高松機関区長 - みる会図書館


検索対象: 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年
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1. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

一通り片づけ終わり大勢の手伝いの人が去ったあと、多恵は長旅とカルチャ 1 ショックで神経 が高ぶり寝込んでしまった。これは大変なところに来たと思ったのだ。 機関区は昼も夜も蒸気機関車やディーゼル機関車が動いている。ポイントを動かすたびに線路 際の家は地震のように揺れ、早朝四時ごろには鋭い汽笛が響き渡って、十二、三軒並んだ職員宿 舎の眠りを遠慮なく覚ましていく。爆音と地響きはすさまじくて、いつも地震と雷の中にいるよ ばいえん うな環境であった。蒸気機関車が動くたびに煙突からは煤煙が降り注ぎ、洗濯物は真っ黒になる。 数は少なくなっていたものの、蒸気機関車がまだ現役で動いていることに、多恵は驚いたの だった。 機関区長、保線区長、信号区長など現場長と助役は、列車事故や災害があればすぐに駆けつけ られるように、義務官舎と呼ばれるこの二軒長屋の宿舎に住んでいる。 安全と列車ダイヤを守るために、車両と隣り合わせの敷地で暮らしているのだ。まったく何も 知らないで東京からついてきた多恵は、文字通り驚天動地の思いがした。それでも東京へ帰ろう とはせず、高松の病院で優を産もうと決めたのだ。 土讃線の多度津から阿波池田間はディーゼル機関車が走り自動信号化されて、この年の三月一

2. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

ところが船を下りると、その人たちが左右に分かれて通り道を空け、旧知の間柄のように挨拶 編 高をしてくれたのである。 年「こんにちは」 「海を渡って、ようおいでました」 人波にもまれ、とまどいながら挨拶をして通り過ぎた多恵は、ようやく夫の職場の人たちが出 昭迎えてくれたのに気がついたのだった。 二人は共に東京育ちである。結婚して一年目に浩介が四国の高松機関区長で赴任することにな る 渡り、転勤生活の第一歩が始まった。 海機関区は列車を動かす現場の人たちの職場で、車両の整備を行うため大きな車庫があり、助役 戸さんは十三人もいる。 で これから住むことになっている国鉄宿舎は町から離れた瀬戸の浜近くに建っていて、蒸気機関 船 絡 車やディーゼル機関車が止めてある高松駅構内操車場の線路際にあった。 連 宇多恵が木造二軒長屋の宿舎に着くと、すでに助役夫人たちが引っ越しの手伝いに来ていた。手 章際よく段ボ 1 ル箱を開けて家財道具を取り出し、品定めをしながら所定の場所に収めている最中 第である。

3. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

て この研究所時代に結婚した。毎日の私の弁当は、研究室では注目の的で、皆に冷やかされた。 寄 一三ロ 以来、共に暮らしてきて思うことは、彼女は頑張り屋さんということ。何事にも一生懸命であ 手 妻る。私は、その頑張りをいいことに、家のことは彼女にお任せなところがあった。やや独断専行 のきらいはあるが、たいがいのことは自分で決めてやる。少々面倒な手続きを伴うようなことも と 庭やってしまう。自分には手にあまるようなことは、それとなく協力をいってくるが、いつまでも 耻放置すると、しびれを切らして、自らやってしまうこともある。後年、庭木の枝が伸び、彼女か のら剪定の催促があったが、日を延ばしに延ばしていたら、いつの間にか、自ら木に登って枝を ろ こ切ってしまった。近所で話題になり、私の評判を落とした。 あ研究所勤務のその後は、四国の高松機関区に転勤となった。 る 語 ン高松機関区は、大きな動力車区であった。記憶をたどれば、機関士約 200 名を含め約 800 鉄名の職員が働いていた。機関区は、機関車などを検査、修繕、整備して、機関士とともに本線に 章送り出している現場である。無煙化の進んでいた四国ではあったが、 (-n--Äもまだ活躍していた。 第 私は、歳前だった。自分の置かれている立場と実力をわきまえて行動しようと思った。べテ 177

4. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

全を保証しなければなりません。組織の中でそのような仕事を経ていくにしたがい責任も大きく なるわけですから、彼は仕事とプライベ 1 トの区別もなく、気分の切り替えもできない状態で働 いていたことでしよう。 最初に転勤した高松機関区では、昔の国鉄がそのまま残っていて蒸気機関車が走っていまし た。在職したのは 1 年間ですが、強烈な新婚生活の第一歩で、今ではとても貴重な経験をしたと 思っています。第 2 章は現在のシステム化された鉄道に変えるために苦悩する技術者集団を、家 庭にいて感じたままを記しました。「夜が明けようとして」なおまだ暗いコンピュ 1 タ 1 の黎明 期、その中の一人である夫の様子です。 国鉄本社と地方の鉄道管理局を数年おきに異動し、長くて 4 年、短いときは 1 年で引っ越しま した。第 5 章、博多総合車両基地に異動になったのは、東海道・山陽新幹線の終点が博多まで延 びた 1 年後のことです。たくさんの国鉄職員が基地周辺に住むことになり生活用水の確保もでき ていない状態で、当時の苦労は大変なものでした。第 6 章では鉄道の近代化を担って、一人では 足りないほどの仕事を抱えていた研究所の上司、米倉さん ( 仮名 ) のことを書きました。在職中 に亡くなり、思い出すと今でも涙がこばれます。 夫は t---ax を退職してから数年は、鉄道輸送以外の仕事をしています。家に帰ってきても国鉄時

5. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

伝いなどしたくはないだろうに、面倒なことでも我慢するのは夫の昇進を願ってのことなのだ。 編 高人事に関与できる現場長とその家族へさまざまなサービスをして、その結果よいポストに就い 年ておけば、退職金から年金まで影響するのである。佐野さんは次の人事異動までには退職するの だから、もういやなことはしないと決めたのかもしれなかった。 多恵は少しばかり不愉快な思いをしたが、助役夫人だって夫の仕事に巻き込まれて、辛い経験 昭をしたことは数え切れないほどあるだろう。理不尽なことが多くても、夫の立場を考えて、長い 一間我慢をして生きてきた人なのだ。 る 渡多恵のように、男女同権といわれて育った人間にはできそうにないことだった。 を 海 内 戸高松に来て一年が経った昭和四十三 ( 一九六八 ) 年、本社の事務管理統計部がコンピュ 1 タ 1 で部に改称されて、浩介にコンピュ 1 タ 1 部への異動が命ぜられた。 絡 東京へ帰る日の高松港に、一年前着いたときと同じように大勢の人が集まっていた。船のデッ 連 宇キに上がると、手すりに一抱えほどもある紙テ 1 プの東が二つ結びつけられている。 章「奥様はここ、区長はこっち」 第庶務課の須藤さんがテ 1 プの東を手に取るようにいった。彼は優を抱っこして対岸の岡山まで

6. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

高松の言葉はのんびりとして、優しく響いた 水不足の暑い夏が来て、岩村さんは姿を見せなくなり、庭は雑草だらけになった。大きく伸び たひまわりが枯れて種をつけている。保線区長の奥さんが生け花に使うからと、友達と一緒に やってきて、たくさんのひまわりを持って帰った。 瀬戸内海は夕方になると、海からの風もびたりと止んでタ凪になる。暑い夏の日、多恵は優を 乳母車に乗せ、買い物に出かけた。商店街の近くまで来ると、親切に引っ越しの手伝いをしてく れた助役夫人の佐野さんに出会った。 「あの節はいろいろお世話になり、ありがとうございました」 多恵は挨拶をしたが佐野さんはロもきかず、顔を背けて連れの人に何かいいながら足早に離れ て行った。思い当たることはなかったが、自分の知らないさまざまなしきたりなどがあって失礼 なことをしたのかもしれないと思って、職場から帰ってきた夫に聞いてみると、 「人事のことで不満なんだろう、気にしないでいいよー といった。 助役夫人は多恵から見れば親子ほど年の違う人である。年齢から考えても本当は引っ越しの手

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その過激さにおいて「鬼の動労ーの異名で知られている動力車労働組合は、蒸気機関車や気動 車乗務員の全国組織である。かって「鬼の動労ーにいたぶられて泣き出した若い機関区長がいた というほど、手ごわい組織なのだ。 「蒸気機関車を動かしている機関士だからね、プライドが高いんだよ」 国鉄宿舎には壁に取りつけた送話機に向かって話す、古めかしい鉄道電話があった。ストライ キの直前、ベルが鳴って多恵が受話器を取った。 「日一那はおるか」 「おりませんが」 「おるだろう、電話口に出せ 「いませんよー 電話はそのまま切れたが、労使交渉の知識もない多恵は、脅されているのか嫌がらせをされた のか分からす、変な国鉄職員がいるものだと思っただけであった。 ストライキに突入した日から浩介は夜になっても帰らず、庶務課の人が助役夫人と一緒に浩介 の着替えを取りに来た。 二、三日帰れないかもしれないが心配はないからといって、浩介は職場へ出かけて行った。

8. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

編「区長は元気でやっていますよ」 高「奥さん、機関区長は三国一の婿さんですよ、ああいう人は鉦や太鼓で探しても見つかりまっせ 年ん」 「そうですか、感謝しなければいけませんね、 一人で宿舎にいる多恵を安心させようとして、助役夫人は世間話をして帰って行った。 和 昭 ストライキが終結して三日目に夫が帰ってきたとき、ズボンのベルトが男性とは思えないほど 細く締まり、そのやつれように多恵は驚いて声も出なかった。 る 渡「三日間、。、 ノンと牛乳しか食っていない、吊るし上げとはよくいったものだ」 海 ストライキでは、現場の管理職を部屋に閉じ込め軟禁状態にする。される側は多数を相手に眠 内 戸ることもできない で現場を知らない現場長では、労働争議のときなどは憎しみの対象でしかないのだろうか それでも浩介はストライキが終結するといつもと同じように、何事もなかったような感じで出 連 宇勤して行った。 章 第古めかしい木造の宿舎は、間仕切りの襖を全部取り払うと三十人ほどが集まれる座敷になっ かね

9. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

編日からは ( 列車集中制御装置 ) の使用が始まっている。とは列車の運転情報を一カ 高所にまとめて表示し、進路を直接制御できるようになっているシステムのことだ。列車進行に合 年わせて行われる業務が一カ所に集められるため、指令員は的確な情報を早く伝達することができ るようになったのだ。他にも阿波池田から高知までの oeo 、予讃線の複線化などが次々に予定 され、近代化が進められていた。 昭浩介が高松に転勤したときは、四国のディーゼル化を推進して、今までの輸送手段が新しい技 術と交代する時期と重なっていた。 る 渡新旧の技術が入り混じって混沌としたところでの平穏はあり得ない。労働組合側は各種の機器 海設備が列車本数を増やし、乗務員の作業と取り扱いを繁雑化して、労働強化につながると主張し 戸ていた。 でそうした中で、春闘はストライキに突入したのである。 連各地の労働組合の運動家が高松に集まり、ストライキの拠点となった。 宇現場長は現場の職員が定年間際に就くボストであるが、何年かごとに本社から若い現場長が任 章命されてやってくる。浩介のように本社から来た若い現場長は労働組合の標的となり、厳しい団 第体交渉の矢面に立たされる。

10. 寝ても覚めても国鉄マン : 妻が語る、夫と転勤家族の20年

長男・優 私 ( 本文では長男・優 / 仮名 ) は昭和犯 ( 1967 ) 年に高松で誕生した。半世紀近く経って から両親や弟たち、そして自分の歴史を振り返るなんて思ってもみなかった。早速、思い出して みようとしたら : : : そりやそうだ、高松のことなんてこれつほっちも覚えていない。 当時の写真だけが、私にとって高松にいた唯一の証だ。とても楽しそうに写っているので楽し かったんだと思う。もちろん、父さんがストライキで吊るし上げられていた、なんてことも知ら リっ越しだ ない。そして、生まれて 1 年で大森へ引っ越した。こんな感じで、私の幼少時代は、ー らけだったのだ。 ちなみに、再び高松の地を踏んだのは、年もあとの旅行のときだ。新幹線で東京から岡山ま で行って、瀬戸大橋線を使って高松まで来た。東京から全部鉄道で。国鉄万歳 ! 話が脱線、 や、国鉄職員の息子が「脱線ーとかいっちゃだめだな、話を戻して「超特急」で先に進もう。 一番古い記憶は大森の国鉄アパート時代。アパ 1 ト敷地の隣に京浜東北線と東海道線が走って いた。母さんが書いたように動物園で迷子になったことと、アパ 1 トの近所で父さんと散歩して いてはぐれて迷子になったことを覚えている 次は、門司。ここで幼稚園に通うようになった。カトリック系の幼稚園で、神父さん ( 外国人 ) 158