商工省 - みる会図書館


検索対象: 岸信介 : 権勢の政治家
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1. 岸信介 : 権勢の政治家

のところ、阿部は「畑陸軍大臣ーを実現することになる。国政を牛耳る軍部の権力が、天皇の 焦慮を誘うほど圧倒的なものになっていたことは確かである。 岸が阿部内閣の商工次官に就いたのは、まさにこうした情勢のなかであった。時代 商工次官 の趨勢は、国家統制論者岸信介に格好の舞台を用意していた。商工省で産業合理化 に就任 運動を推進し、満州では関東軍と組んでソ連ばりの計画経済を自在に動かしてきた とき 岸は、いよいよ戦時体制まっただなかの日本でその本領を発揮する秋を迎えていたのである。 ごどうたくお 伍堂卓雄商工相のもとで次官になった岸が、まず最初に考えたことは、「日本の置かれてい る情勢から、国防産業を中核として国防国家を考えなければいけない」ということであった。 つまり、「国防国家、実現のためには「国民生活がある程度不自由になってもやむを得ない」 ということである ( 『岸信介の回想』 ) 。 戦前・戦後を通じて岸と行動をともにした矢次一夫は、当時を回想して次のようにいう。 「一四年の秋には陸軍の武藤章が北支参謀副長から軍務局長になって帰国している。そこで岸 さんを中心に何かやろうではないかというので、私もその一人だったけれど、秋永 ( 月一一 l) とか、 いわくろひでお しげまさせいし ひょうたろう 陸軍省の軍事課長・岩畔豪雄、大蔵省の谷口恒一一、農林省の重政誠之、鉄道省の柏原兵太郎と いった連中が十数人集まって月曜会という革新官僚の会をつくった」 ( 同書 ) 。かくて岸は商工 次官でありながら、こうした月曜会の論議を背景にして阿部内閣に公然と注文をつけるように

2. 岸信介 : 権勢の政治家

岸が商工省の出世コースである文書課長 ( 昭和八年就任 ) から工務局長に昇進したの は、昭和一〇年五月、三八歳のときである。もちろん、臨時産業合理局事務官 ( 第 二部長 ) を兼任したままである。省内の実力者吉野信次はすでに昭和六年から次官に就任して おり、吉野・岸ラインは完全に商工省を牛耳っていたといってよい ごうたろう さて、そこに大臣として乗り込んできたのが小川郷太郎である。昭和一一年三月のことであ こうき った。広田弘毅内閣が同年三月組閣されたとき、民政党の川崎卓吉が商工大臣になるが、その 直後急死したため、急遽同じ民政党代議士の小川が大臣になる。 吉野と岸が時を同じくして商工省を去るのは、それから七カ月後の同年一〇月であ。た。吉 ばんきょ ・岸ラインが長商工省に盤踞していることを快く思っていなかったトー / 月は、彼独自の業績 を打ち出すためにも吉野と岸の辞職 ' を策したのである。次官在職 ( 約五年間 ) が比較的長期にわ たっていた吉野は、ここを潮時とばかりにトー 月の「クビ切り」に応じて退官するが、岸もまた 吉野と全く同じ日、同じ部屋で「机に向い合。て」 ( 『おもかじとりかじ』 ) 辞表を書く。 吉野と岸は、文字通り刎頸の交わりで結ばれていたとはいえ、官僚として最高位の次官にま で昇進した吉野と、吉野より八歳若くしかも野心に燃えていた岸とでは、その進むべき道もお のずから違。ていた。吉野は東北興業 ( 株 ) という東北地方の産業振興を目的とする比較的地味 な国策会社の総裁に就くが、岸が選んだ新しい道はもちろん満州であゑ官僚としての岸の第 ふんけい

