きしのぶすけ 岸信介は、昭和六二年 ( 一九八七年 ) 八月七日、九〇年の生涯にその幕を閉じた。遺 たぶせ ニつの墓 骨は分けられて、二つの墓に眠っている。一つは郷土山口県の田布施町に、いま一 つは静岡県御殿場市にある。 たたす 田布施の墓は岸家の裏山にひっそりと佇んでいる。徳山駅から山陽本線でおよそ三〇分、人 口一万七〇〇〇人 ( 平成六年現在 ) ののんびりした片田舎、それが田布施である。墓は、岸が生 ばか 前、岸家累代の「寄せ墓ーとして建立したものである。この寄せ墓に「魂を抜かれた」岸家各 代の墓石が歴史の風雪に傾いて摩滅したまま、あたりに雑然と置かれている。戦前・戦中・戦 後を通して政官界の頂点を極めた人物の墳墓にしては意外なほど質素である。一〇〇〇年はも すさいし っといわれる須佐石が寄せ墓に使われているところだけが、わずかに、「権勢の人」岸信介の きょ・つこく 片鱗をみせているにすぎない。岸信介は、岸家一族の骨とともに、文字通り、草むす郷国の土 となり果てたのである。 一方、御殿場の墓は、死してなお権柄を示威する政治家岸信介の姿を十一一分にあらわしてい る。富士山の裾野に延びる七〇万坪の広大な富士霊園にびときわ威容を誇る墓地がそれである。 ここから車でわずか一五分ほどのところには、一五〇〇坪の庭に立っ岸の豪邸が、いまその主 を失ったまま、これまた往時の権力をしのばせる。 岸が眠るこの富士霊園は、三菱地所 ( 株 ) 系列の財団によって経営されている。昭和四一一年、 けんべい
党撤退とともにいよいよ鮮明にあぶり出されていったということだ。つまり岸は、自由党内に あって吉田からの政権移譲をいまだに期待する鳩山を明確に「反吉田」へと転じさせたのであ る。岸は、「鳩山新党党首」が、元来親鳩山の日自党はもちろんのこと、反吉田の改進党をも 納得させる最大公約数と踏んでいたからである。 しかもこの「鳩山党首ーの流れを決定的にしたのが九月一九日の「新党首脳六者会談ーであ る。自由党から鳩山・岸・石橋、改進党から重光総裁・松村幹事長、日自党から三木武吉最高 顧問の六者が集まり、「共同申合せ」を発表したからである。「新指導者、新組織、新政策」に よる「新党結成」が、この「共同申合せ」の核心であった ( 朝日新聞、昭和二九年九月一一〇日付 ) 。 「新指導者」は、もちろん「鳩山総裁」を想定してのものであった。 て 協議会がみずからの組織を新党結成準備会に切り換えることを決めたのは、「共 日本民主党 同申合せ」の二日後、すなわち九月二一日である。一カ月後 ( 一〇月一一〇日 ) 自由 向 党主流派をも含む全保守党議員に招待状を発して開かれた新党結成準備会拡大大会は、岸提案 つねお 守の代表委員 ( 鳩山、岸、石橋、芦田、金光庸夫 ) を自由党主流派からの怒号と罵声のうちに採択し 保 章 代表委員が決定されたことは、一つの大きな節目を画するものであった。なぜなら、これら 3 第 代表委員の互選で指名される「代表委員長ーこそ、「新党結成準備委員長ーの椅子を約東され こ 0
じよ - つじ しかし、松本烝治国務相が中心となって草したいわゆる松本案は、いかにも旧態依然であった。 松本案を「旧明治憲法の字句をかえた程度のものー ( 『マッカーサー回想記』 ) と断じたマッカーサ ー元帥は、急遽、新憲法の起草をみずからの主導権で行なうことにする。マッカーサーの「新 憲法ーが、戦前からの保守勢力に自由主義のタガをはめ、しかもそれが、社会党右派などを含 む「穏健な民主主義」勢力を育てていったことは否定できない。 もちろん岸は、新憲法の骨格ともいうべき平和主義や民主主義の諸原則を認めないわけでは ない。しかしそれでも彼においては、国家の基本法が他国力ら押しつけられた」こと自体が 問題なのであり、それこそが民族の自立を阻害するというのである。