岸自身 - みる会図書館


検索対象: 岸信介 : 権勢の政治家
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1. 岸信介 : 権勢の政治家

~ もオからである。 でなく、岸自身がすでに陸軍中央に相当分厚い人脈をつくりあ 岸は満州国着任時には実業部総務司長職にあったが、翌年すなわち昭和一一一年七月、産業部 次長に就くとともに、総務庁次長に昇格する。満州国の「農林商工省ーとでもいうべき産業部 は国務院の下部機関であり、産業部次長は大臣の次席に相当する。しかし大臣に ~ 地中国人 が充てられ、単なる飾りものであったがために、実質的には次長の岸が産業部を掌握していた。 また総務庁次長は、総務長官星野直樹 ( 大蔵省出身、のちの企画院総裁 ) の補佐役である。総務 長官職それ自体が政府の最高位である国務院総理 ( 現地中国人 ) の次位にあって、事実上、満州 国経営の実権を握っていた。したがって岸は渡満後間もなく、星野に次ぐ満州国政府最高首脳 の一人として、以後同地を離れるまでこの地位を占めていたのである。 さて、その岸がまず最初に手がけた仕事は、何よりもまず満州国産業開発五カ年 験産業開発五 計画の実行であった。それまで「資本主義反対」、「日本財閥入るべからずーを表 実力年計画 の 看板にしていた関東軍は、みずからの施策が満州産業経済を阻害していることを 営 家認め、岸が渡満する前からすでに満州国国力増進のための五カ年計画立案に着手していた。 国 「満州国ニ関スル 謀本部の戦争指導課長になった ~ カり 章 要望ーのなかで、「戦争準備ノ為満州ニ於ケル産業ノ飛躍的発展ヲ要望ス」 ( 『石原莞爾資料』 ) と 第 のべているが、国防力を産業力によってさせようとするこうした考え方は、関東軍の呼む

2. 岸信介 : 権勢の政治家

そもそも東京裁判における起訴の対象期間は、昭和一二年一月一日から、ミズー 「不起訴・釈 ' ・・ - み - 当式・の・あ、・ 0 ・・・た。一〇年九月一一日までの一七年八カ月すなわち田中 放」への疑問 義一内閣から鈴木貫太郎内閣までの時代を含んでいる。この間の「犯罪ーに問 われて起訴された指導者たちに優るとも劣らない政治的役割を担った岸が、なぜ不起訴、釈放 になったのかという問題は、岸自身が戦後日本に重きをなし、首相にまで登りつめた人物であ るだけに、なおのこと注目され続けた。岸が無罪放免されたのは彼自身が獄中工作をしたから ではないか、さらには岸は巣鴨でアメリカから特別に優遇されていたのではないか、という疑 念はその一例にすぎない。 しかしこの獄中日記をみる限り、岸みずからが「不起訴・釈放」のために何らかの工作をし これまでの叙述からもわかるように、岸はに拘留されて たという形跡は見当たらない。 三年三カ月というもの、絶えず「起訴」、「不起訴」の情報に翻弄されてきた。釈放の三週間前 々 でさえ、「東京裁判の判決があってから既に三週間にもなるのだから何とか我等の身の上も片 日 まないた 一二・一一 l) との、へて、「俎板の鯉ーにも似た無力感と開き直りをみせ 囚附けたらよからう」 ( 昭一一三・ ていゑ自分とほとんど同じ立場にあ。た星野直樹や賀屋興宣が起訴されて「我等が起訴され 章 てゐないのが不思儀と思はれる」といぶかり、「明瞭な不公平ーと「数々の不合理や奇怪至極肪 第 ・二六 ) その岸が、みずから助命工作に の事」を平気でやるアメリカを鋭く批判する ( 昭一一三・二 ( ママ )

