車両基地 - みる会図書館


検索対象: 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年
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1. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

福岡地方は梅雨時を過ぎても雨が降らず水不足になって、ついに時間給水が行われるように 多なった。車両基地と離れた春日市にある多恵たちのいる宿舎は、給水制限はあったものの、時間 がくればなんとか水が出てしのぐことはできた。そうはいかなかったのが、新幹線基地とその周 年 辺に建設された国鉄アパートの団地である。 新幹線基地が計画されたとき、基地周辺には上水道設備がなかった。人口が増え続けている周 稲辺都市へ給水しなければならないから、という理由で、車両基地には工業用水に限り配水される ことになったいきさつがある。 地生活用水を利用するには水利組合の同意が必要で、新参者の新幹線基地にまで恩恵を与えてく 両れなかった。このため職員アパ 1 トの上水道は国鉄の負担で独自に井戸を掘り、地下水で生活用 合水をまかなって、なおも足りない水は遠方より輸送していた。 多 このように不安定な生活は、雨が降らなくなって湧水量が減り始めたとき、大変な脅威をもた 博 らした。 線 新給水車から少しばかりの水をもらい受けて生活していた職員家族は、我慢の限界に達した。寝 章る間も惜しんで奔走した職員の中には、病気になってしまう人もいるほど危機的な状況だった。 第水飢饉が国鉄職員の宿舎を襲って六カ月の後、春日那珂川水道企業団からようやく給水されるよ

2. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

車内の給水を行っているが、基地や駅での給水は他の駅で臨時に行った。基地内には、油まみれ 2 になる職員のため大浴場があったが、水の確保に苦労した。昭和 ( 1979 ) 年春、門司鉄道 管理局運転部に転勤となった。 以前、勤務したことがあるため、スムーズに仕事に入ることができた。相変わらす、運転の仕 事は忙しく、列車だけでなく動力車乗務員、検修要員、車両、さらに保安課という安全関係の部 署もあって、息が抜けない。 家族サービスは、もともと不得手な上、時間もそれこそない。年末は、現場回りで紅白歌合戦 を見たことがなかった。 この時期に家新築の話が持ち上がった。私もいずれはと漠然と考えていたが、キッカケを作っ てくれたのは妻である。何事にも積極的で、場合によっては、事後承諾させられることが多いが、 こればかりは早めに計画を実行できて感謝している。転勤族は子どもの教育を考えておかないと、 「本人、妻、子どもが一家離散状態になる」と、先輩から聞いていた。特に、子どもが高校に入り、 親が転勤になると、子どもはそこに残るか高校を転校するかになる。どちらをとるにしても、あ まりよいことではない。父親がいつ、どこに転勤になるか分からない。転勤族は、子どもの高校

3. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

第 5 章新幹線博多総合車両基地 昭和引 ( 1976 ) 年博多編

4. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

第 5 章新幹線博多総合車両基地ーー昭和 51 ( 1976 ) 年博多編 新幹線 ( 多恵 )

5. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

組みで、車上 <+(-) も試験室で厳密な検査を受けている。 新幹線が福岡まで延びることになってこの基地が計画されたときから、広大な敷地の用地買収 に多くの人が関わり、開設に至るまでには大きな労力が払われた。 職員の宿舎一四〇〇戸とその他独身寮などの建設で、ライフラインの設置も容易なものではな 静かな農村地帯に職員一六〇〇人を超える車両基地が突然出現したわけだから、行政側との 交渉にも多くの時間が費やされた。博多開業の一年後に転勤してきた浩介は、その当時のさまざ まな苦労話を何度も聞くことになった。誰もが自分だけの大切な新幹線を持っているのだ。 転勤してきた一年目は輸送障害が頻発して、夜中の電話は珍しくなかった。ある新聞では、新 しくできた車両基地へ各鉄道管理局が労働組合の活動家を転出させたためであろうと、識者が 語っていることとして掲載されていた。また、他の新聞では縄張り争いがあるのだと書いてあっ こ滑り出すまでには大変 た。真偽は別にしても、新しくできたものの常として、人間関係が順調 ( 、 な努力が必要なのだろう。 多恵たち一家が引っ越してきたときには、入居する国鉄宿舎がまだ出来上がっていなかったの で、民間のマンションを借りた。 長男の優は小学三年生になっている。学校の体育館で始業式が始まったとき、転入生だけが

6. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

第 5 章新幹線博多総合車両基地 - ーー昭和 51 ( 1976 ) 年博多編 0 0 0 日ロ呂ロ品 ごはんですよ ( 多恵 ) 91

7. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

て入学をどこにするかを考えておかなければならない。長男は、ここで中学校に入学した。 あらかじめ手当てをしてあった土地に、昭和浦 ( 1981 ) 年春、家を建てた。初めて我が家 和に入ったとき、家が持てたことに感慨を覚えたことを思い出した。家の新築に前後して、本社運 妻転局に転勤になり、新しい家から通勤することとなった。 と 庭本社勤務の後、新幹線総局運転車両部に転勤となった。東海道・山陽新幹線の列車、車両を管 靴理、運営する部署である。国鉄の看板列車を動かしているので、少しのトラブルも気を抜けない。 の当時、架線がよく切れた。架線が切れると、ほば半日は止まることを覚悟しなければならなかっ ろ こた。この間、営業部門は、乗客の誘導やら駅の案内に大わらわとなる。一方、運転部門は、復旧 あ時刻を決め、運転再開の準備にかかる。列車は運転士、車掌、車両の運用がおのおの別々に動い 語ているため、調整が難しく平常状態に戻すことに時間がかかった。 ン 当時は物騒な時代でもあり、鉄道の制御中枢であるコントロ 1 ルセンタ 1 の見学を断るなど、 マ 鉄極力人目につかぬようにしている。こんな中、職場に三男が突然現れた。表示パネルなど子ども 章の喜びそうな装置もあるが、一般の見学をお断りしている中、まして自分の息子に見せるわけに 劒はいかず、早々に帰してしまった。可哀想なことをした。 185

8. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

浩介が新幹線総局、博多総合車両部へ転勤になった。岡山止まりだった新幹線が福岡・博多駅 はかそう まで開通した昭和五十 ( 一九七五 ) 年の前年に発足した基地で、「博総」と呼ばれている。 博多駅から約九キロの引き込み線を配した地点・福岡県那珂川町にあり、南北方向に二・四キ ロと細長く、面積は三十三万平方メ 1 トルもある。 車両を収容する巨大な検査庫では整備点検を行い、科学的な最新の設備を持って、定期的に 1 ホ 1 ルをしている。 ここでは検査・修理だけでなく、車両や乗務員を配置して、列車として走らせるための運転業 務も一貫して行う。着発線といわれている路線上に新幹線車両が何本も並んで待機している。 列車が安全に走るためには、路線を一定の距離ごとに信号を設置して分割し、一信号区間には 一列車しか進入できないようにしてあるのが原則で、その方法は時代によって違うが、蒸気機関 車の昔から行われている基本である。 新幹線は高速で走るので、運転士が信号を確認してからプレ 1 キをかける方式ではなく、 0 ( 自動列車制御装置 ) を使用している。レ 1 ルに信号電流を送る設備と車上の受信する設備に よって、列車のスピ 1 ドが自動的に信号の指示する速度以下になる。列車の間隔だけでなく、停 車駅に接近したり、線路のカ 1 プなど地形の条件によっても運転台に徐行の数字が表示される仕

9. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

はじめに : 第 1 章宇高連絡船で瀬戸内海を渡る・ 昭和 ( 1967 ) 年高松編 第 2 章システム開発で泣いた ? 昭和 ( 1968 ) 年大森編 第 3 章お盆と正月は休ます働く : 昭和町 ( 19 7 2 ) 年門司・大里編 第 4 章南米パラグアイへ出張 : 昭和絽 ( 1973 ) 年高田馬場編 第 5 章新幹線博多総合車両基地・ 昭和 ( 1976 ) 年博多編 第 6 章走り続けたハイオニア : 昭和 ( 1979 ) 年門司港・清見編

10. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

全を保証しなければなりません。組織の中でそのような仕事を経ていくにしたがい責任も大きく なるわけですから、彼は仕事とプライベ 1 トの区別もなく、気分の切り替えもできない状態で働 いていたことでしよう。 最初に転勤した高松機関区では、昔の国鉄がそのまま残っていて蒸気機関車が走っていまし た。在職したのは 1 年間ですが、強烈な新婚生活の第一歩で、今ではとても貴重な経験をしたと 思っています。第 2 章は現在のシステム化された鉄道に変えるために苦悩する技術者集団を、家 庭にいて感じたままを記しました。「夜が明けようとして」なおまだ暗いコンピュ 1 タ 1 の黎明 期、その中の一人である夫の様子です。 国鉄本社と地方の鉄道管理局を数年おきに異動し、長くて 4 年、短いときは 1 年で引っ越しま した。第 5 章、博多総合車両基地に異動になったのは、東海道・山陽新幹線の終点が博多まで延 びた 1 年後のことです。たくさんの国鉄職員が基地周辺に住むことになり生活用水の確保もでき ていない状態で、当時の苦労は大変なものでした。第 6 章では鉄道の近代化を担って、一人では 足りないほどの仕事を抱えていた研究所の上司、米倉さん ( 仮名 ) のことを書きました。在職中 に亡くなり、思い出すと今でも涙がこばれます。 夫は t---ax を退職してから数年は、鉄道輸送以外の仕事をしています。家に帰ってきても国鉄時