噐北に鞏れ龜前龍 AA スクール創設者の一人口バート・カー 創設当時のカーの思想である自律性が現代の AA スク ールにも受け継がれている。 在したが、 その後、三年間の全日制コ 1 スク 1 ルといわれるように運営は協会の ス、そして一九二〇年以降は五年制の建会員によるもので、国からの補助金がな 築学校として現在に至っている。建築学い代わりに、教育プログラムを自由に決 校としてのスタ 1 トが建築協会内の運営める権利を有する。ただし、校長や会長 であったため、学校の母体は建築家が所の経営的手腕しだいでは財政難に陥るこ 属する建築協会という団体であることにとになる 注意しなければならない。国からの補助もうひとつ重要な特長としては、学生 金がある一般の大学とは組織自体が異による自治意識が非常に高いということ なる。そのためインデイベンデント・ だ。一八四七年創立の際、ロバ 1 ト・カ AA スクール ( 上 ) 外観 ( 1930 年代 ) 。最近、同じべッドフォード・スクエアの建物のい くつかを買収して、研究所や校舎として使い始めた。 ( 下 ) 製図室の様子 ( 1930 年代 ) 。学 校というより大きな言十事務所という雰囲気。 120
く、 Conservative Surgery ( 保存的手術 ) ゲデスの都市調査の手法は、一九〇〇年また、ハワードの思想である田園都市 という、発展のプロセス自体を痕跡とし代からゲデスの影響を受けた建築家 o ・ に影響を受けた都市計画家レイモンド・ア て残していく手法などを提案した。 ・アシュビ 1 によって受け継がれ、『ロ ンウイン Raymond Unwin ( 一八六三ー さらにゲデスの発想には、発想や思想ンドン踏査』 (survey ofLondon) として九四〇 ) は、建築家エドウイン・ラッチェ 自体をダイアグラム化して表現すること、ロンドンにおける歴史的建築物の調査報ンス Edwin Latyens ( 一八六九ー一九四 つまり記述法に拠っていることが挙げら告が出版され、現代においても発行が続四 ) を設計に参加させ、ロンドン北西郊 れる。これはその思想なり考え方が普及けられていることは前述した。ゲデスの外にハムステッド・ガ 1 デン・サバ 1 プ していく上ではひじように重要なことで思想と手法をもとにロンドンのチェルシ Hampstead Garden Suburb という居 あり、一九世紀末から一一〇世紀はじめに CheIsea にあるクロスビー・ホ 1 ル住地を建設した。田園都市であるガーデ かけて田園都市という概念を提示したエ Crosby Hall を中心とした街区では、保ン・シティにガーデン・サバープ ( 田園郊外 ) ベネザ 1 ハワード Ebenezer Howard 存・修復・増築・新築というまさに都市という名前をつけたことからわかるよう ( 一八五〇ー一九二八 ) は、ダイアグラムの進化のプロセスを経た開発がなされてに、ロンドンに地下鉄を使って通勤する いる を使って田園都市を説明している 人々のライフ・スタイルに合わせた計画 であった。その地下鉄ノ 1 ザン・ライン チ分 あ純不 N0thern Line か、地上に出てくるゴ 1 ル ヒをケ飾れ ダ 1 ス・グリ 1 ン Golders Green 駅を降 ュ踏ス装さ ゲ築は のる測た ・移在 ト分あ実れ り、一〇分くらい北東に歩くと、そこに スに現 ッシた 且飾物寧はおそらく一一〇世紀において最も自然と ヨルれ 町が調和した理想形の居住地が広がって もって いる。自然と住宅が進化・共生していく とよし融 粉ド もにと プロセスを見ることができるのである トムソンの与えたインパクトは、九 ゲ化る 0 現 8 五〇年代から構造家のアラップを通して、 外機寮れ ルを子さ 何人かの建築家や構造家に広まっていく。 一体女出 ホ解のに ・の学り そして実は都市や建築を生物として捉え 一そ大売 るという影響が最も見て取れるのは、 ス物ドし ロ建ンと クたロ産 九六〇年前後に誕生したメタボリズム / 彎 ( ま日 0 0 ツ ) 0 6 7
