ちに艦載砲から全線にわたって砲弾を打込む用意が出来ていた。極めて形式的に国書を 受取る手続きを行なっただけだったとしても、日本側が、平和的な態度で終始したこと は、アメリカ側でもむしろ意外に思った。 ペリーの使命は成功した。頑固だった日本に、「日本の法律に背いて」まで国書を受 領させたのは、これまで絶対にほぐれなかった関係を解いて一歩前進したもので、来春 に再び訪れて求めようとする回答に明るい期待を感じることであった。 ヘリーの方でも艦隊の 実は日本側は何でも早く引取って貰おうと努めていたのだが、。 飲料水や石炭の準備が心配になっていたので引揚げを急いだのが内情である。日本側の 追立てる意志があまり露骨である。用が済んだから、すぐ出帆して行くものと見ている のだ。そうなるとわざと悠々とかまえて、来年来る時のために江戸湾を測量し航路と碇 泊地をさがしたいのと、特に艦隊を江戸に接近させて日本側の誇りと自尊心とに不安を 与えれば、大統領の国書の扱い方にもよい影響があると考えた。 久里浜から浦賀奉行与力の香山栄左衛門と通詞が便乗したのを、曳航して来た小舟に 浦賀沖でおろすと、アメリカ軍艦はそのまま針路を東方に向けて江戸湾に入った。 来沿岸の陸上には砲台があったり、まん幕をひぎまわして防備の人数が出ていたのが、 渡 驚いて外に走り出、丘の上に駆け登って黒船を見た。黒船はポートをおろして付近の水 船 黒深を測量しながら進んだ。海岸から日本の政府の御用船が漕いで側まで集って来た。直 接に妨害しようとはしないが、付近を前進したり後退したりして怠りなく看視している。
ことが出来た。平和的な条約で、日本の地位を固め、日本とヨーロッパの或る国との間 なかだち に「障り起る時は、日本政府の嘱に応じ、合衆国の大統領、和親の媒となりて扱うべ し」として、日本が武力の圧迫でヨーロッパのどこかの国の植民地となる危険を側面か ら防いだ。 現在のアフリカ、中近東、東南アジアの新興諸国よりも開港前の日本は、国情が複雑 錯綜し、ヨーロツ。 ( の武力をもって臨めば、どんな侵略でも割譲でも理みにに . ろで . ある。他国から牽制されることなく狼たちは腹を肥やすことが出来た。アメリカはまだ に残していた。 資本力が強大と言えず開拓者の冒険心とを望ま オ福 政治家でなく貿易商人でキリスト者のハリスが乗、 であった。、 , リスもそれを望んで尽力して成功した。この条約に満足を感じたのは、ま だ日本人ではなく、アメリカ国籍の彼が第一の人間だったと言える。 安政五年の正月休みが終って、この年の最初の会合が行われた。日本側の委員は、ど うしたものか、約束した正午に姿を見せす、午後五時になってハリスの前に姿を見せた。 また何か故障が起ったらしく、談判の経過を復習した上に、条約文のあるくだりについ ては、三、四度繰返して読んでから、日本に外国人の居住を許すのは日本の古来の習慣 を変更するもので、諸大名が反対していると知らせた。 また、話が振出しに戻ったのかと落胆して聞いていたが、一時間あまり話が続いて、 日本側が一体何を望むのか、なかなか言出さなかった。
ダ人から献上の贈物の中にはその時分から珈琲などもある。出島には日本人とはまった く異る風俗習慣で、物の見方考え方も別な西洋人が小人数ながら定住して掘割一筋、外 にいる日本の民衆の注意を不断にひいた。離れて散らばっている蘭学者だけが、長崎に ノーポルトが来る前から新しい医術と長崎の土地とは常 心をひかれていたのではない。、、 に結びついて考えられた。唐人屋敷の方からは、詩書や画法が伝えられた。西方の文化 に関係した漢文の本も舶載されていた。漢文ならば日本の有識者は自国語のように平易 に読んだ時代である。 窓は小さいが、ここで受けている風は、いつも新鮮で、遠く大坂、江戸、もっと奥の 仙台あたりにまで通って行った。禁断だった海外の知識に、それほど渇いていた事実が 人に在る。