倉に宸翰が下り、東下の途中、大津の泊りにもその旅館に勅使があったなどは、岩倉が かねての志をいよいよ前進させる勇気を起さしめた。もともと覚悟のある岩倉や同志の 千種有文は、同様に武家に対する場合、公卿に特有の本能とも言える伝統的自負を持っ ていた。武辺に対して、それが彼等の唯一のカであった。 和宮の供奉をして江戸に着き、十一月二十一日には、武家伝奏以下、登城して将軍に も謁見し、二十五日は城中大広間に招かれて、能など見たが、千種有文が二十一一日付で、 京にいる久我建通、正親町三条実愛などに送った書簡には、公卿らしい意地の悪さのこ もった批評が伺い得る。数世紀の宮廷生活が人に植えつけた自尊心は外に向うと強し 京から見れば将軍のいる江戸は田舎なのである。 「昨日登城、対顔等滞りなく相済み、畏れ入り存じ候。まことに以て将軍家建物の有様、 さてさて美々敷く、一向不埒なる儀言語に尽し難く、目当てて見られぬ程の儀、たとえ ば門徒宗の仏壇見るようにこれあり。ただただ俗々たる物にて、大広間簾など掛けわた ふち しこれあり、すべて古金襴など縁にて存外成るものに候。且登城は辰半頃相済み候えば、 ひつじ 未半頃、その間、加賀中納言の詰所とかにて一同休息、もっとも火炉、田葉粉盆等は 一切に出で申さず云々。」 京と江戸との距離は、その頃地理の上だけでなく心理的にも甚だ遠かった。アメリカ、 ヨーロい ハへ渡った日本の武士たちが異国を斜に眺めて、何事も日本が優ると信じた閉 きよごう 鎖された心が、公卿の場合、日本の国内で更に倨傲に執拗に働く。 たっ
皿老公にて、その中心は江戸たりしに引替えて、今はその偶像本尊は禁中有志の公卿にて、 その中心は即ち京都たるの状況に進化したり。」 桜田門の事件、ヒュースケンの暗殺、東禅寺の夜襲が続けざまに発生し、更に横浜居 留地を焼払う計画が諸方に噂される物情を見て、幕府は水戸藩に迫って領内の不穏分子 の弾圧と一掃を行わしめた。前から逮捕されていた者は多く獄死した。水戸は、昨日ま で見せたエナージーを最早外に示さない。これに代って京都が俄かに、言論の自由な、 活発な土地となって、諸国の有志を吸収し始めた。 昨日までは眠ったように静穏な土地柄だったのに、しきりと人が入って来る。多くは 無籍の浪士だったが、そうとばかりは一一 = ロえなかった。各藩の有志と自から名乗る、都で はあまり見なかった地方出の者たちである。その特色は、脱藩して浮浪の身となって京 都に来た者のほかに、主人の内命に由って何かの任務を果す為に上京した者が居ること だ。もとはないことだったし、どこの藩でも京都に人を入れることを幕府が固く禁じて いたのである。西国、中国の大名は、備前、芸州、長州、阿州、土州、筑前、肥前、肥 後、薩州など、伏見には行ける。ここで休んで滞在することも出来るが、京都には入る ことが出来ぬ。「薩摩、肥前藩で、京都の親類、一条さんとか近衛さんとかに立寄るに は、御老中に願って徳川さんの許可を受けねばならぬ。それも夜分は京都に泊ることは ならぬ。伏見に行ってお泊りになる。」 ( 下橋敬長談 ) それ故に、藩士たちも最初は、藩命を受けて京に来ているのを隠していたが、それが