[ 蹴な第気い。 記ヨい 響孵朝壟引 トーマス・ボウルズによるコヴェント・ガーテンの絵図 ( 1751 年 ) イタリアの都市に見られるような広場をパラツツォ様式の 4 階建ての 建物が囲んでいる様子がわかる。 ション・コレットによるコヴェント・ガーテンの絵図 ( 1 行 0-80 年頃 ) 市場といっても中世からの原始的なやりとりが行われていることがわ かる。市場自体はロンドン郊外に移転された。 第 3 章離れた眼
1 ルーす ショッピング・ア 1 ケ 1 ド内の地下で演いながら堂々と模倣を行ったのである。世紀から始まった庭園設計における手法 奏会が行われていたりして、そこには演このことは一八世紀のはじめくらいまでのひとつを指す言葉である。 劇的空間は見て取れるのだが、もともと続く。一七三〇年あたりから、イギリス前述したように一七世紀までは、イタ リア、フランスの模倣が主流を占め、そ は広場全体が劇場空間だったのである の国自体がイタリア、フランスなどョ 1 ロッパの国と比べても見劣りしないほどれは庭園においても同様だった。いわゆ の国力をもってくる。すると、さすがにるイタリア庭園やフランス庭園と呼ばれ ビクチャレスク 真似っこはまずいと思いだしたのであろる、植栽に手を加えながらまるで建築や うか、いやむしろ模倣を模倣として終わ広場を設計するかのように、幾何学的な 一七世紀の建築には、前項に紹介したらせず、イギリス的な建築と都市空間を構成をもった庭園である。特にフランス ジョ 1 ンズによる建築や広場、そしてレ生み出しながら、それらを使って模倣先 ンによるセント・ポ 1 ル大聖堂などがあのラテン文化、なかでも最大のライバル る 景際 るか、これらははっきりいってイタリア国フランスへの批判を始めるよ、つになる。ン ラス迎風実 にある建築や広場の模倣だ。というよりいやはやイギリス人とはなんともタフな ・イの , 描りし ドネ島年のあな ルネサンス様式だ、バロック様式だとい連中である 一イス 2 ンでし ロアロ矼ラ画 それが最もよく現れているのが庭園のク「デ。ロ像右 = 奴言である。今ではよく使われるランド スケ 1 プ ( 景観 ) という言葉もこのとき に生まれているが、最重要キ 1 ワ 1 ドは、 「ピクチャレスク Picturesque 」である ことは間違いない ピクチャレスクとい、つ概念は、ほとん どの翻訳者がそのままカタカナを使って いることからわかるよ、つに、日本Ⅲに訳 しにくい。「絵画のような」とそのまま 4 一訳してしまうと、そこに含まれているい 一ろいろな意味合いが抜け落ちてしま、つの ピクチャレスクとはもともと一八 を第社の , 、 :. 調お雋を ' 為 亠一 1 2
、ド多 : ぎみ 3 第耳 ラスト・プロムスでの盛り上がりの様子 コンサートの第ニ部では、聴衆は、音楽を聴くというのではなく、 音楽を見て、聴いて、感じて一緒に楽しむことに専念している。 機的につまり機能的に配置されているこ とがあるが、最大の特徴は、ラズダンの 設計理念のひとつである、建築が都市の 景観を構成するランドスケープ・ア 1 キ テクチャ ( 景観としての建築 ) としての 役割を有することにある。