岸信介ー権勢 - みる会図書館


検索対象: 岸信介 : 権勢の政治家
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1. 岸信介 : 権勢の政治家

韓国系企業から三菱地所が同霊園の経営権を引き継いだとき、その仲介役になったのが岸であ うず る。彼が同霊園の経営権移譲を仲立ちし、そこにみずからの骨を埋めたとなれば、その奥っ城 が特別の権勢を暗示しているとしても不思議ではない。威風を放っ御殿場の墓は、戦後政治最 大のフィクサーともいわれた岸信介の面目を静かに確かめているようでもある。 とまれ、質朴と権勢とをそれぞれ象徴するかのような、これら二つの墳墓の彼方には、九〇 年の歳月を刻んだ岸の広漠たる人生が横たわっている。 よしき 岸信介は明治一一九年 ( 一八九六年 ) 一一月一三日、山口県吉敷郡山口町 ( 現在の山口市 ) ひですけ 勝気な母 に生まれる。父佐藤秀助と母茂世の間には三男七女がもうけられた。信介はその次 寡黙な父 男である。他の兄弟姉妺がすべて田布施生まれであるのに、信介だけは、そこから 六〇キロ西へ離れた山口町で生を受けている。父秀助が当時たまたま同地で県庁の役人をして いたからである。 火 秀助はもともと岸家の出だが、同じ田布施にある佐藤家の家つき娘茂世と結婚し、佐藤姓を 新名乗る。秀助一八歳、茂世一四歳のときである。茂世の両親は、佐藤家を継ぐべき息子たちに 恵まれながら、長女茂世の婿養子として秀助を迎え、佐藤家から分家させる。「佐藤信介ーが 章 のちに「岸信介」へと改姓するのは、実は父秀助の実家に信介が養子として入ったからである。 第 信介、中学三年のときであった。 おくき

2. 岸信介 : 権勢の政治家

~ 序信介原彬久著 9 7 8 4 0 0 4 5 0 5 6 8 8 I S B N 4 ー 0 0 ー 4 5 0 5 6 8 ー 0 C 0 2 2 5 P 6 2 0 E 定価 620 円 ( 本体 602 円 ) 岸信介ー権勢の政治家 戦前、革新官僚として満州国の産業開発を主導、東条内閣 の商工大臣を務めた岸信介は、 < 級戦犯容疑者とされなが ら政界復帰を果たし、首相の座に就いて安保改定を強行、 退陣後も改憲をめざして隠然たる力をふるった。その九〇 年の生涯と時代との交錯を生前の長時間インタビュー、未 公開の巣鴨獄中日記や米側資料を駆使して見事に描く。 岩波新書から 戦後政治史石川真澄著 現代日本の保守政治内田健三著 一九六〇年五月一九日日高六郎編 政治とカネ広瀬道貞著 政治家の条件森嶋通夫著期 ーーイギリス、 0 、日本・ー 原彬久著 岸信介 ー権勢の政治家ー 1 91 0 2 2 5 0 0 6 2 0 0 岩波新書 岩波新書 368 368 62 ( )

3. 岸信介 : 権勢の政治家

きしのぶすけ 岸信介は、昭和六二年 ( 一九八七年 ) 八月七日、九〇年の生涯にその幕を閉じた。遺 たぶせ ニつの墓 骨は分けられて、二つの墓に眠っている。一つは郷土山口県の田布施町に、いま一 つは静岡県御殿場市にある。 たたす 田布施の墓は岸家の裏山にひっそりと佇んでいる。徳山駅から山陽本線でおよそ三〇分、人 口一万七〇〇〇人 ( 平成六年現在 ) ののんびりした片田舎、それが田布施である。墓は、岸が生 ばか 前、岸家累代の「寄せ墓ーとして建立したものである。この寄せ墓に「魂を抜かれた」岸家各 代の墓石が歴史の風雪に傾いて摩滅したまま、あたりに雑然と置かれている。戦前・戦中・戦 後を通して政官界の頂点を極めた人物の墳墓にしては意外なほど質素である。一〇〇〇年はも すさいし っといわれる須佐石が寄せ墓に使われているところだけが、わずかに、「権勢の人」岸信介の きょ・つこく 片鱗をみせているにすぎない。岸信介は、岸家一族の骨とともに、文字通り、草むす郷国の土 となり果てたのである。 一方、御殿場の墓は、死してなお権柄を示威する政治家岸信介の姿を十一一分にあらわしてい る。富士山の裾野に延びる七〇万坪の広大な富士霊園にびときわ威容を誇る墓地がそれである。 ここから車でわずか一五分ほどのところには、一五〇〇坪の庭に立っ岸の豪邸が、いまその主 を失ったまま、これまた往時の権力をしのばせる。 岸が眠るこの富士霊園は、三菱地所 ( 株 ) 系列の財団によって経営されている。昭和四一一年、 けんべい

