京都 - みる会図書館


検索対象: 天皇の世紀 3
72件見つかりました。

1. 天皇の世紀 3

416 孤立した雅楽は、帰国して謹慎するように命ぜられた。三条実愛に呈した建白書の中 に、鎖国は島原の乱の後に定められたもので、それ以前は「夷人共内地へ滞留差免され、 且っ天朝御隆盛の時は京師へ鴻臚館を建て置かれ候こともこれある由に候えば、」鎖国 は皇国の古来からの法とは言えないと記したのを、問題とされ非難された。 長井雅楽は一度昇った天から墜落した。帰国するのに京都近くを通ると聞くと、久坂 玄瑞、寺島忠三郎、野村和作、堀真五郎、伊藤俊輔 ( 博文 ) などが雅楽を斬るつもりで、 草津の宿まで出かけ、発見出来なかったので、守山、伏見のあたりまで捜索した。 雅楽は用心して守山から伊賀を回って大坂に出たので、危うく難を逃れたものだった。 しかし郷里でやがて彼を待っていたのは、切腹の命令であった。

2. 天皇の世紀 3

414 違勅を手伝うことと成って、長州藩は天下の指弾を受ける。周布政之助は、長井雅楽 の説を藩論として決定する際に、文案の起草に当った者である。しかし江戸に出てから、 世間の情勢を見て幕府の力がまったく頼むに足りぬのを知った。桂や久坂の提言にも耳 を傾けた。急に藩主に会って周旋をやめさせるように思い立って郷里に向った。 久坂玄瑞は、藩に向って建白書を出した。藩庁では、これを却下して久坂に帰国を命 じた。それ以前に、久坂は京都に出て、初志を貫徹する為に奔走した。彼が会って相談 を重ねたのは、藩の者では中谷正亮、佐世八十郎 ( 後の前原一誠 ) 、品川弥二郎などで、 京都に出ていた諸藩の有志では、土佐の坂本竜馬、吉村寅太郎、薩摩の森山新蔵、久留 米の原道太、荒巻羊三郎などである。 一旦帰国した長井雅楽が、藩主に先立って、この時また上京して来た。長井の周旋の 事が外にも知れたので、志士たちの中には長井を殺そうと企てる者もあった。 薩摩の西郷吉之助が大坂に出ていたが、木場伝内に宛てた手紙に、長井雅楽を殺すの も已むを得ないと告げたのは、注目に値する。 「永 ( 長 ) 井を打つの策は実に手荒い様に御座候えども、天下の奸物にて御座候。京師 へ罷り登り候わけは、幕 ( 府 ) より御頼を以て出で居り候。それはこれまでの ( 幕府 の ) 御扱い振り宜しくこれなく、前非を悔いて御改めなさるとの趣を以て、朝廷をだま しつけ候策にて、書取を以て朝廷へ差出し候書面これあり云々。」 長井雅楽も、この険悪の情勢を感じ取った。「薩州人その外浪士、私を姦物と名目仕

3. 天皇の世紀 3

皿老公にて、その中心は江戸たりしに引替えて、今はその偶像本尊は禁中有志の公卿にて、 その中心は即ち京都たるの状況に進化したり。」 桜田門の事件、ヒュースケンの暗殺、東禅寺の夜襲が続けざまに発生し、更に横浜居 留地を焼払う計画が諸方に噂される物情を見て、幕府は水戸藩に迫って領内の不穏分子 の弾圧と一掃を行わしめた。前から逮捕されていた者は多く獄死した。水戸は、昨日ま で見せたエナージーを最早外に示さない。これに代って京都が俄かに、言論の自由な、 活発な土地となって、諸国の有志を吸収し始めた。 昨日までは眠ったように静穏な土地柄だったのに、しきりと人が入って来る。多くは 無籍の浪士だったが、そうとばかりは一一 = ロえなかった。各藩の有志と自から名乗る、都で はあまり見なかった地方出の者たちである。その特色は、脱藩して浮浪の身となって京 都に来た者のほかに、主人の内命に由って何かの任務を果す為に上京した者が居ること だ。もとはないことだったし、どこの藩でも京都に人を入れることを幕府が固く禁じて いたのである。西国、中国の大名は、備前、芸州、長州、阿州、土州、筑前、肥前、肥 後、薩州など、伏見には行ける。ここで休んで滞在することも出来るが、京都には入る ことが出来ぬ。「薩摩、肥前藩で、京都の親類、一条さんとか近衛さんとかに立寄るに は、御老中に願って徳川さんの許可を受けねばならぬ。それも夜分は京都に泊ることは ならぬ。伏見に行ってお泊りになる。」 ( 下橋敬長談 ) それ故に、藩士たちも最初は、藩命を受けて京に来ているのを隠していたが、それが

