貶だったせいとも認められる。公家ならば尊しとする盲目な信仰は、この次の時代になっ みこし て一層濫用される。担ぎ上げられるのを生得、当然のこととして、小暴動の神輿として 迎えられるのである。政治の中心が大獄の後にそういう動揺し易い土壌の上に移るので あった。 小林良典に話を戻すと、「唱義聞見録」には、「太閤殿下御当職の時より事を執って頗 る名高き人なり。才智胆略あるが故に大いに用をなせり、然れども文学なきが故に種々 こう . ま ~ 、 の事に関係して賄賂の黄を貪り是が故に人恐れて或は狼と称し或は鷲ともいえり。常 に武張りたる事を好み具足など数領所持せり。一旦退けられ小林四位と称しけるに再び 用いられて民部権大輔に任ぜり。」あまり香ばしくない性格である。太閤の袖に隠れて 賄賂が取易い地位に在り、周囲がまた、持って行けば効目が現れるのが普通とする小社 会であった。 「小林、六角の牢屋敷にて揚り屋に入れられ有りけるに、町奉行へ出る時縄取ける同心 不作法なりとて足にて蹴倒し、長州 ( 町奉行小笠原長門守 ) を呼び来たり、言聞せんと 大いに罵りけるとなり。その後十一一月五日東行しける時も道中にては甚だ寛大なる事に て、警固の与カ同心等を奴隷の如くに呼び、また其の小吏も尊敬し大切に保護して下り けるとなり。」 身分制の下だが、低い地位の彼が、特権的な待遇を利用出来るのである。 判決は遠島で、橋本左内、吉田松陰がたいして罪らしいものなくして死罪に処せられ
たのに比べて、公家の中で連絡の中心となり諸方に通じる糸をあやつり、ほとんど支配 的な地位にあった人物であった。彦根の行列や邸に一発打込み、切込むような非常事態 を作り得れば、幼い将軍では収拾覚束なかろうから年長で英明な慶喜を将軍に立てるよ うに綸旨を出すのも容易だと言ったことまで調べ上がっていて、死罪とはならなかった のは、別段の優遇がここにも遺伝されたものである。 「右、申付 ( 遠島申渡し ) の後、伝馬町揚り屋に在りて出船を待ちけるに、獄中にても、 身柄故、大いに尊敬しけるとなり。絹の紋付の服を着し格別衰えたる景色もなくして、 その頃この獄を出るもの有りしに其者に京への伝言を仕りたり。コロリ病にて死したり ひつじ しいしとなり。但し島は八丈にて出船は未十一月七日のよしいえ と思いくれよとのみ、 さる りしが、後聞に翌、申の春になれりともいえり。」 ( 東行日記 ) 「関東にて御預け中も甚 だ我儘をいい、衣服は日を経ずして垢付きたりとて度々替えさせ、寒しとて絹蒲団多く いくつも重ねたる上に座し居たりとぞ。預りの大名方にても甚だ困りしとい 入れさせ、 えり。」 ( 江戸にて聞くところ、森川生話す。 ) 自分に在りもしない寄生的特権を極端に利 用した人物であろう。 小林以外の公卿侍は、民間の儒者や志士たちと多少連絡や交際があった程度で、積極 動 的に働いた者は当時はまだすくない。青蓮院宮の家来伊丹蔵人は取調べに対し、「宮は 反一山中の困り者にて候」と証言した。 あいまいな嫌疑で捕えられ江戸に送られた公家の家来多勢は、構いなし放免となって
かえ 大獄の後で、政治の舞台は、反って京都へ移るのである。 これは井伊大老のみならず、国中の有志の者が夢にも予期しなかったことでもあり、 百八十度の舞台転換である。そうなる間際まで、そんな重大な変化が起るとは誰も考え よ、つこ。 オカ / 大獄に連座して江戸送りとなった公家の諸大夫、家臣の人々は、主人の公卿が寄食的 な性格が多分だったのに共通して、最初は朝廷を背後の力として奉行付与力など眼中に ないような、人を喰った威張り方をして掛りの者を困らせた。出入りの者などから詳細 に証拠を調べ上げてあったので、自分たちの方から先を争って崩れ始めた。大体、 しま 性格が調子に乗って、やって了ったことで、根が浅い。崩れ始めると、武士とは違って 自分だけが助かりたい。尋ねぬことまで進んで話した。鷹司家の諸大夫小林民部権大輔 動 りんじ 良典などは、公家侍の身分で、天皇の出される綸旨など、自分の意志一つで如何ともな 反るように放言していたくらいで、どの問題でも旋風の中心になっていたものである。水 戸を初め列藩の有志から不当に権威を認められたのは、誰もある意味で田舎者で、無知 しょだいぶ