4. 岸信介 : 権勢の政治家

のところ、阿部は「畑陸軍大臣ーを実現することになる。国政を牛耳る軍部の権力が、天皇の 焦慮を誘うほど圧倒的なものになっていたことは確かである。 岸が阿部内閣の商工次官に就いたのは、まさにこうした情勢のなかであった。時代 商工次官 の趨勢は、国家統制論者岸信介に格好の舞台を用意していた。商工省で産業合理化 に就任 運動を推進し、満州では関東軍と組んでソ連ばりの計画経済を自在に動かしてきた とき 岸は、いよいよ戦時体制まっただなかの日本でその本領を発揮する秋を迎えていたのである。 ごどうたくお 伍堂卓雄商工相のもとで次官になった岸が、まず最初に考えたことは、「日本の置かれてい る情勢から、国防産業を中核として国防国家を考えなければいけない」ということであった。 つまり、「国防国家、実現のためには「国民生活がある程度不自由になってもやむを得ない」 ということである ( 『岸信介の回想』 ) 。 戦前・戦後を通じて岸と行動をともにした矢次一夫は、当時を回想して次のようにいう。 「一四年の秋には陸軍の武藤章が北支参謀副長から軍務局長になって帰国している。そこで岸 さんを中心に何かやろうではないかというので、私もその一人だったけれど、秋永 ( 月一一 l) とか、 いわくろひでお しげまさせいし ひょうたろう 陸軍省の軍事課長・岩畔豪雄、大蔵省の谷口恒一一、農林省の重政誠之、鉄道省の柏原兵太郎と いった連中が十数人集まって月曜会という革新官僚の会をつくった」 ( 同書 ) 。かくて岸は商工 次官でありながら、こうした月曜会の論議を背景にして阿部内閣に公然と注文をつけるように

5. 岸信介 : 権勢の政治家

ひでゆき 郎 ( 元蔵相 ) 、三浦一雄 ( 元農林次官 ) など多くの友人に立候補を勧誘し、川島正次郎、三好英之な ど戦後一貫して岸の側近となる人々とこの時点で緊密な連携をとったのも、こうした岸の特徴 を典型的に示している。 ありまよりやす かやおきのり 選挙区の山口には、賀屋興宣 ( 蔵相 ) 、有馬頼寧 ( 元農林相 ) 、吉野信次 ( 元商工相 ) 、久米正雄 ( 作 家 ) 、藤山愛一郎など中央各界の大物たちが、大挙して応援に駆けつけた。政治家岸信介の巨 大な人脈をいまさらながら誇示するものであ。た。三万票の最高得票で当選した岸は、この選 挙によって「余の官僚生活に終止符を打ち政治家として出発するに付き、強き自信を持っこと が出来た」 ( 同前 ) と巣鴨で回想している。 政治家岸信介に関して最も注目すべきことの一つは、敗戦直前すなわち昭和一九年 「岸新党」 から二〇年にかけて活性化した、いわゆる「岸新党ーの動きである。 て 東条首相は、翼賛選挙直後の一七年五月、「政事結社ーとしての翼賛政治会 ( 翼政会 ) を結成 率 を して一国一党体制を築くが、しかし一国一党体制は、本来分断されるべき各種思想・利益集団 制 時が強力な権力によって無理に東ねられているという一面をもつ。「強力な権力ーがそうでなく 戦 なるとき、この一国一党体制が崩れるのは理の当然である。 章 東条の強権内閣が瓦解したことは、まさにこの理屈を証明するものであった。東条政権の後 第 継として小磯国昭内閣が誕生したのは一九年七月であるが、それから七カ月後の一一〇年一一月、 ~ 、に . お 103

