る。佐藤の交渉相手であ。た = クソン大統領は、佐藤とよりも・岸ど・の関係・の方がはるかに親密、 であった。一九六〇年 ( 昭和一二五年 ) 一一月の大統領選挙でケネディに敗れ、カリフォルニア州 知事選 ( 一九六一一年 ) にも敗北した不遇のニクソンに、日本企業の顧問弁護士職を世話するなど、 何くれとなく面倒をみたのは岸である。岸はこう回想する。「アイゼンハワー元大統領の葬儀 ( 一九六九年 ) に出席したとき、ニクソンに沖縄返還問題の解決を急ぐよう説いた。当時、対ソ、中 近東、そして国内では黒人問題などニクソンの机の上には決裁を求める書類が山積みになって いた。沖縄問題はその山積みの書類の下の方にあったが、これを上の方に上げるようニクソン に頼んだ」 ( 同前 ) 。「沖縄返還」が安保改定とともに岸の「独立の完成ーのための重要課題であ ったことは、前にのべたが、彼は、実弟佐藤の「脇役」として沖縄の日本復帰にかかわったわ けである。 沖縄返還問題とともに岸が相変わらず追求し続けたのは、もちろん「憲法改正ーで 憲法改正 ある。岸において「憲法改正」という政治課題は、安保改定や沖縄返還と同一次元 に置かれるべきものではない。岸にとって、そもそも憲法が国家の政治、経済、社会の枠組み 一であるばかりでなく、国民の文化、精神の形成にかかわる基本法であるというその立場からす ビれば、ほかならぬこの憲法制定を他国の主導権に委ねてしま。た歴史 - に・市をん・御いの・である。 新憲法の草案づくりが、アメリカによって一度は日本政府に預けられたことは事実である。 233
行動 ( 新条約第五条ーーすなわち条約区域への武力攻撃にたいする行動ーー・の場合を除く ) のための在日 基地使用をそれぞれ事前協議の「主題」とする旨の付属文書を交換することで日米はすでに合 意していたが、しかし、この「事前協議」で日本の「拒否権を認めるかどうかという問題に ついては、それまで一切議論されていない。岸はこの三度目の調印延期を機に、国内的に異論 の絶えないこの問題をアメリカ側と折衝するよう外務省に命ずるのである。 しかも、日本の「拒否権」を「いかなる事情においても認めない」としていたアメリカが、 これまた日本側の要求を受け入れて、曲がりなりにもこれを認めたことの意味は重要である。 なぜなら、この「事前協議」の「拒否権」は日本の主権に直結する問題だったからである。新 条約調印時の岸・アイゼンハワー共同声明 ( 三五年一月一九日 ) で、「日本国政府の意思に反して 行動する意図はないという一札をアメリカからと 0 たことは、日本側の立場を少なからず強 っ 立化するものではあ 0 た。 点 しかし、「核持ち込み」一つとってみても問題は残された。「核積載艦船の寄港・通過ーが 頂 1 題こっ、ては、この日米交渉で何ら合意されていな 力「核持ち込み」に該当するか否かという。も 権 いにもかかわらず、新条約調印後の国会で野党の追及に直面した防衛庁長官 ( 赤城宗徳 ) が、独 章 8 自の解釈 ( 「核装備の第七艦隊は事前協議の対象になる」という趣旨の国会答弁ーー昭和三五年四月 ) を示 してアメリカ側を当惑させたことは、この問題の複雑さを物語っている。 211
という予期しないことのためだ。両方が健在であったら、果たして政権が私にきたかどうかわ からん。たとえ私に政権がきたとしてもだ、七、八年後だな」 ( 岸インタビ、ー ) 。辣腕家岸の不 可思議なめぐり合わせである。 石橋内閣の全閣僚に再任を求めて出発した岸政権の最初にして最大の課題は、日米 安保改定 関係であった。石橋内閣が「日中国交正常化」を第一の政策課題としていた ( 『私の の構想 政界昭和史』 ) のとは打って変わって、岸が目指したのは「日米関係の合理化」すな わち日米安保体制の見直し、もっと広くいえば、吉田が築いたサンフランシスコ体制の再検討 であった。