さかやき 「一、右宮御方御膳等、召上がりもの御平日に別段御替りこれなき由、御月代は兼て御 嫌いにて御参内の節は格別、左も御座なく候わば三、四十日も御月代なされず、俗に逆 いたがり 毛と申す御髪か、御月代の節殊の外御痛狩なされ候由、もっとも当時は御慎みにて何れ のびたち おなり へも御成等これなく候につき、御月代なされず御髭とも余程延立に相成りこれあり候 こうした身辺の些事までを、密偵が探索して届け出る。退隠永蟄居を仰せ出されて、 たっちゅう 十二月十一日から、相国寺の塔頭、桂芳軒へ幽居せられた。 鷹司太閤、右大臣父子、近衛左大臣も落飾し入道となって慎み中である。三条前内大 さねつむ 臣 ( 実万 ) は前年末から、淀付近の所領の民家に引籠っていたが、六年の三月終りから 洛北一乗院村に退いた。 この四人の慎みを解くように天皇の内意を武家伝奏から所司代に伝えたのは、夏の終 りであった。同じ八月中に江戸では、水戸藩邸に上使を送り斉昭に永蟄居を命じ、家老 あじまたてわき 安島帯刀、藩の京都留守居であった鵜飼吉左衛門父子を死罪に、鷹司家の諸大夫小林良 典を遠島、近衛家の老女村岡を押込に処置した。酒井所司代から両伝奏への返答は、四 公について、「慎み御免の御沙汰御座候ては如何これあるべきやの儀、早速関東へも申 遣わし候ところ、御憐愍の御思召は格別の儀には候えども、関東へ差下しに相成候家来 反の者ども、未だ吟味落着も仕らず候間、先ずそのままに成し置かれ候方と存じ候」旨、 連絡があった。 てんそう
Ⅲたるもの二十人ばかり立並び ( 町役人の類なるべし ) 、次に、楽人三十人、騎兵五、六騎、 次に御国書入りの長持、赤き革覆い掛けたる枠に入れかつがせ、定役、小人目付、通詞 付添い、次に正興 ( 正使 ) おのれ、忠順と下司まで順々車に乗りつれ、左右ケール隊一 行に足並みして楽を奏しつつ行くに大路は所せまきまで物見の車、はた歩行の男女群集 かぎりなし。おのれは狩衣を着せしまま、海外には見も馴れぬ服なれば、彼はいとあや しみて見るさまなれど、かかる胡国に行きて皇国の光をかがやかせし心地し、おろかな る身の程も忘れて、誇り顔に行くもおかし。」 自負心も度胸もある。烏帽子狩衣姿を得意なのも、これこそ婦人服と見えたろうに、 得意でいるのは堂々たるものである。 やがて大統領の官邸に入る。「車より降りて直ちに石の階段を登り、ひと間ふた間過 ぎて控所に至る。」正副使、監察の席で森田以下は別室である。国務長官カスが出て挨 拶し退くと、ジュホント、リイが使節の左右に付添い、成瀬正典が国書を持ち、謁見の 席に行くことになった。 「席の入口に至れば、両開戸を明けたり。むこうへ五、六間、横十一「三間もあるべき 席の正面に大統領 ( 名はブカナン ) 左右に文武の官人おびただしく、後には婦人あまた、 老いたるも又姿色なるも、美服を飾りて充満したり。正興、おのれ、忠順一同に席に入 り、一礼して中央に至り、又一礼して大統領の前に近く進み、正興御諚の趣高らかに述 ぶれば、名村五八郎通弁したり。成瀬正典御国書を持出しければ、正興御書とり出し大