テムズ川に向 かって雛壇状に広がる建築は、チャ 1 ル ズ皇太子が一一一口うように、見ようによって は発電所なのかもしれないが、テムズ川 の対岸エンバンクメントから眺めると、 荒々しいコンクリ 1 トの造形が、雛壇の 上にある連続した建築群として、見事に 都市景観を構成していることかよくわか このランドスケープとい、 2 言葉自体は、 一八世紀のイギリスの庭園作法において つくられた概念であり、当時の庭園をラ ンドスケ 1 プ・ガ 1 デン風景庭園と称 している。ラズダンはこのランドスケ 1 プという概念を一一〇世紀の建築・都市設 計に応用したのである。ロンドンではな いか、イングランド南東部のノーリッジ眼 にあるイ 1 スト・アングリア大学 Uni- vercity 0f East Anglia ( 一九六一一ー六八 ) 章 のキャンパスもラズダンが手がけており、第 連続した校舎群の存在は、ピクチャレス クの手法を存分に使ったランドスケ 1 1 13
置なん の ! ん新れ , 響を Oo “ い盟ー 師凹回 セント・ホール大聖堂 ( 左 ) 図面が単に平面図を表しているだけでなく、それ自体が建築化した表現となっているのか価白い。 ( 右 ) 断面図。天井裏や頂部ランタン部分、ドーム内壁面など詳細な描写がなされている。 Great Court と、不思議な形をした通称 ガーキン Garkin とい、つオフィスビルを シティに設計したノーマン・フォスター Norman Foster ( 一九三五ー ) が挙げら れるだろう。彼らに共通するのは、ナイ トの称号を受けていることだ。そのほと んどがサ 1 であるが、フォスタ 1 と並び、 彼と同世代の建築家、リチャ 1 ド・ロジ ャーズ Richard Rogers ( 一九三三ー ) の 人は、さらにその上のバロンという爵 位を建築家として授かっている。ナイト の称号は意外に多くの建築家が授かって おり、第一号のレンから二〇〇七年のピ 1 タ 1 ・クック Peter Cook ( 一九三六ー ) まで総勢一二〇人くらいいるのではないだ ろ、つかさらにレンとソ 1 ンにはも、つひ とつの共通点、フリーメ 1 ソンというつ ながりがあるが、それは「第六章潜入 する眼で後述する。ここでは、ソーン について話をする ソーンは一八世紀末から一九世紀にか けて活躍し、いわゆる古典主義様式の建 築にとらわれない独自のスタイルをつく和 り出した建築家。最も有名な作品はイン章 グランド銀行とロンドン南郊ダリッジ第 DuIwich にある美術館、そして今回の 主役、現在サ 1 ・ジョン・ソ 1 ンズ博物
こ 2 れ 第さる 書ンか 築イわ ー′建ザが るデと に的 - る オ築あ イ建が デも識 ラ紙意 表う 三三 VIRTVS=?Z トいなみ れている。市壁とのつながりが斜めにな ニウムは、全体がロ 1 マ軍の支配下に置ロ 1 チには、サークル状のペデストリア っているので、砦部分がすれているようかれた町であり、軍で最も重要なことはン・デッキ ( 歩行者用通路 ) が市壁の遺 やぐら に思えるのだが、 ずれているのは囲んで統制がとれていることだった。櫓をつく構を取り囲み、来客者はそれらを上から いる市壁のほうであることがわかる り、外部からの進入を監視するとともに、 眺めたり、ちょっとべンチで休憩した後、 この都市がグリッド状につくられてい市壁内においても反乱を企てる者が出な建物へ入ることになる。また、建物内部 たとい、つことにも注目したい。ロンディ いよう注意する必要があった。それゆえ、にも市壁の遺構が保存され、一つの展示 秩序立った都市形態、つまり格子状にす物となっており、まさにここは、ロンド な弋 るのか、あるいは一望監視ができるようン二〇〇〇年の歴史のなかで都市を切断 に霧ごでマす に放射状にするのかの選択が必要となる。