論吉はジョージ・ワシントンについてアメリカ人に何気なく尋ねてみた。 「ところで、私が不図胸に浮んで或人に聞いて見たのは外でない。今華盛頓 ( ワシント ン ) の子孫は如何なって居るかと尋ねた所が、その人の云うに、華盛頓の子孫には女が ある筈だ。今如何して居るか知らないが、何でも誰かの内室になって居る容子だと如何 にも冷淡な答えで、何とも思って居らぬ。これは不思議だ。勿論私も亜米利加は共和国、 大統領は四年交代と云うことは百も承知のことながら、華盛頓の子孫といえば大変な者 に違いないと思うたのは、こちらの脳中には源頼朝、徳川家康と云うような考えがあっ て、それから割出して聞いたところが、今の通りの答えに驚いて、これは不思議と思う たことは今でも能く覚えて居る。理学上の事に就ては少しも胆を潰すと言うことはなか ったが、一方の社会上の事に就ては全く方角が付かなかった。」 東照宮様と言う名前が出たら一一世紀以上後の当時でも万事が規律せられて了う国から 来て、論吉ほどに囚われぬ精神の持主でもこれをやはり意外に思った。日本人は過去と 一所に暮らしているところがある。 成臨丸をドックに入れ破損の修繕を待っている内に、遣米使節新見、村垣、ト / 栗の一 国 行を乗せたアメリカ軍艦ポーハタンがハワイに寄ってから、サンフランシスコに着いた。 異最初に海上に迎えに出たスクーナー船から水先案内が乗移って来たが、これがサンフラ ンシスコの新聞を持って居て、成臨丸が十数日前に着いた記事が掲載してあった。港内
だから、久木直次郎の襲われた日のものである。 来月初めまでも御一品が登らぬようでは、家にも拘ることで、如何様御了簡遊ばされ 当月中に御登せ下さるように、幾重にも役人共へ仰せつけられ、早々、参るようにして 頂きたい。「くれぐれも当月中に御さし登せに相成り候よう、長岡など出張の者ども、 むっし 彼これ六カ敷き模様に候えば、その者などは如何様にも厳重に取計らい候よう、役人へ も仰せ付られ候よう願い奉り候。」 十五日には、またもや江戸家老から連名で、水戸の家老に宛て、御老公様が親しく表 面に立って家中を論し長岡処分の決行を申渡されるよう、機宜を失せぬよう、お取計ら い願いたいと警告を兼ねて嘆願して来た。江戸の屋敷でいよいよ応接に窮して来たこと が実感となって伝わった。斉昭も遂に押出されたように太田誠左衛門、鳥居瀬兵衛に命 でばり 令を下した。「長岡出張候者ども等の儀につき、万々一見込違いにても致し候ては相済 さしきり まず候儀故、指切我等より是非申兼ね候えども、当中納言より下知もこれあり、役々相 談の上、然るべくとの事に候わば、早々その通りに扱い申すべく候事。」 これを証拠として持って行って長岡勢に説論し、服従せぬ場合には適当に処置しろと 言うのである。城の内外を守備させるとともに、家老鳥居瀬兵衛、若年寄大森多膳、大 寄合頭雑賀孫市、市川主計、大番頭朝比奈弥太郎、蘆沢総兵衛以下、側用人、目付、寺 社奉行、馬廻頭、新番頭、町奉行、郡奉行等に部下の士卒を率いて、出動を準備させた。 この決定が二月十六日で、十八日に出発することに決した。 さしカ
心得るやとの御意あり。甚左衛門畏りて、既に京師より返納の命ある上は、御返納の外 これあるまじき旨を言上す。次に銀次郎は如何との御意あり。これまた同様云々言上す。 老公一々御聞ありて、次に直次郎は如何との御意あり。余申上げけるは、この度対馬守 おたっし ( 安藤 ) より返納に付、御達の趣承り愚考仕り候に、彼は勅書とは申上げたる由に候え ども、恐れながら是は真の勅書とは存じ奉らず候。そのわけは一体勅書には、勅書の御 扱い振りと申すものなくては叶わぬ儀にこれあるべく候。然るにこの度対馬守参上の模 様を承るに、彼は平服にて参上せしのみならず、同日上公 ( 慶篤 ) には御不例の旨にて、 御対面は御断り遊ばされしに、対馬守は強て拝謁を願い、御寝間にても苦しからずとの いやし 事にて、無理に拝謁の上、かくは御達し申候由。