をめぐらし実に神州の罪人である故、この奸臣を倒せば、自然幕府においても悔心を生 じ、向後は天朝を尊び、夷狄をにくみ、国家の安危、人心の向背に注意するように成る と存じ込み、身命を投げて斬殺したのであるが、その後一向に御悔心の模様も見えず、 いよいよ暴政の筋のみに成って来たのは、幕府の役人一同の罪ではあるが、「畢竟御老 中安藤対馬守殿第一の罪魁と申すべく候」としている。 対馬守は井伊家執政の時より同腹であって暴政の手伝いをした。掃部頭が死去した後 かんぼうざんけい も絶えて悔悟の心はなく、その奸謀讒計は、掃部頭の上に出ている。兼て酒井若狭守 ( 所司代 ) と申合わせて、堂上方に正議の者があれば無実の罪を被せ、天朝をも自分と 同腹の小人のみにしようと考え、尽忠報国の志烈しくて手に余る者があれば、夷狄のカ をかりて取押えようと考えていること歴然としていて、実に神州の賊と言うより他はな 。このままにして置いては、前途のことが心配である。近年の内に天下は夷狄乱臣の ものとなって了うのは必然の勢いであって、臣子の至情黙しがたく、この度微臣ども申 合わせて、対馬守を斬殺するものである。 それから以下、対馬守の罪状として、逐一掲げたのは、次の箇条である。 「対馬守殿罪状は、一々枚挙に堪えず候えども、今その端を挙げて申候。この度皇妹 ( 和宮 ) 御縁組の儀も、表向は天朝より下し置かれ候ように取りつくろい、公武御合体 の姿を示し候えども、実は奸謀威力を以て強奪奉り候も同様の筋に御座候故、この後必 定、皇妹を枢機として、外夷交易御免の勅諚を推て申下し候手段これあるべく。」
238 幕府の外交が如何に行われたかを知って置こう。それとは考えず、内容に無関心で無 知の場合が多かったのだ。 「平日、外国奉行が公使館に赴きて、応接するには、立会として御目付を同道し、通弁 の外に、調役、書物方定役、御徒目付、御小人目付、御勘定方とも、およそ十人ばかり の人数にて相向いたり。」応接の趣意も書簡もあらかじめ外国掛の下役がこれまでの前 例に照し合せて書いて渡してある。それ以上の意見は持合せないのを別に不思議ともし よ、つこ。 オカ / 「御老中の邸宅に於て応接の時には、あらかじめ外国奉行その日時を取極めて、報知す れば、その刻限に至りて公使は御老中の官邸に赴くなり。官邸に於ては、その家来、玄 関表座敷に詰合て、威儀をつくろい、外国奉行玄関に出で公使を先導して書院に入れば、 しきい いちゅう 御老中は、その上の間の閾際まで出で、公使を迎え、一揖して座に就く。その座は中央 に黒塗の卓机を置き、相向て数脚の椅子を設け、公使は客席の椅子に就き、随従の書記 官、通弁官その次に着座なし、主席には御老中、その次に外国掛の若年寄、椅子に着座 ありて、少し離れて外国奉行、御勘定奉行、大目付、御目付、十人近い人数で椅子に就 く。それより少し後の方には、外国方の組頭、調役等、および御勘定方、御目付方の属 官等 ( 都合三十人ばかり ) 畳に相並び、あるいは筆記をなし、あるいは顧問に備わり、 ( 御老中は奉行に問い、 奉行は属官に問う ) さながら演劇を見るが如ぎ状況にて外交上の 応接とは、思われざりしなり。」 ( 懐往事談 )
上に発せん。果して然らば我れ彼れを鏖殺するは疾風の秋葉を捲くよりも易々たるのみ と。殺気勃々、その意気当るべからざる概あり。斯くして行列は神奈川を空過し、直行 ちゅうひっすなわここ して程ヶ谷に駐蹕し、乃ち鉉に一泊す。」 ただす 伯爵林董が談話を残している。 「文久二年 ( 一八六一 l) の事なり。東海道は諸侯の往返頻繁なれば、成るたけ通行を見 合わすようにと、幕府より外人に照会し置ぎたれども、外国人は成るたけ内外間に据え 付けたる障碍を排去せんと欲し、東海道に出でざれば散策運動の便なしとて、右の照会 を承諾せず。