した、その断面が見え隠れしているので 、・〕一ほロた ートーし ロンディニウムでは格子状のスタイルがある。 ア区れ とられた。 地わ アテネやロ 1 マなどは、遺跡の中に現 構イ使 テて ロンドン博物館は、この場所が砦であ代の都市が見え隠れしているといっても ~ 部とと ったこともあり、さらにロンドンか都市 外る園 いいのだが、ロンドンでは、遺跡はあく み公 として認識された市壁の存在を十分に意まで断片となり、その全体像が見えない ン意識した設計になっている。建物へのアプ都市となっている。ロンドン博物館は、 口が避 ー L S E C 0 N D 0 筧 I B R 0 DELL'ARCHITETTVRA DiAndreaPaIladio. 、一一 V A ー E 5 ー C 0 N TE 、 00 NO ー 第 7 ー 0 ーまを 0 ゴの一こを第 ー、 V ト、 E T ー A , App に『 6Dormn に 0d0 ・ Fr ( 飜缸 . リ 10 ・ ラしン、ま : は物ッ第 バラティオの建築書の中に描かれたラ・ロトンダの平面図と 立面・断面図 この様式がこの作品集を媒体として世界中に拡がった。 第 2 章切断する眼
み方は、本来のそれとは何か違うのではないかと思える。事実、極端ではあるが、 中世ゴシックのいにしえを懐かしむ気持ちから、古建築の保存運動が生まれたの も一九世紀である。このことからも回顧主義的現象が起こったのが肯ける。 ところが二〇世紀になると、これまでの都市の楽しみ方が変する。ようやく 定年を迎え、子供たちも独立し、これからは趣味に生きるぞと張り切る昨今の団 塊世代のように、ロンドンは、成長を緩めながらも娯楽に対して深い味わいを見 せるようになる。一言でいうとモダニズムという眼 ( 視線 ) のパラダイム・シフ トである。正確には、眼自体はそれほど変化していないのだが、かける眼鏡 ( レ ンズ ) の種類が増え、精度が良くなったということだ。たとえるなら、人間年を とると、誰しも突然小さな文字が見えにくくなり、遠近両用の眼鏡をかける必要 が出てくる。その遠近両用眼鏡こそ、モダニズム運動だといえる。モダニズムを 代表する芸術運動である、未来派、表現主義、ヴォ 1 ティシズム、抽象主義、デ・ スティル、構成主義、シュルレアリスムなどなど、今まで見えなかったさまざま な都市の現象が存在することかわかり、わくわくどきどきする都市が目の前に広 がってくるのだ。 今までロンドンに関する本は古今東西を問わず、無数に出版されている。特に シェイクスピアに始まり夏目漱石に至る文学系、ラスキン、モリスに始まりビ 1 トルズに至る芸術系などなど、おそらく参考文献を挙げるだけでも本が一冊書け るだろう。ところが、日本におけるロンドンに関する建築や都市の本は意外に少 ない。あるとしてもロンドンの名所旧跡観光案内程度のものであるか、一九世紀 のゴシック・リバイバルやア 1 ツ・アンド・クラフッ運動を中心としたものであ り、一八世紀から一一〇世紀に至る本は希少だ。さらに、ロンドンの建築都市空間 の変遷を、先に述べた視覚の変遷として提えたものはいまだ書かれていない。 この本では、主として一八世紀と一一〇世紀のロンドンの建築都市空間をつなげ るために、文字通り、ロンドンを上から見たり、下から見たり、斜めから見たり、 重ねて見たり、はたまた透かして見たりして、ロンドンという都市を立体的 ( 空 間的 ) に眺めることを試みる。むろん、ロ 1 マ時代から一七世紀までと一九世紀
