車内の給水を行っているが、基地や駅での給水は他の駅で臨時に行った。基地内には、油まみれ 2 になる職員のため大浴場があったが、水の確保に苦労した。昭和 ( 1979 ) 年春、門司鉄道 管理局運転部に転勤となった。 以前、勤務したことがあるため、スムーズに仕事に入ることができた。相変わらす、運転の仕 事は忙しく、列車だけでなく動力車乗務員、検修要員、車両、さらに保安課という安全関係の部 署もあって、息が抜けない。 家族サービスは、もともと不得手な上、時間もそれこそない。年末は、現場回りで紅白歌合戦 を見たことがなかった。 この時期に家新築の話が持ち上がった。私もいずれはと漠然と考えていたが、キッカケを作っ てくれたのは妻である。何事にも積極的で、場合によっては、事後承諾させられることが多いが、 こればかりは早めに計画を実行できて感謝している。転勤族は子どもの教育を考えておかないと、 「本人、妻、子どもが一家離散状態になる」と、先輩から聞いていた。特に、子どもが高校に入り、 親が転勤になると、子どもはそこに残るか高校を転校するかになる。どちらをとるにしても、あ まりよいことではない。父親がいつ、どこに転勤になるか分からない。転勤族は、子どもの高校
いしのたえ 石野多恵は、長男となる優を四国高松で産んだ。多恵が高松の出身だったわけではない。五カ こうすけ 月ほど前に夫の浩介がこの地に転勤になったので、お腹の中にいた優と一緒に引っ越してきて、 高松が息子の出生地になったのである。浩介は国鉄職員で転勤が多い。異動の命令が出ると職場 で引き継ぎをしたあと、すぐに新しい勤務地に向かい、家族は引っ越しの準備をして先方の宿舎 が空いてから呼ばれるのを待つのだ。準備といっても、このとき二人は新婚だったから、必要最 低限の家具しかなくて、いつでも引っ越しが可能だった。 いよいよ転勤先の宿舎が決まり、多恵は迎えにきた夫と一緒に、東京駅から終点の新大阪まで 新幹線で出発した。 東京オリンピックとともに運行が始まった新幹線は海外からの評価も高く、昭和四十二 ( 一九六七 ) 年三月には東京駅の十六番ホ 1 ムが完成して、ひかり号・こだま号の発着が分離可 能になり、乗客は増え続けている。 二人は新大阪から乗り換えて岡山の宇野に行き、さらに字高連絡船に乗った。 三千トンあまりの讃岐丸は穏やかな瀬戸内海を一時間ほど航海して、香川県の高松港に着いた。 接岸した港の桟橋は大勢の人で賑わっている。船の甲板からその様子を見ていた多恵は、字野 行きの乗客が待っているのだろうと思っていた。 ゅう
三男・真 子どものころの古い出来事で思い出すのは、引っ越し当日のちょっとした事件である。まだ 4 歳前であったので、あとになって詳しく話を聞いたのだが、新幹線の車両基地に近い国鉄宿舎が 完成したので、博多のマンションからそこに引っ越すことになった。私は母の知人であるおばさ んの家に預けられた。遊んでいるうちに気づくとタ方になっていた。ふと自分の家族が引っ越し する日であることを思い出して、慌てて家に帰ろうとするところをおばさんに引き留められた。 母は引っ越しで忙しいのだから、引き留められるのは当然である。しかし私にとっては一大事 で、引っ越しする家族に置いていかれるのではないかと慌てて家に戻ろうとしたのだ。 「大変だ、ばく、おうちに帰らなくては」といったとかで、おばさんは母にそのことを面白そう に話してくれたそうだ。そのおばさんは兄たちの転校した学校ので、私の母と同じ役員を した人だとあとになって分かった。家電メ 1 カ 1 の転勤族で、子ども 3 人とも、うちと同じ年齢 構成の姉妹である。母とその人は今でも年賀状のやり取りをしている。その後数十年が経って、 母親同士の企み ( ? ) で、うちの兄弟 3 人とあちらの姉妹 3 人が同窓会をすることになった。銀 座での当日、真ん中の次男・次女がドタキャンをして、双方の長子と末っ子 4 人だけのランチと なった。長兄がセッティングして知らせたのだが、すつほかした次兄ゃあちらの姉さんは、周り 170
