さかやき 「一、右宮御方御膳等、召上がりもの御平日に別段御替りこれなき由、御月代は兼て御 嫌いにて御参内の節は格別、左も御座なく候わば三、四十日も御月代なされず、俗に逆 いたがり 毛と申す御髪か、御月代の節殊の外御痛狩なされ候由、もっとも当時は御慎みにて何れ のびたち おなり へも御成等これなく候につき、御月代なされず御髭とも余程延立に相成りこれあり候 こうした身辺の些事までを、密偵が探索して届け出る。退隠永蟄居を仰せ出されて、 たっちゅう 十二月十一日から、相国寺の塔頭、桂芳軒へ幽居せられた。 鷹司太閤、右大臣父子、近衛左大臣も落飾し入道となって慎み中である。三条前内大 さねつむ 臣 ( 実万 ) は前年末から、淀付近の所領の民家に引籠っていたが、六年の三月終りから 洛北一乗院村に退いた。 この四人の慎みを解くように天皇の内意を武家伝奏から所司代に伝えたのは、夏の終 りであった。同じ八月中に江戸では、水戸藩邸に上使を送り斉昭に永蟄居を命じ、家老 あじまたてわき 安島帯刀、藩の京都留守居であった鵜飼吉左衛門父子を死罪に、鷹司家の諸大夫小林良 典を遠島、近衛家の老女村岡を押込に処置した。酒井所司代から両伝奏への返答は、四 公について、「慎み御免の御沙汰御座候ては如何これあるべきやの儀、早速関東へも申 遣わし候ところ、御憐愍の御思召は格別の儀には候えども、関東へ差下しに相成候家来 反の者ども、未だ吟味落着も仕らず候間、先ずそのままに成し置かれ候方と存じ候」旨、 連絡があった。 てんそう
から引取って世話する者もないのが多く、京都まで帰るのに困難した。一条家諸大夫入 江雅楽頭、同じく若松杢権頭は「放逐せられし日、路用の蓄えもなき故、一条家より下 かたがた されたる承り人の宿りける旅宿は昔宿しける事もある故旁その宿に至り宿して京都同 つかわ 伴を頼みけるに、此の承り人は下輩の者にて平生両人に遣れける時の恨をふくみ、供に なしても同伴しがたし。そのもと達を連れに来たりしにはあらずといい、路用を乞えど それ も夫も与えず、この両人まことに困窮。」 反幕府と見られた青蓮院宮が慎み、近衛、三条が慎みの上、落飾して退き、江戸で進 行する大獄を見まもりながら、京都は窒息したように静かであった。 安政六年の十一一月七日には、幕府が内奏して、青蓮院宮に更に退隠永蟄居が命ぜられ た。九月中に、江戸から九条関白に内談があり、この月に入って御沙汰が出たのである。 「尚忠公記」に、九月十三日所司代より内々書取到来写として、「青蓮院宮御事、年来御 身持宜しからず、その上如何の儀も相聞え候につき、御隠居、その上洛中近き御兼帯の 内へ御移り、永蟄居相成候よう、御所向御内沙汰に相成候わば、然るべき旨、年寄共 ( 老中 ) より申越候につき、申上候事」と記録してある。井伊家に今日保存される「幕 末風聞探索書」に依ると、幕府は青蓮院宮の奈良在住時代の婦女子関係を、女たちのそ の後の行方などにつき、隠密にさぐらせ報告させた。慎み後の日常の状況についても、 聞込みを時々送った。
ならば直ちに退散するが、幕府に欺かれて勅書を返上するのでは、国家の大義に関する ことで、父兄の命令とあっても、私情を以て公儀を捨てるわけに行かぬ、と引続き拒絶 の意志を明らかにした。壁の如き対立は硬化するだけで、動きが取れないのである。 正月の晦日に城の執政たちは斉昭から手書を出して藩論の鎮静を求めようとした。斉 昭は慎み中だから公然と意向を明らかに出来ない立場にあるが、長岡勢は老公が返納に 不同意だと言いふらし国中の者もそれを信じる傾きがあった。 長岡の者は浮浪の徒も打まじっている。酒食を持出して、これは老公様より我々に賜 ったものであると称して、士気を鼓舞しているとも伝えられた。斉昭は、最初、論書を 出すのを頑固に拒んだ。