岸が巣鴨刑務所から自由 を得て戦後政治に登場したその原点、すなわち「独立の完成ーのための「憲法改正」は、首相 退陣後の岸を依然として衝き動かしていたわけである。 首相引退から五年後の昭和四〇年、すなわち佐藤内閣のとき岸がアメリカの雑誌 ( F ミ ゝ、夛 0 。 (. 一 000 ) に寄せたその論 ( 彼の「広改・正〕・・・侖が依然・すが・い・ぢっ・・ ) 、・一 - 一 を示している。彼はこの論文で、守党内・の沢争ーに重大な危惧をも。ていること、それゆ えこれら諸派閥を一つに東ねるための政治課題こそ「憲法改正、であり、わけても「戦力」ー保ー 持を阻む条項 ( 第九条 ) の改正が必要であることを説く。しかも、日本敗戦とアメリカ対日占領 の後遺症を根絶する方途は、この「憲法改正」を措いてほかにない、 というのが彼の主張であ 234
協力者ーとして日本を遇することはできないと主張したのである。 しかも、この「自助および相互援助」の力とは軍事力そのものであって、それ以外の何物で というのがアメリカの立場であった。旧条約の交渉当事者西村熊雄 ( 外務省条約局長 ) によれば、日本の労働力、経済力など非軍事的要素をもってアメリカに「有用な協力 . をなし うるのだという日本側の見解は、アメリカ側から全く問題にされなかった ( 『安全保障条約論』 ) 。 「自助および相互援助」の力をもたない日本がアメリカと対等互防衛条約を結ぶことは、 ありえな・いと、い、テわ、げ、すあみ。アメリカが日本との間で調印した旧安保条約が「アメリカの日 本防衛義務」を欠落させるという「本質的欠陥ーを残したまま、単なる駐軍協定となった理由 はここにある。 加えて、アメリカの駐軍目的が「日本の安全に寄与する」ためのみならず、「極東ー 吉田と岸 の安全のためでもあるとしたことは、この条約の特異性を一層際立たせるものであ った。吉田のサンフランシスコ体制は、こうして占領と被占領の関係を見事に刻みつつ出発し たのである。 グ これまでの叙述から明らかなように、岸の安保改定に 1 訂・の・旧条約・に内蔵ざ・れ・て・・い、をゴ・引ー ピした被占領的体質を「是正ーするために、くろまれたものである。「安保改定」に定めた岸の 狙いは、第一に「対等の協力者ーの証しとして「アメリカの日本防衛義務」を条文化すること 227
功した。・これらは、明らかに岸の「独立の完成」に沿うものであった。 問題は、新条約の核心ともいうべき第五条とそれに関連する条項である。まず第一に新条約 に「日米対等」を求めるとすれば、「アメリカの日本防衛義務」を同条約に組み込むことは、 論理必然的に「日本のアメリカ防衛義務ーを何らかの形で条文化することにつながるはずであ る。しかし「日本のアメリカ防衛」が、「戦力ーと「海外派兵」を許さない日本国憲法に阻ま れるのは当然であった。したがって新条約第五条は、前出の通り、アメリカが日本領土を防衛 いささかトリッキーな内容をもっ し、日本が日本の施政下にある米軍基地を防衛するという、 ことになるのである。 ところが、第五条はそれだけをみれば確かにトリッキーだが、この第五条の仕掛けをそれで よしとするほどアメリカは甘くない。第六条のいわゆる極東条項がこの「仕掛け」を十分説明 している。つまりアメリカは、この第六条によって、「極東における国際の平和と安全の維持 に寄与するため」に在日基地を使用することができるとなれば、同国は「極東の平和と安全ー の「ため」とみずから判断して、その世界戦略に在日基地を利用できる。第五条におけるアメ グ リカの日本にたいする「貸し」は、第六条の極東条項によって埋め合わせがつくという仕組み ビである。ただ、新条約が曲がりなりにもアメリカの基地使用に一定の制約を課す、つまり事前 協議制を導入したことは、岸の努力の成果ではあった。
