しく掲げ、金銀もて飾りたる玻璃器はり鏡にかがやきて白昼の如く、いとまばゆきばか りなり。これはいかなることかとあやしみけり。人をおしわけおしわけ一間に入れば、 カス出迎え、殊更に懇志の挨拶あり。孫女、子供もとりどり出て手をとりたり。椅子に かかりけれど、席中男女おし合い、かわるがわる来たりて手をとりて挨拶すれど、通弁 も届きかね、何か更にわからず、雑沓極りたり。ジュホント手をとりてかなたへ案内す るに、奥の一間に至れば饗応の席と見えて、大なる食盤に金銀をもて飾りたる中に旭章 と花旗 ( アメリカ国旗 ) を建て、和親を表する事なりとぞ。爰にて酒肉をすすめけり。や がてまた、あなたへ案内にて行けば、一席、板敷きをいと清らかにして、かたわらにミシュ ッキ ( ミュジック ) とて胡楽に胡弓ようのものを添えてはやしけるが、男はイボレット はき 付け太刀を佩、女は両肩を顕し、多くは白き薄ものを纏い、腰には例の袴のひろがりた るものをまとい、男女組合いて足をそばだて、調子につれてめぐること、こま鼠の廻る が如く、何の風情手品もなく幾組もまわり、女のすそには風をふくみ、いよいよひろが りてめぐるさま、いとおかし。是をダンスとて踊の事なるよし。高官の人も老婦も若き も、皆此の事を好みてするよし。数百人の男女、彼の食盤に行きて、酒肉を用いてはこ 国の席に来たり、かわりがわり踊る事とて、終夜かく興ずるよしなれど、おのれには実に うつつ 夢か現か分ぬばかり。あきれたるまでなり。ジュホントをそそのかして、主に暇を告げ 異て客舎に帰る。およそ礼なき国とはいえど、外国の使節を宰相の招請せしには、不礼と とがむれば限りなし。礼もなく義もなく、唯親の一字を表すると見て免るし置きぬ。」 ここ
「去る朔日、松戸宿通行仕り候者の内にて名前分り候面々、左の通。 野村彝助 杉浦何某 永井清助 鯉淵壮助 藤田健次郎」 たぶ 別の報告中に水戸に行く斉昭の供の者が「夜分、酒給る時、詩またうたなどうたい候 由、おりふし ちんふのいふ事きくやつは ゅうしのなかまのはじに成 とうたい候由、ちんふと申す儀、相分り申さず候につき、旅籠屋女にたのみ、農兵熟 酔の節、聞かせ候ところ、江戸御役人の事の由。鎮府とも書き候ゃ。 平常の咄、漢字の音または符牒にて、赤穂義士の名前、その節の諸侯方の名前住所等 などにて、委細相分り申さず候由。」 水街道を中心とした近郊だけでなく、小石川の水戸邸の金田御門、揚場御門と諸門の 出入りの人間を一々見て、書出して報告させてある。水戸を脱走した者は、この探索網 の中を通抜けるのである。
118 故国の封建のぎびしさの中に、確かに皆無の事で、大老か老中首席に当る謹厳の地位 の役人が主催することだが、ふしだら極まることとしか考えられなかった。 四 次の日 ( 閏三月晦日 ) 大統領官邸で奏楽があると誘われて、ジュホントの案内で、タ 方略服のまま出かけた。前々日、謁見の行われたのと同じホワイトハウスだが、この日 は「堂前寂として銃卒一人の守備もなく」正堂にのぼり案内を求めると「ポーイ ( 召 使の下男なり ) 一人出できたり、堂内、人更になし。」一室に入って休んでいると、「下 婢一人見えけり。」 「やがて謁見の日の控所になりし楕円の席に通りしが、きようは花やかなる敷ものもな えんがわ く、呉座 ( 支那製のもの ) を敷きたり。玻璃の障子を明けて椽頬に出れば、堂下一段低 く、見渡し方百間余もあるべき広芝にて、中央に白石もて造りたる石灯籠の台の如きも の立て、水を丈余も吹上げたり。」 もちろん、噴水も初めて見たのである。 「そのかたわらに台ありて、赤き衣服にて二十人も集り、例の胡楽を奏し、庭中一円、 男女群集したるは、万をもてかそうべく思わる。おのれら椽頬の椅子にかかりて一見せ てつじよ しが、大統領はた同じ姪女三人出で来たり、挨拶してともに見物せしが、大統領は見得