然らば本牧の方に向って運動散歩の便を開かれよとて、幕府は新規に平坦 の道路を作り、東海道に大名の通行ある時は前以て通知する故、その時だけ、せめて遠 慮せらるる様にと請求したるに、香港より避暑に来りし一行 ( リチャードソン以下 ) 四 人、香港へ帰る以前に是非江戸を見物せんと云う。友人達は今日は島津三郎通行の通知 あり、危険多ければ見合わすべし、と云う。四人は聴き入れずして、否、此等亜細亜人 の取扱いは予能く心得居れり心配なしとて、八月二十一日東海道に出て終に生麦の騒動 を引起せり。」 者 志事実、一一十一日島津三郎発駕につぎ、その前日に神奈川奉行から各国領事に通牒して 有薩州の者は性粗暴なるに依り明日は遊歩をなさざるよう注意し、各国領事もこれを一般 に通知した。更に奉行より横浜門番 ( 居留地関門の ) に厳重に沙汰し、二十一日は一切 はつが おうさっ
気の毒にも存じ、勧めかね、もっとも本人にも納得あるまじくと存じ候。何とそ前文、 とく ほどよくくみとり、一段骨折、篤と納得候わば、いよいよ万人も徳川家を守護致し、万 あらわ 代長久、公武合体にて、皇国の神徳、武威顕れ、如何ばかりも悦ばしく存じ候。」 エスカレーションは続く。九条関白が勅旨を伝えたのに対し、老中たちは、こう答え る。 「元来、蛮夷近海に近付き、追々入港の儀、慶長度 ( 鎖国以前 ) の儀にて、全く今日の ひとえ 場合に至り候儀は、これまでも度々申上げ候とおり、いずれも偏に貿易懇願致し候儀に つき、此方より無法に征討を加え候わけにもこれなく、段々の時勢やむを得す、交易御 ゆるし 差免に相成り候えども、実に御余儀なき御権道の筋にて、関東に於て当時御政務に携わ り候者どもは勿論、上下一人も交易を好み候者はこれなく。」 井伊大老以下、事実、そのとおりだったろう。防禦本能から来るものにしろ、無知だ ったのである。そして、その無知がここに、なおも続けられる。 ととのい じゅうび 「方今、やむを得ず、御猶予中に相成りおり、追々に御戎備 ( 軍備 ) 御整に相成り候 者上は、すなわち御沙汰の通り御拒絶に相成るべき思召に御座候えども、おそれながら一 志昨年以来、御行違の廉もこれあり、度々御往復も御座候て、国内人心穏やかならず、既 有に水府家来法外の乱妨に及び候なども、全く御国内一同、公武の御間柄、かくの如く御 一和に相成り居り候儀を、敬承仕らず候より、心得違いの儀も相生じ候やに存じ奉り候。 かど
江戸の事態も、いよいよ切迫した。続けざまに使者を水戸に送って、二十五日までに 勅書を江戸に登せと命令して来たが、水戸の事情は江戸で想像する以上であって、どう にも動きがとれなかった。 長岡勢を打払い、あるいは斬伏せ踏破って通すよりほかはないが、かくせば勅書の安 全も保し難い。前に家老の地位にあった大場一真斎までが、自分に持出させて貰えれば 反途中で勅書を焼却し、おのれは腹を切って見せると称した、といわれた。水戸では始末 肪に困って江戸に伺いを立てた。 ひつぎよう となって、承服すべくもない。戸田銀次郎が、畢竟諸君が騒ぎ立てるので、かかる困難 となった、とうつかり口を滑らした時、只今の御口上、今一応承りたい、と刀に手をか けて詰寄り、目付役があわてて分けて入って、慰撫して無事に終ったほどで、揃って出 向いた鎮撫の目的は達せられなかった。 以前に小金駅に士民が集って悲憤慷慨したのとは、今は性質が違った。抵抗する対象 も明瞭なら人々の結束も組織的であった。責任のない二男、三男の者や農民出身の者が 例に依って多勢出て来ていたのは騒動に共通した特徴である。しかし、指導者は蟄居中 の者や小普請入りを命じられた激派の家の者で、以前と異る傾向である。