからは趣味に生きるぞと張り切る昨今の団 塊世代のように、ロンドンは、成長を緩めながらも娯楽に対して深い味わいを見 せるようになる。一言でいうとモダニズムという眼 ( 視線 ) のパラダイム・シフ トである。正確には、眼自体はそれほど変化していないのだが、かける眼鏡 ( レ ンズ ) の種類が増え、精度が良くなったということだ。たとえるなら、人間年を とると、誰しも突然小さな文字が見えにくくなり、遠近両用の眼鏡をかける必要 が出てくる。その遠近両用眼鏡こそ、モダニズム運動だといえる。モダニズムを 代表する芸術運動である、未来派、表現主義、ヴォ 1 ティシズム、抽象主義、デ・ スティル、構成主義、シュルレアリスムなどなど、今まで見えなかったさまざま な都市の現象が存在することかわかり、わくわくどきどきする都市が目の前に広 がってくるのだ。 今までロンドンに関する本は古今東西を問わず、無数に出版されている。特に シェイクスピアに始まり夏目漱石に至る文学系、ラスキン、モリスに始まりビ 1 トルズに至る芸術系などなど、おそらく参考文献を挙げるだけでも本が一冊書け るだろう。ところが、日本におけるロンドンに関する建築や都市の本は意外に少 ない。あるとしてもロンドンの名所旧跡観光案内程度のものであるか、一九世紀 のゴシック・リバイバルやア 1 ツ・アンド・クラフッ運動を中心としたものであ り、一八世紀から一一〇世紀に至る本は希少だ。さらに、ロンドンの建築都市空間 の変遷を、先に述べた視覚の変遷として提えたものはいまだ書かれていない。 この本では、主として一八世紀と一一〇世紀のロンドンの建築都市空間をつなげ るために、文字通り、ロンドンを上から見たり、下から見たり、斜めから見たり、 重ねて見たり、はたまた透かして見たりして、ロンドンという都市を立体的 ( 空 間的 ) に眺めることを試みる。むろん、ロ 1 マ時代から一七世紀までと一九世紀

6. 図説ロンドン都市と建築の歴史

させる ところでこのコンべの審査委員長だっ たラッチェンスも、インドのニュ 1 デリ 1 の官庁建物は彼が設計しているという ほどの、当時イギリスを代表するような 大物建築家だが、審査委員長を務めると い、つことは、彼もフリ 1 メ 1 ソンであっ といわれている ンにある・・アシュレイ & ウイント たと考えられる。さらに応募資格にその さらに、第二章の「切断する眼ーで紹ン・ニュ 1 マン H. V. Ashley Winton ような規定があったのかどうか不明であ 介した、世界で初めて百科事典を作製し Newman という建築設計事務所によるるが、当選したアシュレイ & ニュ 1 マン たスコットランド人のイ 1 フレイム・チものだった。時代的にいえばちょ、つどアもおそらくフリ 1 メ 1 ソンだったのでは ェインバ 1 ズも、フリ 1 メ 1 ソンであっ 1 ル・デコ・スタイルが流行した時代にないだろうかニュ 1 マンはその後 た。むしろ一八世紀の啓蒙主義の時代にあたるが、外観はどう見てもア 1 ル・デスクールの母体である建築協会の会長を フリーメ 1 ソンでない科学者や思想家、コに特徴的な水平線や流線型が強調され務めていることから、スク 1 ル自体 建築家を見つけ出すほうが難しいとさえたようなものではない。確かにコーニスにもフリ 1 メ 1 ソンの存在が深く関わっ いえる によって水平的な分割は見られるが、こているのではないかという予想も立てら コヴェント・ガーデンに程近いところれはむしろ基壇を意識した重厚で巨大なれる。スク 1 ルの設立の背景につい に、巨大な石の塊のような建築物がある。墓石のような存在である。当時世界中にては次章で述べるが、その設立意図が昼 フリ 1 メーソンズ・ホ 1 ル Freemesons ・広がったア 1 ル・デコ・スタイルの建築間働く建築製図工という職人のためのも Ha 一一と呼ばれるその建物は、第一次大戦は、一方で近未来のような建築があるかのということからして、フリ 1 メーソン で殉死した三二二五名のフリ 1 メーソンと思えば、このように直線を使いながらの起源を継承していることかわかる。さ のメンバ 1 を記念する建築として一九一一も古めかしさや記念碑的様相を見せる建らにスクールの校章のデザインを見 七年から三三年にかけてつくられた。一 築があるなど面白い。もちろん構造にはると、一一人の職人がコンパスと直角定規 九二五年に国際建築コンべが実施され、鉄骨が使用され、骨組みだけを見れば近のようなものを持っているように、図像 一一〇点に及ぶ応募案のなかから、建築代建築なのだが、その構造体を取り囲む学的にもフリ 1 メーソンで使われたイコ 家エドウイン・ラッチェンスを委員長と石が積み上げられる様子をみると、まさンが垣間見られるのである する審査委員会が採用した案は、ロンド に中世の大聖堂の伽藍の建設現場を想起 AA スクール校章 1851 年 ( 上 ) と 1891 年 デザインは異なるが、中に 記されている言葉 Design with Beauty ・ Build in Truth ( 真実のもと美しく 建てることがデザインであ る ) は現代の AA スクールに も継承される思想である。 108

