タイなど六カ国を歴訪する。彼の目的は明らかである。「アジアにおける日本の地位をつくり 上げる、すなわちアジアの中心は日本であることを浮き彫りにさせることカ イクに会って 土米関係を対等なものに改めようと交渉する私の立場を強化する」、というのが岸の「判断 であった ( 『岸信介回顧録』 ) 。 つまり岸は、単なる「駐軍協定」としての旧条約を双務的な防衛条約に改めることによって、 吉田が果たそうとして果たせなかった「対等の協力者ーとしての日本を今度こそアメリカに認 めさせなければならないこと、しかもそのためには、この東南アジア訪問によって「アジアの 盟主 . としての日本をアメリカ側に了解させなければならないと考えたのである ( 『日米関係の 構図』 ) 。 岸におけるアジアへのこうしたアプローチが、日本を盟主とするかっての彼の「大東亜共栄 圏ー思想ないし「大アジア主義。と必ずしも矛盾するものでないことは、やはり記憶されなけ ればならない。彼は後年インタビ = ーで、戦前みずからが抱いた「大アジア主義」と戦後にお けるアジアへの関心と ( 全につながる」とともに、「自分が満州国に行ったこととも結び つく」こと、すなわち自身における、 ' 「戦前 J ーと・「戦後一」・・、・ど -4 ~ ・・・一」・ぞ引・ぐも、 -j 、し・ーコ・ してもると二一口する ( 岸インタビ、 190
岸は大川周明の印象を次のように回想したことがある。「大川は物事をいい切る人 大アジア だ。そういうことが若い者に非常に印象的であった。学者は、ああでもない、 主義 でもないといろいろな学説を並べるが、とにかく大川さんという人は決断をもって 若者にこうだといい切るんだ。上杉先生と同じように、それが非常に魅力的であった」。続け て岸はいう。「その頃はまだ大東亜共栄圏なんていう考えは頭になかったが、こういった考え 方や私の満州行きの基礎には、大川さんの考え方があったことは否めないー ( 岸インタビ、ー ) 。 つまり岸は、昭和一一年一〇月商工省から満州国へ転進する、その思想的基盤が大川の大ア ジア主義であることを率直に認めているのである。岸のなかに理論的に構築されつつあった北 一輝的国家主義、すなわち国内改造論と対外膨張論とを一体化させた国家社会主義は、同時に 大川の大アジア主義によってさらに肉付けされていったといえよう。なぜなら、岸が北一輝の 抱く対外膨張論の対象を「アジア」にみてとったのは、大川の大アジア主義によるところ大で あったし、その「アジア」への自意識を思想的に正当化しえたのも、やはり大川を経由したか 春らである。 青 大川においては、「維新日本」ないし「革命日本ーを実現してはじめて日本はアジア諸国の 盟主となる。昭和一一年に著した論文「日本精神研究」で彼は、「世界統一の使命を有する」日 本は、その「使命」の実現をまず満州に求め、「朝鮮之に次ぎ」、「進んで支那に及び、更に全 これ
大学時代の岸にたいして、北一輝に優るとも劣らない思想的影響を与えたのは大川 大川周明 周明である。岸が大川に関心をもったのは、もちろん、その大アジア主義 ( 「アジア の影響 主義」ともいう。日本を盟主とするアジア諸民族連帯の思想 ) であるが、びるがえって大 コットンにある。コットンの並圭日 川の大アジア主義を覚醒せしめたその原点は、ヘンリー・ 『変容するインド』 (lnd T 、 s ミ ) を読んで、イギリス支配下インドの惨状に衝撃を受け た大川は、大正五年一一月、「印度に於ける国民的運動の現状及び其の由来」なる論文を発表 する。 かしやく この論文で大川は、インドにたいするイギリスの呵責なき迫害によ「てインドがいかに荒廃 の極みにあるか、インドがいかに対英抵抗運動を展開してきたか、そして日露戦争以来の「日 本の勃興」がいかに「インドの独立」を支援しているかを歴史的かっ実証的に論じている。ア ジアとの「交情」がアジアにたいする「膨張」へとスイッチされていく日本帝国主義の予兆は、 確かに同論文を貫く主旋律であった。 植民地インドに関する大川の研究は、やがて満鉄 ( 南満州鉄道株式会社 ) 総裁後藤新平の認める ところとなる。大川は大正七年、すなわち知識人を結集した老壮会をつくった年に、後藤新平 へんしゅう の誘いに応じて満鉄に入社し、翌八年つまり猶存社結成の年には満鉄東亜経済調査局の編輯課 長に昇進する。岸が大川とかなり頻繁に会うのは、まさにこうした時期であった。 8 2
