日本側 - みる会図書館


検索対象: 天皇の世紀 1
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1. 天皇の世紀 1

246 アメリカ側に贈った品々を一目して判ることである。そこで日本側では、日本にも巨大 で強い人間がいるのを見せるつもりで、相撲年寄追手風喜太郎、玉垣額之助に命じて五 斗俵を二俵も三俵も軽々と担うことの出来る力士たちと、幕内で特に大柄の者を二十五 人連れて来させ、ペリー提督の前で海岸に積んである米俵を扱って見せた。一度に二俵 を運べないものはなかった。ある者は一俵を歯にくわえて運び、また両腕で一俵ずつ抱 えて、宙にとんば返りを打って見せた者さえある。日本側委員は、一人の力士をベリ の前に連れ出して、大きな体に手で触らせた。大きいだけでなく極めて硬く発達してい た。ペリーが腕をつかんで見て、大きいのと硬いのに実際に驚いた表情を見せると、そ の相撲は得意満面の様子で、喉を鳴らして笑った。その時代には、他に見せるものもな かったのである。

2. 天皇の世紀 1

づいた諸事件、および現在の戦争とを例にとって説明した。 私は外国事務相に、一隻の軍艦を伴わずして、殊更に単身江戸へ乗込んできた私と談 判をすることは、日本の名誉を救うものであること。問題となる点は、いずれも慎重に 討議さるべきこと。日本は漸を追うて開国を行うべきことを説いた。」 今日ならばハリスの進言は、常識を出ない普通のことであった。だが、この平易のこ とが日本では実現にいろいろの困難があった。ハリスは、これについて、一、江戸に外 国の公使を迎えて居住させること。一「幕府の役人の仲介なしに、自由に日本人と貿易 させること。三、開港場の数を増加させること、を要求した。 ( リスはアメリカ人だけの特権を要求しているのでない。アメリカ大統領の満足する ような条約ならば西洋の諸大国は直ちに承認する。その上に ( リスが望むの・は、・、・・印本、・ ) んを込む一〕どを禁じ、を一」・ど。大統領は現に日本を脅かしている危険を日本人に知 らせたいのだ。日本を繁栄な、強力な、幸福な国にする方法を知って貰いたいのだ。 熱心に話し、また具体的であった。日本側の記録にもそれが筆記されている。 丸「今またイギリス、フランス一致いたし、唐国へ戦争しかけ申し候。只今のところにて 介はこの上の行末如何相成り申すべきや、実に計りがたく候。ただ今の姿にては、何事も 厄イギリス、フランスの望み通り聞き済み候よう相成り申すべく、左もこれなくば、全国 皆英仏両国の所領と相成り申すべく候。」またハリスは訪日の途中、ホンコンで総督ジ

3. 天皇の世紀 1

上の嘘と聞くだけである。 談半。 リよ難航を続けて、、く合意して条約文を作成した。清書が行われ、修正と変更の 箇所が日本語に翻訳されることになって、安政囿年を迎だ。通商条約に普通に規定せ られる条項を並べて、下田、箱館の他に神奈川、長崎、新潟、兵庫の四つの港を期限を 定めて開くことにした。そのほかに江戸と大坂とは、商売をする間だけアメリカ人が逗 留出来る。この二つの町には一区域だけ代価を払って家を借りることを許し、また散歩 出来る範囲を後に相談して定める。外国貨幣と日本貨幣とは金は金、銀は銀と量目を以 て比較、通用させる。注意すべきは、可用翻んを岐禁、 っていたら、 の分を日本側役人が没 , ることを成文て認めている点て イギリス人が阿片戦争で占領した島にその後も自由に阿片を持込み、シナ大陸に送 り込んでいたのに対し、アメリカ人てキリスト ハリス。日本の将来の。にこの規 定をカ、 くのが必要なことを、日本人にて考えてくてしオもオオこの ことま、日 。尸、しオく日本の為になた。 丸これで亜細亜で最後まで国を閉鎖して残っていた日本を開国させ世界の舞台に連れ出 介した。ハリスはこう信じて悦んだ。フランスがメキシコの遠征で動きがとれず、イギリ 厄スはインドを侵略してから、富裕なシナに手をつけて続けざまに戦争を遂行していたた めに、日本に向う余裕をまだ持たない間に、、つ ' 之・の鬼・の・来 - な・い間に・ - ・・ ( ・・リ・ス・・は・仕事をする、・

