韓国系企業から三菱地所が同霊園の経営権を引き継いだとき、その仲介役になったのが岸であ うず る。彼が同霊園の経営権移譲を仲立ちし、そこにみずからの骨を埋めたとなれば、その奥っ城 が特別の権勢を暗示しているとしても不思議ではない。威風を放っ御殿場の墓は、戦後政治最 大のフィクサーともいわれた岸信介の面目を静かに確かめているようでもある。 とまれ、質朴と権勢とをそれぞれ象徴するかのような、これら二つの墳墓の彼方には、九〇 年の歳月を刻んだ岸の広漠たる人生が横たわっている。 よしき 岸信介は明治一一九年 ( 一八九六年 ) 一一月一三日、山口県吉敷郡山口町 ( 現在の山口市 ) ひですけ 勝気な母 に生まれる。父佐藤秀助と母茂世の間には三男七女がもうけられた。信介はその次 寡黙な父 男である。他の兄弟姉妺がすべて田布施生まれであるのに、信介だけは、そこから 六〇キロ西へ離れた山口町で生を受けている。父秀助が当時たまたま同地で県庁の役人をして いたからである。 火 秀助はもともと岸家の出だが、同じ田布施にある佐藤家の家つき娘茂世と結婚し、佐藤姓を 新名乗る。秀助一八歳、茂世一四歳のときである。茂世の両親は、佐藤家を継ぐべき息子たちに 恵まれながら、長女茂世の婿養子として秀助を迎え、佐藤家から分家させる。「佐藤信介ーが 章 のちに「岸信介」へと改姓するのは、実は父秀助の実家に信介が養子として入ったからである。 第 信介、中学三年のときであった。 おくき
なり鮮明に映し出しているということである。「極刑ーと「釈放」との狭間にあって焦慮し苛 立つ一人の人間の姿をこの日記から読みとることができる。 本来政治家は、みずからの言動の効果を計算しつっそれを自己管理するものである。 金網の向 岸においてはとりわけそうである。ときには、、いを許しているはずの身内にたいし こ一つ側 てさえ、みずからの振舞いを抑制する。長男信和の妻仲子が岸亡きあとに語った懐 旧談は、この岸の抑制的な性格を知るうえで興味深い 信和夫妻は昭和一一三年五月に結婚式を挙げるが、それから二カ月後、仲子は初めて岸と対面 する。もちろん網越しの対面である。金網の向こうにみえる義父が「丸坊主で、痩せていて、 歯が出ていた」ことはよく覚えている。しかし仲子は、金網に邪魔されて人間岸信介の輪郭を あまりはっきり認めることができなかったという。仲子はいう。「何かいまから振り返ると、 最後まで義父には網がかかっていたような気がします。最初の出会いから、亡くなるべッドの 々 上でさえもつねに " 網越し″の義父でした」 ( 岸仲子インタビ = 日 囚しかしこの岸にして、獄中日記は、その生涯において唯一みずからの人格と感情を最も豊か 幽 にさらけ出したものといってよ、 。まずは東京裁判 ( 極東国際軍事裁判 ) とのかかわりでこの獄中 6 日記をみてみよう。 第 1 17
あとがき 、あ AJ が」 戦後政治において、岸信介という人物ほど毀誉褒貶の渦に巻き込まれた政治家はいない。い ま少しありていにいえば、岸信介ほど悪徳と保守反動の烙印を押された政治家はいないし、岸 信介ほ。カミソリの如き頭脳と剛毅の辣腕家としてその大物ぶりを評価された人物もいない。 きよかい そして、ときに「妖怪」、「巨魁」といわれるように、岸信介ほど謎めいたイメージに包まれ、 そのイメージの独り歩きを許した政治家もいない。 まのべたいくつかの要素の ところが奇妙なことに、びとたび「岸信介ーが論ぜられれば、、 それぞれに傾いた、いわば単純化された「岸像」が牢固として根を張る。かって、岸嫌いのあ る学者が、「岸に会ってみないか」と誘われたとき、「自分の岸イメージが崩れるから、会いた くない」といったのは有名な話である。固定された「岸像」に身を委ねて安心を得るこの学者 の心理は、かなり一般的な心理でもあろう。 しかし私たちは、こうした「岸像ーのステレオタイプをいつまでも許容しておくほど安穏の ことの善し悪しは別にして、そして好悪の感情はさておいて、 時代に生きているわけではない。 241