アリソンの後任として着任したばかりのアメリカ駐日大使マッカーサー ( マッカーサ ー元帥の甥 ) との間で岸がまず最初に取り決めたのがみずからの「訪米」であったことは、日米 安保体制の再構築を狙う岸の並々ならぬ意欲をあらわしていた。さらに踏み込んでいえば、日 っ 竝米安保体制の中核である条約の改定こそが、岸の政策課題群における最先の位置を占め 庇ていたということである。 カそもそも岸が「安保改定」構想を抱きはじめたのは、これより一年半前のことであ。た。三 権 〇年八月、岸も出席した前述、重光・ダレス会談が、「安保改定」への岸の問題意識を掻き立 章 てる重大な転機となるのである。 第 重光がこの会談 ~ こ臨んだ目的は外交問題に関する限り、折からの日ソ国交交渉にたいするア 185
当が・わらーた - サジ》フ・。ラ・ン。ジス》コ体制の諸問題をアメリカとの間で「合理化」すること、すなわち、 占領体制からまた講和・安保両、の一 「独立の完成ーを戦後一貫して追いかけてきた岸が、したがってこの日米首脳会談で沖縄・ 笠原問題とともに安保改定問題を真正面からアメリカ側に突きつけたことは当然の成り行きで あった。 結論的にいえば、まず「沖縄返還」についての岸の要求は、アメリカ側の厚い壁に阻まれた。 沖縄にたいする日本の「潜在主権」をアメリカ側に「再確認」させるにとどまったということ である。一方、岸の「安保改定」提案にたいして、アメリカ側の回答は「条約の再検討に応ず る」というものであった。つまり、アメリカは重光・ダレス会談のときとは打って変わって、 今度は「安保改定」を原則的に了解したのである。しかし、条約改定にたいするアメリカ国内 の態勢、とりわけ軍部との協議が整っていないことを理由に、ダレスが条約改定交渉について は一切これに応じようとしなかったのは事実である ( 『日米関係の構図』 ) 。 それにしても、アメリカが岸の「安保改定ー提案を原則的とはいえ受け入れたの 岸への信頼 はなぜか。まず考えられるのは、アメリカが米ソ冷戦のなかで日米安保体制を是 が非でも守るという同国の至上命題に安保条約を適応させようということである。アメリカ政 府首脳は、「日本中立化」 ( あるいは「日本共産化」 ) へのマッカーサー大使の警告をいまや全面的 192
岸がこの新条約審議に関連して日程上の制約を受けるとすれば、一つは新条約が会期末の五 月一一六日までに衆参両院を通過すること、最悪のケースでもアイク訪日の六月一九日までには幻 是が非でも決着をつけたいということであった。五月一一六日の会期末から逆算して、しかも、 大事をとって参議院の「自然承認」に必要な「三〇日間」を想定すれば ( 憲法第六一条 ) 、遅く とも四月一一〇日前後の衆議院通過を目標にしなければならなくなる。万が一「最悪のケースー ともなれば、新条約を五月一九日までに衆議院が承認していなければならない。アイク訪日が 予定される「六月一九日」は、岸政権にとって早くも重大な「足枷」となる。しかもこの「足 枷」が、そのまま野党 ( さらには政権党内の反岸勢力 ) の攻撃目標となるのは当然である。「徹底審 議」という名の審議引き延ばしが、ものをいうのである。 新条約の国会審議で議論の対象となったものは多岐にわたる。そのなかでも「事 事前協議、 前協議」や「極東の範囲ーなどは、とくに目立っていたといえよう。「核積載艦 極東の範囲 船の寄港・通過」が、「事前協議」の主題となる「核持ち込み」に該当するとい う日本政府の「独自の解釈」が将来に重大な問題を残したことは前にふれたが、そもそも事前 協議そのものが、日米の不平等な関係のなかでは合理的に作動するはずがないといった疑義は、 社会党などから執拗に発せられることになる。 「極東の範囲ー問題もまた、野党勢力の格好の標的となった。一一月八日の衆議院予算委員会