合にも列を突切ることは許されぬ。これは侮辱したものと見て、その償いは死を以てせ ねばならぬ。」 当時、普通の慣例たったが、今日では日本人でも想像のつかぬことであろう。それだ け、大名、武士、町人の階級に差別があった。オリファントは波止場から出て来るなり、 それにぶつかった。 「当時の私は、日本人がこの礼儀をそこまで執念深く守ろうとするのを、知らなかった し、この行列を横切ったら如何な危険を冒すことかも考えなかった。しばらくの間、一一 列となって、ゆっくりと果なく続く行列を見て立っていた。正午近い日光に照りつけら れて、あまりの暑さで耐え難く自分が卒倒するのではないかと思った。公使館の門は目 の前僅か十二ャードの所にある。行列の中の普通より空いた隙間を見て、私はそこへ突 進した。サムライ達が刀を抜く前に私が通抜けたのは、彼らに不意で驚きの方が大きか ったからであった。二、三人殺気立って追いすがって来る前に私は門の扉を閉めた。老 中たちとの協議が終って、ラザフォード卿 ( オールコック公使 ) は香港にいる東洋艦隊 司令長官ジェームズ・ホー。フ卿に来て貰うよう要請したこと、提督と協議した上で万事 風を決定することとし、辞職してイギリスへ帰る希望もやめ、本国政府の訓令を待っこと にしたと話した。」 黒代りにオリファントが報告を携えた上、事件の詳細を説明する為に帰国して貰うのだ 盟と知らされた。将軍からイギリス女皇に対する親書もオリファントに托される。オール
正月には、イギリス公使館の日本人通訳伝吉が、公使館門前に武士に刺されて死んだ。 「破局はまことに突然訪れて来た。十分前には、かれはまだ生きていて、われわれとい っしょにいたのだ。かれは、大通りに近い広場に面している公使館の門を出て、すぐそ ばの小道の端にある数軒の家の前に向かって、旗竿のすぐ下の入り口か戸口によりかか っていた。まだ白昼のことで、かれの付近には男や女や子供たちがいた。そのとぎに、 一、二名の男が背後の小道からこっそり彼の立っているところへやってきて、立ちすく んでいるかれのからだに短刀をつかのところまで突きさした。」 オールコックの本から引用を続ける。 「かれは、門番のところまで数歩よろめき歩いた。門番がかれの背中から短刀を引き抜 いたが、かれはその場で自分の血のなかにぶつ倒れた。それは、まさしく急所を突いて いた。尖端はかれの背中をとおって、右胸の上に出た。暗殺者は、短刀をこのように深 く突きさしたまま、きたとぎと同じようにこっそりと姿を消した。かれに手向かったり、 声を出してかれをゆかせまいとした者はひとりもいなかったのである。その行為を見た 風人は多勢いたはずだが、ひとりの婦人以外は、だれもがその一撃を見たことを否定した。 いかれらは否定するように命じられていたか、それともうかつなことをすれば、その罰と 黒して自分たちも生命をうばわれるということを知っていたのかのいずれかだ。一方では 当局をおそれ、他方では暗殺者とその仲間をおそれているので、このようなばあいに正