0 し 林茂・辻清明編『日本内閣史録』 ( 2 , 3 , 4 ) 第一法規 , 昭和 56 年 東郷文彦『日米外交三十年』世界の動き社 , 昭和 57 年 伊藤隆『昭和期の政治』山川出版社 , 昭和 58 年 岸信介『岸信介回顧録ーー - 保守合同と安保改定』廣済堂 , 昭和 58 年 角田順編『石原莞爾資料ーー国防論策篇 [ 増補版 ] 』原書房 , 昭 和 59 年 赤松貞雄『東条秘書官機密日誌』文藝春秋 , 昭和 60 年 高木惣吉『高木惣吉日記』毎日新聞社 , 昭和 60 年 読売新聞政治部編『権力の中枢が語る自民党の三十年』読売新 聞社 , 昭和 60 年 渡辺京二『北一輝』朝日新聞社 , 昭和 60 年 石田博英『私の政界昭和史』東洋経済新報社 , 昭和 61 年 『国史大辞典』 ( 第 8 巻 ) 吉川弘文館 , 昭和 62 年 武藤富男『私と満州国』文藝春秋 , 昭和 63 年 原彬久『戦後日本と国際政治一一安保改定の政治力学』中央公 論社 , 昭和 63 年 岸信介伝記編纂委員会編『人間岸信介波瀾の九十年』岸信介 遺徳顕彰会 , 平成元年 木下道雄『側近日誌』文藝春秋 , 平成 2 年 寺崎英成『昭和天皇独白録ーー寺崎英成・御用掛日記』文藝春 秋 , 平成 3 年 原彬久『日米関係の構図』 NHK ブックス , 平成 3 年 大江志乃夫『御前会議』中公新書 , 平成 3 年 安倍洋子『わたしの安倍晋太郎 - ーー岸信介の娘として』ネス コ・文藝春秋 , 平成 4 年 粟屋憲太郎・吉田裕編集・解説『国際検察局 ( IPS ) 尋問調書』 ( 第 14 巻 ) 日本図書センター , 平成 5 年 岩見隆夫『新版・昭和の妖怪岸信介』朝日ソノラマ , 平成 6 年 3
~ 序信介原彬久著 9 7 8 4 0 0 4 5 0 5 6 8 8 I S B N 4 ー 0 0 ー 4 5 0 5 6 8 ー 0 C 0 2 2 5 P 6 2 0 E 定価 620 円 ( 本体 602 円 ) 岸信介ー権勢の政治家 戦前、革新官僚として満州国の産業開発を主導、東条内閣 の商工大臣を務めた岸信介は、 < 級戦犯容疑者とされなが ら政界復帰を果たし、首相の座に就いて安保改定を強行、 退陣後も改憲をめざして隠然たる力をふるった。その九〇 年の生涯と時代との交錯を生前の長時間インタビュー、未 公開の巣鴨獄中日記や米側資料を駆使して見事に描く。 岩波新書から 戦後政治史石川真澄著 現代日本の保守政治内田健三著 一九六〇年五月一九日日高六郎編 政治とカネ広瀬道貞著 政治家の条件森嶋通夫著期 ーーイギリス、 0 、日本・ー 原彬久著 岸信介 ー権勢の政治家ー 1 91 0 2 2 5 0 0 6 2 0 0 岩波新書 岩波新書 368 368 62 ( )