世界に向って進めらるべきものである」と主張した。のちの革新官僚岸信介が、大川における ま一度これを こうしたアジア侵略の具体的なプランをなぞっていくその符合の鮮やかさは、、 かみしめておく必要がある。 このように、大学時代における岸の国家主義思想は、単に上杉慎吉の国粋主義にとどまらず、 北一輝の国家社会主義と、それに連なる大川周明の大アジア主義から種々の要素を吸収して深 められていくが、しかし、彼らが岸の国家主義形成にとってすべてであったとはもちろんいえ かのこぎかずのぶ ない。例えば、のちに一一一一口論報国会事務局長を務める哲学者鹿子木員信の国粋主義と大アジア主 義が大学時代の岸に強い影響を与えたことは、岸自身も認めている。 ところで、北一輝や大川周明の思想にマルクス的社会主義の影が陰に陽につきま マルクス主 とっているということは、これまでの記述からもおおよそ見当がつくであろう。 義の妖気 前出の通り、堺利彦、幸徳秋水、片山潜ら日本の先駆的社会主義者たちが北一輝 への接近を試みたことからもわかるように、岸が共鳴した北一輝の社会主義革命論には確かに マルクス主義の妖気が漂っている。大川周明は前出「日本精神研究」で、「かくて予は社会制 わがし 度の根本的改造を必要とし、実にマルクスを仰いで吾師とした」と吐露しているように、大川 が生涯にわたってどのような思想的遍歴を経ようと、一度はマルクスに傾倒したことは間違い
戦争時代の岸、敗戦直後における巣鴨プリズン時代の岸、そして戦後政治家としての岸でさえ、 アメリカへの対立イメージはその濃淡に差はあれ、決して消えることはなかった。 これについては追い追い明らかにされようが、少なくとも大正一五年の訪米時にお ワシント ける岸のこうした対米観は、それなりに当時の政治気流を反映していたともいえる。 ン体制 もちろん岸が当時のアメリカに、ある種の憧憬をもっていたことは確かである。し かしアメリカにたいする岸の対立イメージは、一九二〇年代におけるアジア・太平洋協調シス テムとしての、いわゆるワシントン体制に潜む「日米対立」の要素を色濃く映し出していたと いって、もよ 同体制を生み出したワシントン会議は、大正一〇年 ( 一九二一年 ) 一一月から年一一月まで開 かれたが、その主な議題は、海軍軍縮とアジア・太平洋問題であった。海軍軍縮については、 米英日仏伊五カ国間で「海軍軍備制限に関する五国条約」が調印された。同条約の核心は、い うまでもなく米英日の主力艦総トン数比率を五対五対三とした部分である ( これにたいし、仏伊 の比率は両国とも一・六七であった ) 。 これは、アメリカの提案を日本側がやむをえず受け人れた結果である。日本全権の加藤友一二 しではらきじゅ - つろう 郎 ( 海相 ) や幣原喜重郎 ( 駐米大使 ) らが、「対米協調 [ 優先の立場から海軍内部の「対米七割」論 を抑えて、「対米六割」を甘受したということである。したがってワシントン体制は、軍部か
言で特徴づければ、民心の変化と社会変動の時代であったといえる。米騒動が象徴しているよ うに、国民経済の悪化、労働者のストライキ、社会不安の深刻化、そしてそれに伴う民衆の権 利主張は、左の社会主義から右の国家主義に至るまでさまざまな思潮ないし運動となって拡大 していく。 こうしたなか、大正八年 ( 一九一九年 ) 一月には、第一次大戦の講和会議がパリで開かれる。 この講和会議で特筆すべきは、日本がイギリス、アメリカ、フランス、イタリアとともに五大 国の一つとして戦後処理に指導的役割を果たすとともに、中国山東省にあるドイツ権益の日本 割譲を実現するなど、アジアにたいする露骨な干渉に打って出たことである。同年五月四日こ を展開した、いわゆる五・四 の山東問題に抗議して一一一〇〇〇人以上・。・中学生・・が反・日示威運動、・・ ! ・ 運動は、日本の帝国主義的野心にたいするアジア諸国民の抵抗という、以後牢固として続く歴 史の構図を早くも一小すものであった。 こうした激動の時代に、東大法科の学生であった岸がどのようにみずからの思想 上杉慎吉の を深めていったかという問題は興味深い。当時の政治思潮を反映して、東大では 国粋主義 吉野作造をリーダーとする民本主義の流れと、上杉慎吉を中心とする国粋主義の 勢力が厳しく対峙していた。前者は、「人類の解放ーと「現代日本の合理的改造ーを目的とす る社会主義的、民主主義的集団、すなわち新人会へと糾合された。これにたいして後者は国家
