めて僅か十部に足らず、固より和蘭から舶来の原書であるが、一種類唯一部に限ってあ るから、文典以上の生徒となれば、如何しても其原書を写さなくてはならぬ。銘々に写 して、其写本を以て毎月六才位会読をするのであるが、之を写すに十人なら十人一緒に くじ 写すわけには行かないから、誰が先に写すかと云うことは籤で定めるので、さてその写 しようは如何すると云うに、其時には勿論洋紙と云うものはない。皆日本紙で、墨を能 ど 5 ′さ すっしんかき く磨て真書で写す。それはどうも埒が明かない。埒が明かないから、其紙に礬水をして、 それから筆は鵞筆で写すのが先ず一般の風であった。その鵞筆と云うのは如何云うもの であるかと云うと、その時大坂の薬種屋か何かに、鶴か雁かは知らぬが、三寸ばかりに 切った鳥の羽の軸を売る所が幾らもある。これは鰹の釣道具にするものとやら聞いてい とナ た。価は至極安い物で、それを買って磨澄ました小刀で以て、その軸をベンのように削 って使えば役に立つ。それから墨も西洋インキのあられようわけはない、 ( 中略 ) 斯う 云う次第で、塾中誰でも是非写さねばならぬから、写本はなかなか上達して上手であ る。」写本に依るよりほか原書のない状態だから勉強に必要な辞書にしても、・一部きり よ、つこ。 / 力 / 「その辞書と云うものは、ここにヅーフと云う写本の字引が塾に一部ある。是れはなか こしら なか大部なもので、日本の紙で凡そ三千枚ある。これを一部拵えると云うことは、なか なか大きな騒ぎで、容易に出来たものではない。是れは昔長崎の出島に在留して居た和 蘭のドクトル・ヅーフと云う人力ノノ : 、、レマと云う独逸和蘭対訳の原書の字引を翻訳した かつお
問を記事にした。条約に依って相互の通貨にある種の調節を必要としたのだとして、 「日本の貨幣は我々のと、価格も形体も著しく相違している。楕円形のものが多く、鉄 と真鍮の合金のものもある。」ここで日本の使節は、ケースに十三枚の貨幣を揃えたも のの他に彼等のアメリカ訪問を記念したメダルを贈られた。メダルには大統領ジェーム ズ・ブカナンの胸像が彫刻され、日本使節の最初のアメリカ訪問を記念すると書いてあ 人々を迎え、造幣局長官ロス・スノーデンが歓迎の挨拶をし、将来、貴国政府が合衆 国並びにヨーロッパの国々が現に採用しているような貨幣制度を採用するようにお勧め したい。金銀の比価が日本と合衆国とで著しく違うことは、貿易が進むにつれ平等にな って行くように期待し、それが相互の繁栄と幸福の為になるものと信じる。この歓迎の 言葉が通訳せられ、日本側から謝辞とともに、御意見については我々も同様に考えてい たが、この際、鋳造の方法その他について見せて頂けるのは欣びに耐えぬと答えた。 スノーデンが正使新見正興を案内し、以下随行の者が続いた。日本人はカリフォルニ アで出た金の棒を見て感心した。溶解室、鋳造室、その他を順に見た。そして最後に使 国節だけが立会って日本の小判その他の分析が行われた。村垣淡路守が簡単で冷淡に日記 に書いたように、他の人々の日記にも、この見学のことは、あまりくわしく書いたもの 異はない。しかし、明治政府となって貨幣制度調査のため渡米した伊藤博文が、このフィ ラデルフィア造幣局に基礎的な案件を尋ねたのは、万延元年の日本使節の訪問が導いた
126 港からだと判ったので、ポルチモア、フィラデルフィアを通ってニューヨークに出るこ とに成った。 「風習のことなるとはいえど、かく、約せし事も変じ、異情たよりなきことどもなり。 我軍艦にあらざれば航海はせぬものと思う。今宇内の形勢、万里の外も隣国の如し。実 に航海の術は国家の急務なるべし。」 しかしワシントンにいる間に、使節たちは安政条約の同種同量通用の規定にもとづい て、アメリカと日本の金貨の交換比率を確定する交渉に一歩を進めた。 銀貨については、安政条約に先立ってハリスと幕府との折衝で、メキシコ銀一ドルを 日本の一分銀三枚に交換するように決っていた。