伴う国内的な政治の重要な転換について触れねばならぬ。和宮が都を出て大津まで来た 折りに、供をしていた侍従少将岩倉具視の旅宿に勅使が下ったことは、前に書いた。岩 倉、千種が江戸に着いたら閣老に対して安政の大獄で退隠せしめられた人々を大赦して 朝廷に復活せしむるよう交渉せよとの勅旨であった。 家格の低い岩倉侍従少将のところへ勅使が下ったのは甚だ異例のことで、人々は意外 としたが、岩倉自身はあやしまなかった。和宮随行の公卿殿上人が御暇乞に御所に伺っ たのが十月十七日である。その日、岩倉も同志の千種有文もその中に加わって居たが、 夜になってからこの両名だけが天皇に召出されて、小座敷で謁見した。久我建通、正親 町三条実愛だけがこれに侍坐した。 天皇は、その時、和宮を江戸に降嫁させるのについて、その経過と、それにまつわる 深い心持をお話しになった。 むすめ 和宮は降嫁を固辞した。この身は先帝遺腹の女であって、一度も先帝の天顔を拝する ねがわ ことが出来なかった。これは終生の遺憾であり、希くは黒御所に入って髪をおろし、 年々先帝の山陵に謁し、香華をささげ、追孝の志を遂げ申したい。因って関東のお話は お断りありたいと申した。自分は骨肉の情として忍びないことだが、国家の大計として さと 已むを得ぬからと再三論し、遂には和宮も、一女子の身として国難を済うを得るとなら ば、水火の中に投ずるも辞せずと承知してくれた。自分はその衷情を憐み、たとえ遠く 隔たるとも、和宮の杖となって扶けてやろうと誓い、和宮も大いに心を安んじて、いよ
112 余は、余の知る処にては又余が信ずる所に依れば、彼等は吾人が通常男子と呼ぶ階級に 属する者なることを述べたり。」 一行はウイラード・ホテルに宿泊した。次の日には、副大統領が挨拶に訪問して来て、 議事堂に招待することに決議があったと伝えた。日時はその内に相談して決めるとのこ と。国会議事堂が如何なるものか、使節には不明であった。 その翌日は、国務長官レウイス・カスをこちらから訪問する日である。挨拶の交換が あってから、大統領に謁見して国書を渡すのを明日と約束した。「この席は外国事務ミ ニストル日毎に詰めける局なるよし。机を設け、書籍など取りちらかして、少しもとり いぶか つくろう様もなく、唯平常の体にて面会し、」これが日本人には一番訝しく感じられる むこ ことだ。「カスの聟レッテャールトその他高官の人々五、六人来たり、はたカスの孫女、 その外婦女子あまた引合いて挨拶せしが、かかる公館に婦人の出るはあやしみけるが、 後には国風なる事をしる。カスは七十有余の老翁なれど、丈高く穏和にして、さすが事 務職と見えて威もまたありけり。外国の使節に初めて対面せしに、いささかの礼もなく、 平常懇意の人の来たりし如く、茶さえ出さす済みぬるは、実に胡国の名はのがれがたき ものとおもわる。」 えびす 淡路守は、アメリカをやはり胡の国と見て、礼儀のないのを卑しんでいる。明日は自 分が正使とともに大統領に謁見するのに如何なる礼を取るべきか、これが難しい疑問と
138 コンゴのロアンダ港に着いた。「港には魚類多く、御国を去りて初めて鯛を見て人々 悦び求めける。この頃水さえ乏しく成りし折なれば別して美味に覚ゅ。やがて船上に出 て、人々鯛を釣得たり。」 アフリカの黒人を見た。コンゴの海岸である。 「土人は真の黒色にして男女も分らず、女は坊主にみえけるが、髪をそりたるにはあら じ。毛はちちれて少しものびず、仏頭の如し。男女とも腰に風呂敷ようのものをまとい くっ 頭より黒き木綿の大風呂敷様のものをまといたるさま、描ける達磨の如し。沓も用いず。 ( 中略 ) 米 ( アメリカ ) の船にて黒人を六百人ばかり買得しという。この地は人を売るこ とを常とし、米利堅は地方広くして人口少なきゅえ、この辺より買出して、本国へ送る ことなるよし。黒人のうちに額より鼻へかけて入れ墨有るものも、黒色なれば能く見ね ば知れす。こは他人に売らぬしるしなるよし。アフリカの南部は不毛の地にして海岸ば かり開けたるは、他国より領して土人を使役し、又売る事なれば、人はふえぬ道理な 永い鎖国で、外国のことには関心も持たずに来た武士たちが初めてアメリカとも違う 不思議な国と人種とを見たことである。 「今黒人の様子を見るに、印度、亜弗利加皆一種の土人にして、彼の釈氏はその酋長な るべし。しかるに釈迦や阿弥陀を壇上に祭りて拝するは愚なる事なり。毛ものびぬ頭を