これが、やがて学問の他の動機から、まだ年若い勝海舟、坂本竜馬、高杉晋 作、伊藤博文、井上馨など次の時代を作った人々が、新しい知識や技術を知ろうとして、 また海外の事情を聞こうとして、いそがしく足を運ぶ土地となった。 たしかに江戸湾の水は英国のロンドン橋の下の水と直接に通じ合っていた。船首には 人体の彫刻を、船尾にも重い装飾をつけて船脚が重かったオランダ船の時代は去り、帆 ー型の、鋭く軽快な船体で海を速く渡るようになったし、蒸気機関が外 船でもクリツ。、 洋船に取付けられてから、風を帆にとらえなくとも自由に遠距離の航海が可能となる時 代が来ていた。 日本の鎖国は、日本列島が極東の奥深くに在ったせいで、長い間安穏に維持されて来
国との交通がどれほど容易になることか ? 諸外国は、アメリカのその希望を当然とす るし、アメリカ政府もまた公式にオランダ政府にその意向を告げ、日本に在るオランダ 商館長から日本の政府に話を取次いで貰いたいと申入れていた。これがペリーの艦隊が 日本に来る前年のことである。 オランダ政府は新しく日本に赴任する商館長ドンケル・クルチュウスに、東印度総督 からの公文書を持たせて日本の長崎奉行に渡すように命じた。オランダは前にも国王の 親書をとどけて親切に日本に忠告した。幕府は国交がないのを理由にして、目をつぶつ て見て見ぬ振りをして済ませた。もちろん、アメリカが来ぬのをよいことにして問題と しなかったのである。オランダは、この無礼を怒ることなく、二度目の忠告をして来た のである。幕府はまたしても書面を受けるのは祖法の厳禁するところだとして、受けま いとした。重大な用件が内容だと聞いても、受けなかった前例もあることで、ここで俄 かに態度を変えては不面目だと唱えた。だが、知らずにおくのは気味が悪いのである。 通詞に翻訳させると、アメリカが通商を求めるために近く日本に対して軍艦を向ける、 鎖国政策を固守する時は開戦を免れぬことになろうとの警告である。長崎奉行は、訳文 に自分の意見を付けて来た。謝絶するがよいと言うのである。オランダ政府は、長崎に 限って日本が各国貿易を許し、領事を置き関税を徴収し、治外法権を認めてはどうか ? その際はオランダの商館長が日本側の顧問となって各国間の交渉の世話に当ってもよい とあった。
・アダムスに会って浦賀で ペリーに会おうとしたが拒絶せられ、参謀長へンリー ' ヘリー提督は 応接するから、あちらへ回航されたいと申入れたが、これも拒絶された。。 前年の場合よりも日本側に威嚇を与えて、要求を容れぬわけに行かぬようにする決心で 来た。春に来ると約束したのより早く来たのも、ロシア軍艦が長崎に来ていることや、 フランス軍艦が日本に向う形跡のあることを知って、他国に先手を打たれまいと急いで 来たので、今度こそ自分の手で日本の開国を成功させる決心を固めていた。ペリーはこ の訪問が失敗となったら琉球列島を武力征服して、占領する意志を持っていた。そのた めに、江戸湾に入ってから故意に示威的に振舞い、日本側が意図を怪しむことにも遠慮 しなかった。 日本側では交渉して会見の場所を決めるだけでも、たっぷり十日あまりも時日をかけ た。その間にアメリカ側では端艇をおろして内海を測量し、一隻の軍艦は小柴沖の碇泊 地から離れて本牧の沖に来て泊り、やがて他の六艘も前進して神奈川沖に来て、六郷川 ロ、羽田付近の測量を開始した。まったく、人もなげな行動で、アメリカ軍艦が羽田沖 まで来たと警報が入って、江戸では、高輪、深川、洲崎、芝浜に、川越、桑名、金沢の 諸藩から一番手の人数を繰出して警備させた。皆、戦闘の経験などない軍隊である。 老中阿部伊勢守が斉昭に、アメリカ側の態度が強硬だから漂流民の救恤を許し、また 貯炭場に無人島の小笠原島を貸すことも認めたいと申入れた。家来の者をやって、藤田 とりな 誠之進 ( 東湖 ) に取做しを依頼したのが、正月二十三日のことである。ここまで来て、