ペリー提督の来た時は、一ドルが一分 銀一枚にあてられたのであるが、これで同種同量通用となった。 内外金貨の交換率を確定するという問題もさることながら、当時、日本では金貨の海 外流出という面倒な問題が起って、幕府はその解決に頭を悩ましていた。日本の金銀の 比価が一対五で、価格が近いのに、外国では一対十五なので、外人はメキシコドル一ド ルで一分銀三枚に交換し、一分銀四枚で小判 ( 金一両 ) を買って外国に持出せばひどく 儲かる。つまり、日本の貨幣を商品と同じに外に運び出して、高く売る。日本の金貨が 続々と海外へ流出している。使節を乗せて来たポーハタン号の士官たちも例外でなく、 日本の大判・小判を買おうとした。使節は、その話を聞いた。外に出てから気づいたの である。
るから英国の商船で帰ってくれるように使節に申入れた。軍艦よりも窮屈でなく、航海 も気楽に出来ると話してくれたのだが、日本の使節の考え方は偏ったものであった。 、もと 「軍艦の窮屈は素より覚悟の上の事なり。且っ郵船にて身分賤しき町人輩と同船して帰 朝せんは、御使の身に取ては恥辱なるべし。」 使節が最初パリに着いた時は、日本へ帰国の際はセミラミスというフランス第一の大 きな軍艦で送るという話が、接待官から内々あったが、帰る際になってアレクサンドリ アまで乗ったのは、 4 ′さい老朽の軍艦で、六、七百トンに過ぎないものであった。フラ ンス政府の待遇が一般に冷たくなったことを一行は認めている。福沢論吉は日本で生麦 事件が起りイギリス人リチャードソンが薩摩の藩士に斬られたせいだとしているが、福 地源一郎は生麦事件のことはシンガポールまで来てから聞いたと記録した。電信の連絡 がまだ不完全の時だから福地の記事の方が福沢の後年の思出話よりもこの点は当ってい たろう。香港で新聞を見ると、日本の記事が出ていた。「方今日本の人情は外国人に対 し戦いを挑まずと雖も全く戦志なしとは思うべからず」と、日本で今やさかんな攘夷 について書いてあった。 使節の一行は、フランス軍艦エコ号で文久二年十二月十日江戸湾に入り、翌日品川で 上陸した。出発以来、約一カ年だが、この間の日本国内の変りようは、烈しいものがあ った。攘夷論が京都を動かして幕府が抵抗出来ぬ混沌と始末のつかぬ形勢と成っていた。
はる手厚く、何に一つ遺憾はないと言う有様。ソレで御用のない時は名所旧跡を始め うち 諸所の工場と言うような所に案内して見せてくれる。その中に段々接待委員の人々と懇 意になって種々様々な話もしたが、その節露西亜に日本人が一人居ると言う噂を聞いた。 その噂はどうも間違いない事実であろうと思われる。名はヤマトフと唱えて日本人に違 いないと言う。勿論その噂は接待委員から聞いたのではない。その外の人から洩れたの であるが、先ず公然の秘密と言う位な事でチャント分って居た。そのヤマトフに遇て見 たいと思うけれども、なかなか遇われない。到頭、逗留中出て来ない。出て来ないが、 やや その接待中の模様に至ては動もすると日本風の事がある。例えば室内に刀掛けがあり、 ・ツド ) には日本流の木の枕があり、湯殿には糠を入れた糠袋があり、食物も勉 寝床 ( へ めて日本調理の風にして箸茶椀なども日本の物に似て居る。どうしても露西亜人の思付 ノテ見ると噂の通り、何処にか日本人の居るのは間違いない。明らかに分 く物でない。、、 って居るけれども到頭分らずに帰て仕舞いました。」 露都滞在中、福沢自身についても意外な誘引を受けた。ある日、接待委員の一人が来 て話があると別間に福沢を連れて行った。お前は此度使節に付いて来たが、これから先、 者日本に帰って何をするつもりか知らぬが、お前は大層金持かと尋く。 志「イヤ決して金持ではない。マア幾らか日本の政府の用をしている。用をして居れば自 有ら其の報酬というものがあるから衣食の道に差支はないものだ」と斯う私 ( 福沢 ) は答 えた。所が接待委員のいうに「日本の事だから我々に委しい事情の分る訳はない、分り ぬか