苟くも真の勅書に対し、かかる御取扱 いぶりのこれあるべきや、甚だ心得がたき次第に候。これ臣が恐れながら偽りの勅書か もっと と愚考仕る所以に候と言上す。老公御聴ありて尤もなりと御意あり。」 こう疑義を懐いては、人々を一層混乱させる。鵜飼幸吉や日下部伊三次が、八月の勅 書を奉じて江戸に下って来た時は、もっと粗末な扱いだったことも久木は忘れていたよ うである。 老公は、しばらく考えてから、たとい偽りの勅書にもせよ、幕府より勅書なりとて達 動 せられた上は、勅書の取計いなくては叶うまいと言った。久木も一考して、それは左様 反で御座います、と答えた。それでは返納するより他はない。久木もこれに反対する理由 7 まよ、
さしのぼ 「追々御運び、逐一御尤至極。迅速御指登しの儀、臨機応変如何様にも取計らい申すべ やから き筈、勿論に御座候ところ、長岡駅に出張致し居り候族人数不定、七十人ぐらいの事 もこれあり、また五十人ぐらいの事もこれあり、百人ぐらいもこれあり候。其の節は ( 本文ノママ ) 近所へいろいろ手段致し潜み居り候様子にて、とくと手元より相探り見 候えば五、六十人ぐらいは処々に潜居致し居り候様子にて、その上長岡勢は先手にて、 まかりあ 泉町伊勢屋彦六方にも旧冬より五十人余り滞在罷在り、随って御家中は勿論、郷士百姓 共屋敷屋敷へ潜居致し居る惣人数何百人ほどに相成るべく候ゃ。未だ得と探索行届きか ね候次第にこれあり。長岡の儀は軽輩の者共、割羽織を着し御家中の族へ列し、無頼の 徒を集め合い、君上の命をも用いざる上に、御国法を犯し江水 ( 江戸、水戸 ) 御用往来 の御同列まで相妨げ不作法に及び候えば、その外の御役人も勿論の儀にて小吏ども指図 は採用申さざるのみならず、悪口雑言申し、海道通行の他所者までいろいろ妨害致し候 有様、実に傍若無人の振舞に相聞え候。」 長岡のように小さい村に、細い街道を要して暴動の様相を帯びて来たのが実情だから、 どうにも御一品を二十五、六日までに指登すことなど不可能に近い。長岡出張の者ども は、勅書返納など決して相成らず御品とともに斃れ、藩が減亡しても已むを得ぬ運命だ としている。残らず召黼るわけにも行かないが、君上の命をも用いぬ者をそのままに捨 御日合も切迫、手段も 置いては御威光にも拘ることで人数を以て打払うより外はない。 , ないので、御手当厳重に取計らい妨害者を切払い打払っても宜しいか一応お伺い申上げ たお
し候。」 幕府側で、七、八年乃至十年後には、必ず天皇の思召通り、外国人の渡来を拒絶し、 嘉永以前の鎖国の状態に戻すと誓約したことを信じて待っている。もっとも、このほか にもいろいろと言って来る向もあって、幕府にきびしく申入れてよい儀もあるのだが、 これは朝廷へ忠義として申して来るので、その事を洩しては、その者に対し信義なく、 その人々に罪を受けさせて、却って天下を惑乱せしむることにも成る。それ故、今日ま で一言も言わず、この上とてその人の姓名は言うことは出来ぬが、事実だけは申通じ、 将軍や老中に聞かせ、若狭守と同様に信実にその誠心を尽くし、朝廷と幕府との間に、 すこしも隔意もないようにしたいのだ。お前たち両名は、どうか粉骨尽心、「朕がこの 志願を達すべきよう、周旋に於ては、一に国体を存し、二に天下治平の基と為り、三に 公武和熟し、意念を掛ける事これなきに至る。かくの如きに至れば、朕の懇望何事か之 どおり に如かん。これに依り今度、関白も伝奏も沙汰なく、表通彼是申出でず、有文、具視 の両朝臣を以て、巨細の内談申付け候間、朕が国体に苦心の廉、国内を委任の廉よくよ く聞きわけ、天下一に定まり、帰服の処置如何これあるべくや、と心底残さず談合候よ う頼入り候。」和宮の供で、岩倉、千種の両人が江戸に赴くことに成ったのは、都合が よい。所司代の腹心の家来、三浦七兵衛、藤田権兵衛とよく連絡し、老中の久世、安藤 と直々に話して自分の志願が徹底するように、大事を誤らざるように計らって貰いたい。 宸翰は、この趣旨を托して、最後に決して明るいとは言えない感懐を述べている。