7. 図説ロンドン都市と建築の歴史

セシル・ブラウンによ って空爆されたシティ 地区を描写した鳥瞰図 ( 1 5 年 ) 日本だったらそんなも のを描く暇があれば最 後まで戦えという声が 聞こえそう。 6 A 5 ー 0 リ N ー T 5 0 F T H E M . A. R . 5 . P し A N 4 , District ( , む砒 ) This 面「 社襯 e は i ま 。・ 13. ) ア覊襯製 介 0 ~ Edmonton 作就可。 King'8 C ′ 0 ? なれ d ~ 磁 , .4 ~ の′ 0 確 k ⅵ ~ 8 3 可 Ca 襯れ T 。れ , . The アと 00 リ 0 れ盟名 の Y ひ′ K3 をの ~ 広朝れ の ( . 16 ). The 朝′ m に直屈側 d ( & ・ 5 ) 朝öm 歳物臥 . ) A ・ 0 0 第を 0 ー 「 The M ARS Plan 」 住居地区の計画 植物の幹が道路となった 構成で増築が可能となっ ている。 記憶から記録へ 都市計画という概念が生まれる前提と して、地図の作製があった。その作業の さらに前提には対象地区をくまなく調査 し、記録するという作業がある。そして 地図作製の延長線上に、ガイド・マップ の作製というおまけがつく。 ロンドン市民の生活や習慣、歴史を書 き留める作業が一六世紀と一九世紀に行 われている。一六世紀末、テュ 1 ダー朝 時代における歴史家ジョン・ストウ John Stow による『ロンドン踏査』 (A Survey of London) と、一九世紀末、ヴ イクトリア朝時代における実業家チャ 1 ルズ・プース CharlesBooth による『ロ 会やシンポジウムが開催されている。こ のあきらめというか余裕を見せるという のも、敵をいらだたせる戦術のひとつで はないかと思ってしまうのであるが、神 の眼とテクノロジーを駆使した空からの ドイツの攻撃に対し、同じ神の眼と地表 における人間の眼による都市計画によっ て、ロンドンは対抗しようとしたのであ

8. 図説ロンドン都市と建築の歴史

2000 1970 1960 1990 1980 2010 0 ー 嚶簒 p A 社・ RO•dS ー 、ミ A ・引 Ro 記ー ゞ Su ト・ A を Ro ・ Pa'kways を日・気リれヨ“ ou 記 Ro 朝“・・・・・・・・ EIeettic Li れ /. ー - M れ凵れ・れ′ m 一 ls 5 んを 5 を川を STEVENAGE 5 佃′ Airpotts Bis ト ops STAPL ド 0R0 HARLOW ) が渡英 ユ旱ッド : ッステムの導 「 A 刈 s 」」の発刊 「 FOCUS 」出版 1 いを 0 れ H ・社 ーヤー WALTHAK4 : 0 5. W ・む拶ドきを [ 0 0 リえ ( ト m 0 を d 5 れ M 59 ↑ー 1 0 CH 幃円 NC ONCA 点 開催 展覧会開に 結成 を引日 0 Ram'ord ル ( を 0 編れ H ・ 0 れ 0 ′ Ro 一致内閣 協議会設 による労働党内閣成立 ー。ーウン法 芸術研究所設立 CIAM 会議初めてイギリズ ( ブリッジウォータヨ・」で開催 村計画法 ドン・オリンツク開催 51 英国祭第 8 回 CIAM 会議ーロンドン ( ホッデスドン ) ーで開催 、 95 j ℃ A で成長と形展開催 1953 スミッソン夫妻らチーム X を結成 。 56 ~ ホワイトチャベル・アート・ギやラリーで This is Tomorrow 展 開催 1957 シビック・トラスト設立 : 1959 ー 79 / ヾー ビカン地区再開発 MtOPHAM To ( ・内一・ , トリ ( ′ oydo れ 00 一 ( ROWH リ R 第 . •twtck 19 年 LCC プラン道路 、網計画 HO [ MW000 モリスからグ ヒ。ウスまで ークな都市」 ンドン・プラ、」 LCC プラン」 ショーシアン ロンドン 理想的ヴィラ 「ヒューマズム時代の建築原理」 1949 1949 レヴィ = ストロース「親族の基本構造 「マニエリスムと近代建 「第機械時代の理論とデサイ」 「サ・ニュー・ブルタリズム」 1977 R. ウィットカウアー ー C. ロウ R. ′ヾン′、ム R. ′、ンハム R. ウェンチューリ 1966 1966 「建築の多性と対立性」 「ホストモダニムの建築言語」 。 1989 チャールス皇太子「英国の未来像 C. ジェンクス 126