しかし、幕府でも斉昭が返上を拒否するものと見ていると知っ て、弘道館に士分以上の者を集めて、読んで聞かせるだけで公表しない条件で、手書を とどこお 渡した。勅書は御返上申すべぎであって、「御滞りなく迅速に指登させ候よう」取扱い 申すべきであるというのである。長岡勢を絶望に陥れる性質のものであった。 長岡勢は反って激昂した。自分たちが斉昭にも見捨てられたように感じたからであろ 。その上、陰に隠れた指導者の高橋多一郎、関鉄之介等を処置せよとの指令も江戸詰 の家老から水戸に申入れて来た。 水戸では物情から容易に手を下しかねた。その間に長岡勢の人数は増加し、夜間も街 道に沿って処々に篝火を焚き、道中の者に監視を怠らない。道端には大きな柱を建てて、
夷人加担の輩は役替 ( 条約調印の責を嫁して松平忠固、堀田正睦などを退役、隠居慎みに 処したこと ) 、段々政治を正しているとのことであったが、自分が間部などの話を持ち 出すので、よく了解しないような顔色を見せられるが、「風聞かっ流病のところと考え 合わせ候えば、憚りながら尊公御申しのところ少々如何と存ぜられ候。尊公に於ては わたくし 段々関東恩深の時節ながら、」痛烈に皮肉なのである。「天下国家の為には私これなき事 と存じ、かつまた能なども催し候よう、先達来酒井、内藤 ( 伏見奉行 ) などこれ申す由、 尊公御噂に候えども、彼是熟慮候に、なかなか左様の時節にはこれなく候間、予に於て は一切好まざる事。これにより、いよいよ尊公も程よく応対これあらるべく存じ候事。」 幕府を非難する言葉の裏に天皇は関白を「尊公に於ては段々関東恩深の時節ながら」 と暗に近頃の加増のことを諷し、「天下国家の為には私これなき事と存じ一 ~ 仰せられ ている。当惑した関白は病気を理由に勅書へ奉答を遅らせて、「兼てより疝痛の上、半 身水泡発し、日夜苦痛熱気これあり、筆取りがたく臥中故、所労快気のところまで、若 州 ( 所司代 ) へ応接糺問のところ、御断り暫く申願い置き候事」と日記に書いてある。 勅を取次ぐのを遅らせたのである。 とりな 右大将久我建通が、御前を取做して関白を救ってくれた。関白からは、勅諚の前半、 大獄に関係した部分を明らかにせず、後半、蛮夷関係の分を酒井所司代に示して、釈明 させるように計らった。これは公武の間に毎度、応答を繰返した問題で、幕府の側では、
首尾よく祝儀は終った。この費用は幕府に大ぎな負担だったばかりでなく、朝廷でも 御内儀向、莫大の入用であった。関東へ五千両奉るようにと御内示があったが、余儀な いわけがらがあると称し、仰せ立てられた五千両の半額一一千五百両だけを献上して来た。 幕府の代表として京都で周旋した所司代酒井若狭守なども勤務中「御所向吉凶事種々」 重なったので借財が殖え都合四十万両に達したところ、和宮下向については実に莫大の 入用となって、遂に借財は五十万両の多額に成って、「今般御下向については、その筋 御用向取扱わせ候者共へも、永々まで響き候ようの少々は賞与も致し遣わし申さず候て かっ は、自然気も屈し申すべく、且御役相勤め候について、追々借財相嵩み候ようにては、 下々何分不信服相成り、私儀は如何様にても、永く相勤め候覚悟に御座候えども、右の 次第にては、甚だ当惑仕り候儀に御座候。」 老中に訴えて、多少でも一同に賞与して、奉公の励みにしたいと内願して出た。所司 代の役目も、他の勤務と違って、個人的にもやたらに入費がかかるのであった。 民衆は、御降嫁をどう見ていたか ? 無論一般下々の者には関り合いなく頭の上を遥 者かに越えて行われた政治劇であったが、江戸の市民の中には例の落首や、チョボクレ節 志を隠れて作る者があって、うがった批評を無遠慮に下した。例に依ってただの町の人間 有の仕業ではなく、文字のある数寄屋坊主や、小普請入りした不平旗本御家人の悪戯のせ 3 いで、政事の末端に観察が届いたのだろうか ? かさ