じよじようふ 実母の茂世は、気位の高い勝気な女丈夫であったといわれる。幼時から両親にはもちろんの しようあい のぶひろ こと祖父信寛 ( 信介の曾祖父 ) からもいたく鍾愛され、「茂世は佐藤家に残す」という了解がいっ ようせつ の間にか一族のなかに成り立っていた。茂世は、父信彦 ( 信介の祖父 ) が比較的早く夭折したの さくぞう まっすけかんぞう で、若いときからその才知と男まさりの器量で弟妹 ( 松介、寛造、さわ、作一一 l) の面倒をみながら、 なおかつ一〇人のわが子の養育に専心した。 子供たちにたいする茂世のスパルタ教育は徹底していた。信介の実兄佐藤市郎は、「父はお となしかったが、そのかわり母は非常に厳格で、子供の頃はいたずらをすると、お尻をつねら れたり、土蔵にほうり込まれたり、とても怖かった」 ( 『文藝春秋』昭和三〇年一月号 ) と回想して いる。岸自身も、母親から尻をびねられ、物差しで叩かれ、線香で焼かれたりして、風呂に人 ると、いつも尻が真黒になっていたことを思い出すという。茂世は学校教育なるものをほとん ど受けていないが、成人した信介らをつかまえると、お前たちはカネと時間を使って理屈を覚 えたろうが、私は道理では負けないよ、といって胸を張っていた ( 同誌 ) 。 父秀助は、市郎がいうように、確かにおとなしい寡黙の人であった。温厚でなおかっ勉強好 きであった。学問で身を立てようとしたが、名門の地主とはいえ岸家の資力がこれを許さず、 佐藤家に婿入りすれば希望が叶えられると思ったらしい。漢学者であった、茂世の父信彦も秀 助の向学心を大いに買っていた。しかし秀助の期待は見事に裏切られる。結婚して一〇人の子 いちろう
岸が戦前・戦中・戦後を通して日本政治に巨大な足跡を残したその事実は否定できない。政治 家岸信介が日本の政治をどう動かし、日本が、いやわれわれ日本人が岸をどう遇したか、いい かえれば、われわれ日本人がいわば岸という役者にいかなる舞台を用意したのかを明らかにす ることは、日本政治そのものの本質を探るためにも、そして「戦後五〇年ーを機に再出発する 私たちそれぞれの座標軸を定めるためにも必要なのではないだろうか。 本書は、岸信介をして日本政治を語らしめ、印本政治を、し、て岸ま介・吾らし・め・るどは - て、政治家なるものの本然的姿態と時代状況との交錯のありようを明らかにしようとするもの である。 そもそも本書は、岸政権の安保改定に関する拙著 ( 『戦後日本と国際政治ーー安保改定の政治カ 学』中央公論社、『日米関係の構図』 z ブックス ) の延長線上で執筆されたものである。一国の 政治、外交が、虚構としての「国家ーよりも、むしろ、実体としての政策決定者とそれを取り 巻く政治過程によって造形されていくという立場に立てば、安保改定を完成した政策決定者岸 信介が、それまでに一体いかなる政治的系譜を背負い、歴史にみずからをどう刻んでいったの かを知ることは、重要である。 私は前記拙著を執筆する準備過程で、たまたま岸信介氏にインタビーする機会に恵まれた。 昭和五五年一二月からおよそ一年半に及ぶ一一十数回のインタビ ーは、自身の安保改定作業は 242
きしのぶすけ 岸信介は、昭和六二年 ( 一九八七年 ) 八月七日、九〇年の生涯にその幕を閉じた。遺 たぶせ ニつの墓 骨は分けられて、二つの墓に眠っている。一つは郷土山口県の田布施町に、いま一 つは静岡県御殿場市にある。 たたす 田布施の墓は岸家の裏山にひっそりと佇んでいる。徳山駅から山陽本線でおよそ三〇分、人 口一万七〇〇〇人 ( 平成六年現在 ) ののんびりした片田舎、それが田布施である。墓は、岸が生 ばか 前、岸家累代の「寄せ墓ーとして建立したものである。この寄せ墓に「魂を抜かれた」岸家各 代の墓石が歴史の風雪に傾いて摩滅したまま、あたりに雑然と置かれている。