4. 天皇の世紀 1

426 伝習所の教師たちが四十人も入って来たので、出島のオランダ屋敷は急に混雑し、庭 を潰して増築が行われた。以前、オランダ人は許可なく出島の外に出て歩くことが許さ れなかったから、散歩する庭園が必要であった。目を楽しませる花の木を植え、孔雀か ら始めて家鴨、鶏、鳩など飼ってあった。そこに伝習所教師たちの宿舎が普請されたわ けだが、この時代になると、自由に市中に出ることが認められ、散歩も奉行が支配する 天領の範囲ならば、青いもののある郊外に出ても、美しい入江の海に島々の散らばる景 色を眺めるために山に登ることも許された。外人に対する日本側の国の方針が緩んで来 たのが感じられた。カッテンディーケは、日本の自然の美しいことを口を極めて賞めた たえる。陰鬱な冬が長く暗いオランダから来た人間として当然のことである。江戸へ参 観に出たオランダ人から、道中で見た話をいろいろと聴いた後で書く、「私が今日まで に見たところでは、日本はまさに天国のごとき国であり、幕府が外国人の入国を禁じて いるのも確かに道理がある。もしエルギン卿 ( 英国使節 ) が、日本内地を見るならば、 彼はその政府に『日本を領有せずには済まされない』と報告するに違いなかろう。我が 有力なる隣国 ( イギリス ) がここもと ( シナで ) 手一杯であるこそ仕合せであるが、お そらく日本にも、そのうち悲しみの順番が回り来るだろう。」 カッテンディーケは、余暇を見つけては、好んで長崎の丘に登る。その場合、偶然に も彼があやしむのは、境を接する隣の大名の領内に踏入ることを禁じられたことである。 すぐ対岸に見える場所でも、他藩のものならば、オランダ人が入るのを認めようとしな

5. 天皇の世紀 1

我が方の合理的であって平和なる申入れを陛下の政府が直ちに承諾せられて、艦隊を再 航させることなどないようにして頂きたいものである、と書き、別の一通には、この度 の提案が、重大で且っ各種の肝要な問題をふくみ、関係事項を審議するのに多くの時日 を要するものと考えるので、日本政府の右に対する回答は、来年の春、訪問する時に承 ることにしたい。全部の事項が穏便に且っ両国民に満足なるように結論されるべきを信 じ、また期待するものである、とペリーは書いている。 英語の原文のほかに、漢文訳とオランダ語の訳文を付けて日本側に渡されたが、それ だけでなく提督の命令で、オランダ語通訳のポートマンが日本通詞達之助に一々の文書 の説明をした。達之助と香山栄左衛門はこれを聞き終って、承知の意味のお辞儀をして から、栄左衛門が立って、日本側代表の石見守のところへ行き、膝まずいて石見守の手 から巻紙を渡され、それを持って部屋を横ぎってペリー提督の前に来て、やはり膝まず いて提督に渡した。 ポートマンが、 「この紙は何か ? 」 と尋ねた。 皇帝の受領書だと返事があった。オランダ文で書いたものに日本語の原文が付けてあ った。二通の間には文章の上で多少、意味の違う点があったが、大意は、国書を受領し たこと、これを皇帝に取次ぐ意志を告げてから、元来、外国に関する事務はこの浦賀の