4. 天皇の世紀 3

うら 裏をくぐるようなこっそりした仕事に限られていた。下橋敬長氏の談話から、低い官位 を魚屋や蕎麦屋の亭主にまで公卿が売って、七位、八位の位を持った商人が居た事実を 以前に紹介した。町の商人は、位がつくと菊の紋章のついた高張提灯を店の前に出す。 すると、奉行配下や町方の幕府方役人は、事件があっても踏込むことを許されない。そ れが欲しいので、役を買って官位をつけて貰う。それを売る公卿がいたのだが、今度は 自分たちが特権を真向から振りかざして、過激な議論が存分に出来ることを知ったので ある。 地下水のように隠れて始められた列藩の京都往来は、やがて地表に現れて、公式の代 表に相当する武士たちを送り込む。薩摩も長州も藩の屋敷を都に持っていて、留守居を 置いてあった。上層の公卿との . 政治缸過去のような民間有志ーー浮浪と呼ばれ た人々では担い切れぬ比重を持つように成った証拠である。 その一方に浮浪は京都市中に増加した。安政大獄以前の原始的な策謀家と余り相違せ ぬ素朴で単純な有志があると共に、京都に出て何やかやと事件を物色して気勢を揚げる 行動派もある。 一時、水戸を慕って小金駅や長岡村に屯集して目的もあいまいに浮動していた面々と 似た浪士たちが、諸国から出て来て京都を中心に集った。この場合も当面の目的なしに 京都にいることに成る。それだけでも満足し、どこかで事が起るのを待っていた。

5. 天皇の世紀 3

のろまで、世間にくらくて、賄ろを取り込み、お金をこせえて、奥向いじって、金銀な んそで、女中をだまして、御褒美もらって : : : 」 チョボクレは続く、 「非道がつのって、忠臣捕えて、毒害なんぞで、諸人が怒って、これではならんと、水 戸さん支度で、薩摩も支度で、役人あわてて、姉さん ( 姉小路 ) たのんで、京都へのぼ せて、九条 ( 関白 ) をこせえて、宮様 ( 有栖川宮 ) なんその、奥様 ( 和宮 ) うばって、 聟さまきどりで ( 将軍が ) 、京都のおかげで、大名おさえて、おく病たらたら、暮そう なんそと、いい気であろうが、それではすむめえ。なんぼたわけの役人ばらでも、臣下 の義理合、征夷の二字をば知らずばなるめえ。」 征夷大将軍が、攘夷をなぜ実行しないのか、と昔からの征夷の二字に絡めて言う。西 洋人を見なかった平安朝時代の職名が、攘夷の為のものだったようである。 「当時のありさま、よくよく見なせい。十五十六おとしもいかねえ、小僧 ( 将軍家 茂 ) の手際でどうなるものかえ。その上小僧も桀紂もどきに、お庭で女中のはだかの角 者力や、あひるを毎日四、五十殺して、慰みなんそは、あきれたさたではねえかえ。征夷 志のおしよくが、それほどいやなら、京都へ返上させるがよかろう。それとも此まま置ぎ 有たいものなら、心を入れかえ武士ぎ ( 気 ) をおこして、夷人を払って、京都が大切、日 本大事と、蘭家のぬすびと、異国へ送り、ほんとう本まの、お国としたなら、諸人が帰