6. 岸信介 : 権勢の政治家

0 し 林茂・辻清明編『日本内閣史録』 ( 2 , 3 , 4 ) 第一法規 , 昭和 56 年 東郷文彦『日米外交三十年』世界の動き社 , 昭和 57 年 伊藤隆『昭和期の政治』山川出版社 , 昭和 58 年 岸信介『岸信介回顧録ーー - 保守合同と安保改定』廣済堂 , 昭和 58 年 角田順編『石原莞爾資料ーー国防論策篇 [ 増補版 ] 』原書房 , 昭 和 59 年 赤松貞雄『東条秘書官機密日誌』文藝春秋 , 昭和 60 年 高木惣吉『高木惣吉日記』毎日新聞社 , 昭和 60 年 読売新聞政治部編『権力の中枢が語る自民党の三十年』読売新 聞社 , 昭和 60 年 渡辺京二『北一輝』朝日新聞社 , 昭和 60 年 石田博英『私の政界昭和史』東洋経済新報社 , 昭和 61 年 『国史大辞典』 ( 第 8 巻 ) 吉川弘文館 , 昭和 62 年 武藤富男『私と満州国』文藝春秋 , 昭和 63 年 原彬久『戦後日本と国際政治一一安保改定の政治力学』中央公 論社 , 昭和 63 年 岸信介伝記編纂委員会編『人間岸信介波瀾の九十年』岸信介 遺徳顕彰会 , 平成元年 木下道雄『側近日誌』文藝春秋 , 平成 2 年 寺崎英成『昭和天皇独白録ーー寺崎英成・御用掛日記』文藝春 秋 , 平成 3 年 原彬久『日米関係の構図』 NHK ブックス , 平成 3 年 大江志乃夫『御前会議』中公新書 , 平成 3 年 安倍洋子『わたしの安倍晋太郎 - ーー岸信介の娘として』ネス コ・文藝春秋 , 平成 4 年 粟屋憲太郎・吉田裕編集・解説『国際検察局 ( IPS ) 尋問調書』 ( 第 14 巻 ) 日本図書センター , 平成 5 年 岩見隆夫『新版・昭和の妖怪岸信介』朝日ソノラマ , 平成 6 年 3

7. 岸信介 : 権勢の政治家

総裁人事に関する両党首脳間の対立は、一〇月一一七日新党準備会が発足してもなお、その溝 は埋まらなかった。かくして最後に編み出された妥協案が、いわゆる「代行委員制」である。 岸いうところの「妥協の限界ーであった ( 『岸信介回顧録』 ) 。第一に党首公選を延期し、当面総 裁職務を管掌する代行委員制をとること、第二に代行委員には鳩山、緒方、三木武吉、大野の 四人が就くこと、そして第三に総理を鳩山に引き続き担当させる、というのがその内容であっ 一一月一〇日、それまでに六〇回を超えた四者会談は、「代行委員制によって一一月一五日 結党ーを正式に確認するとともに、新党幹事長には岸を充てることに決する ( 朝日新聞、昭和三 〇年一一月一一日付 ) 。第一次保守合同の立役者と 主党幹事長に就任した岸は、いま また第 岸はこれについて次のように回顧する。「 ( 日本民主党結党時に続いて ) このときも私の″幹 事長″は当たり前のことのように決まった。民主党は総裁をとったようなものだから、幹事長 は自由党から、という声は出なかった」 ( 『岸信介回顧録』 ) 。巣鴨獄中で「強力な指導態勢」を訴 えた岸、追放解除後一貫して政界再編・保守結集に奔走してきた岸そしてついに保守単一政 党の実現にぎつけた、その岸からすれば、この保守新党の幹事長に就くことなど全く「当た り前のこと」だったのかもしれない。 こ 0 176