3. 岸信介 : 権勢の政治家

る ( 昭二一・九・一一 I)O 「井野出所」が岸自身にとって吉のシグナルなのか、それとも凶のそれか。 これについて「徒ラニ心ヲ労スル事ノ愚ナルハ十分承知ーすれども、心の動揺如何ともなし えない自身の「醜態」を岸は責めている ( 昭二一・九・四 ) 。 いずれにしても井野の出獄は、岸にみずからの釈放を一段と期待させる転機になったようで ある。同年の大晦日に彼は、「此数日来念頭を往来するものは、釈放せられて後如何に生きい くべきかと云ふことなり」として、あるいは自由の身となるかもしれない自分の姿を思い浮か べている。彼はいう。「政治方面は一切追放せられあり。田舎に引込むるは尚若し。生活苦な き獄内がまだましなどと冗談冫 こ相語る一一一一口葉も顧るときは単なる冗談とも云へざるものあり」 ( 昭 ・三一 ) 。岸における「釈放ーへの期待は、いまや獄外に出たときの漠たる不安とな いまぜになっているかのようであった。 せいぞう まざきじんざぶろう ところで鮎川義介、小林躋造 ( 元国務相 ) 、真崎甚三郎 ( 元軍事参議官 ) ら級戦犯容 「住めば都ー 疑者一五名 ( 自宅監視を含めて二三名 ) が一挙に釈放されたのは、昭和一三年八月三 〇日である。岸がこの頃「釈放遠からずーの感をなお一層強くしていったのも無理はない。し かし不思議なことに、「釈放」が近くに感じられれば感じられるほど、「出獄後」への「不安」 いくのである。 もまた「単なる冗談とも云へざるもの」になって したた 同年「一〇月三一日」の項に岸はこう認めている。「一日も早く自由の身となることは誰し 132

4. 岸信介 : 権勢の政治家

工ビローグ もってそれをナニしようとしたのは信長だ。 ・ : 私は平和な、すべてのものが落ち着いた、そ こに座っていてその効果を守っていくようなことには適していない」 ( 同前 ) 。岸がみずからを 信長と重ね合わせるその当否は別として、少なくとも彼の主観においては、戦前、戦中、戦後 を問わず乱世の昭和史を生き抜いてきた自身の運命と、戦国時代を駟け抜けた信長のそれとを 共振させるその快感を味わっていたに相違ない。 いずれにしても、岸はその目的において「理想」主義者である。そして、岸はその方法にお いて「現実」主義者である。理想を追いかけるその道程で編み出される岸の戦略と戦術は恐ろ しく多彩であり怜悧であり、ときには悪徳の光を放つ。理想が執念を生み、現実が機略を掻き 立てる。しかも岸においては執念が機各刺し、機略が執含邯る。その体内に理想とお どろおどろしい現実とを重層させ、執念と機略を共生させる岸であればこそ、彼への毀誉褒貶 もまた闊歩する。 九一歳の誕生日を三カ月後に控えた、昭和六一一年 ( 一九八七年 ) 夏の日の昼下がり、岸は静か にを引きとった。 かっぽ れいり きよほうへん 239

5. 岸信介 : 権勢の政治家

タイなど六カ国を歴訪する。彼の目的は明らかである。「アジアにおける日本の地位をつくり 上げる、すなわちアジアの中心は日本であることを浮き彫りにさせることカ イクに会って 土米関係を対等なものに改めようと交渉する私の立場を強化する」、というのが岸の「判断 であった ( 『岸信介回顧録』 ) 。 つまり岸は、単なる「駐軍協定」としての旧条約を双務的な防衛条約に改めることによって、 吉田が果たそうとして果たせなかった「対等の協力者ーとしての日本を今度こそアメリカに認 めさせなければならないこと、しかもそのためには、この東南アジア訪問によって「アジアの 盟主 . としての日本をアメリカ側に了解させなければならないと考えたのである ( 『日米関係の 構図』 ) 。 岸におけるアジアへのこうしたアプローチが、日本を盟主とするかっての彼の「大東亜共栄 圏ー思想ないし「大アジア主義。と必ずしも矛盾するものでないことは、やはり記憶されなけ ればならない。彼は後年インタビ = ーで、戦前みずからが抱いた「大アジア主義」と戦後にお けるアジアへの関心と ( 全につながる」とともに、「自分が満州国に行ったこととも結び つく」こと、すなわち自身における、 ' 「戦前 J ーと・「戦後一」・・、・ど -4 ~ ・・・一」・ぞ引・ぐも、 -j 、し・ーコ・ してもると二一口する ( 岸インタビ、 190