であり、そのためには第二に、「自助れを・び柤互援跡の力すなわち日本の防衛力増強の努力 をアメリカに認めさせて、新しく「相互防衛条約」をつくろうということであった。 もちろん吉田も、憲法の禁ずる「戦力」に至らない「軍隊ーへ向けて防衛力拡充を正当化し た。吉田が直接岸に語っているように、みずからは朝鮮戦争勃発当時、の超法規的権限 によ ー ) 。ただ、これを了解し たマッカーサーがその直後、朝鮮戦争政策をめぐ。てト、ル。。い、て ' ン・大統領・が当缶ざ・れ・なた・め 7 、 吉田の提案はそのまま闇に消えた。しかしそれでもなお岸にとって、「ポッダム体制派」であ る吉田の存在は、みずからの「保守合同」にとっては「邪魔な存在」であったし、そして何よ りも「独立の完成」を妨げる障害であった。 だが、吉田的戦後政治の否定から出発した岸の安保改定は、果たして「独立の 新条約と「独 完成ーにどれほど寄与したであろうか。この問題は改めて吟味されなければな 立の完成」 らない。 確かに安保改定は、内乱の鎮圧にアメリカの力を借りるといういわゆる内乱条項 ( 旧条約第一 条 ) を削除したこと、アメリカの同意なく第三国に在日基地権などを与えてはならないとする 条項 ( 旧条約第二条 ) を排除したこと、条約期限を明記しなかった旧条約への反省に立って条約 有効期限を明確にしたこと ( 新条約第一〇条 ) 、そして行政協定の大幅改定を実現することに成 228
その意気込みこそ、松介存命中はもちろん、その死後も岸の精神的な " づイグ " リンとなるので ある。松介に死なれて岡山中学から山口中学に転校し、そこで終始首席を通したのも、一高か オもさらには官界に入って ら東大に進んで我妻・栄 - ( ・の・ぢ・é応 - k 拠 ) ・ど・・ト・ツ・・プ・・の成績・を・争らー・こ・・のー 4 ー 出世街道を極めようたのも、父松介の「期待」を岸が背負っていたことと、 ではない。学業で、そして官界での出世競争でよい「点数ーをとったとき、岸の想いはいつも 同じであった、父に喜ん . でもら - い。 . たカった、という感慨がそれである。 しかし、それにしても驚くのは、叔父松介が急死したあとにみせる佐藤一族の対 山口中学へ 応である。岸はこの松介の葬儀に出ることも叶わず、友人、教師に別れの挨拶を しようさく することもなく忽然と岡山から消えていく。叔父吉田祥朔 ( 茂世の実妹さわの夫 ) が風の如く岸 を山口に連れ去ったからである。山口中学の教師であった吉田祥朔は、松介の死を聞いて直ち に岸の面倒をみる決意をするとともに、の勉学が一日たりとも遅れてはならなもという配慮 火 残から、自分の勤務校山口中学に時を移さず岸を転校させてしまうのである。佐藤一族の結 新固さと、子弟の教育に注ぐ強烈な意志がここにある。 維 吉田祥朔は、山口中学で歴史、地理を教えていた。篤学の士であり、厳格な人物であった。 章 郷土史家としても研究に励み、だ詩・を・・お・ぐし・自宅には血縁の岸だけでなく同中学の生 第 徒を幾人も寄宿させたが、彼らには大いにロやかましかったらしい。自分の子供たちにも厳し
木発言そのものも知らないし、その後の発展についても聞いていない」 ( 朝日新聞、昭和三〇年四 月二〇日付 ) として冷淡な反応を示したその一週間後には、「 ( 保守合同のためには ) 解党、総辞 職も辞さないー ( 同四月一一八日付 ) とのべて三木寄りの発言をする鳩山の姿は、同政権そのものが 「保守合同」という大義の前に翻弄されていくサマを見事に象徴していた。 とまれ賽は投げられた。三木車中談から三週間余り経た五月七日、岸が保守結集に関する幹 事長談話を発表したことは一つの転機を印すものであ。た。岸は「保守勢力を結集するの要は 独立完成に必要な諸政策を強力に推進するためであ。て、もとより一党一派のための問題では ない」とのべたあと、必要なら民主党の「解党もあえて辞するものではない」ことを強調する ( 同五月七日付 ) 。