が影響して、直ちに公使を江戸に迎えては、反対論を抑え切れぬことになるのである。 公使や領事の国内旅行を許すことにも、日本側では諸大名の反対が起り得ると言う。 この案件について、日本側から微妙な発言があった。「原初 ( 幕府の始 ) から大名十八 名のうち、それらの領土における独立的支配権を有する大名は七、八名である。加賀守 箭田 ) は大名階級のうちで最も大きな領土をもち、最も勢力があり、最も富裕である。 大君 ( 将軍 ) でさえも、これらの大名の承諾を先ずもって獲得しなければ、これらの領 土内に一名の人間も入れることができない。将軍の政府 ( 幕府 ) の役人でも、このよう な許しがなくて立入る者は立ちどころに殺される。」 ハリスは、日本人がそう言っても、逃げ口上と見てまだそれを信じなかった。これは オランダ人力ッテンディーケが、日本が統一国家でありながら必ずしも列藩が幕府の命 令に従うように見えないのを知って、疑問としていた点である。彼が見た薩摩のような 雄藩は、中央の影響から離脱し、自主的な政策と軍艦さえも持ち、生産財の経営から専 売までも藩で行なって、幕府とは関係なく繁栄している。ハリスはカッテンディーケと 違って、まだそこまで列藩の実状を知る機会がない。幕府を唯一の中央政府と見ている。 躊躇する必要もない協定に、日本側が譲ろうとしないのを、了解に苦しむのである。 鬧まま 日本仰もまなそれと気がカず、幕府の立場の意外のもろさ、 を、 も谷易でなくなってし したわけであ ーん。あまり待たされるので猜疑深くなった ( リスは、まだそれと気がっかない。逃げロ ひそ
地で処理されず長崎で行われるものなのを再三通知したが、この地に於ける書簡の受領 もっと を拒絶すれば、大統領使節の資格を持っ提督が侮辱を感ずることを考え、その尤もなる ことを認めたために、「日本の法律を曲げ」て上に述べた書簡をこの場所で受取った。 なおここは外国人と協商する場所でない故に、協議も饗応も行い得ない。それ故に書簡 が受領せられたる上は立去られたい、と書いてある。 二、三分間また沈黙が続いた。帰ってくれ、帰ってくれとばかり言う話のようだから、 こ命じて日本側へ伝えさせた。我々は二、三日 当然だったろう。その後でペリーが通訳冫 中に艦隊をひきいて、琉球及び広東の方面に立去るが、それらの土地へ政府から何か急 な通信が送りたければ持って行ってもよい。なお、提督は来春の四月か五月に日本に帰 って来るつもりだと言う意味を通じさせた。 日本側の通詞は、提督の退去とまた帰航してくることについて、もう一度仰有って頂 きたいと希望して出た。重要な事項と信じ、念を入れたのである。同じ言葉で繰返して 話すのを聞きとってから、その時、提督は四艘の艦船全部を率いて帰って来るのか、と 質問した。 来ペリーは、「全部をひきいて来る。また、これらの船は艦隊のごく小部分に過ぎない 渡 から、あるいはもっと多数の船を連れて来るかも知れぬ」と言明した。 船 黒この言葉は、すぐに日本側の、石のように黙っていた上使に通訳された。取次ぐ必要 ないと取られた言葉は無言のままで置かれた。会見のために大きな建物を新築したり警
0 452 情や故障が出た。 ハリスが開港場を三つの場所以上に要求すると、それはならぬと言う。公使を江戸に おくことも、国内を自由に旅行することも認め難い。公使の居住を神奈川と川崎の間に 局限して、用務の起った時だけ江戸に出ることに定め、一般に用務のない時は日本のど こにでも旅行を認めることは出来ないと主張する。 幾度も、ごく初歩の案件に戻って交渉することになる。日本人が提議するような規定 の下では貿易は不可能なのだ、とハリスは辛抱強く説明した。日本側の委員はそのこと も理解しているらしいのだが、承諾を渋って、今日の協議はこれまでにして、返答はこ の次にしようと言出す。 ハリスは告げた。自分が日本で観察したあらゆる点から見て、日本の国民は実際は 我々と 0 自由な交際を切望して・いをも 0 ・ど礑信町来る。