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検索対象: 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年
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1. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

うになって、安定した生活ができるようになった。 多恵は十年ほど前の高松で、同じような水飢饉に見舞われた経験がある。香川県は塩田が産業 として成り立つほどで、もともと雨が少ない。その年も猛暑と干天続きで第三次給水制限が行わ れ、陸上自衛隊に出動を要請して、給水車が配水を開始した。九月中旬になって来襲した台風が 多量の雨を降らせて、ようやく水飢饉が解消したのだった。 夏休みの間、優は東京のおばあちゃんの家に遊びに行った。初めての一人旅であるが、交通機 関は新幹線の始発から終点まで乗るだけで、東京駅におばあちゃんが迎えにくることになってい る。一人で新幹線に乗り、車中で短波のラジオを聞いた。周波数を合わせていろいろな放送を聞 いていると東京までの時間も長くはない。京都駅に着いたときや富士山が見えるところでは、ガ ラス窓に顔を押しつけるようにして、外を見ていた。 ビルや家が建ち並んでいる街と、田んばや畑が広がっていて人が誰も見えない場所の違いが、 優には面白く、そして不思議だった。 その風景を見ているうちに、便利な駅の近くには人がたくさん集まることに気がついた。 ひかり号はすごい速さで、東京のおばあちゃんのところへ優を運んでいった。

2. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

石井妙子 ( いしいたえこ ) 昭和 18 ( 1943 ) 年、東京生まれ。証券会社勤務時代に、国鉄職 員である石井康祐 ( 後の JR 東日本発足時取締役 ) と結婚。 3 人 の男児を産み育てながら、国鉄職員である夫を支える。 60 代半 ばに差しかかり、国鉄職員とその家族がどのように働き、暮ら したのかについて「本を書いておこう」と思い立ち、本書を執 筆。平成 18 ( 2 6 ) 年 12 月、「国鉄発・ JR 行き自動制御な家族 の旅」のタイトルで、岩波出版サービスセンターより自費出版。 夫とともに千葉県柏市在住。 交通新聞社新書 093 寝ても覚めても国鉄マン 妻が語る、夫と転勤家族の 20 年 ( 定価はカバーに表示してあります ) 2016 年 4 月 15 日第 1 刷発行 著者 発行人 発行所 石井妙子 江頭誠 株式会社交通新聞社 http://www.kOtsu. CO. jp/ 〒 101-0062 東京都千代田区神田駿河台 2-3-11 NBF 御茶ノ水ビル 電話東京 ( 03 ) 6831-6560 ( 編集部 ) 東京 ( 03 ) 6831-6622 ( 販売部 ) 印刷・製本一大日本印刷株式会社 Olshii TaekO 2016 Printed in Japan 旧 B N 978-4-330-66716-4 落丁・乱丁本はお取り替えいたします。購入書店名を 明記のうえ、小社販売部あてに直接お送りください。 送料は小社で負担いたします。

3. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

入院して一週間になるが、すっと寝ているといって、絆創膏が貼ってある額を見せてくれた。 編多恵はその小さな絆創膏を見て不思議に思った。 「本当にこれだけで入院しているの ? 」 年 「ええ、もうなんともないから家に帰りたいわよ 創の状態について、病院の院長は、 和「問題は頭ですねー といっておきながら何の処置もしていないのを不審に思っていたから、多恵の疑問はますます 忙深まった。悩んだ末、東京の大学病院に転院させる決意をした。訳が分からないまま入院が長引 くことを避けたかったのだ。 れ 入院してから二日目の早朝五時ごろに、浩介の運転する車で東京へ向かった。後ろの座席を倒 れ そ して寝かせられるタイプで、スマートさに欠ける車だが、こんなときは便利でありがたい。 で 分転院した病院ではすぐに全身の検査をして、左の鎖骨骨折だけで他に悪いところはないとの診 役断が出た。数日入院して様子を見てから退院できるだろうといわれた。退院後に後遺症が出たと 章しても、その時点で治療できるから大丈夫と医者がいった。 第多恵は東京の大混雑の中を初めて一人で運転して帰途に就き、安堵の胸をなでおろした。 135

4. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

いしのたえ 石野多恵は、長男となる優を四国高松で産んだ。多恵が高松の出身だったわけではない。五カ こうすけ 月ほど前に夫の浩介がこの地に転勤になったので、お腹の中にいた優と一緒に引っ越してきて、 高松が息子の出生地になったのである。浩介は国鉄職員で転勤が多い。異動の命令が出ると職場 で引き継ぎをしたあと、すぐに新しい勤務地に向かい、家族は引っ越しの準備をして先方の宿舎 が空いてから呼ばれるのを待つのだ。準備といっても、このとき二人は新婚だったから、必要最 低限の家具しかなくて、いつでも引っ越しが可能だった。 いよいよ転勤先の宿舎が決まり、多恵は迎えにきた夫と一緒に、東京駅から終点の新大阪まで 新幹線で出発した。 東京オリンピックとともに運行が始まった新幹線は海外からの評価も高く、昭和四十二 ( 一九六七 ) 年三月には東京駅の十六番ホ 1 ムが完成して、ひかり号・こだま号の発着が分離可 能になり、乗客は増え続けている。 二人は新大阪から乗り換えて岡山の宇野に行き、さらに字高連絡船に乗った。 三千トンあまりの讃岐丸は穏やかな瀬戸内海を一時間ほど航海して、香川県の高松港に着いた。 接岸した港の桟橋は大勢の人で賑わっている。船の甲板からその様子を見ていた多恵は、字野 行きの乗客が待っているのだろうと思っていた。 ゅう

5. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

東京に引っ越して大森に住むことになった。八十世帯くらいが入居しているの国鉄ア % 1 トは、やはり線路際に建っている。電車の音は聞こえるものの、砂場やプランコ、シ 1 ソ 1 が備えつけられた遊び場があって、小さい子どもの声などが聞こえ、若い人たちが住んでいる雰 囲気があった。 一年ぶりの東京で多恵は昔の友人と連絡を取り合い、お付き合いを再開した。 同年輩の友人は気兼ねなくおしゃべりができるけれど、そのうちに国鉄職員との所得格差に気 がついた。銀行員や建設会社、商社マン夫人の友人たちは、レストランや上等なお寿司屋さんで 食事をすることに何のためらいもない。 たまに外食することはあっても財布と相談しなければならない多恵は、だんだん気が重くなっ てきた。 結婚する前、浩介の上司の米倉さんに、 「国鉄の給料は安いが、年金のことなど考えると全体ではそんなに変わらないよー といわれたことを思い出した。夫のお給料がいくらで、どの程度の生活ができるのか考えたこ ともなかったが、 友人との違いがあまりにも大きくて安月給の悲哀を感じている。

6. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

多新しい国鉄宿舎に移ってから飼い始めた小鳥は、すでに四回目の卵を孵化させた。そのつど、 白文鳥と桜文鳥が同じ比率で生まれる。優たちはその小鳥をベットショップにあげることにして 年 いた。顔なじみになった主人は鳥のえさと交換してくれて、その上今回はケ 1 キのお土産までく れた。 稲「この鳥は偉いねえ、食費を自分で稼いでいる」 昭 と浩介がいった。 地 基 両博多に来て三年目の一月下旬、 <E*O の故障により、基地内で車両が三〇〇メートル暴走する 合事故が起きた。テレビには現場で説明する浩介の姿が映っていた。 多 一年ほど前から、東京運転所構内や新大阪駅、その他にもに異常信号が現れる事故が発 博 生し、本社は「新幹線輸送障害対策委員会」を設置して調査をしているところだった。 線 新夜、東京からの電話で浩介が話しているのが聞こえる。 章「私が門鉄のほうへ行きますよ」 第電話が終わった夫に向かって、多恵がいった。 ふか

7. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

長男・優 私 ( 本文では長男・優 / 仮名 ) は昭和犯 ( 1967 ) 年に高松で誕生した。半世紀近く経って から両親や弟たち、そして自分の歴史を振り返るなんて思ってもみなかった。早速、思い出して みようとしたら : : : そりやそうだ、高松のことなんてこれつほっちも覚えていない。 当時の写真だけが、私にとって高松にいた唯一の証だ。とても楽しそうに写っているので楽し かったんだと思う。もちろん、父さんがストライキで吊るし上げられていた、なんてことも知ら リっ越しだ ない。そして、生まれて 1 年で大森へ引っ越した。こんな感じで、私の幼少時代は、ー らけだったのだ。 ちなみに、再び高松の地を踏んだのは、年もあとの旅行のときだ。新幹線で東京から岡山ま で行って、瀬戸大橋線を使って高松まで来た。東京から全部鉄道で。国鉄万歳 ! 話が脱線、 や、国鉄職員の息子が「脱線ーとかいっちゃだめだな、話を戻して「超特急」で先に進もう。 一番古い記憶は大森の国鉄アパート時代。アパ 1 ト敷地の隣に京浜東北線と東海道線が走って いた。母さんが書いたように動物園で迷子になったことと、アパ 1 トの近所で父さんと散歩して いてはぐれて迷子になったことを覚えている 次は、門司。ここで幼稚園に通うようになった。カトリック系の幼稚園で、神父さん ( 外国人 ) 158

8. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

く人を安心させる。 覯「次の角、右折です」 港「はい 「停車中のバスを追い越します、車の陰に人がいないか、気をつけてね 年 門司港の町は三方を海に囲まれ、岬の先が下関に接していて、そこに関門橋が架かっている めかり 周防灘に面した道を回って、和布刈神社まで運転してから橋の下で車を止めた。美しい風景に 誘われて車を降り、堤防のそばまで歩いた。早鞆ノ瀬戸はかって来たときと同じように激しく流 いわこん 昭れ、深い海は多恵の記憶通り、日本画の岩紺の色をしていた。 ア七年前、橋はまだ建設中で、まもなく下関に届きそうな時期であったが、一年半で転勤になり、 オ橋の完成を見ずに東京へ引っ越した。 イ そのとき幼稚園を中退した優が、今では小学校の六年生になっている。 八年足らすの間に新幹線が東京までつながり、九州と本州の海峡には雄大な橋が出来上がって 続 走しオ 章「さあ、これで機動力も手に入れたし、どこにでも出かけられるわ」 第多恵は両手を頭の上で伸ばしながら、海の風を深く吸い込んでいった。 はやと、も 103

9. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

一通り片づけ終わり大勢の手伝いの人が去ったあと、多恵は長旅とカルチャ 1 ショックで神経 が高ぶり寝込んでしまった。これは大変なところに来たと思ったのだ。 機関区は昼も夜も蒸気機関車やディーゼル機関車が動いている。ポイントを動かすたびに線路 際の家は地震のように揺れ、早朝四時ごろには鋭い汽笛が響き渡って、十二、三軒並んだ職員宿 舎の眠りを遠慮なく覚ましていく。爆音と地響きはすさまじくて、いつも地震と雷の中にいるよ ばいえん うな環境であった。蒸気機関車が動くたびに煙突からは煤煙が降り注ぎ、洗濯物は真っ黒になる。 数は少なくなっていたものの、蒸気機関車がまだ現役で動いていることに、多恵は驚いたの だった。 機関区長、保線区長、信号区長など現場長と助役は、列車事故や災害があればすぐに駆けつけ られるように、義務官舎と呼ばれるこの二軒長屋の宿舎に住んでいる。 安全と列車ダイヤを守るために、車両と隣り合わせの敷地で暮らしているのだ。まったく何も 知らないで東京からついてきた多恵は、文字通り驚天動地の思いがした。それでも東京へ帰ろう とはせず、高松の病院で優を産もうと決めたのだ。 土讃線の多度津から阿波池田間はディーゼル機関車が走り自動信号化されて、この年の三月一

10. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

一一度目の夏が来る前に、突然本社への転勤をいい渡され、引っ越しすることになった。定期異 動ではなく、一年数カ月で東京へ戻るので不審に思った多恵が聞いてみると、 「前任者が亡くなったから」 と夫がいった。慌ただしく準備が始まると、 「何ごとですか」 「捨てた段ボ 1 ルの箱を、また拾ってこなくてはいけない」 などと冗談をいいながら、課員のご夫人方が集まってくれた。ここへ来たときからまだ開けて いない段ボ 1 ル箱もあって、そのまま荷物を全部送り出したあと、一家は夜行列車の個室に乗っ た。優は、憧れの寝台車の中でいつまでも眠らずにガラス窓に顔を押しつけて、走り去る暗い風 景を見ていた。