第一章維新の残り火ーー生いたち 松岡洋右 ( 後列左 ) らと並ぶ小学 6 年生の岸信介 ( 前列左か ら 2 人目 ). 後列右は佐藤松介 ( 岸の叔父 ) , 岸の左は松岡 五郎 ( 洋右の甥 ) , 右は隣から順に松岡扈 ( ゆう , 洋右の 母 ) , 佐藤藤枝 ( 松介の妻 ) , 佐藤寛子 ( 松介の長女 , のちの 栄作の妻 ) , 佐藤音世 ( 岸の姉 ). ( 明治 41 年 )
も 佐藤一族のなかで岸の人生に鞦別 -0 意味を ま人の人物といえ ~ 、叔父松 叔父松介の 介を ' 間いぞまが、にないいまの。 ~ たように、曾祖父信寛の存在が半ば幻想のなか 支援と教育 で増幅されていったのにたいし、松介は少年時代における岸の経済的支援者であ ると同時に、関呑すみ。た。松介は茂世の実弟、すなわち岸の祖父信彦夫妻の長 ようすけ 男として佐藤本家を継いだ人物である。松介の妻は、のちの外相松岡洋右の実妹藤枝である。 松介・藤枝の長女寛子が佐藤本家を継承するため、岸の実弟栄作を入婿として迎えるのである。 松介は東京大学で医学を学び、卒業後同大学の助手を務めたのち、岡山医専に移り、産婦人 科学の教授となる。東大の助手時代には実弟の寛造 ( 医者 ) 、作三 ( 医者 ) のほかに、岸の姉タケ や兄市郎を田布施から呼び寄せてそれぞれ東京の学校に通わせている。松介が岡山に居を定め てからは、信介の姉たち ( 駒子、音世 ) を地元の高等女学校に入れて生活の面倒をみ、最晩年の 二年間は岸を田布施から引き取って物心両面、実の親にも劣らぬ熱意で岸の教育にあたってい すべ る。「叔父の全収入は私共の教育費に総てつぎ込まれたのであって、其の急逝した後に一銭の 蓄へも残さなかったのはその為であった」とは岸の述懐である ( 『風声』第四号 ) 。 岸が松介を頼って岡山に移ったのは、小学校六年のときだが、それ以前から松介は、夏休み になると岸を岡山に呼んで何くれとなく世話をしている。他の兄姉にたいしてと同様、岸の学 業成績にたいする松介の関心は並々ならぬものであった。岸は田布施の国木にある尋常小学校
じよじようふ 実母の茂世は、気位の高い勝気な女丈夫であったといわれる。幼時から両親にはもちろんの しようあい のぶひろ こと祖父信寛 ( 信介の曾祖父 ) からもいたく鍾愛され、「茂世は佐藤家に残す」という了解がいっ ようせつ の間にか一族のなかに成り立っていた。茂世は、父信彦 ( 信介の祖父 ) が比較的早く夭折したの さくぞう まっすけかんぞう で、若いときからその才知と男まさりの器量で弟妹 ( 松介、寛造、さわ、作一一 l) の面倒をみながら、 なおかつ一〇人のわが子の養育に専心した。 子供たちにたいする茂世のスパルタ教育は徹底していた。信介の実兄佐藤市郎は、「父はお となしかったが、そのかわり母は非常に厳格で、子供の頃はいたずらをすると、お尻をつねら れたり、土蔵にほうり込まれたり、とても怖かった」 ( 『文藝春秋』昭和三〇年一月号 ) と回想して いる。岸自身も、母親から尻をびねられ、物差しで叩かれ、線香で焼かれたりして、風呂に人 ると、いつも尻が真黒になっていたことを思い出すという。茂世は学校教育なるものをほとん ど受けていないが、成人した信介らをつかまえると、お前たちはカネと時間を使って理屈を覚 えたろうが、私は道理では負けないよ、といって胸を張っていた ( 同誌 ) 。 父秀助は、市郎がいうように、確かにおとなしい寡黙の人であった。温厚でなおかっ勉強好 きであった。学問で身を立てようとしたが、名門の地主とはいえ岸家の資力がこれを許さず、 佐藤家に婿入りすれば希望が叶えられると思ったらしい。漢学者であった、茂世の父信彦も秀 助の向学心を大いに買っていた。しかし秀助の期待は見事に裏切られる。結婚して一〇人の子 いちろう