の関東大震災の頃、生涯の途を決めなければならない岐路に立っていた。女学校の教師 や外務省の嘱託は、もう続ける気がなかった。やはり選ぶとすれば作家の道。それも劇 作家であれば、女優の酉子夫人とともに志した新劇運動とも合致する。 ただ、妻とともに好きな道を進むには、生活の資が必要だった。書き慣れていたとま では言えずとも、原稿用紙のマス目を埋めるのにあまり苦労はなかった。発表の舞台は、 少年の頃から親しんで来た博文館の諸雑誌と、敬愛する長兄、野尻抱影が編集を担当し ていた研究社の諸雑誌が用意されている。まことに背に腹は替えられず、もう逃げ道は なかったのである。 当時の博文館では、しゃれた外国文学を紹介する雑誌「新趣味」を発行していたが、 大震災の甚大な被害により廃刊を余儀なくされた。それにともない娯楽雑誌「ポケッ ト」へ異動した編集主任の鈴木徳太郎に勧められ、いやいやながら書いてみたのが、伝 まやぶさ 奇時代小説「隼の源次」である。わずか一週間で書きあげたというこの作品が、大衆文 学作家としての出発点となった。続いて、読み切りのつもりで書いた「幕末秘史快傑 鞍馬天狗第一話鬼面の老女」が好評で、この時も〈大佛次郎〉の筆名を使い、以後 説『天皇の世紀』掲載直前の昭和四十年八月まで、長篇、短篇おりまぜ合計四十七篇の 「鞍馬天狗」を執筆する。 解この「ポケット」時代は、僅か三年の間ではあったが、二十に近い筆名を使い、百篇 に近い娯楽時代小説を書き続けた。一冊の雑誌の半分の量を、九つの筆名を使い分けて
( 中山忠能 ) より噂にて三浦 ( 七兵衛 ) へ段々申し聞け候所、大仰天にて早速取調べに掛 り侯由に候。何かごてごて行違いばかりにて、始末揃わざる事共に候。」 和宮が将軍の義母 ( 家定の夫人 ) に贈り物をするのに、「天璋院へ」と目下の者に遣 るように書いたので、天璋院以下大奥の者たちが和宮に対し腹を立てたと言われた。こ れは、和宮のお付きのものが皇女内親王からの賜り物として勝手に計らったことで、和 宮は知らなかったことであろう。京から下ったお付女官は、ひどく神経過敏になってい しとね て、宮と天璋院と対面の際、天璋院が上座につぎ、茵の上に着座したのに、和宮の席が 左わきの下座で、あまっさえ茵を出してなかったというので、無礼を怒って、やかまし く不平を鳴らした。大奥の側では単純に嫁姑の待遇をしたのだろうが、こちらは皇女だ しもざ しゅうとめ から、公卿の礼儀では、姑の天も下座の礼を採るべきだとした。 天璋院は、薩摩の島津の支藩の女だが、島津斉彬の養女とした上、更に京都の近衛忠 熙の養女として家定将軍の正夫人として嫁いで来たひとである。これも手の込み入った 政略結婚であった。家定の死後も天璋院として大奥に絶対の存在だったが、元来、気性 の烈しいひとだったらしい。経歴からもまた、そう成るだろう。和宮の夫となった将軍 者家茂は十七歳であった。和宮も同齢である。慣れてからは優しい心が通い始めた。将軍 志が吹上で馬の稽古をするのを、宮が小高いところから見ていると、帰る時に将軍が石竹 有の花をとってくれたとか、不意に宮の御殿へ来るのに、金魚を持って来たとか、色は黒 3 いと都に報告されたが、可憐な画のように想像される姿が御側日記に残っている。 かみざ