6. 天皇の世紀 3

純真な熱情で東禅寺へ討入った。二百余名という多数の警備のある中へ、二十人足らず の小人数で突進を試みた。 夷狄のオールコックなどが、勿体なくも京都へ入ろうとした。陸路東海道を彼等が旅 行して江戸に来ると企てていると聞いて、幕府は外国奉行竹本図書頭をわざわざ兵庫ま で派遣して中止させようとしたが、オールコックは肯かなかった。京都へ入ることだけ は許さなかったが、奈良から伊賀の上野を通って、東海道に出るように誘導した。「ミ ヤコ ( 京都 ) へゆくことは見合わせることを承諾していたので、ミヤコを避けるために まわり道をしなければならなかった。そのためにおそらくヨーロツ。ハ人がいまだかって 足を踏みいれたことのない土地をとおることになった。」 ( 大君の都 ) 「外交代表の特権としてすべての条約にとくに規定されている『日本国を自由に旅行す る権利』は、数人の大名によって、しかも大君 ( 将軍 ) の役人の黙認をえて、『公道』 のみにものの見事に限定されているということに気づかないわけにゆかなかった。大君 の結んだ条約によって樹立された実際の関係がどんなものであるかを、これでわたしは、 はじめてはっきりわかったように思う。かれは条約を結びはした。だがミカド ( 天皇 ) 風は決してその条約を批准したり、認可したりしなかった。したがって、 . 大名たちにその 条約をまもるように強制できなかったのである。ミカドの認可のないことには、条約は 黒大君の領地 ( 開港場と江戸 ) 以外のなにびとに対しても、さらには江戸にいる大名やそ の家臣にたいしてさえも、なんの拘束力ももたないのであった。大名の家臣たちは、ま

7. 天皇の世紀 3

二、一一〇人前だったと記録された。如何に行列が大がかりで、その前後の人の往来が はげしかったことか ? もちろん多少の補助金は下がったものだが、これだけの数を調 達するだけでも、小さい町村には大きい負担たったことだろう。 浪人の襲撃の危険がなくとも、幕府は、和宮の降嫁を未曾有の盛事として、ひろく知 しようどう らせ、世間の耳目を聳動させたかった。何かと一番幕府を苦しめた水戸が古くから天下 の尊王の家のように誇り、遅ればせに、これに続いて長州、薩摩などが尊王に立候補し て出る気勢を示し始めたのに対し、幕府が企てた公武合体は潮の氾濫を防ぎ止める大ぎ な防波堤となる。御降嫁のあった幕府が禁裏と一体の存在として、水戸などに尊王の家 柄などと最早言わせぬことを期待したとも考えられる。 その為に幕府も無理を押切った。しかも婿となる将軍へ京都からの引出物が、外国と の条約を破棄する事なり、攘夷を決行する約束であった。これが、どんな形で、幕府の 拘束となるかはこれから先の問題である。井伊大老が意図した和宮の降嫁なり公武一体 は、幕府の古い威厳と鉄のような原則を復活させるのが目的であったが、大老が倒され、 降嫁の話が散々にこじれて難渋した結果が、成功ばかり急いだ幕府が失うものの方が次 者第に多くなっていた。形だけだった朝廷の権威まで借りなければ乗越え切れない難路に 志かかっていたのである。 有宮が、美濃太田宿を経て、中津川を出たのが十一月一日である。可じ日に江戸ては 竹内下野守、松平石見守、京極能登守を近くヨーロツ。 ( 諸国べ使節どし - て派遣すを 0 ' で、

8. 天皇の世紀 3

じ込めるのである。皇女を降嫁願って、将軍の夫人とする。公武合体の名は新奇で美し いが、井伊大老の意志は、この名の下に、京都を昔ながらに政治から隔離し、幕府に従 属する位置に置こうとした。外国条約勅許の面倒な話が起るまでは、実際に、朝幕の関 係はそれだったのだから、もとに引戻すのは怪しむに足りないと信じていた。 宇津木六之丞が長野主膳に宛てて手紙を書く以前に、既にこの話は京都方に申入れて あったことは、「関東の思召、主上に貫通致し候えば」の文面でも明らかである。そう なれば「条約一条も穏かに相済み申すべく」とあって、やはり条約に勅許が出なかった 点に、癒やされぬ難儀を大老は感じていた。宇津木の手紙の日付は、十月一一日だが、そ ただあき の前日、朔日に左大臣近衛忠熙が、幕府側の所司代酒井若狭守忠義を屋敷に招いて公武 合体の件について意見を求めた。どういう形でそれが行われるか、所司代の説明をただ したものであろう。 所司代は、その時、公武の間に暗礁となって横たわっていた将軍宣下のことと、水戸 に下された勅諚を朝廷から仰せ出されてお引戻しになることが必要だと答えた。安政大 のそ 獄の暗雲が覗いている際である。公卿の側では、なかなか穏やかで妥協的である。同席 さねつむ 者した前内大臣三条実万から所司代に向って、公武合体は望むところだから尽力して貰い 志たいと言葉があった。近衛左大臣からも話があった。この間、京都町奉行所付与カ加納 有繁三郎が来ての話に、同人が、若し和宮様が将軍家に御降嫁になれば、公武合体、外国 との条約も引戻しに出来るような話をした。自分 ( 近衛 ) は、それは結構だと思うが、