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。ー ' 言をニ彎 ~ 毒ご、↓こみ セルリオ建築書」内に述へられた喜劇のための背景 平面上に描かれているが、奥行きがあり、中に入って いける感覚になる。 イニゴー・ショーンスによる舞台デサインのスケッチ もともとジョーンズは、建築家というより演劇に使用する 仮面や舞台のデザインで有名であった。 写ー アルブレヒト・テュー ラーによる透視図法説明図 実は誰にでもできる実験で、 透明ガラスの向こうに映っている風景や建 物をマジックインキでなぞってみるとよ い。自然を数量化する行為のひとつ。 イギリスにもルネサンスはあった。工 リザベス朝の時代で、シェイクスピアが 活躍した一六世紀後半から一七世紀前半 にかけてである。ただ、そのシェイクス ピアが歴史上発見されたのは、一九世紀 のドイツ・ロマン主義の運動によってだ った。建築においても、フィレンツェや ローマなどイタリアの都市に見られるル ネサンス様式の建築を初めてイギリスに 遠近法 ポス・デザルグによる透視図法説明図 透視図を描くには離れて対象を見なければならないことがわかる。

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計による建築の模型を集めていることでにおける碩学、ジョン・サマ 1 ソンるだろうが、その教育的効果ははかり知 あり、さらに驚くべきことには画面の右 John Summerson ( 一九〇四ー九一 I) だつれない。方、大人にとっては、動物園 下をよく見るとソ 1 ン自身が製図台で図た。この図書館は、ソ 1 ン研究だけにとに行くことで幼いときの記憶がよみがえ 面を見ている様子が描かれている。いっとまらす、ルネサンス建築、ピラネ 1 ジったり、動物の行動を人間にあてはめた たいこの絵は何を示すのだろうか模型 Giovanni Battista Piranesi ( 一七二〇ーりして、子供連れでなくても楽しめるの と思いきや実は建築を納めるほどの巨大七八・イタリアの版画家、建築家 ) 、一八ーではないだろうか このような楽しみ方は古今東西、もち 一九世紀のイギリス建築の研究において な建築空間に建築群都市があるのか ろんイギリスにおいても同じである。イ はなくてはならない存在となっている それにしては、ソーンと都市のスケール ギリスで最も有名な動物園は、リ 1 ジェ かおかしいであれば、ソーン自身もミ 1 クの北側部分を占めているロ ニチュアなのかしかし、この絵こそソ ンドン動物園 London Z00 だ。一八 1 ンズ博物館がもつ意味を象徴している 八年に、はじめは会員制として開園。日 のではないだろうかそれは、模型の絵 と同じく、この博物館は彼が集めた古今動物園も一種の博物館、生きた動物を本では江戸時代にあたる。イギリスは、 さすがオランダと並ぶ博物学の本家だけ 東西、建築の断片と空間さらには光がコ対象とした生態博物館といえるだろう。 レクションされた建築であり、ソ 1 ンの日本でも、旭山動物園などが北海道とい 縮小する眼によって紡ぎだされた空間がう地理的な不便さがあるにもかかわらず、 そこに実現していると思われるからであいろいろな工夫を施しながら着実に来園 る。そして、ソ 1 ンが設計した建築には、者数を増やしている。ほとんどの人が幼 ときに動物園に連れて行ってもらった いろいろな時代の建築の断片や様式がアい レンジされ、いわばソ 1 ン・スタイルとり、あるいは自分が親となって、子供を して独自の建築空間が実現されている。動物園に連れて行ったりしていることだ もうひとっ彼のコレクションとして忘ろう。子供にとって動物園は、絵本など れてはならないのは、ルネサンス期からで見た動物たちを間近に見ることができ、 現代に至るまでの膨大な書籍の存在であその鳴き声や獣臭を聞いたり嗅いだりし る。事実この博物館の三階はそれを収めて、実際に動物を肌で感じることができ ている貴重な図書館となっており、長年る場所である。もちろん恐怖心などマイ その館長を務めたのがイギリスの建築史ナスイメージが植えつけられる場合もあ 動物園 A き川汁 ・ 200 も 00 工 0 △ム 60G ー ET ・エ 乙どれな / 。ノクな / な / ノ ロンドン動物園開園当時の入場券 ロンドン動物園という名前ではなく動物学協会となって いる。 / 冫な / / な