韓国系企業から三菱地所が同霊園の経営権を引き継いだとき、その仲介役になったのが岸であ うず る。彼が同霊園の経営権移譲を仲立ちし、そこにみずからの骨を埋めたとなれば、その奥っ城 が特別の権勢を暗示しているとしても不思議ではない。威風を放っ御殿場の墓は、戦後政治最 大のフィクサーともいわれた岸信介の面目を静かに確かめているようでもある。 とまれ、質朴と権勢とをそれぞれ象徴するかのような、これら二つの墳墓の彼方には、九〇 年の歳月を刻んだ岸の広漠たる人生が横たわっている。 よしき 岸信介は明治一一九年 ( 一八九六年 ) 一一月一三日、山口県吉敷郡山口町 ( 現在の山口市 ) ひですけ 勝気な母 に生まれる。父佐藤秀助と母茂世の間には三男七女がもうけられた。信介はその次 寡黙な父 男である。他の兄弟姉妺がすべて田布施生まれであるのに、信介だけは、そこから 六〇キロ西へ離れた山口町で生を受けている。父秀助が当時たまたま同地で県庁の役人をして いたからである。 火 秀助はもともと岸家の出だが、同じ田布施にある佐藤家の家つき娘茂世と結婚し、佐藤姓を 新名乗る。秀助一八歳、茂世一四歳のときである。茂世の両親は、佐藤家を継ぐべき息子たちに 恵まれながら、長女茂世の婿養子として秀助を迎え、佐藤家から分家させる。「佐藤信介ーが 章 のちに「岸信介」へと改姓するのは、実は父秀助の実家に信介が養子として入ったからである。 第 信介、中学三年のときであった。 おくき
その意気込みこそ、松介存命中はもちろん、その死後も岸の精神的な " づイグ " リンとなるので ある。松介に死なれて岡山中学から山口中学に転校し、そこで終始首席を通したのも、一高か オもさらには官界に入って ら東大に進んで我妻・栄 - ( ・の・ぢ・é応 - k 拠 ) ・ど・・ト・ツ・・プ・・の成績・を・争らー・こ・・のー 4 ー 出世街道を極めようたのも、父松介の「期待」を岸が背負っていたことと、 ではない。学業で、そして官界での出世競争でよい「点数ーをとったとき、岸の想いはいつも 同じであった、父に喜ん . でもら - い。 . たカった、という感慨がそれである。 しかし、それにしても驚くのは、叔父松介が急死したあとにみせる佐藤一族の対 山口中学へ 応である。岸はこの松介の葬儀に出ることも叶わず、友人、教師に別れの挨拶を しようさく することもなく忽然と岡山から消えていく。叔父吉田祥朔 ( 茂世の実妹さわの夫 ) が風の如く岸 を山口に連れ去ったからである。山口中学の教師であった吉田祥朔は、松介の死を聞いて直ち に岸の面倒をみる決意をするとともに、の勉学が一日たりとも遅れてはならなもという配慮 火 残から、自分の勤務校山口中学に時を移さず岸を転校させてしまうのである。佐藤一族の結 新固さと、子弟の教育に注ぐ強烈な意志がここにある。 維 吉田祥朔は、山口中学で歴史、地理を教えていた。篤学の士であり、厳格な人物であった。 章 郷土史家としても研究に励み、だ詩・を・・お・ぐし・自宅には血縁の岸だけでなく同中学の生 第 徒を幾人も寄宿させたが、彼らには大いにロやかましかったらしい。自分の子供たちにも厳し