メリカ側の了解をとることのほかに、安全保障の問題すなわち「安保改定」を提起することで あった。「安保改定ーについて、重光はダレスにこう切り出す。すなわち、「日本にとって主要 な危険は間接侵略である。日本は共産主義の宣伝工作と影響力に対処しなければならない。し かもこれらの脅威は、今後とも現行安保条約の体制下で増大するだろう。したがって共産主義 と闘う武器が ( しい。それを安保条約の改定によって彳たいのだ」 (Departmentof state, Memo- randum 0f Conversation, Date 】 Aug. 30. 一 955 ) 。 この重光の「安保改定」提案にたいするダレスの応答は、「ノー であった。ダレスの主張 は、第一に日本の現有防衛力は不十分であり、したがって日米協力による、日本の軍備拡充が ートナ 先決であること、第二に日本の憲法が海外派兵を許さない現状では、真の日米対等の。ハ ーシップは生まれないというものであった。要するにダレスは、「日本が相応の戦力をもち、 十分な法的枠組みと改正憲法をもつならば」ともかく、そうでなければ安保改定は「時期尚 早」であるというのである (1bid.)0 「グアムが攻撃された場合、日本はアメリカの防衛に駆け つけてくれるのかね」 (lbid.) というダレスの痛烈な暗喩が、この会談のすべてを物語っている。 政策課題としての「安保改定」は、日本民主党政策綱領のなかにすでに明記されていた。し かし幹事長岸がこの重光・ダレス間の峻厳なやりとりを目の当たりにしたことは、逆に岸を安 保改定に走らせることになる。岸はこう回想する。「ダレスのいうことももっともだが、やは 186
強めるなか、同じ一二四・六人事で逆に閣内に入った池田は、その後どのような行動をとったの だろうか。わずか半年前の「三閣僚辞任」のとき、「この内閣におれば歴史が汚れるよ」 ( 三木 武夫インタビ、ー ) といって断固国務相職を棄てた池田が、今度は名分らしい名分もなく、しか も三木のみならず「側近全員反対のなかで池田は一人で入閣した」 ( 宮沢喜一インタビ、ー ) ので ある。池田の側近宮沢喜一はこれを、「権力に近づくための本能が働いたのだ」と分析してみ せる ( 同前 ) 。 とまれ池田が入閣後それまでの反岸Ⅱ反安保改定を引っ込め、少なくとも岸の期待を裏切ら ない程度に協力的になっていったという事実は興味深い。「次期政権との距離感こそがみず からの行動を決定していったという意味では、池田と河野は、いや大野や石井までもが全く同 じ行動規範に支配されていたといってよい ところで六月下旬、三度目の調印延期がなされたことによって、日本側が対米交渉 「拒否権」 のテープルに新たな議題を乗せることになったのは注目されてよい。例えば、いわ ゆる「沖縄有事」合意議事録が条約本体の付属文書として新しく加えられたのは、この調印延 期以後の交渉においてである。 また「事前協議ーにおける日本の「拒否権」問題も新たな交渉テーマになったものの一つで ある。日本への米軍配置の重要変更および米軍装備の重要変更 ( 核持ち込み ) 、並びに戦闘作戦 210
戦争時代の岸、敗戦直後における巣鴨プリズン時代の岸、そして戦後政治家としての岸でさえ、 アメリカへの対立イメージはその濃淡に差はあれ、決して消えることはなかった。 これについては追い追い明らかにされようが、少なくとも大正一五年の訪米時にお ワシント ける岸のこうした対米観は、それなりに当時の政治気流を反映していたともいえる。 ン体制 もちろん岸が当時のアメリカに、ある種の憧憬をもっていたことは確かである。し かしアメリカにたいする岸の対立イメージは、一九二〇年代におけるアジア・太平洋協調シス テムとしての、いわゆるワシントン体制に潜む「日米対立」の要素を色濃く映し出していたと いって、もよ 同体制を生み出したワシントン会議は、大正一〇年 ( 一九二一年 ) 一一月から年一一月まで開 かれたが、その主な議題は、海軍軍縮とアジア・太平洋問題であった。