3. 岸信介 : 権勢の政治家

二のキャリアが始まるのである。 昭和五年、ドイツの産業合理化運動に関する岸の調査報告に軍部が「肯定的評 陸軍中央の 価ーを与えたことは前にのべたが、それ以来、岸と軍部の特別な関係は年々深め 熱い視線 られていった。軍部とりわけ陸軍中央と関東軍が、岸の国家統制論およびその卓 抜した行政能力に熱い視線を注いでいくことになるからである。魚心に水心、岸もまたみずか らの国家主義Ⅱ統制経済論の理解者である軍部にたいして接近の契機をも。ていたことは否定 できない。 岸が商工省を退く前から、すなわち少なくとも昭和一〇年前後から、満州国の経営に岸を引 。張り出すための関東軍関係者のは本格ヒし、て、い、ぐ」・当時、ソ満国境がソ連軍の脅威にさ らされていたことに加えて、満州国自身の産業開発が行き詰まりをみせていたこともあって、 験本国から優秀な行政官を導入することは、陸軍中央はもちろん、現地関東軍にと。ては緊急の 営課題であ。た。商工省切。ての辣腕家岸信介を満州国経営に投入すべしの声が軍部に強ま。た 家としても不思議ではない。 ただし 国 岸の満州行きについて商工省の了解を得るために腐心した陸軍省の片倉衷 ( 軍事課満州班長 ) 4 は、次のように証言している。「岸を引っ張り出すために商工次官の吉野 ( 信次 ) さんのところ に一年間通いましたよ。吉野さんと岸とは仲がよかったからねえ。岸は陸軍省と関東軍の双方

4. 岸信介 : 権勢の政治家

当該産業にたいする統制指導等をなすことにある。しかも、こうした統制会の役割と権限が政 府の管理指導下にあることはいうまでもなく、いわば指導者原理がこの統制会の組織化を貫い ていたといえよう。 戦時体制下の商工省の役割が、文字通り、戦争遂行のためのあらゆる物的条件を確 軍需省の 保することにあるとなれば、商工相岸信介の「抜身」が思う存分振りかざされたと 新設 しても不思議ではない。しかし、日本軍のガダルカナル島撤退 ( 昭和一八年一一月 ) が 示しているように、昭和一八年に入る頃から戦局の悪化はいかんともし難く、岸の、というよ りも政府の戦争政策が完全に行き詰まっていることは誰の目にも明らかであった。かくして省 内事務を簡素化し、省間セクショナリズムを排して軍需生産の効率化を追求するための機構改 革がなされることになる。すなわち昭和一八年一一月、軍需省の新設である。 へき 軍需省は、機構いじりの癖をもっ東条の単なる気紛れから生まれたというだけではなく、岸 が積極的にかかわったことでもあった。商工省および企画院を廃止し、それぞれの業務を統合 して生産拡充の計画と実施を一元化しようというのが軍需省設置の目的であった。敗色濃い対 米戦争において、当時とくに望まれていたのが軍用機の緊急増産である。軍需省新設の最大の 眼目は、実はこの飛行機生産の「飛躍的拡充ーにあったといってよい それにしても、岸が軍需省発足に際して、軍需大臣ではなく同次官にいわば降格の形で就任

5. 岸信介 : 権勢の政治家

から嘱望されてました。しかし、長いこと ( 岸は ) 文書課長かなんかや。ていて、なかなか ( 商 工省は岸を ) 出さない。私も口説いたが、とりわけ熱心だ。たのは秋永 ( 月三、軍務局課員 ) で す」 ( 『新版・昭和の妖怪岸信介』 ) 。 一方、岸の満州にたいする関心も並々ならぬものであ 0 た。そもそも満州には商工 満州への 省から高橋康順 ( 昭和八年六月、実業部総務司長 ) ら数名を送 0 ていたが、岸は早くか 野心 「満州 らみずからの将来を満州国と重ね合わせていた形跡がある。岸はこういう。 の産業行政については関東軍の第四課が勝手なことをしている。軍人だから見当違いのことも ずいぶんあるし、日本の財界も、関東軍が威張りすぎているものだから脇を向いている。これ ではいかん、産業行政の問題については、商工省の最も優秀な人間が行「て、軍人から産業行 政を取り上げてやるべきだ、いずれ自分が行。てやらなければいかんというのが私の考え方だ った」 ( 『岸信介の回想』 ) 。 うして岸は、自分が渡満する三年も前に、すなわち昭和八年九月、最も信頼する直系の部 しいなえっさ 椎名悦三郎をみずからの先鋒として満州に送り込むのである。この椎名こそ、のちに満州で 岸を迎えその影の如く岸に仕え、敗戦後は戦犯容疑者岸のためにマッカーサー元帥宛釈放嘆願 書を書き、さらに岸内閣では官房長官として岸の側近中の側近となる人物である。 こうしてみると、岸は商工大臣小川郷太郎から「クビを切られた」から満州に渡「たのか、