9. 天皇の世紀 3

やがて共通の事情なので、いっか公然の秘密となった。 「浪人、処士、百姓、町人、儒者、神主、坊主の輩に至るまで、誰彼の別なく、尊攘党 は自から期せずして、京都に会したれば、京都にては禁中に奉仕せる公卿の中にて、や や気力あって時勢に慷慨せる人々は、固より尊攘の志を懐けるを以て、内よりして相応 じて、尊攘党の有志輩に声援したりければ、その初めこそ名を托して、忍び忍びに謀っ がもん たれど、後には公然と主意目的を顕わし、禁中にて別に国事掛の一衙門を設け、有為の 公卿その局に当り、凡そ京都に来れる尊攘有志輩は、寄人とか云う如き名目にて、此に 集ったりければ、同じ禁中ながらも、関白、納頁議奏、伝奏の官員派と、この国事掛 とは、自から一一つに分れ、その実況を窺えば国事掛の有為公卿は、当時世上にて浮浪と 呼びならわしたる尊攘党有志輩の勢力に左右せられ、禁中官員派の評議も、亦この国事 掛の勢力に揺攪せらるるが如し。」 ( 幕府衰亡論 ) ちやせん 歌道や華道、聞香の伝授事から、百人一首の加留多を書いたり、茶筅削りのこまかい 内職をして、静穏に暮して来た公卿殿上人の世界に、突然に革命でも起って来たように、 外の響がひしひしと伝わって来た。強い刺激だが、急には腰が立つものでない。外の諸 者国有志の狂気のような熱情が次第に浸透して来た。生れた家柄や身分の規制で新しいこ 志とは何も出来なかった人々が、何か新しい機会が開けたような覚醒の仕方をした。天皇 有の思召がそもそも攘夷なのだ。 ぬけ 日なた水のような生活の場所で棲むものは因習の重量の下に無気力で、出来るのは抜 およ

10. 天皇の世紀 3

から引取って世話する者もないのが多く、京都まで帰るのに困難した。一条家諸大夫入 江雅楽頭、同じく若松杢権頭は「放逐せられし日、路用の蓄えもなき故、一条家より下 かたがた されたる承り人の宿りける旅宿は昔宿しける事もある故旁その宿に至り宿して京都同 つかわ 伴を頼みけるに、此の承り人は下輩の者にて平生両人に遣れける時の恨をふくみ、供に なしても同伴しがたし。そのもと達を連れに来たりしにはあらずといい、路用を乞えど それ も夫も与えず、この両人まことに困窮。」 反幕府と見られた青蓮院宮が慎み、近衛、三条が慎みの上、落飾して退き、江戸で進 行する大獄を見まもりながら、京都は窒息したように静かであった。 安政六年の十一一月七日には、幕府が内奏して、青蓮院宮に更に退隠永蟄居が命ぜられ た。九月中に、江戸から九条関白に内談があり、この月に入って御沙汰が出たのである。 「尚忠公記」に、九月十三日所司代より内々書取到来写として、「青蓮院宮御事、年来御 身持宜しからず、その上如何の儀も相聞え候につき、御隠居、その上洛中近き御兼帯の 内へ御移り、永蟄居相成候よう、御所向御内沙汰に相成候わば、然るべき旨、年寄共 ( 老中 ) より申越候につき、申上候事」と記録してある。井伊家に今日保存される「幕 末風聞探索書」に依ると、幕府は青蓮院宮の奈良在住時代の婦女子関係を、女たちのそ の後の行方などにつき、隠密にさぐらせ報告させた。慎み後の日常の状況についても、 聞込みを時々送った。