「三木車中談」なる非公式発言は、ここに党の公式態度として認知されたわけ てである。これによって岸らは、自由党を相手に、裏面からだけでなくまさに「表玄関ーからも 交渉する起点を固めたのである。 向 かくて第一一次保守合同は裏交渉と表交渉がそれぞれ別個の経路を装いながら、実際 集 結裏交渉と いく。しかも「三木車中談ーを共同 には分かち難く結びついてその実現に向かって 守表交渉 演出した三木武吉と岸が、以後半年にわた。てこの裏と表をそぞ役割分担し 章 っ密に連携していったことは注目してよい 第 まず三木が裏交渉の相手に選んだのは、三〇年来の政敵大野伴睦 ( 自由党総務会長 ) である。 ばんほく 171
韓国系企業から三菱地所が同霊園の経営権を引き継いだとき、その仲介役になったのが岸であ うず る。彼が同霊園の経営権移譲を仲立ちし、そこにみずからの骨を埋めたとなれば、その奥っ城 が特別の権勢を暗示しているとしても不思議ではない。威風を放っ御殿場の墓は、戦後政治最 大のフィクサーともいわれた岸信介の面目を静かに確かめているようでもある。 とまれ、質朴と権勢とをそれぞれ象徴するかのような、これら二つの墳墓の彼方には、九〇 年の歳月を刻んだ岸の広漠たる人生が横たわっている。 よしき 岸信介は明治一一九年 ( 一八九六年 ) 一一月一三日、山口県吉敷郡山口町 ( 現在の山口市 ) ひですけ 勝気な母 に生まれる。父佐藤秀助と母茂世の間には三男七女がもうけられた。信介はその次 寡黙な父 男である。他の兄弟姉妺がすべて田布施生まれであるのに、信介だけは、そこから 六〇キロ西へ離れた山口町で生を受けている。父秀助が当時たまたま同地で県庁の役人をして いたからである。 火 秀助はもともと岸家の出だが、同じ田布施にある佐藤家の家つき娘茂世と結婚し、佐藤姓を 新名乗る。秀助一八歳、茂世一四歳のときである。茂世の両親は、佐藤家を継ぐべき息子たちに 恵まれながら、長女茂世の婿養子として秀助を迎え、佐藤家から分家させる。「佐藤信介ーが 章 のちに「岸信介」へと改姓するのは、実は父秀助の実家に信介が養子として入ったからである。 第 信介、中学三年のときであった。 おくき
原彬久 1939 年北海道釧路市に生まれる 1963 年早稲田大学第一政経学部政治学科卒業 平和」全 3 巻 ( 訳者代表 , 福村出版 ) H. J. モーゲンソー「国際政治一一権力と ( 福村出版 ) 訳書ー A. M. スコット「国際政治の機能と分析」 大学出版部 ) 「現代国際政治のダイナミクス」 ( 共編 , 早稲田 「国際関係論基礎研究」供編 , 福村出版 ) 「国際政治分析ーーー理論と現実」 ( 新評論 ) 「日米関係の構図」 ( NHK ブックス ) 力学」 ( 中央公論社 ) 著書ー「戦後日本と国際政治一一安保改定の政治 専攻ー国際政治学 , 日本外交史 , 日米関係論 よび 1990 年ケンプリッジ大学客員研究員 この間 , 1977 ~ 78 年プリンストン大学お 現在ー東京国際大学教授 , 法学博士 ( 一橋大学 ) 定価はカバーに表示してあります岩波新書 ( 新赤版 ) 368 岸信介 きしのぶすけ 著者 発行者 発行所 電話 1995 年 1 月 20 日第 1 刷発行 1995 年 4 月 5 日第 5 刷発行 はらよしひさ 原彬久 安江良介 株式会社岩波書店 〒 101-02 東京都千代田区ーツ橋 2 ー 5 ー 5 案内 03 ー 5210-4000 営業部 03 ー 5210 ー 4111 新書編集部 03 ー 5210 ー 4054 印刷・精興社カバー・半七印刷製本・永井製本 OYoshihisa Hara 1995 ISBN 4 ー 00 ー 430368 一 0 Printed in Japan