6. 天皇の世紀 1

、 - とうも、帰りたくなかったらしい 図を告げた」と、日本側の報告は書した。。 「彼は散策中に日本最大の町の一つ、すなわち神奈川の町を見る機会を獲たのであって、 同町は、多数の幅広い街路を有し、稠密な人口を擁して、全く繁栄の姿を呈していた。 彼は数軒の住居や寺院に入り込んで見たし、また執拗な忍耐によって或る商店でアメリ 力の貨幣と交換に日本の銭を獲ることに成功した。日本当局はこの貨幣のことには特に 当惑したらしかった。」 ( 日本遠征記 ) 無邪気なビッチンガー氏が勝手に交易を開いて了ったからであろう。日本側の町奉行 こよ、次のように記録してある。 支配組与力の御用日記冫。 「横浜へ上陸致し候異人の内一人、昼九時過、同所より陸通り当所へ罷越候につき見物 人大勢駆け集り候間、下役同心差出し相制し候よう仰渡され候間、岩附恵十郎、吉沢仙 右衛門差出候ところ同夜五時頃引取り来たり。右異人は士官の内べッヒンジャルリと申 すものにして、江戸の方を指差し早足に歩行、浦賀与カ通詞等、差留め候えども聞入れ ず、その上子安村醤油渡世海保と申す方に立入り、その身所持の銀銭を差出し通用金と 引替くれるよう手真似いたし立去らず罷在り候につき、壱分銀一つ見せ候ところ、理不 来尽に懐に入れ、それより六郷渡場へ罷越し、是非渡船差出候よう再応、仕方 ( 手真似 ) 渡 いたし候えども、その以前に船残らず江戸の方へ岸へ払置き候ゆえ、致し方なく大師河 船 黒原の方へ参り、大師堂に参詣いたし、塩浜羽田あたり立花家御固の様子一覧、六左衛門 渡へ参り、またぞろ船差出し候ようにと仕方いたし候えども、取合わず候ところ、帯剣

7. 天皇の世紀 1

まさる虚傲、虚飾の態度をとるの必要を知りたりき。 余は両極端を採りたりー・・ー虚飾を示すの適当なる場合には大いに飾り立て、かかる虚 いささか 飾が吾が掟の精神とそわざるときはそれを避けたるなり。又如何なる場合にも、些も身 分の優位を認めずと決心して、如何に高き位階の日本役人とも常に全く対等に会見した り。されど彼等国民の比較的身分高き者等は、これ等の高官に対して身を屈しひざまず きいたりき。 ( 中略 ) 余のなしたる頑強なる主張については余が、又協議の場所を変更 せしめ、かくて同帝国の四人の諸侯をして艦隊に追随せざるを得ざらしめ、政府をして 他の建物を建設するの労と費用とを払わしめたることについては余の周囲の者全部の判 断が、恐らく傲慢なりとの非難をうけん。されど余は単に、熟慮の後に決定したる政策 もたら を固守したるに過ぎず、且っそは今日まで、よき効果を齎し居れり。」 日本側では浦賀を応接の場所として選び建物まで普請したのに、ペリーはこれを蹴っ て、もっと江戸に近い土地を会見の場所にするように申入れた。足もと定まらぬ日本側 が、この一押しで更に動揺を来たした。 日本側は、どうかして提督を浦賀に引戻そうとしたのだ。江戸に迎えて堂々と会って 来よいものを、本牧沖から浦賀まで僅かの距離でも江戸から遠ざけようと努めたところが 渡 今日、奇妙に思われるくらいに臆病である。体面を損ねる危険が将軍の膝下で起るとし 船 黒たら、封建の体制に致命的な打撃となる。人々は、外国艦隊の強力な姿を江戸湾に見た くない。しかし、彼らは、そこに侵入して来て、ある日には羽田沖よりもっと江戸に近

8. 天皇の世紀 1

しい。戦争など起ることを支配層の武士たちが考えなかったことだ。下谷御成道辺の武 器商の店は大方売切れて、日頃十金ぐらいの具足が、七、八十両もする。高松城主松平 讃岐守が沿岸守備に出陣することになり、火薬を買わせたら高い値段の上に手を廻して 焔硝二貫目しか買えなかった、一貫目筒で射ったら、二発か三発分なのである。打払い など、望んで出来ることでなかった。しかも、アメリカ船がその内、日本に来ることは、 うるう 弘化三年閏五月にやはり浦賀に提督ビッドルがひきいる二隻の軍艦コロイハス、ヴィ ンセンズが、日本が通商をひらく意向があるかどうか打診に来たのでも、その時は平穏 に日本側の謝絶を聞くだけで帰って行ったが、そのままで済むこととは一一一一口えないのを予 測っかぬわけがなかった。その上に嘉永三年にはオランダ商館長から長崎奉行にアメリ 力が日本に遠征艦隊を送る計画があり、海外では、アメリカ以外の国でも既にそれを承 知していると知らせて来た。 アメリカではカリフォルニア州に金鉱が発見せられたので太平洋岸に人の移住が行わ れたのと、。ハナマ地峡に鉄道が通じ、また蒸気船の発明から航海がさかんになり、これ までのように大西洋を廻らずに太平洋の近道を取って、インド、シナに出て来られる。 来捕鯨船が日本近海に来ることもさかんになった。蒸気船は短時日で太平洋を渡ることが 渡可能だが、長い航海には石炭を多量に積込む必要があるので貨物を積む量が制限される。 黒それには東洋のどこかに石炭の貯蔵所が得られればその不便をなくせるわけで、アメリ 力の海軍は前からそれを物色していた。日本本土や琉球にそれを求め得たら、アジア諸