があってさえ、続々関東からやって来る御同勢の継立てに十分だとは一一 = ロえなかったくら いだ。馬籠峠から先は落合に詰めている尾州の人足が出て、御荷物の持運びその他に働 くというほどの騒ぎだ。時には半蔵はこの混雑の中に立って、怪我人を載せた四挺の駕 みとの 籠が三留野の方から動いて来るのを目撃した。宮様の御泊りに宛てられるという三留野 の普請所では、小屋が潰れて、怪我をした尾張の大工達が帰国するところであるとい これがまだ和宮が京を出る以前の街道筋の状況である。小説ではあるが道筋に沿って 人を緊張させた当時の空気が見えるようである。 「西は大津から東は板橋まで、宮様の前後を警衛するもの十一一藩、道中筋の道固めをす るもの二十九藩ーーーこんな大袈裟な警衛の網が張られることになった。美濃の鵜飼から 信州本山までの間は尾州藩、本山から下諏訪までの間は松平丹波守、下諏訪から和田ま での間は諏訪因幡守の道固めという風に。 十月の十日頃 ( 和宮の出発は二十日 ) には尾州の竹腰山城守が江戸表から出発して来 て、本山宿の方面から順に木曾路の道橋を見し、御旅館や御小休み所に宛てらるべき 者各本陣を見分した。」 志 有「夜明け前」からの引用を、もう少し続けよう。当時、冬霧とともに街道をこめた物情 を知る為である。
う云うものは日本人の夢にも知らない事だろうと思って見せて呉れた所が此方はチャン ト知って居る。これはテレグラフだ。これはガルヴァニのカで斯う云うことをして居る のだ。又砂糖の製造所があって、大ぎな釜を真空にして沸騰を早くすると云うことを遣 って居る。ソレを懇々と説くけれども、此方は知って居る。真空にすれば沸騰が早くな ると云うことは。かっその砂糖を清浄にするには骨灰で漉せば清浄になると云うことも そ チャント知って居る。先方では爾う云う事は思いも寄らぬ事だと斯う察して、ねんごろ に教えて呉れるのであろうが、此方は日本に居る中に数年の間そんな事ばかり穿鑿して 居たのであるから、ソレは少しも驚くに足りない。」 論吉は少年の時から細工物や大工仕事が好きだったし、大坂の緒方塾にいる間にオラ ンダの原書だけを読んで、硫酸、塩酸を作り出す工夫や、馬の爪を煮て、ひどく臭いに おいのするアンモニアを採る工夫を釜や七輪を用いて、熱心に実験した一時期があった。 当時田舎のサンフランシスコあたりの製作所を見たところで、たいして驚かないだけの 用意がある。木村摂津守も海軍で二年あまりも長崎で器械を見て暮したひとだ。ただの チョン髷の日本人ではなかったのである。 「ただ驚いたのは、掃溜に行って見ても浜辺に行って見ても、鉄の多いのには驚いた。 申さば石油の箱見たような物とか、いろいろな鑵詰の空殻などが沢山棄ててある。是は 不思議だ。江戸に火事があると焼跡に釘拾いがウャウャ出て居る。所で亜米利加に行っ て見ると、鉄は丸で塵埃同様に棄ててあるので、どうも不思議だと思うたことがある。」 ごみ こ
420 書いたこともある。「鞍馬天狗」を始め、「天狗騒動記」「からす組」など幕末維新物の 長篇を大佛次郎で、そのほか流山龍太郎で「幻の義賊」「神風剣侠陣」など伝奇長篇小 説を、三並喜太郎で世話物、阪下五郎で「坂本龍馬」「桂小五郎」「蒼龍窟河井継之 助」など、やや堅い歴史物を書きまくった。 昭和一一年初め、鈴木の退館と時を同じくして、発表の舞台を雑誌から新聞へと移すこ とになるが、その間、既に著名な作家として活躍していた直木三十五が、関西からわざ わざ鎌倉を訪れ激励してくれる好運もあったりで、大きな励みとなったようである。 この大正末から昭和二年にかけては、作家として大きな飛躍を遂げた年で、「大阪朝 日新聞」に「照る日くもる日」を、「東京日日新聞」に「赤穂浪士」を、そして「少年 倶楽部」に「角兵衛獅子」を発表する。 