海軍軍縮については、 米英日仏伊五カ国間で「海軍軍備制限に関する五国条約」が調印された。同条約の核心は、い うまでもなく米英日の主力艦総トン数比率を五対五対三とした部分である ( これにたいし、仏伊 の比率は両国とも一・六七であった ) 。 これは、アメリカの提案を日本側がやむをえず受け人れた結果である。日本全権の加藤友一二 しではらきじゅ - つろう 郎 ( 海相 ) や幣原喜重郎 ( 駐米大使 ) らが、「対米協調 [ 優先の立場から海軍内部の「対米七割」論 を抑えて、「対米六割」を甘受したということである。したがってワシントン体制は、軍部か
じよ - つじ しかし、松本烝治国務相が中心となって草したいわゆる松本案は、いかにも旧態依然であった。 松本案を「旧明治憲法の字句をかえた程度のものー ( 『マッカーサー回想記』 ) と断じたマッカーサ ー元帥は、急遽、新憲法の起草をみずからの主導権で行なうことにする。マッカーサーの「新 憲法ーが、戦前からの保守勢力に自由主義のタガをはめ、しかもそれが、社会党右派などを含 む「穏健な民主主義」勢力を育てていったことは否定できない。 もちろん岸は、新憲法の骨格ともいうべき平和主義や民主主義の諸原則を認めないわけでは ない。しかしそれでも彼においては、国家の基本法が他国力ら押しつけられた」こと自体が 問題なのであり、それこそが民族の自立を阻害するというのである。岸が巣鴨刑務所から自由 を得て戦後政治に登場したその原点、すなわち「独立の完成ーのための「憲法改正」は、首相 退陣後の岸を依然として衝き動かしていたわけである。 首相引退から五年後の昭和四〇年、すなわち佐藤内閣のとき岸がアメリカの雑誌 ( F ミ ゝ、夛 0 。 (. 一 000 ) に寄せたその論 ( 彼の「広改・正〕・・・侖が依然・すが・い・ぢっ・・ ) 、・一 - 一 を示している。彼はこの論文で、守党内・の沢争ーに重大な危惧をも。ていること、それゆ えこれら諸派閥を一つに東ねるための政治課題こそ「憲法改正、であり、わけても「戦力」ー保ー 持を阻む条項 ( 第九条 ) の改正が必要であることを説く。しかも、日本敗戦とアメリカ対日占領 の後遺症を根絶する方途は、この「憲法改正」を措いてほかにない、 というのが彼の主張であ 234
のときの心境を次のように想起する。「政府与党が批准を断念する以外に社会党が納得する方 ー ) 0 、か / 、 2 法はないとすれば、もはや問答無用というのが偽らざる気持ちだった」 ( 岸インタビ = て与野党双方にとって死活的な問題として俄然浮上してきたのが、いわゆる「会期延長」であ る。強行採決すなわち「五月一九日」への軌道は、徐々にしかも日に日に確たるものとなって 、つこ 0 五月一九日、衆議院議院運営委員会理事会は、五〇日間の「会期延長」を自民党の単独採決 によって決定する。他方、安保特別委員会は、自民党委員 ( 椎熊三郎 ) 提出の「質疑打ち切り」 動議を、続いて三案 ( 新条約、新協定、関係法令 ) を怒号と混乱のうちに可決する。これら「会期 延長ーと三案が衆議院本会議でそのまま自民党単独で可決されたのは、五月一九日から一一〇日 にかけての深夜であった ( 以後これを「五・一九採決」ともいう ) 。 この五・一九採決は、それまでの政治過程とは全く異なる局面を導くことになる。なぜなら、 全野党欠席のうえ五〇〇人の警察官を導入して強行した同採決は、岸みずから認める通り、 「世間には : : : 権力を握る側の強圧として映った」 ( 『岸信介回顧録』 ) こと、したがって同採決が それまでの安保改定是非をめぐる政治闘争から、戦後民主主義を守るのか否かという、より普 遍的な争点へと移っていったからである。五・一九採決は、それが新条約を成立させるための 切羽詰まった突破策であったにしても、岸にとって致命的な困難を招いてしまったといえよう。