合にも列を突切ることは許されぬ。これは侮辱したものと見て、その償いは死を以てせ ねばならぬ。」 当時、普通の慣例たったが、今日では日本人でも想像のつかぬことであろう。それだ け、大名、武士、町人の階級に差別があった。オリファントは波止場から出て来るなり、 それにぶつかった。 「当時の私は、日本人がこの礼儀をそこまで執念深く守ろうとするのを、知らなかった し、この行列を横切ったら如何な危険を冒すことかも考えなかった。しばらくの間、一一 列となって、ゆっくりと果なく続く行列を見て立っていた。正午近い日光に照りつけら れて、あまりの暑さで耐え難く自分が卒倒するのではないかと思った。公使館の門は目 の前僅か十二ャードの所にある。行列の中の普通より空いた隙間を見て、私はそこへ突 進した。サムライ達が刀を抜く前に私が通抜けたのは、彼らに不意で驚きの方が大きか ったからであった。二、三人殺気立って追いすがって来る前に私は門の扉を閉めた。老 中たちとの協議が終って、ラザフォード卿 ( オールコック公使 ) は香港にいる東洋艦隊 司令長官ジェームズ・ホー。フ卿に来て貰うよう要請したこと、提督と協議した上で万事 風を決定することとし、辞職してイギリスへ帰る希望もやめ、本国政府の訓令を待っこと にしたと話した。」 黒代りにオリファントが報告を携えた上、事件の詳細を説明する為に帰国して貰うのだ 盟と知らされた。将軍からイギリス女皇に対する親書もオリファントに托される。オール
盟ルメレン石もて造り、屋根の上に、丸く大なる櫓の如きもの、今普請中にて、なかば組 たてたり。正面の石の階段を登るに二丈もあるべし。入口正面に華盛頓国初の図、その 他さまざまの額を掲げ、所々見巡るに、口々に番兵有り。評議の席とて案内するに、」 議場である。 さじき ごうてんじよう 「二十間に十間もあるべき板敷きにして、四方折廻し、二階桟舗にして合天井の如く格 子に組みて、金銀彩色の模様ある玻璃の板を入れ、高き事二丈余も有るべし。正面高き 所に副大統領、前に少し高き台に書記官一一人、その前円く椅子を並べ、各机、書籍を夥 しく設け、凡四、五十人も並び居て、その中一人立ちて大音声に罵り、手真似などして 狂人の如し。」 裃をつけた江戸城内の評定が言葉遣いも荘重で静かなのとは、おそろしく違うのであ る。 「何か云い終りて、また一人立ちて前の如し。何事なるやとといければ、国事は衆議し、 各意中をのこさず建白せしを、副大統領聞きて決するよし。一一かい ( 階 ) 桟敷には男女 群集して、耳をそばだてて聞きたり。」 傍聴席の在ることなど、最も理解に苦しむところであろう。他聞を戒め密談本位にす る日本から来たのである。 もと 「かかる評議の席のかたわらに聞きていしが、何なりと問うべきよし云いぬれど、素よ り言葉も通ぜず、又とうべきことわりもなければ、その儘出ぬ。二階に登りてまたこの およそ
めて僅か十部に足らず、固より和蘭から舶来の原書であるが、一種類唯一部に限ってあ るから、文典以上の生徒となれば、如何しても其原書を写さなくてはならぬ。銘々に写 して、其写本を以て毎月六才位会読をするのであるが、之を写すに十人なら十人一緒に くじ 写すわけには行かないから、誰が先に写すかと云うことは籤で定めるので、さてその写 しようは如何すると云うに、其時には勿論洋紙と云うものはない。皆日本紙で、墨を能 ど 5 ′さ すっしんかき く磨て真書で写す。それはどうも埒が明かない。埒が明かないから、其紙に礬水をして、 それから筆は鵞筆で写すのが先ず一般の風であった。その鵞筆と云うのは如何云うもの であるかと云うと、その時大坂の薬種屋か何かに、鶴か雁かは知らぬが、三寸ばかりに 切った鳥の羽の軸を売る所が幾らもある。これは鰹の釣道具にするものとやら聞いてい とナ た。価は至極安い物で、それを買って磨澄ました小刀で以て、その軸をベンのように削 って使えば役に立つ。