秋山香乃 歳三往きてまた 秋山香乃 新選組藤堂平助 秋山香乃 ほむら 総司炎の如く 代・ 池宮彰一郎 時〕 受城異聞記 庫 . 春乙川優三郎 文椿山 乙川優三郎 生きる 乙川優三郎 冬の標 しるべ ( ) 内は解説者。品切の節はご容赦下さい。 鳥羽・伏見の戦いで新式装備の薩長軍になす術もなく敗れた歳 三は、その後も東北各地で戦い続け、とうとう最果ての地・箱館 にたどり着く。旧幕府軍最後の戦いに臨んだ歳三が見たものは。あ 江戸の道場仲間と共に京へ上り、新選組八番隊長でありながら、 新選組を離脱、御陵衛士として、その新選組に油小路で惨殺され あ た北辰一刀流の遣い手・藤堂平助の短い半生を赤裸々に描く。 新撰組最強の剣士といわれた沖田総司。芹沢鴨暗殺、池田屋事変 など、幕末の京の町を疾走した、その短くも激しく燃焼し尽くし あ た生涯を丹念な筆致で描いた新撰組三部作完結篇。 幕命により厳寒の北アルプスを越えて高山陣屋と城の接収に向 かった加賀大聖寺藩士たちの運命は ? 表題作ほか、「絶塵の 将」「けだもの」など絶品の時代小説全五篇収録。 ( 菊池仁 ) 城下の子弟が集う私塾で知った身分の不条理、恋と友情の軋み。 下級武士の子・才次郎は、ある決意を固める。生きることの切な さを清冽に描く表題作など、珠玉の全四篇を収録。 ( 縄田一男 ) お 亡き藩主への忠誠を示す「追腹」を禁じられ、白眼視されながら 生き続ける初老の武士。懊悩の果てに得る人間の強さを格調高 く描いた感動の直木賞受賞作など、全三篇を収録。 ( 縄田一男 ) お 維新前夜。封建の世のあらゆるしがらみを乗り越えて、南画の世 7 界に打ち込んだ一人の武家の女性。真の自由を求めて葛藤し成 ( 川本三郎 ) お 長する姿を描ききった感動の長篇時代小説。
283 黒い風 仕り候間、なにとそ御積出しのところは、此方より申上げ候まで、御見合せおき下さる べく候。さりながらその節の手続等は、前以て御相談申上げおきたく候間、貴店の御番 頭様方壱両輩、内々ちょっと御差越し下され候わば、至極絶妙の事にて有難く存じ奉り 候。または御沙汰次第、こなたより参上候ても宜敷く候間、この段、御勘考なし下さる 鮟鱇切り捌き方の儀、この間、上方 ( 京・大坂 ) 筋へ談じ遣わし候事もこれあり候間、 万一上方表にて入用の趣き、註文申越候わば、早々貴店へ申上ぐべく、その節は相違な く御送り下され度く願い奉り候。」 宛名は、水原 ( 水戸、原市之進 ) 御店様である。攘夷の黒い風は大橋訥庵の失敗を最 後に袋小路に入って、ほとんど消えた。次に新たに吹きすさび出る時は、個人から離れ て全国的な政治運動にふくれ上がっていた。
があってさえ、続々関東からやって来る御同勢の継立てに十分だとは一一 = ロえなかったくら いだ。馬籠峠から先は落合に詰めている尾州の人足が出て、御荷物の持運びその他に働 くというほどの騒ぎだ。時には半蔵はこの混雑の中に立って、怪我人を載せた四挺の駕 みとの 籠が三留野の方から動いて来るのを目撃した。宮様の御泊りに宛てられるという三留野 の普請所では、小屋が潰れて、怪我をした尾張の大工達が帰国するところであるとい これがまだ和宮が京を出る以前の街道筋の状況である。小説ではあるが道筋に沿って 人を緊張させた当時の空気が見えるようである。 「西は大津から東は板橋まで、宮様の前後を警衛するもの十一一藩、道中筋の道固めをす るもの二十九藩ーーーこんな大袈裟な警衛の網が張られることになった。美濃の鵜飼から 信州本山までの間は尾州藩、本山から下諏訪までの間は松平丹波守、下諏訪から和田ま での間は諏訪因幡守の道固めという風に。 十月の十日頃 ( 和宮の出発は二十日 ) には尾州の竹腰山城守が江戸表から出発して来 て、本山宿の方面から順に木曾路の道橋を見し、御旅館や御小休み所に宛てらるべき 者各本陣を見分した。」 志 有「夜明け前」からの引用を、もう少し続けよう。当時、冬霧とともに街道をこめた物情 を知る為である。