貿易の影響として、民衆の間に反抗する気勢を高めている。日本政府が条約の履行に忠 実になろうとしても、この輿論を、るの。困難であろう 日本政府を西洋の文明諸国の政府と同一視するのは間違いである。日本の政情は中世 紀のヨーロツ。ハの政局によく似ているが、文明国に対するように迅速確実な措置を求め るのは、不可能な事を強要するのと同じである。ある個人の不法行為に対し政府の責任 を問うことは、国際法上にもなく、西方諸国てもこ、郎ば行われて・いい。イタリア のナポリ市の公道で、白昼多勢の人が見ている前でズ・テ・ゾ・ズ - 公側割ざれ犯人ば群 が庇って逃走させた。その場合も、フランス公使館は犯人が逮捕せられぬのを理由とし て決して退去しなかった。この場合を、それと同様に考えることは出来ないか ? その上に、公使館の江戸設置を強く主張したのは我々の側であって、解決までに多大 の困難と討論を要した。日本側では、外国公使を江戸に置くのに反対して、神奈川と言 し川崎とも主張した。今、各国代表が横浜へ退くのは、日本政府が希望したとおりに成 ることであって、江戸の各国公使館を警衛する責任と苦心、費用が軽減せられるのだか ら、日本側で悦ぶことに違いない。皆さんのなさることはまったく効果がないことにな 風る。更に不幸な流血の惨事を以て、歴史を汚すような事態を招きたくない。 ' 囁を待ち忍ー もの。オカろうカ ? ・ 黒オールコックとベルクールは、十二月十六日英国軍艦エンカウンターに乗って、横浜 に退去した。ハ リスが江戸に残ることにした為に、外交団全体の行動とはならず、歯切
十度の線を境界としたい日本の要求を強く拒否した。 竹内、松平の日本側の正副使は、。フチャーチン、ムラビョフと交渉した時代からロシ アが樺太全島を領有しようと望んでいるのを知っていたので、ここで先方から四十八度 線内外で決めたいと申出たのを境界を決定する好い機会だと信じた。五十度の線に必す しも固執することはない。樺太南部の地を日本の領土として安穏に維持するのが得策だ ろうと相談した。その時になって、話は内部から割れた。幕府の古い官制に由る不都合 で、目付として随行した京極能登守が反対を言出したのである。 国内の公務ならば不正のないよう目付が付いて監視するのもよいが、外国相手の談判 に目付が出ていて話の内容に干渉したのである。 け・い力し 「京極はこれに反対して、唐太経界談判の全権は我等三人御委任を蒙ったれども対馬守 殿 ( 安藤閣老 ) の内意には余が在職中に於て日本の土地を一寸たりとも外国に譲与する 事を欲せざれば、その旨相心得て談判せらるべしとの内訓あり。然るを五十度を退きて 経界を定めんこと、この内訓に背くのみならず実に我が日本国に取っては再び回復し難 ぎの国損なり。故に拙者は同意することを肯ぜずと云うにありて、一条の大議論と相成 たり。両使は慨然として今日の機会一たび失わば決して再び得ること能わざるなり。我 等両人は日本国将来の計を思うが故に、閣老の内訓を顧みず将軍家より公然と与えられ たる全権を以て、この経界を四十八度の辺に定めんとは欲するなり。帰朝の上その御咎 、もと を被らば、彼 ( 我 ) 等両人切腹をして申訳を致すべし。国家の御為に一命を棄ること素
官で長崎に来ていたクルテイウスや、東洋学者で日本語を話すホフマン博士が船中まで 迎えて、接待に当った。日本とオランダとは三百年の古い関係である。 一行の中の横文字を読む者で、オランダ文を読まぬ者はない。文書言語で言えば、ヨ ーロツ。ハの中では第二の故郷に帰ったようで、一行にも居心地がよかった。しかし東洋 を知らないオランダ本国の人々から見れば、やはり異様に感じられたらしい 「茶色顔の日本人、形は小男にて、青鼠の上衣を着し数種の彩色にて草花を付けたる野 わらがさ 袴をはき、茶色の草履を用い大なる藁笠をかぶり、奇麗なる大小を帯びて、皆な一同に 歩兵の行装にて出立たる模様は実に奇妙なる有りさまなりき。」 ( ロッテルダム新聞 ) 六月二十一日、デュッセルドルフから。フロシャ国に入る。ベルリンに着き、十数日滞 在して諸方を参観してから、七月十日に出発、いよいよロシアに入国した。首都セン ト・ピータースプルグの帝宮の隣にある貴賓館に投宿した。不思議なことが、そこで一 行の到着を待っている。福沢論吉の「西航記」にそれを記してある。 「館内の模様専ら日本の習俗を用ゅ。各室内には刀掛け、枕、煙草、手洗場にはぬか袋 を用意し、食物も勉めて日本の料理を用い、箸、茶椀等は全く日本と異ることなし。」 狐につままれたように感じて、あやしんだ。日本を知っているオランダでも見なかっ たことである。「福翁自伝」にその時の話が出ている。 ートルスポルグ滞在中は、日本使節一行の為に特に官舎を貸渡して、接待委員と言 う者が四、五人あってその官舎に詰切りで、いろいろ饗応する。その饗応の仕方と言う なり
外に出さぬこと。すべて両甲板の間にては別段の免許あるにあらざれば煙を吹くべから ず。余が書する免許状なくして、船中に決して飲酒を持来るべからずなど、日本人の習 慣では普通に認められていることにきびしい制限を受けた。 新しい境遇に適応する弾力ある性質が当時の日本人には欠けていた。上席の者ほど頑 固に自分たちの流儀を通そうとした。順応を生理的に避ける。三使の中でも松平石見守 が最も日本流を守って、香港で一行中に洋風の靴を買って履く者があったのを見つけて 叱りつけ、「国風を紊るを以て、是より日本に追返すべしとまでに言出し」散々に謝罪 カカる心底なれば三使及び一行も西洋諸国巡廻中、少しも我国 して、漸く許された。「、、 ・ハリ の風俗を紊さず、羽織袴大小草履にて陣笠を冠り、巴里、倫敦の市中を遊歩するに更に 恥る色も無く、傲然として大小を横たえ我こそ日本の武士なれと云う風体にて大手を振 って歩行たりき。」 福沢論吉も自伝の中に、この旅行の場合の上司の日本的な遣り方を述懐して書いてい る。 およ 「惣人数凡そ四十人足らず、いずれも日本服に大小を横たえて、巴里、竜動 ( ロンド ン ) を闊歩したも可笑しい。日本出発前に外国は何でも食物が不自由だからと云うので、 白米を箱に詰めて何百箱の兵糧を貯え、また旅中止宿の用意と云うので、廊下に灯す金 行灯ー・ー二尺四方もある鉄網作りの行灯を何十台も作り、そのほか提灯、手燭、ポンポ 、蠍燭等に至るまで一切取揃えて船に積込んだ其趣向は、大名が東海道を通行して宿 ロンドン
「金貨の儀に御座候。地球中第一金鉱多きは日本とばかり心得、小判を望み候もの多く、 横浜の取引等を心得候者は格別、その外相場を知らざる者へは高価に買取り候由。何程 相場宜敷く相成り候共、濫出を防ぎ候策これなく、ポーハタン船中に大判を買取り候者 これあるやに相聞候。この度ホノルルの新聞紙、日本貨幣の部を抜訳致させ候間、別紙 貴覧に入れ候。世界第一の金貨と唱え、七十両位の相場と申居り候。何とぞこの濫出は 御厳禁相成候よう致したく、帰府万々申上ぐべく候え共、それまでには何程濫出致すべ きやも計り難く、心痛の余り、極く御内々に申進め候。」 この外人社会のゴールド・ラッシュは、遣米使節が日本を立った直後の二月一日に幕 府が断行した、国際的水準の金銀比価にもとづく金貨価値の引上げ ( 四月以降改鋳 ) に よって、まったく鎮静に帰した。 使節は、帰国までに日本の金貨が「何程濫出致すべきやも計り難く、心痛の余り」と一一 = ロ っているが、本国ではその時すでに、金貨の流出を防止する措置がとられていたのであ る。それにしても、前年六月の開港以来、この年一月末までの八カ月間に、海外へ流出 国した金貨は三十万両にも及んだという。 アメリカ金貨と日本金貨の交換率の最後的決定は、江戸でアメリカ公使との間に進め 異るとして、使節はそれに備えてワシントンに居る間に、国務長官レウイス・カスに日本 の金銀貨の分析を依託した。