6. 岸信介 : 権勢の政治家

稽でさえある。組閣時に近衛首相から「君が大臣だと思っている」とおだてられた岸は、それ を頼りに近衛に相談するが、近衛自身の次の言葉が、結局は岸に辞職を決意させることになる。 「そうですね、やはり大臣と次官が喧嘩をしてもら。ては困りますから、そういう場合には次 官に辞めてもらうほかないでしよう」 ( 同書 ) 。自分の見通しの甘さと未熟さをしみじみ思い知 ったとは、後年、岸が述懐するところである。 こうして岸と小林の喧嘩は、「承・・各ん」・・・を自称す・、・、、・ー、・ー・ーーーー る小林の勝ちとなって一応の決着をみ る。しかし、この「決着ーには後日譚がある。岸の意趣返しによって、三カ月後、今度は小林 が商工相辞任に追い込まる 。東条首相の秘書官であった赤松貞雄の『東条秘書官機 ろうえい 密日誌』によれば、軍の機密を「小林が漏洩した」として武藤章 ( 車務局長 ) ら岸シン。 ( の軍当 局が小林攻撃を開始したからである。赤松はこう証言する。「岸信介氏もこれ幸いと革新官僚 りよう たちを動員して小林氏の追放を企図、議会でも岸氏と気脈を通じていた小山亮代議士らが小 林商相をつるし上げ、ついに小林氏は辞任するに至った」。 小林が、「涙がにじみ出る」感情で「大臣落第記」を雑誌に寄稿したのは、辞任直後のこと である。「喧嘩の名人」小林も、軍部、政官界に絶大な人脈をもち、機略にたけた岸が相手で は、およそ勝ち目はなかったということかもしれない。

7. 岸信介 : 権勢の政治家

なかで、岸の国家統制論の行く末を明確に指し示すものであった。 第二は、岸がアメリカから得た印象である。彼がアメリカ経済力の強大さに圧倒されたこと は既述の通りだが、さらに興味深いのは、岸による次の証言である。すなわち、日米間では経 済力にケタ違いの差があるために、「アメリカと戦争するのは国力のうえから考えられない、 という気持ちだった」 ( 岸インタビ、ー ) というものである。あたかも「日米戦争ーなるものが、 この時点で彼の脳裡のどこかをかすめていたかのようである。 「 ( 戦争になれば ) 日本人は追い込まれてい。て、全面的にアメリカに屈服 岸は続けていう。 するか、あるいは日本自体死滅するしかないという気持ちだ 0 た。だから、アメリカと対抗し て、アメリカに勝ってアメリカに上陸しようとか、カリフォルニアをどうしようとか、そんな てことを考える人は軍人でもいなか 0 た。とにかくアメリカがこ「ちに出てくるのを抑えておも 受て、東南アジアにおけるインドネシアの石油を確保し、中国大陸及び東南アジアの資源によっ もく、ということだった」 ( 同前 ) 。 帆て日本の生命をつないで、 代岸のこうした証言は、彼が大正一五年におけるこのアメリカ訪問時点で、すでにアメリカ ~ 時 の対立イメージを何らかの形でも。ていたこと、しかし「日米戦争」は彼我の経済力からみて 3 日本の破滅に終わると彼自身理解していたことを意味する。 岸のこうした微妙かっ危うい対米観は、以後一貫して続いていく。満州国時代の岸、太平洋