9. 天皇の世紀 1

なものである。 夏が過ぎて、秋に入った。サン・ジャシント号でこの土地に置去りになってから一年 と四日目になって、待ちに待ったアメリカ軍艦ポーツマス号が、遠方から礼砲を山にと どろかせながら入って来た。 シナの上海から来たので、大陸の戦況、イギリス軍の侵略の模様を聞くことができた。 そればかりではなく、日本側の冷淡で寄せつけない方針に向って孤立無援でいたハリス に、小さくとも母国の軍艦が来てくれたのは無二の味方を得たことになる。 日本側では、この軍艦で ( リスが江戸へ乗込むだろうと予想し、眠っていた人間が急 に目を醒ましたように活発に動き始めた。軍艦を江戸にいれぬようにするために、 ( リ スに出府を許し、その期日を通告するように御決断を願うと急使を立てた。局面は一転 して、 ( リスの前に頑固な扉が向うからあいた。下田奉行がハリスを呼び、大統領の書 翰の件で江戸から回答が来て、幕府の熟議の結果、最高の礼遇を以て ( リスを江戸に迎 え、将軍にも謁見し、その節大統領の書翰を捧呈することに決定したと言うのである。 圧迫が急に除かれた。青空の一部が姿を見せた。 丸それにしても日本側は例の如く慎重過ぎるほど慎重であった。出発の前までに、普通 介の旅の準備ではなく、さまざまの煩しい用心と注意を働かせた。江戸に出る許可があっ 厄てから、出発の日までに、二カ月も待たされた。 「今日私 ( ( リス ) は、将軍というのは彼らの正しい名称ではなく、『大君』と呼ぶの たいくん

10. 天皇の世紀 1

から急いで追って来て、何かと世話に当った。最早、軍艦の者は自由に上陸して、町の 中を初め、許された遊歩範囲内を歩くことが出来る。日本の民衆が面白がって側に来て、 一人二人から手真似で話しかける。日本側の役人がそれを嫌って、追い散らしたり、ア メリカ人の行くところへ必ず一「三人の武士が離れずついて来て、行動を監視した。ペ リーはこれを条約違反だとして、きびしく詰問し、いつまでもこれを続けるなら再び艦 隊を連れて江戸に乗込んで抗議すると言って威嚇した。すぐに効目が現れた。しかし、 日本の役人は、町の人間がアメリカ人に近付くのを好まない。アメリカ人が上陸すると 町の人間は命令されたとおり逃げるし、商人の店も戸を閉めて家の中に隠れて、ひっそ りとしている。いつも人影のない町を歩くことになった。 「今や艦隊中の士官達は毎日上陸したし、またしばらくの間はその行動を阻害される様 子も、その歩行を監視される様子も、一見前よりは少ないようであった。かかる上陸を 行なった或る日、一団の人々は郊外を通り越して田舎に入り込んだ。その時二人の日本 人がついて来るのを発見した。然し最初は二人の密偵が監視しているのだろうと想像し たので、殆ど注意を払わなかった。けれどもその二人は秘かに近よって来る様子だし、 またあたかも、話をする機会を求め度い様子なのを見てとって、アメリカの士官たちは 二人が近づいて来るのを待った。話をして見ると、その日本人が地位と身分のある人々 なることを認めた。各々相当の身分を表徴する二本の刀を帯び、立派な金襴の幅広くて 短い袴を穿いていたからである。彼等の態度には上流階級通有の慇懃な洗練さがあった こ