それから墨も西洋インキのあられようわけはない、 ( 中略 ) 斯う 云う次第で、塾中誰でも是非写さねばならぬから、写本はなかなか上達して上手であ る。」写本に依るよりほか原書のない状態だから勉強に必要な辞書にしても、・一部きり よ、つこ。 / 力 / 「その辞書と云うものは、ここにヅーフと云う写本の字引が塾に一部ある。是れはなか こしら なか大部なもので、日本の紙で凡そ三千枚ある。これを一部拵えると云うことは、なか なか大きな騒ぎで、容易に出来たものではない。是れは昔長崎の出島に在留して居た和 蘭のドクトル・ヅーフと云う人力ノノ : 、、レマと云う独逸和蘭対訳の原書の字引を翻訳した かつお
ってくれないか、と行く先々でうるさいように聞かされたが、遂ぞ止まれということを、 ただの一度も勧めた者はない。露西亜に来て始めて止まれという話を聞いた。その趣を 推察すれば、決してこれは商売上の話ではない。如何しても政治上また国交際上の意味 を含んで居るに違いない。 こりやどうも気の知れない国だ。言葉に意味を含んで止まれ と云う所を見れば、或は陰険の手段を施す為ではないか知らんと思うた事があったけれ ども、そんな事を聞いたと云うことを同行の人に語ることも出来ない。語ればどんな嫌 疑を蒙るまいものでもないから、その時に語らぬのは勿論、日本に帰て来ても人に云わ ずに黙って居ました。或はそういうことをいわれたのは私一人でなく、同行の者も同じ 事をいわれて私と同じ考えで黙って居た者があったかも知れない。」 一行が露都に滞在したのは約四十日に及んだ。樺太の国境の問題は、嘉永六年に長崎 に来た露使。フチャーチン、安政六年にムラビョフと談判し、日本は北緯五十度を以て境 界とすべきだと主張したが、協定成立に至らなかった。使節は幕府の訓令どおり、やは り北緯五十度の境界を主張して談判を進めた。ロシア側の全権はアジア局長のイグナチ エフで、境界は山や河流の地勢に依って定めたい。経緯度では実地の不都合を残して将 者来に問題を残す。露国の移住民は現に五十度付近まで南下して住んでいるが、日本人は 志南の海岸で漁猟を営んでいるだけで、五十度付近には一人も入ってない。それ故、四十 有八度内外のところに河流と山脈があって天然の境界となっている地形があるから、ここ を日露の国境としたい。その方が将来、紛争も起らず、両国の為になると思う、と、五
( 正使新見 ) はおのれの部屋とむかいなれば、床にふしながら如何にありしゃなど折ふ し声を掛しのみなり。忠順 ( 小栗 ) は上の段の部屋なれば、洲の岬 ( 房州 ) を出でし頃 部屋に入しまま音信もなく、きよう ( 正月二十四日 ) 家司 ( 家来 ) もて問いければ、し と胸ぐるしきこと甚しと聞ゅ。」 ( 村垣遣米使日記 ) 正副使節三名とも、洋上に出ると部屋に閉じこもって寝込んだ。やがて、海が尋常で なく荒れて来る。 「正月一一十七日、晴南風烈、終夜暴雨。夕方より雨風はげしく夜に入りていよいよ動揺 甚しく荷物調度など皆縄を掛て動かぬようにせしなれど、かく甚しく成りては陶器、玻 璃器など、ここかしこにそこねける音したり。荷物なども転倒し、起出んとすれば足も ふみかねて物にとり付たるばかり。森田行、室の便所にゆかんと開き戸を明れば戸と共 にまろびたりしが、家司どものうちには重く病めるものの如く動くこともならず、むさ たらい きものある盥の上に手をつきたり。そこら清むることもならず、行は寝床なければ動揺 のたびにころげまわりて苦しければ、正興の寝床に這入てふしぬ。後にはかた ( 語 ) り 合て、いとおかしきことどもなれど、物言う人もなく唯動揺の音のみ也。おのれは寝床 にふしながら、力をはらねば盆に桃をのせたるごとし。」 国 陸上の御大身お歴々も、この荒海には兜を脱いだ。従者の方は、もっと悪い条件に置 異かれる。 「深更になれば風波いよいよはげしく、家司の部屋部屋は大砲を取除て、砲門をふさぎ