ではいつも抜群の成績で首席を通したが、西田布施の高等小学校に進んでもその最優秀の地位 は変わらなかった。松介はこれを大いに喜び、その褒賞として、東京での医学会出張に合わせ て岸を引率している。岸にとって東京はもちろん初めてであり、東京座の芝居、上野動物園、 浅草の花屋敷など、みるもの聞くものが、わずか一〇歳そこそこの少年にどれほど強い衝撃を 与えたか測り知れない。 この東京行きの翌年、すなわち岸が西田布施の高等小学校一一年のとき、松介は岸を 岡山へ 自分の手許で教育するため、岡山の小学校に転校させる。岸の秀逸な頭脳を見込ん だ松介が、当時俊秀の集まることで有名な岡山中学にいずれ彼を入れるためであった。九月の うちさんげ 転校に備えて、松介は夏休みに家庭教師を岸につける。転校先となる内山下小学校 ( 当時学制は、 地方によって異なっていたので、西田布施の高等小学校一一年であった岸は、岡山では尋常高等小学校六年 おく に編入する ) の学業レベルが西田布施の小学校に比べてはるかに高く、岸の「後れ」は歴然とし 火 残ていたからである。 新個人教授を引き受けた内山下小学校教師の新谷淑 ( 岸の転校先の担任となる ) は、算数、国語、 維 地理などあらゆる学科を岸に短期集中指導するが、岸の理解力と記憶力に驚嘆する。九月に転 章 校を実現した岸を新谷がクラスの生徒たちに紹介したとき、よほど本気に勉強せんと佐藤に負 第 かされてしまうぞ、といって檄を飛ばしたという。
そして第三の関門は、日産の満州進出によってその既得権を侵されるであろう満鉄 岸と松岡 をどう納得させるかという問題であった。時の満鉄総裁ば松右、いわずと知れ た岸の姻族である。松岡は、ふだん岸のことを「甥の信介ーといっては親しみを込めて自慢し ていた。岸の方も若いときから、叔父佐藤松介の義兄にあたる松岡を頼りにしていたところが オをと も / こ」↓よ、、 ある。満州でも両人がもに もうまでもない。 ところが、日産の満州進出問題に関する限り、」松岡の満鉄との満州国政府どの間には画然 たる立場の違いがあった。満州の総合開発を鮎川の手に委ねようという岸のもくろみは、満鉄 支配下の巨大な事業権が日産側に移譲されることを意味していたからである。満鉄が昭和製作 所など中枢の重工業部門を手放すとなれば、その内部から激しい反発が出るであろうことは十 分予想された。 こうした事情もあって、岸をはじめとする満州国政府側の日産移転工作は終始秘密裡に行な われた。星野の証言によれば、陸軍省も拓務省も、閣議決定前はこのプロジ = クトを満鉄側に 知らせていなかったという ( 『見果てぬ夢』 ) 。つまり岸は、日産の満州移駐については、事を連 び終わるまで松岡を完全にカヤの外に置き、結局、松岡を裏切ることになる。松岡が岸に出し 抜かれたと気づいたときはすでに遅く、満鉄内部からの厳しい反対論が彼を窮地に追い込むの である。
ながぬま 察せられるように、信寛は松陰と交わっており、軍学長沼流を松陰に教授する。明治維新の志 かおる たかよしししどたまき 士たち、とりわけ伊藤博文、井上馨、木戸孝允、宍戸磯らとの間にもかなり深い交友関係が続い た。井上家には、三男の太郎 ( のちに陸軍大尉 ) を養子に出している。伊藤は明治一一三年、戎ケ下 別荘に信寛を訪ねて旧交を温めたその帰路、「訪佐藤信寛別業」なる題の詩を書き残している。 ためが かしゅう 伊藤、井上、宍戸からは、蝦洲 ( 信寛の号 ) への為書きの書が贈られており、のちに信介兄弟 三人がこれら遺墨をそれぞれ一幅ずつ分与されることになる。昭和一一九年首相を辞めていく吉 田茂に岸の実弟佐藤栄作が贈った「寒夜に亡友を憶う」という木戸孝允の書は、木戸自身が信 したた 寛のために認めたものである ( 『今日は明日の前日』 ) 。『田布施町誌』によれば、明治一一三年八月 ありすがわのみや には、「有栖川宮殿下ョリ御杯『銀盃』一個拝領セリト云フ」とあるように、信寛は官途を辞 してなお、維新体制を支えた地方の名士として、それなりに遇せられるのである。 