もし、どこかに反対があるとす ているのではないか ? どこの国でもこの二つの階級 れば、それは知各ど内・・・・に・限られ るものなのだ。この見解は、町人出身のハリスだ は、国民の大多数の状態改善に から指摘出来たことなので、日本側委員の武士たちには異論のあることかと思うと、彼 らは率直に、そのとおグ - かも知れぬどだ。座談の間だったので、うちとけた話をし た。「学者社会、あるいは官職志望者と称せられる大きな階級は、自国以外の事を全く 知らないので、開国にも反対しているのだと付言した。この説明によれば、孔子の四書 を修め、須要の試験を通過した者は、幕府から少額の扶持をうける。役人が入用の節は、
386 代表であるのに、江戸からは誰も会いに来ない。土地の奉行を介して江戸と交渉するの だが、返事はなかなか来なかった。来ても下役人から口頭で知らせて、書類の形の公文 いなじ 書に依らない。、 ノリスは怒ってこれを言詰った。しかし、不自由な中で辛抱強く彼は雪 解けを待っている。 その間に従僕のシナ人が外出すると三人の警吏が尾行し、果物を買いたいと言ったが 拒絶された。井戸端にいた男に水を飲ましてくれと頼むと、いけないと言って、茶碗を 持ったまま逃げて行った。奉行にこれを抗議すると、「調査して見る」と、ゆっくりし た返事である。しかし、その代りに見事によく熟した葡萄と柿が手に入った。果物は当 地にないとそれまで言続けて断っていたのである。日本の自然は美しい。ペリーの和親 条約で、外国人は七里の距離の範囲は散歩出来る約定になっていたので、時折りハリス は付近を歩きに出て、陶磁器輸入商人だったのには考えられない博物の知識で日本の動、 植物や耕作や水利灌漑の状態を観察して歩いた。山に登って富士山を見つけた日もある。 ハリスは、その間に日米の貨幣交換の比率の問題、下田と箱館におけるアメリカ国民 の居住権問題等について、交渉を要求し、幕府と接触に入ろうと努めた。日本側ではハ リスを江戸に出府を許すまいとして、下田奉行に命じて交渉に当らせた。日本側では 一々、江戸に伺いを立ててから答えるので、例に依って、談判がはかばかしく進行しな ハリスは不足がちな生活に辛抱強く耐えて、通商条約の協定に江戸に出る日を待っ ていた。大統領の親書を日本の皇帝に呈し、あわせて日本の安危に関する重大事件につ
いるのだ。。 ヘリーは、長崎以外に琉球と松前を、即時かまたは六十日以内に開港するよ うに要求して出た。日本側委員は琉球は外藩の土地であり、松前は大名の領土だから領 主の同意を得ずに独断で開港することは不可能だと答えた。するとペリーは、松前が独 立国なのなら我々が松前に行ぎ直接に交渉して開港させるようにすると主張して日本側 を沈黙せしめた。 ペリーは次第に威嚇するような言葉を用い始めた。最初から五カ所の港を開くよう要 求していたのだが、当分二つの港をどこに決めるか、延ばすとしても下田、箱館、那覇 だけは即時開港の条約を結びたいと提議し、日本側は下田の開港に難色を示したが、結 局、港を開いても十カ月の間はアメリカ船の要求する物資を供給することは出来ない つまり港を開いても交易をしないことを了解させて我方の面目を立てた。 三月三日に日米間で調印された日米和親条約は日本が遂に鎖国を廃して国を開いたも のである。怖れて交易とは書いてない。合衆国の船が下田、箱館の二港に渡来の時、 「金銀銭並びに品物を以て入用の品相調え候を、差免し候。尤も日本政府の規定に相従 来い申すべく、且っ合衆国の船より差出し候品物を日本人好まずして差返し候時は受取申 渡 すべく候事」と、条約文第七条にあるのが、内実は交易を許したのである。しかし、こ 船 黒の案件についても老中方は思い切りが悪かった。委員に対して食料薪水石炭の外、入用 の品物などあるか、と問いただしている。苦労した委員が途方に暮れるわけである。結