せんさく ( 江戸に送った ) の人々、穿鑿の儀、勘弁の余隙これなきか云々。実に彼と云い、是と 云い慨歎に堪えざる事なり。」 この年十月六日に、実万は五十八歳で死んた。遂に一乗院村を出なかったわけである。 男女が踊って練り歩く町の馬鹿騒ぎを外に、御所の築地内の公家町は森閑として、大獄 の進行にも拘らず気力なく沈黙していた。 ただ一つ、その時、抗議の声が発せられた。これは公家の中からの意見ではなく、天 皇の勅書であった。水戸と、その関係の処分が発表されて、京にも聞えた時である。十 月十六日のことで、内々に勅諚が九条関白に下された。 それ以前、八月中に、幕府は金五千両を朝廷に、二万両を朝臣の間に分っように、 「御手元御座右の為」献上したし、特に九条関白には、千石加増し、別に米五百俵を 年々支給する旨、所司代酒井忠義の公用人三浦七兵衛と九条関白家の諸大夫島田左近と の間に打合わせをして、やがて正式に行われた。経済困難の朝臣は、これで潤うのであ る。大獄の進行を見て沈黙した公家たちは、これで更に貝が蓋をしたように発言しなく なるところである。 動 天皇の不意の勅書は、九条関白を驚かしめた。側近の公家が追われた後も、幕府に対 反する天皇の態度は、すこしも変っていなかったのである。 「一、水戸前黄門 ( 斉昭 ) 以下、関東より咎めの儀、右はそれぞれ吟味の上、裁判のこ
て攘夷を貫こうとされたが、封建制度 背後に在る。孝明天皇お 0 お引に夷狄を嫌・、 ? の底辺の経済の不安や動揺が、々をして手段どして攘夷論にびつくようにさせた。 実は彼等は、攘夷が何であるかを殆ど考えようとしない。熱気流の如き情勢に動かされ て攘夷の乗合馬車に便乗を急いだ。理由なく現状打破が当面の目標である。 攘夷論が、どこの通行も許される手形と成っていた。合言葉のように、初対面から議 論の合う人々を、どこでも見つけ得るのだ。一個の落石が雪崩を呼び得る。攘夷党は個 人である。まだ組織がないものだった。 「文久元年の秋頃よりして、諸国より出京したる攘夷党は、公卿の攘夷党と合体して、 その勢力を得たるに由り、京都の威権は全く攘夷党の左右する所となるに及びたれば、 彼の諸藩の士籍を脱したるもの、及びその他の有志者は、皆浮浪の名称の下に一括して、 専ら過激の政論を主張し、その勢いは延びて関東に及び、禍機一たび潰裂せば、底止す る所を知らざるの危うきに瀕したりき「 . , 、而して幕閣は益々これに処するに苦しみ、ほと ど策の出るをらざるに当り、この時よりして時勢を左右するの機軸となりたるは、 実に薩州、長州の二藩なりとす」 藩として、正面を切って時局の舞台に登場して来るのは、なお暫く時を待たねばなら ぬ。藩の有志者として彼等は出現した。ひそかに藩命を帯びて上洛している者は、まだ 表面に立って働くことを慎んでいたが、長州藩の力なり薩州の藩力を暗に背中に受けて、 策動する有志の数が増加した。
( 中山忠能 ) より噂にて三浦 ( 七兵衛 ) へ段々申し聞け候所、大仰天にて早速取調べに掛 り侯由に候。何かごてごて行違いばかりにて、始末揃わざる事共に候。」 和宮が将軍の義母 ( 家定の夫人 ) に贈り物をするのに、「天璋院へ」と目下の者に遣 るように書いたので、天璋院以下大奥の者たちが和宮に対し腹を立てたと言われた。こ れは、和宮のお付きのものが皇女内親王からの賜り物として勝手に計らったことで、和 宮は知らなかったことであろう。京から下ったお付女官は、ひどく神経過敏になってい しとね て、宮と天璋院と対面の際、天璋院が上座につぎ、茵の上に着座したのに、和宮の席が 左わきの下座で、あまっさえ茵を出してなかったというので、無礼を怒って、やかまし く不平を鳴らした。大奥の側では単純に嫁姑の待遇をしたのだろうが、こちらは皇女だ しもざ しゅうとめ から、公卿の礼儀では、姑の天も下座の礼を採るべきだとした。 天璋院は、薩摩の島津の支藩の女だが、島津斉彬の養女とした上、更に京都の近衛忠 熙の養女として家定将軍の正夫人として嫁いで来たひとである。