: ッさ、よ 学としての図面に変化するのは、一八世 紀における啓蒙主義、百科全書派による 事典作製から始まったと考えられる。啓 蒙主義時代に活躍した百科事典作製者、 当一蕓上 イ 1 フレイム・チェインバ 1 ズ Ephraim Chambers による『サイクロペディア』 ( 百 つあ ( かで 科事典 ) には、船の精巧な断面図や、人 ノ名言 体を皮膚から骨格まで順番に剥がしてい べの する った絵図が所狭しと描かれている。人体 部て 解剖術とともにの項目 ( アルファベッ るな ト順で編集された最初の事典でもある ) に , レ第 アーキテクチャ 紹介されている建築術には、オーダー キ陳る ( 柱上部の様式 ) の詳細にわたる実測によ と素 要と る寸法と部位名称が、歴史的な順列で、 術やと 剖面こ 解断るる 細かに描かれている。この事典には、事 、ー当 ( の見か 一そ、わ 実をありのままに描くと同時に全体を部 、、、・れり・か トぞおと 分に分割し、それを分析・解析するプロ ー - アそいる セスをも描く一一重の意味が含まれている その建築群がパラディオ様式とよばれ本的にはいくつもの太さや強さを有するここに科学としての図面 ( 建築 ) が登場 るようになり、新世界のアメリカをはじ線と記号、室名、そして寸法を示す数字することになる。 め、一〇〇年後には極東の日本にまで普だけである。いわゆる外観を見せる立面 及していく。ところでパラディオが描い図にも、点景と呼ぶ樹木などは描かれず、 た平面図や断面図には、人間は描かれてあくまで建築だけが精巧なエッチング図 いない。だから、そのままでは建物の大面によって仕上げられている。これは建 きさがよくわからないのである。今でも築を芸術作品として完成品と見なし、単 そうであるが、普通、建築の図面には人独での美しさを強調していることによる は描かれない。そこに描かれるのは、基建築の図面が芸術としての図面から科百科全書派による見えない中身の開陳 TXIB.AR( 、旺 ( ・ 'I'U 異 . 第ツ いド三 : いにー ! 、信 li ル。“ - ′を、み 博物誌と百貨店という 見世物 ハロッズ、水晶宮 第 2 章切断する眼
FIRSVLAST , 、。、 . REFRESHMENTHOUSE ENGLAND 気を第、 いう眼鏡は、現代の我々が考える以上のインパクる ( 本来の進化 =Evo 一 ut 一 on の意味 ) 眼鏡であった。 トをもったものであった。何せ神様がつくったと一九世紀に生まれた保存思想は、この眼鏡を使う された人間は、そのル 1 ツは猿と一緒であると主ことで生まれた考え方だった。性急に建築や都市 張したのである。このダーウインの進化論の思想を破壊していく現在の東京の乱開発がいかに危険 は、それ自体が歴史つまり時間のスケ 1 ルを広げなものか、この眼鏡をかければすぐにわかるであ ろ、つ この本が無事できあがったのも河出書房新社編 集部の渡辺史絵さんが、ロンドンの建築について の本を書きませんかと誘ってくれたおかげである ますは渡辺さんに感謝したい。そして、大学での 教育と研究の合間に執筆を続け、途中、ロンドン に認に行ったりして思いのほか時間かかかって しまったが、なんとか第一一の故郷と勝手に思って いるロンドンへの長い手紙を書きあげることがで きた。これも、これまでイギリスを含めて関わっ た多くの人々、特に留学時代から公私にわたって お世話になり、私と同じようなイギリスへの思い を持っていらっしやる連健夫、希代子夫妻に感謝 したい。最後に私の影響なのかどうか、留学中に 三度もイギリスを訪れイギリスの風景と水彩画が 大好きだった亡き父と、今でも実家の小さな庭を イングリッシュ・ガ 1 デンのように守り続ける母、 翆そしていつも私を見守ってくれる妻と一一人の娘に 感謝して筆を置く。 二〇〇九年一一月ダ 1 ウイン生誕二〇〇年、 ランズ・エンドのカフェの看板 『種の起源』出版一五〇年の記念の年に。 141