寝ても覚めても 国鉄マン 妻が語る、夫と転勤家族の 20 年 石井妙子 lshii Taeko 交通新聞社新書
交通新聞社新書 093 寝ても覚めても 国鉄マン 妻が語る、夫と転勤家族の 20 年 石井妙子 ムん〃ん秋 0 一 KOTSU SHIMBUNSHA
あとがき 『寝ても覚めても国鉄マン』の基になった『自動制御な家族の旅』を自費出版してから川年が過 ぎました。段ボ 1 ル箱の奥底に封印してあった本を読み返してみると、転勤生活を繰り返してい たころはなんと元気があったことだろうと、今さらながら思います。 子どもを育てる立場にいた私は、国鉄という巨大な組織の一員である夫とはまったく違う家庭 内の出来事に右往左往していたわけで、お互いに何も知らずに始まった家庭生活は、今年で年 目を迎えます。振り返ってみると、若いということはどんな変化にも対応できる柔軟性を持って いて、生活はすでに現実のものとして前進するしかない状況にあったということでしよう。この たび新書版に加えられた夫の第川章を読み、その仕事の厳しさを再認識し、我が家の経済的基盤 を支えてくれたことを感謝しています。 私ども夫婦はときに喧嘩もしたけれど、私自身は自分に正直に生きてこられて、自由があった、 これは夫が寛容であったからだと思わずにはいられません。それと同時に、自由と表裏一体にあ る孤独も引き受けなければなりませんでしたが、私のようなタイプの人間は、文章を書いたり絵 を描いたりすることが苦にならずに、一人で遊ぶことができるのかもしれません。ともあれ、育っ 188
ーく交通新聞社新書好評既刊のご案内 交通新聞社新書 093 9784530667164 旧ⅢⅢⅡⅢⅧ旧引馴川 定価 . 本体 800 円 + 税 1 9 2 0 2 6 5 0 080 01 交通新聞社 旧 BN978-4-330-66716-4 C0265 ¥ 800E 振子気動車に懸けた男たち JR 四国 2000 系開発秘話 福原俊一 / 著 当時の関係者への綿密な取材を基に、 2 用系誕生に 至るまでの鉄道マンたちの苦闘の足跡を克明に綴る。 客車の迷宮 深淵なる客車ワールドを旅する 和田洋 / 著 " 絶滅危惧種 " ながら複雑怪奇な魅力を放っ客車の迷 宮の森へ、マニア歴 50 年の筆者が案内する。 鉄道旅で「道の駅 " ご当地麺 全国 66 カ所の麺ストーリー 鈴木弘毅 / 著 鉄道駅から徒歩 10 分以内の道の駅で食べられる、地域 ならではの麺類を駅そば研究家が選りすぐって紹介。 名古屋駅物語 明治・大正・昭和・平成 ~ 激動の 130 年 徳田耕一 / 著 平成年、開業 1 周年となる名古屋駅。生まれも育 ちも生粋の名古屋人がまとめた波瀾万丈の回顧録。 寝ても覚めても国鉄マン 昭和 ( 1967 ) 年、夫の転勤先の四国・高松で長男を産 んだ。線路際の宿舎の横を蒸気機関車が現役で走ってい た。以来、長くて 4 年、短いときは 1 年で引っ越しを繰 り返すーー。夜中に帰ってきたとたん電話が鳴って職場 に引き返すなど昼も夜もなく仕事に奔走する夫、赴任地 で生まれ成長していく子どもたち、夫の上司夫妻との交 流や国鉄アパートでの人間模様 : : : 。国鉄職員の仕事ぶ りとそれを支えた家族の記憶が、国鉄が変革を迫られて いく時代風景とともに語られていく。国鉄マンの妻が紡 ぐ、″あの時代〃の物語。 寝ても覚めても 国鉄マン 妻が語る、夫と転勤家族の 20 年 石井妙子 091 092 石井妙子 ( いしいたえこ ) 昭和 18 ( 1943 ) 年、東京生まれ。証券会社勤務時代に、国鉄職員である 石井康祐 ( 後の JR 東日本発足時取締役 ) と結婚。 3 人の男児を産み育て ながら、国鉄職員である夫を支える。 60 代半ばに差しかかり、国鉄 職員とその家族がどのように働き、暮らしたのかについて「本を書 いておこう」と思い立ち、本書を執筆。平成 18 ( 2006 ) 年 12 月、「国鉄 発・ JR 行き自動制御な家族の旅』のタイトルで、岩波出版サーピスセ ンターより自費出版。夫とともに千葉県柏市在住。 ⅲⅵ 0 石井妙子 交通新聞社新書 一 KOTSU SHIMBUNSHA