しかし、信寛が一一〇年以上の長きにわたって悠々自適の生活をするには、やはりそれ相当の 資力が必要であったと思われる。このあたりの事情に若干の示唆を与えてくれるのは、市郎の 妻の証言である。彼女は、「母 ( 茂世 ) は、佐藤家の資産はどうせ祖父の県令時代の賄賂でたま ったもの、だましとられてもともと、なんておっしやって」いた、とのべている ( 『諸君 ! 』昭 和四五年七月号 ) 。この証言は、信寛が県令を辞めるまでにかなりの蓄えを残し、そのなかに賄 賂による蓄財もあったことをうかがわせるものである。 8
ほど挙げている。 。・「に自分の体に自信がもてなか。たということである。軍人志望者に必須の器械体操が不 得手であるということも、虚弱体質であ。た岸少年の心を軍人から遠ざけてしまう。第二の理 由は、姻戚筋の松岡洋右が外交官として活躍していたことである。松岡は前にふれた通り、叔 父松介の妻藤枝の実兄であり、当時異色の外交官として活動していた。韓国併合 ( 明治四三年八 月 ) 、関税自主権確立 ( 明治四四年一一月 ) に象徴されるように、日本が国家主権を回復し国際社会 にいよいよ打って出ていくその時代の「外交官」は、軍人とは異質のある種新鮮な印象を岸に いざな 植えつけ、政冶への道に彼を誘ったといえよう。 第三の理由は、あの尊敬してやまない叔父松介 0 感化である。松介は、悠揚として迫らぬ政 「」淪がんでみらた。岸が後年、「 ( 叔父松介は ) 生前既に老成したる立派な政治的才能を具備」 した人物であ 0 た ( 『風声』第二号 ) 、とのべているように、松介を知る人はみな彼を、医者では 火 残なく「立派な政治家」になるべき人とみていた。松介の器量に心酔していた岸は、松介のなか 新に「政治家岸信介、の将来像をみていたのかもしれない。軍人志望を棄てた少年が、さりとて 維 松介のような医者となるには、あまりにもその野心は旺盛に過ぎたというべきか。 章 岸の政治家志望に関連して、いま一つ注目すべきことがある。すなわち岸がこの 第ー松の想 中学時代、叔父吉田祥朔から陰お・び松陰門下生・の・想・に・つ・い・て実際・に・教邑
りが佐藤家の家計を大きく圧迫したことは間違いない。「子供の教育に金を使って、だんノ \ 落ちぶれて、母の晩年はみじめだった」 ( 『文藝春秋』昭和三〇年一月号 ) とは市郎の回想である。 どうも′、 確かに、子供達の教育に注ぐ秀助・茂世の執念は瞠目に値する。いや、秀助・茂世のみなら ず、そもそも佐藤一族が教育にかけるその意気込みが尋常ではないのである。 佐藤一族の教育にたいする執着は、男子をして立身出世せしめ、女子をして佐藤家の家格を 保たしめることと完全に表裏をなす。とりわけ息子たちを栄達の道に送り出すための努力はす さまじい。岸信介がのちに官界の出世階段を登りつめ、政界を駟け上がっていくその行動規範 は、多分、佐藤家におけるこの教育環境を抜きにしては理解できないであろう。 岸が巣鴨で書いた前出「我が思び出の記」を読んでまず驚くのは、曾祖父佐藤信 曾祖父信寛 寛にたいする尊敬と誇りである。岸は信寛を「佐藤家の歴史に於ては最も傑出し への尊敬 た人であった」とのべている。彼は信寛をその叔父九右衛門とともに、佐藤家に 伝わる政治家的な性格を最も顕著に体現した人物として畏敬する。信寛が自分の名前から一字 をとって「信介ーと名付けてくれたことも、岸に信寛との深い因縁を感得させずにはおかなか 信寛は明治三五年、すなわち岸が六歳のとき、八十余歳の長寿を全うしてこの世を去る。岸 えびすがした は五歳の頃、田布施の国木から数キロ離れた戎ケ下の別荘に病臥の信寛を母や姉とともに見舞 っこ 0 びようが