6. 岸信介 : 権勢の政治家

さて、岸が商工次官を辞して政治の表舞台から消えたとはいえ、再び世の脚光を 東条内閣の 浴びるまでに、そう時間はかからなかった。九カ月後、第三次近衛内閣のあとを 商工大臣に 襲った東条内閣で、彼は商工大臣になるからである。 木戸内大臣は、天皇に近衛の後継に「東条首相ーを奏請したときの模様を『木戸幸一日記』 ( ママ ) ( 昭一六・一〇・二〇 ) にこう書いている。「今回の内閣の交迭は真に一歩を誤れば不用意に戦争 おそ に突入することとなる虞れあり、熟慮の結果、之が唯一の打開策と信じたるが故に奏請したる よろし 旨を詳細一言上す。極めて宜く御諒解あり」。 木戸が対米主戦論の東条を首相として天皇に推薦すること自体、「毒をもって毒を制す。と いうきわめて危うい「打開策ーであったといわねばならない。戦争回避派の天皇がこのとき、 「虎穴に入らずんば虎児を得ずと云ふことだね」 ( 同日記、同日の項 ) とのべていることからもわ て かるように、天皇もまたみずから「東条内閣に危険な賭けをする思いであったにちがいない。 率 を ここで、岸が大臣となって商工省に戻るまでの時代状況、すなわち第一一次、三次近衛内閣時 制 時代における政治の主な流れを概観しておく必要があろう。この場合の「主な流れ」とは、日本 戦 を太平洋戦争への道に追い込んでいく政策決定のプロセスであることはいうまでもない。 章 まず第一一次近衛内閣がなした最初の重大決定は、「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理 第独ソ戦 要綱」である。これは、同内閣が発足して数日後の大本営政府連絡会議 ( 七月一一七

7. 岸信介 : 権勢の政治家

がたとえ「二流官庁」ではあっても、いや「二流官庁ーであるからこそ、活躍の舞台がより大 きく与えられ、その舞台が政治家への踏み台になると岸に映ったことは十分考えられる。「従 来なら内務省とか大蔵省が政治家への近道であったかもしれないが、これからの政治の実体は 経済にありと考えた」 ( 同前 ) という岸の回想は、彼が権力への接近を「権力の中枢」に求める のではなく、一見非権力にみえる「経済に求めるという迂回的、逆説的な選択をしたことを 意味する。 官僚としての岸のキャリアは二つの時期に大別されよう。第一の時期は、農商務省ないし商 工省の時代、すなわち大正九年から昭和一一年までの一六年間である。第二のそれは、昭和一 一年満州国実業部に着任してから同一四年商工次官就任のために帰国するまでの、いわゆる満 州国時代である。この二つの時期に共通する岸の行動の特徴は、日本が政治、経済において国 家統制を強めつつ軍国体制を固めていくその軌道と完全に符合しているということである。岸 帆は、農商務省入省から満州国を去るまでの一九年間というもの、一貫して日本の国権拡大と軍 代国体制強化に力を注ぐと同時に、みずからをその渦中に埋没させていったのである。 時 まず、第一の時期についてみてみよう。農商務省が機構改革によって農林省と商工 章欧米訪問 省に分離したのは大正一四年であるが、商工省に配属された岸が最初に出くわした 第 大事は、翌大正一五年 ( 一九二六年 ) の欧米訪問である。彼はアメリカ独立一五〇周年記念の世