題材が広がっただけでなく、表現の面でも著しい成長をみせた。婉曲で飾り表現の多 かった講談調が、簡潔にして明瞭、的確な表現に変わり、品格ある清冽な表現と「少年 倶楽部」編集長、加藤謙一に言わしめる、見事な文体を獲得したのであった。 東禅寺事件 井伊直弼と徳川斉昭の対立から、いわゆる安政の大獄へと至る歴史の流れは、桜田門 外における直弼斬殺事件でピークを迎える。しかし、『天皇の世紀』においては、桜田 事件以前の両者の対立をめぐる叙述の詳細であることに比べ、桜田事件そのもの ( 計画、
心なるべし。こは合衆国の証なり。」 官邸へ連れて行かれた目的を知らなかった。自分たちが見物に行ったと思い込んでい たのが、逆に、見られていたのである。 四月朔日は、太陽暦で五月二十二日で、初夏の快い気候の時である。「晴れて静かな りくわわりし春の日数も浮寝の波にいっしか暮れ行きけり。この都府 ( ワシントン ) あわせ は北緯三十六度なれば、我江都 ( 江戸 ) と季候もひとしく首夏の景色になりて袷を着し て寒からず。されど折々風はげしく吹きしきりて、雷も鳴り、暫時に晴れたり。朝夕晴 雨定まらず。」日の色、雲の去来に、大の武士もそぞろに郷愁を感じたのであろう。「ジ かれ ュホント云、渠御国に来たりしが、寒暑とも順序を追って正しく、海外第一の季候の能 ワシントン き所と覚ゅ。此華盛頓は暑中寒暖計百度に近き事もあれど、とかく一定せず、不揃い の季候なるよしを言いたり。されば我国は中和を得し上国なることを知る。」 人間の気候はこれに反対で、使節は帰国してから過熱している境遇、外人の斬殺や居 留地の焼討の計画に夢中になっている故郷の人を見る。アメリカにいる間、彼等はたい くっしたり見るものを珍しがったりして平和であった。土産に買って帰った蝙蝠傘でも さして歩いたら、数丁を行く前に江戸の町では殺意を持った浪士に付狙われる。 ( その ことを成臨丸の人々はおたがいに話している。 ) 外出する用のない休み日には、泊っているウイラード・ホテルの内部を見巡って、食 堂から器械仕掛けの洗濯場、調理室などまで見物した。大がかりの洗濯場を女中一人で
親しく酒をすすめたる。御国の産の新刀 ( 白鞘 ) 一腰を贈りければ喜悦の体なり。家の 四面、草花あまた植えて美事なれば、案内を乞いて見廻るにサントウキスと違い緯度も 御国 ( 日本 ) の下総あたりと同じければ、季候も違わず草木の異るものもなく、少しず っ変りし花あれど目馴れしもの多し。やがて暇乞いして家を出で、隣に喜毅の旅舎有り。 これも屋造り同じ士官の家をあけて客舎になせしという。此の客舎に至れば喜毅は三階 にあり。勝麟太郎以下も此の家に止りしという。やや物語して船に帰り、またタかけて 此の家に行く。久々にて湯あみして心地よし。はからずもサンフランシスコの統領はた 官吏五、六輩訪い来たり、こはおのれ等を明日なん招くとて迎えに来たりしよしなれば、 そのまま挨拶して帰しやりぬ。 ( 統領はこの部落の惣督にしてもっとも高官なるが、かく 案内もなく忽卒に来たりしは懇信を表して礼儀はなきことなるべし。 ) 忠順 ( 小栗 ) と森田 行 ( 岡太郎 ) は今夜一宿せり。正興 ( 新見 ) を打ちつれて家を出れば、はや初夏の頃な るか、春深くかすめる月影に見渡せば、ことなるものも見ええず、いと長閑なる景色い わんかたなし。 異国 ( とっくに ) といへども同じ天の原 ふりさけ見れば霞む夜の月 国 などいいつつ船に帰りぬ。この頃神奈川へ商船の便り有りけるとて、ふみ言伝てんと 異ありければ、うれしくてとりどり無事のことども、はた航海のありさまなど言いやりぬ。 摘みたるいとめずらなる草花を紙におして、