8. 岸信介 : 権勢の政治家

岸は、みずからが社会主義ないしマルクス主義に共鳴を覚えたなどと認めたことはもちろん ない。彼の回想によれば、大学時代に『資本論』や、マルクス、エンゲルスの往復書簡などを 読むには読んだが、「 ( これらの著作が ) どうも根本的に初めから ( 自分と ) 相容れない」もので あったし、「ある意味からいえば理解できない点が随分多かった」。そしてマルクスの巨大な社 会主義論に「私は参らなか。た」と岸はいう ( 岸インタビ、ー ) 。「反共の闘士岸信介ーの思想的 一貫性を誇示しているようでもある。 しかし岸がマルクスに「参らなか 0 た」にしても、何らかの形でマルクスの影響下にあった 一輝、大川周明らに彼自身「参。た」ことは紛れもない事実である。北や大川がそうであ。 たように、学生時代の岸における国家社会主義ないし国家統制論のなかに少なくともマルクス 的な社会主義が混在していたことだけは確かである。後年岸は、商工省および満州の革新官僚 として計画的、統制的経済政策を推し進め、戦後の政界復帰にあた。ては社会主義者をも糾合 印 した新党構想に走り、さらには首相在任中、社会党の政策を先取りして、国民年金制度を含む 刻 春社会保障制度の充実に努める。これらが直ちにマルクス的社会主義に結びつくことはないにし 青 ても、少なくも岸の思想体系のどこかにこの種の社会主義に通底する部分があったのではない 2 かという仮説を立てることは十分可能である。

9. 岸信介 : 権勢の政治家

序ーになお固執していたその岸が、戦後政治への再登場とともに「強力な指導態勢」を訴え、 そのための保守合同に身を投じたということである。岸への疑念が膨らんでいく理由の一つが ここにある。 しかし、岸が議会制民主主義を実現していく常道としての一一大政党制を射程に置きつつ、そ の文脈のなかで、他方の「社会党統一」をにらみながら保守合同を推進してい。たということ は、一つの歴史的事実である。岸の「強力な指導態勢ーのなかには、たとえ国家主義の原衝動 が隠されていたとしても、彼の主唱した「政界再編ーが、以後三八年にわたって続く「五五年 体制ーという名の新しい政治システムを始動させたことだけは確かなのである。 そもそも保守合同を完成に導いたことが保守政界における岸の立場を急速に高め 緒方の死去 たことは間違いない。しかし、それがすなわち「岸首相」の呼び声を大ならしめ っ 竝たかというと、必ずしもそうではなか。た。岸自身が、「日ソ国交問題を解決すれば鳩山は引 点退して緒方に ( 首相に ) な 0 てもらう、というのが大体の筋だ。た」 ( 同前 ) と回想しているよう 力に、緒方もまた、近い将来みずから首班になることを確信していた。 権 岸はこう語っている。「確か ( 昭和三一年 ) 一月五日か六日だったと思うが、私は熱海の別荘 8 から、近くに静養していた緒方さんのところへ年賀に行。た。心臓に欠陥があるといわれてい た緒方さんは、そのときこんなことをいっていた。『昨日心電図をと 0 たが、非常に結果がよ 0 181 0

10. 岸信介 : 権勢の政治家

ぬことが、内閣瓦解の一つの原因でもあった。これについてはさすが山千の藤原 ( 銀次郎 ) が自 分 ( 伊沢 ) の処で驚いて話した」。 ここでいう「数千万円ーを仮に「三〇〇〇万円ーとするなら、今日の貨幣価値でざっと「二 五〇億円」にもなろうか。岸と東条が満州時代からカネの面でも結ばれており、しかも、アへ ン絡みでもあったらしい、ということは既述の通りである。『細川日記』におけるこの件は、 東条と岸のそれまでの親密な関係が、カネをめぐる行き違いで破綻し、それが内閣総辞職の誘 因の一つになったということを示唆するものでもある。 後者についていえば、すなわち岸の「反東条・倒閣」が、一筋縄では理解しえな 「両面作戦」 い彼自身の相矛盾した行動から成り立っているということである。当時陰の倒閣 推進者であり、なおかっ、この時期取り沙汰された「東条暗殺計画」に何らかの形で関与して そうきち いたとされる高木惣吉 ( 海軍教育局長 ) は、細密な日記を書き遺しているが、そのなかで内閣改 造たけなわの頃、つまり七月 , ハ日における岸との会見の模様を記している ( 『高木惣吉日記』昭一 九・七・六 ) 。 岸は高木にたいして、「 ( 東条に代わりうる人材が見当たらないので ) 東条をして何とか国力 を結集して戦争に向わせる外なしと思う故、助力ありたしーとのべ、「次の手」として「東条 だけ残って閣僚も三長官も総替りする位のことが必要」と訴えている。岸が「反東条・倒閣ー くだり 100