浩介が九州の門司鉄道管理局に転勤することになった。大森の国鉄アパ 1 トに住んで四年経ち、 その間に住人が入れ替わり、知り合いになった人たちは大部分が転出している。 多恵は銀行へ預金の解約に行った。 「門司ですか、私は九州に転勤したことは一度もないな」 門司は知らない、と何度もいい、銀行員は遠い九州への転勤を都落ちのように思っているよう だった。 アパ 1 トは門司区大里に建てられ、背後には山が控えている。緑の豊かなところだ。新しい五 階建ての宿舎が建ち並び、バス停が三つもある大きな国鉄職員の団地である。門司鉄道管理局は 福岡、長崎、佐賀の北部九州を管轄している。筑豊の炭田はかっては日本のエネルギ 1 供給の中 心地で、石炭を日本各地へ運び出し、繁栄を誇ったところだ。 門司は物価が安く暮らしやすいところで、近くの生鮮市場には新鮮な魚介類、鯨の尾の身など、 東京ではお目にかかれない珍味が惣菜感覚で買える。 海藻のエゴノリで作ったオキュウトについて、店員が多恵に教えてくれた 「関東の人が納豆を食べるでしよ、あれと同じですよ、この土地では朝ごはんに食べるのよ」 寒天よりも海の香りが強くて、体の掃除役をすることが昔から知られている。前日の夕食に、
石井妙子 ( いしいたえこ ) 昭和 18 ( 1943 ) 年、東京生まれ。証券会社勤務時代に、国鉄職 員である石井康祐 ( 後の JR 東日本発足時取締役 ) と結婚。 3 人 の男児を産み育てながら、国鉄職員である夫を支える。 60 代半 ばに差しかかり、国鉄職員とその家族がどのように働き、暮ら したのかについて「本を書いておこう」と思い立ち、本書を執 筆。平成 18 ( 2 6 ) 年 12 月、「国鉄発・ JR 行き自動制御な家族 の旅」のタイトルで、岩波出版サービスセンターより自費出版。 夫とともに千葉県柏市在住。 交通新聞社新書 093 寝ても覚めても国鉄マン 妻が語る、夫と転勤家族の 20 年 ( 定価はカバーに表示してあります ) 2016 年 4 月 15 日第 1 刷発行 著者 発行人 発行所 石井妙子 江頭誠 株式会社交通新聞社 http://www.kOtsu. CO. jp/ 〒 101-0062 東京都千代田区神田駿河台 2-3-11 NBF 御茶ノ水ビル 電話東京 ( 03 ) 6831-6560 ( 編集部 ) 東京 ( 03 ) 6831-6622 ( 販売部 ) 印刷・製本一大日本印刷株式会社 Olshii TaekO 2016 Printed in Japan 旧 B N 978-4-330-66716-4 落丁・乱丁本はお取り替えいたします。購入書店名を 明記のうえ、小社販売部あてに直接お送りください。 送料は小社で負担いたします。
したら、コンサ 1 トで会ったときに、 「常識がないなんてそんなことはありませんよ、私の姉も面白がって大笑いしたのですから、 多恵はそんなふうにいったはずである 米倉さんは国鉄の近代化を推進するため、多くの期待を背負って技術開発に携わっていた。 博多から門司鉄道管理局へ来て五年の間、本社勤務がなかった浩介は、米倉さんのその後を知 らなかった。コンサ 1 トで会った日の不思議な雰囲気を思い出して、多恵はまた涙を流したの だった。 真は小学校一年生になり、相変わらずいたすらも激しく、庭木に立ち小便をしたり急な坂道を 転がって遊んだりして、多恵を困らせている。女の子二人を育てている人がいった。 「男の子がマザ 1 コンプレックスになるのは分かる気がするわ、子どものころ、これだけ母親を 困らせているんだもの、大きくなって申し訳なかったと思うのは当たり前だわね」 世間話をしながら、多恵は子どもたちをこれ以上転校させたくないと考えていた。息子たちに とって自分の故郷がどこなのか、もうそろそろ定めてもよいのではないかと思い、人事異動が あっても家族は転居しなくても済むように、千葉に家を建てる準備を始めた。 116