岩波新書創刊五十年、新版の発足に際して 岩波新書は、一九三八年一一月に創刊された。その前年、日本軍部は日中戦争の全面化を強行し、国際社会の指弾を招いた。しかし、 アジアに覇を求めた日本は、言論思想の統制をきびしくし、世界大戦への道を歩み始めていた。出版を通して学術と社会に貢献・尽力 することを終始希いつづけた岩波書店創業者は、この時流に抗して、岩波新書を創刊した。 創刊の辞は、道義の精神に則らない日本の行動を深憂し、権勢に媚び偏狭に傾く風潮と他を排撃する驕慢な思想を戒め、批判的精神 と良心的行動に拠る文化日本の躍進を求めての出発であると謳っている。このような創刊の意は、戦時下においても時勢に迎合しない 豊かな文化的教養の書を刊行し続けることによって、多数の読者に迎えられた。戦争は惨澹たる内外の犧牲を伴って終わり、戦時下に 一時休刊の止むなきにいたった岩波新書も、一九四九年、装を赤版から青版に転して、刊行を開始した。新しい社会を形成する気運の 中で、自立的精神の糧を提供することを願っての再出発であった。赤版は一〇一点、青版は一千点の刊行を数えた。 九七七年、岩波新書は、青版から黄版へ再び装を改めた。右の成果の上に、より一層の課題をこの叢書に課し、閉寒を排し、時代 の精神を拓こうとする人々の要請に応えたいとする新たな意欲によるものであった。即ち、時代の様相は戦争直後とは全く一変し、国 際的にも国内的にも大きな発展を遂げながらも、同時に混迷の度を深めて転換の時代を迎えたことを伝え、科学技術の発展と価値観の 多元化は文明の意味が根本的に問い直される状况にあることを示していた。 その根源的な問は、今日に及んで、いっそう深刻である。圧倒的な人々の希いと真摯な努力にもかかわらす、地球社会は核時代の恐 怖から解放されす、各地に戦火は止まず、飢えと貧窮は放置され、差別は克服されす人権侵害はつづけられている。科学技術の発展は 新しい大きな可能性を生み、一方では、人間の良心の動揺につながろうとする側面を持っている。溢れる情報によって、かえって人々 の現実認識は混乱に陥り、ユートピアを喪いはじめている。わが国にあっては、いまなおアジア民衆の信を得ないばかりか、近年にい たって再び独善偏狭に傾く惧れのあることを否定できない。 豊かにして勁い人間性に基づく文化の創出こそは、岩波新書が、その歩んできた同時代の現実にあって一貫して希い、目標としてき たところである。今日、その希いは最も切実である。岩波新書が創刊五十年・刊行点数一千五百点という画期を迎えて、三たび装を改 めたのは、この切実な希いと、新世紀につながる時代に対応したいとするわれわれの自覚とによるものである。未来をになう若い世代 この叢書が一層の の人々、現代社会に生きる男性・女性の読者、また創刊五十年の歴史を共に歩んできた経験豊かな年齢層の人々に、 広がりをもって迎えられることを願って、初心に復し、飛躍を求めたいと思う。読者の皆様の御支持をねがってやまない。 ( 一九八八年一月 )