8. 岸信介 : 権勢の政治家

〇 このとき商工省内の減俸反対運動の先頭に立ったのが、岸である。減俸反対者の全員が出す べき辞表の文案をみずから起草する一方で、これをちらっかせながら時の商工大臣俵孫一一 減俸撤回を直談判したことは、たちどころに商工官僚岸信介の勇名をとどろかすことになる。 磐石 0 権力機構である官僚社会におて、一 ) が下必上酌な彼・ 0 ・行嚠、それが権力主義者岸 可反権力的行動規範を - 示・し・て・、・、、をど・、、引ま喇・でま・注・目に値する。なぜなら、権力に反骨をみせ る岸の行動は、これが最後ではないし、それどころか後述するように、のちのち商工が去・ 場から商工相小林一三に、時東条内閣に・あ .. つ、て・匏に、戦後政治にあ。ては吉田茂に反旗 をびるがえすからである。しかもその反権力は、少なくとも岸にとっては、権力の論理を完全 に呑み込んたうえでの反権力なのである。つまり岸の反権力は、それがみずからの権力培養に 。広恥をし引ど・い引意味でま : 印身の権力と何ら矛盾しないのである。 とまれ、浜口内閣の金解禁政策と緊縮財政がこのように思うような成果を挙げな 産業合理化 いまま終わったとはいえ、実はこれら二つの施策と元来連携して手がけられたの 運動の思想 が産業合理化運動である。金解禁と緊縮財政が失敗しても、いや失敗すればなお のこと、産業合理化運動は、むしろ浜口内閣における経済回復策の切り札としてますます脚光 を浴びることになる。産業合理化運動は、金解禁や緊縮財政と連動しつつ、それらとは全く異 なる角度から産業構造そのものを変えていこうとするものであり、このためには国家機構のあ たわらまごいち

9. 岸信介 : 権勢の政治家

のようである。いずれにしても、強力な国家体制によってはじめて可能なこのソ連五カ年計画 が、岸や吉野ら統制論者たちに、脅威と共感の入り混った複雑な感慨を与えたこと、そしてそ れが彼らの産業合理化運動の推進にそれなりの刺激を与えたことは否定できない。 加えて、当時の国際経済が全体的に保護主義を強めていたことも、日本の統制経済論者を勢 いづかせたといえる。第一次大戦後、ドイツはもちろんのことイギリス、アメリカなど世界各 国は企業合同 ( トラスト ) 政策を積極的に打ち出し、国産愛用・保護連動を推進する。イギリス のインペリアル・ケミカル 9 ランナー・モンドなど四つの企業が合同 ) は企業合同の典型であった し、一九一三年におけるアメリカの高関税率実施は、国産愛用・保護政策の最たるものであっ まや動かし難いものと た。カルテル化もまた欧米を席巻し、世界経済の保護主義的傾向は、い なった。日本の産業合理化運動は、まさにこうした国際経済環境のなかで産声をあげようとし ていたのである。 ところで、この産業合理化運動の推進母体となった機構は、商工省内に新設された 臨時産業 臨時産業合理局というものであった。同合理局は、浜口内閣誕生一一カ月後の昭和 合理局 五年六月、吉野工務局長の発案で設置されたものであり、二つの部をもっ商工省外 局として発足する。長官は俵商工相、第一部長には、それまで文書課長であった木戸幸一を専 任として充て ( 木戸は同年一〇月、内大臣秘書官長に転出する ) 一第二部長には吉野自身が工務局長

10. 岸信介 : 権勢の政治家

証拠物件一二四一号として挙げている。それによると岸は、真珠湾攻撃の当日、枢密院会議に 出席している。また二日後の同会議 ( 一二月一〇日 ) は、対米英戦争遂行のための日独伊アグリ ーメントを承認するが、モーネイン副検察官は、岸商工大臣がこれにも参加していたことを突 きとめている。 こうしてみると、岸が商工相として日米開戦の意思決定に関与したことは否定できない。当 然、彼もまた東条らとともに起訴される。へき理由をもっていたといえよう。実際モーネインは、 キーナン首席検察官宛の覚書 ( 昭和一三年八月一三日付 ) で、「岸には級戦犯として裁判に付さ れる十分な証拠がある」との結論を提一小している ( 同書 ) 。 もちろん、モーネイン報告がこうして作成されるはるか以前に、検察局が岸の容 国際検察局 疑固めに動いていたことはいうまでもない。例えば、岸を「満州ギャング」、「戦 の報告書 争唱導者ーとしたウォルドーフ報告書 ( 昭和二一年一月一九日付 ) 、岸を「国際法廷 々 で裁かれるべき第一のグループに入れるべきーとしたモーガン報告書 ( 同年三月一四日付 ) 、主と 日 囚して岸の満州における行動を分析し ( 同年五月一三日付 ) 、東条内閣時の大東亜省設立と岸とのか かわりなどを記述した ( 同年五月一六日付 ) マックイン報告書などがそれである ( 同書 ) 。 章 これらはいずれも、当然のことながら岸の有罪性を追及するものである。その基本的な問題 第 関心は、岸が満州の産業開発と法制整備にどのように主導力を発揮したか、商工相として日米 137