戦前・戦中・戦 後を通して政官界の頂点を極めた人物の墳墓にしては意外なほど質素である。一〇〇〇年はも すさいし っといわれる須佐石が寄せ墓に使われているところだけが、わずかに、「権勢の人」岸信介の きょ・つこく 片鱗をみせているにすぎない。岸信介は、岸家一族の骨とともに、文字通り、草むす郷国の土 となり果てたのである。 一方、御殿場の墓は、死してなお権柄を示威する政治家岸信介の姿を十一一分にあらわしてい る。富士山の裾野に延びる七〇万坪の広大な富士霊園にびときわ威容を誇る墓地がそれである。 ここから車でわずか一五分ほどのところには、一五〇〇坪の庭に立っ岸の豪邸が、いまその主 を失ったまま、これまた往時の権力をしのばせる。 岸が眠るこの富士霊園は、三菱地所 ( 株 ) 系列の財団によって経営されている。昭和四一一年、 けんべい
あとがき もちろん、戦前・戦中・戦後の回想、さらには他の政治家への評価など多岐にわたった。岸氏 の残した数々の証言が政治学研究にとってきわめて有用であることはいうまでもない。本書に その証言を引用させて頂いたことに深謝する。その他インタビ = ーに応じて頂いた方々、獄中 日記をはじめ他の貴重な未公開資料を提供して下さった岸信和氏 ( 岸信介氏ご子息 ) 、並びに、 執筆過程でご協力頂いた関係各位に厚くお礼申し上げたい。これらの方々が私の執筆にいかな また、本書に収 る条件も課さなかったことは、それが当然のこととはいえ、特記されてよい められている岸氏関連の写真等を提供して頂いた関係者及び関係諸機関に感謝したい。原稿の 整理等については熊坂雅彦氏を煩わした。お礼申し上げる。 なお、この「あとがき」を含めて本書の人名は、敬称を省略させて頂いた。引用文の旧字体 漢字はこれを新字体に変えたこと、年号は、本書のテーマからして原則的に元号を用いたこと についても、ここでお断りしておきたい。 最後に、岩波書店編集部の坂巻克巳、佐藤司両氏に謝意を表したい。執筆開始から比較的短 期間のうちに脱稿しえたのは、びとえに両氏の叱咤激励の賜物である。 平成六年一〇月一一〇日研究室にて 原彬久 243
一月初めまでに交渉を片づけて、通常国会の会期半ばぐらいには批准承認案件を国会に出せる ようにしたいと思っていた」 ( 『政治わが道』 ) 外相藤山のもくろみは、見事に裏切られた。 党内反主流勢力の執拗な抵抗に遭った岸は、前述の通り、確かに「全面敗北」し 対大野念書 た。しかしただ一つ貴重な果実が岸に残されていたとすれば、「一月総裁公選」 が実現し、これに勝利、再選されたということである。もちろんここに至るまでには、反主流 勢力との抗争とは別に、主流勢力内での権謀術数があ。たことは事実である。岸が大野に出し たいわゆる「対大野念書」が、問題の核心である。 三四年一月初頭、河野の仲介で岸・大野会談がもたれたとき、岸は大野に協力を求めて次の ・ : 安保改定さえ終れば、私は直ちに退 ようにいう。「どうか岸内閣を助けていただきたい。 陣します。後継者としては、大野さん、あなたが一番良いと思う」 ( 『大野伴睦回想録』 ) 。このロ 頭約束は、それから何日かあと帝国ホテルで岸、大野、河野、佐藤らの連署による文書として 残される。「安保改定の実現に四者は協力し、岸政権の後継総裁には大野副総裁を推す」とい うのがその主旨であった ( 『岸信介回顧録』 ) 。「内閣を投げ出そうかとすら考えた」岸が、一度は 消えた「一月総裁公選」 ( 一月二四日 ) で再び総裁に選ばれたその裏にはこうした事情があったわ けである。 206