受けているということである。誠ーをもって革命の先覚とオを . カ中学 代・・岸、に鉅ぐ - 劾な・込 - ま・れ・た・・一 1 ・と・は重要で、みる。 幕藩体制崩壊の渦中にあって、アヘン戦争に示されるが如き西欧列強のアジア支配を凝視し ていた松陰は、みずから君臣一体」。・・の皇国思をを誌 0 が、そうした姿が岸における国家思想 の素朴な原像を形づくったといってよい。「 ( 松陰の思想は ) 私のを貫いて今日まで残って 以下の「インタビー いる」 ( 筆者による岸インタビ、ー はすべて筆者によるもの ) と岸はのちに 述懐している。岸が中学時代「政治家志望ーを固めていくその道筋は、曾祖父信寛とそれにつ ながる長州の志士たちへの格別な想いがいまや叔父祥朔を介して、素朴ではあるが、しかし一 個の具体的な思想となって岸のなかに根づく過程でもあった。 多くの人がそうであるように、岸の人格形成にお、一・一判す〔既一〔〔〔〔〔〔 " " ー 間は決定的でさえあ る。しかもこの人格形成は、主として佐藤一族という血縁共同体と、それを取り巻く長州の維 クライメット 新的気候のなかで鋳造されたものである。毛利家の元家臣としての家格にこだわり、その家 ふさわ 格に相応しい立身栄達の道へ子弟を押し上げていく教育への執着、そしてこの教育への執着を 「 G ・結束を・も・ ? - ・て実現・し・て・い・ぐ・ぞ・å・烈・し・いなは、岸の人格形成を紛れもなく貫いている。 岸における立志の野心は、佐藤一族が放っ教育 ~ の熱気と、一族に伝わる長卅・ 0 維新、・革新 じとによ
彼は前年夏すでに在日基地の「長期確保」のための「安保改定」をワシントンに示唆している (EmbteIs 67. JuIy 一ご 309. Aug. 8. 1956 ) 。 しかし、岸に衝き動かされたマッカーサー大使の危機意識は、いまや明確な政策提言として 国務長官ダレスを動かそうとしていた。マッカーサーは四月一七日付ダレス宛文書 (From 】 Tokyo. To 】 Secretary of state. NO 】 2336. Apr. 一 7. 4PM) で一 ) 、つ警生ロする。「ワシントンでの ( 日米・ ートナーシップを目指すための根本 首脳 ) 会談の結果として、もしも日米関係における真のパ 的な再調整の基礎ができないなら、日本は次第に、アメリカの利益に反する、しかも取り返し のつかない決定をなすことになろう」。 対日政策の根本的見直しを訴えるマッカーサーの迫力には並々ならぬものがあった。彼は続 にしていくのではない けてこうのべている。「私が恐れるのは、・印本 - が漸進的・に車立主 っ こか、ということである」 ()b ミし。同大使は日本がアメリカの最も恐れる「中立化」 ( あるいは「共 産化」 ) に走らないその歯止めとして、いまこそ日米安保体制の「再調整ーが必要である旨をダ カレスに勧告したのである。 権 さて、岸が日米首脳会談を前にして準備したのは、このマッカーサーとの予備会談 章「アジア だけではない。安保改定をアメリカ側に提起する環境づくりとしての「東南アジア の盟主」 訪問」も重要な意味をもっていた。岸は五月一一〇日から一六日間にわたって台湾、
保守党と、保守の一部を含む革新政党とが競い合う「二大政党制ーの構想は、すでに岸のなか に固く根を下ろしていたのであり、したが 0 て彼のこうした動きはある意味で当然であった。 社会主義者の取り込みに失敗した再建連盟は、その結成後わずか数カ月にして重大 総選挙で な試練に直面する。すなわち同連盟は、二七年八月吉田首相が打った、いわゆる 惨敗 「抜き打ち解散」とそれに続く総選挙 ( 同年一〇月 ) に巻き込まれていくからである。 この選挙に再建連盟が政党として打って出るべきだとする三好、武知、綾部健太郎ら幹部と、 あくまで同連盟を国民運動の推進母体と考える会長岸とが対立し、結局は岸が折れて、再建連 盟は独自候補および系統候補合わせて数十名を同選挙で擁立することになる。 しせきいへい しかし、結果は惨敗であった。岸は立候補しなかったが、三好、有馬英治、福家、始関伊平 て等々の独自候補はすべて落選し、わずかに武知のみが愛媛から当選した。ただ連盟系統の川島 正次郎、南条徳男、森下国雄らが自由党から、小泉純也、笹本一雄らが改進党からそれぞれ出 向 馬して当選したのはせめてもの救いであ「た。 守ともあれ、再建連盟はこの総選挙によ。て完全に挫折した。しかし同連盟が掲げた諸政策、 保 とりわけ「共産主義の侵略の排除と自由外交の堅持」、「日米経済の提携とアジアとの通商」、 章 制の用は、岸戦後政治、ともなるべきものであり、こ そして「憲法と 第 れを 丿ングボード ) してコ二のステッが始まるのである。 151