8. 岸信介 : 権勢の政治家

はじめてできる離れ業であった。 満州国はそれが一応独立した国家の体裁を整えていたとはいえ、いかなる角度か 惜しげもな らみても、現実には日本そのものであった。擬似国家といわれるゆえんである。 くカネを : そしていやしくも国家である限り、その国家権力を事実上握る関東軍の絶大な政 治カたるや、日本本国で陸軍中央がもっ権力よりもある意味では強大であった。その関東軍と それに連なる人物、例えば岸信介がもし仮に権力とカネをほしいままにしようとすれば、それ 相当のことができるであろうことは間違いない。 もちろん岸の場合、「もし仮に」どころでは なく、それは「現実」であった。巨額のカネを動かして人脈と権力を培養し、人脈と権力を動 かしてカネを集めるという手法は、紛れもなく岸のものだったからである。彼は、その意味で もすでに「立派な政治家ーであった。 当時、岸の部下であり、戦後明治学院院長となる武藤富雄は、次のように回想している。 「私は岸さんから毎月一一〇〇円 ( 現在の約一一〇万円 ) の小遣いをもらっていたことを覚えていま す。当時の満州といえどもカネの使い方は予算で決まっていましたから、領収証のとれない使 途不明のカネを自由に捻出することは、たとえ総務庁次長でもそう簡単ではありません。私は 毎月一一〇〇円ものカネをポンと渡してくれる岸さんをみて、『これはなかなか豪気な人物だな』 と思うと同時に、『何かの名目をつけて、ある程度のカネを自由に使う方法を知っているんだ

9. 岸信介 : 権勢の政治家

しかしそれをびとたびナニすると権力のための権力というもの、まあそこに政治のマキャベリ ズムというものがある」 ( 同前 ) 。彼は、「憲法改正」への執念とみずからの権力意志を結びつけ ほうしょ / 、 つつ、暗々のうちに政権再獲得を望蜀していたといえよう。 しかし、岸のこうした政権復帰への思いが政治舞台に具体的な波紋を呈して現実 岸の田中評 の政局を動かしていったという形跡はない。それよりも、彼が佐藤政権の後継首 班として実際に推したのは、福田赳夫である。岸内閣のとき福田に政調会長、幹事長を歴任さ せ、最後には農相のポストに就けて終始その成長に手を貸してきた岸は、政権を離れてからは 岸派を福田に譲ってなお彼を支えてきた。その福田が四七年七月の自民党総裁選挙で田中角栄 に完敗したとき ( 田中一一八一一票、福田一九〇票 ) ) 煢・の落胆田 ) 長女 ( 安倍 ) 洋子によれば、「見 るに忍びない」ものであった ( 『わたしの安倍晋太郎ーー・岸信介の娘として』 ) 。 「なぜ田中さんではいけないのか」と洋子が尋ねたとき、岸はこう答えている。「田中は、 湯気の出るようなカネに手を突っ込む。そういうのが総理になると、危険な状况をつくりかね ないー ( 同書 ) 。航空機購入問題などを含めて種々の嫌疑をかけられてきた岸が、カネの力を露 骨に振りかざしながら権力に猛進する田中をこう評したというのは興味深い。岸からすれば、 いいたいのかもしれない。岸が田中 同じカネを集めるにしても、田中は無警戒、不用心だ、と を首相として推さなかった理由は、もちろんほかにもある。岸は田中を評してこういう。「僕

10. 岸信介 : 権勢の政治家

あとがき 、あ AJ が」 戦後政治において、岸信介という人物ほど毀誉褒貶の渦に巻き込まれた政治家はいない。い ま少しありていにいえば、岸信介ほど悪徳と保守反動の烙印を押された政治家はいないし、岸 信介ほ。カミソリの如き頭脳と剛毅の辣腕家としてその大物ぶりを評価された人物もいない。 きよかい そして、ときに「妖怪」、「巨魁」といわれるように、岸信介ほど謎めいたイメージに包まれ、 そのイメージの独り歩きを許した政治家もいない。 まのべたいくつかの要素の ところが奇妙なことに、びとたび「岸信介ーが論ぜられれば、、 それぞれに傾いた、いわば単純化された「岸像」が牢固として根を張る。かって、岸嫌いのあ る学者が、「岸に会ってみないか」と誘われたとき、「自分の岸イメージが崩れるから、会いた くない」といったのは有名な話である。固定された「岸像」に身を委ねて安心を得るこの学者 の心理は、かなり一般的な心理でもあろう。 しかし私たちは、こうした「岸像ーのステレオタイプをいつまでも許容しておくほど安穏の ことの善し悪しは別にして、そして好悪の感情はさておいて、 時代に生きているわけではない。 241