これも手の込み入った 政略結婚であった。家定の死後も天璋院として大奥に絶対の存在だったが、元来、気性 の烈しいひとだったらしい。経歴からもまた、そう成るだろう。和宮の夫となった将軍 者家茂は十七歳であった。和宮も同齢である。慣れてからは優しい心が通い始めた。将軍 志が吹上で馬の稽古をするのを、宮が小高いところから見ていると、帰る時に将軍が石竹 有の花をとってくれたとか、不意に宮の御殿へ来るのに、金魚を持って来たとか、色は黒 3 いと都に報告されたが、可憐な画のように想像される姿が御側日記に残っている。 かみざ
たのに比べて、公家の中で連絡の中心となり諸方に通じる糸をあやつり、ほとんど支配 的な地位にあった人物であった。彦根の行列や邸に一発打込み、切込むような非常事態 を作り得れば、幼い将軍では収拾覚束なかろうから年長で英明な慶喜を将軍に立てるよ うに綸旨を出すのも容易だと言ったことまで調べ上がっていて、死罪とはならなかった のは、別段の優遇がここにも遺伝されたものである。 「右、申付 ( 遠島申渡し ) の後、伝馬町揚り屋に在りて出船を待ちけるに、獄中にても、 身柄故、大いに尊敬しけるとなり。絹の紋付の服を着し格別衰えたる景色もなくして、 その頃この獄を出るもの有りしに其者に京への伝言を仕りたり。コロリ病にて死したり ひつじ しいしとなり。但し島は八丈にて出船は未十一月七日のよしいえ と思いくれよとのみ、 さる りしが、後聞に翌、申の春になれりともいえり。」 ( 東行日記 ) 「関東にて御預け中も甚 だ我儘をいい、衣服は日を経ずして垢付きたりとて度々替えさせ、寒しとて絹蒲団多く いくつも重ねたる上に座し居たりとぞ。預りの大名方にても甚だ困りしとい 入れさせ、 えり。」 ( 江戸にて聞くところ、森川生話す。 ) 自分に在りもしない寄生的特権を極端に利 用した人物であろう。 小林以外の公卿侍は、民間の儒者や志士たちと多少連絡や交際があった程度で、積極 動 的に働いた者は当時はまだすくない。青蓮院宮の家来伊丹蔵人は取調べに対し、「宮は 反一山中の困り者にて候」と証言した。 あいまいな嫌疑で捕えられ江戸に送られた公家の家来多勢は、構いなし放免となって
彼等は西奔し東走して、江戸の屋敷にいるかと思うと、何か画策して、京に出て来る。 大坂に蔵屋敷があるのも、郷里と連絡を通じるのに便利で好都合であった。必要な運動 資金も、ここから出た。実際に、彼等の背後にある藩の力が押出して来て幕府の勢力と 京都で対立するのは後日のことに成るが、その基礎は、有志の活動で急に築か始めた。 江戸に出て水戸の同志と連携を遂げた長州藩の桂小五良ロ田松陰門下の人々、ま こ井伊大老の暗殺を起す以前に水戸に接近し、同じ工作をしたル・部、堀 次郎 ( 仲左衛門 ) 、有村兄弟などは、その先駆的な役割で尽力した人々で、この種の有 志者の姿が、さかんに京都の町で見られるように成った。必ずしも藩命を受けて働いて いるのではないが、後ろにある藩の実力が彼等の存在を重要にしていた。 二百年余の従属関係があることだから、幕府をなくした日本をどこの藩でもまだ予想 出来なかった。外交の問題についても、攘夷の熱情はあっても、浮浪のように幕府の方 針に反抗する態度は示さない。 御三家の水戸藩でさえ、その嫌疑から幕府の強い弾圧を受けて意気を沮喪した。開国 者に異議を差挟んだ大名は、井伊大老の独裁で隠居を命ぜられ、政治から退いた。一橋慶 志喜や、越前侯松平春岳が赦されて復帰したのは、文久二年になってからである。その以 有前に、地方の藩として国事周旋に中央に向って発言を試みたのは長州藩だけである。こ じきめつけ れは藩の直目付長井雅楽の建言を藩主毛利慶親が容れ、藩の首脳部が討論の上、藩議と