政治家 - みる会図書館


検索対象: 岸信介 : 権勢の政治家
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1. 岸信介 : 権勢の政治家

折のことを語り居れり」。 満州の三年間は、確かに岸を「立派な政治家」にした。商工省の官僚時代すでに 「濾過器」論 政治家でもあった岸は、満州に来て「立派な政治家」へと「成長」した。中央官 庁としての商工省から放たれて、満州の荒野に躍りでた岸は、「政治的なるもの」が含むあら ゆる要素をみずからの血肉とした。後進的な政治土壌にとりわけ有効に働く「裸の権力」 ( 関東 軍 ) を懐柔し、そして、同じく未成熟な政治土壌に特別の効能を発揮するカネを駟使するとい う手法は、いまや岸のものとなった。 かん 彼はこうした「学習」の成果を証明してみせるかのように、満州を去る前夜、武藤富男、菅 太郎 ( 国務院企画処参事官 ) ら友人たちに語っている。有名な「濾過器」論である。「諸君が選挙 に出ようとすれば、資金がいる。如何にして資金を得るかが問題なのだ。当選して政治家にな つまりきれいな金 った後も同様である。政治資金は濾過器を通ったものでなければならない。 ということだ。濾過をよくしてあれば、問題が起こっても、それは濾過のところでとまって、 政治家その人には及ばぬのだ。そのようなことを心がけておかねばならん」 ( 『私と満州国』 ) 。 岸は、いまや宿願の政治家になる時機まさに到来したことを悟る。彼は日本への帰路、「満 州は私が描いた作品だ」と豪語するが、その「私の作品」満州をあとにして、岸はいよいよ戦 時体制下日本の中枢部に舞い戻るのである。 ろか

2. 岸信介 : 権勢の政治家

岸が戦前・戦中・戦後を通して日本政治に巨大な足跡を残したその事実は否定できない。政治 家岸信介が日本の政治をどう動かし、日本が、いやわれわれ日本人が岸をどう遇したか、いい かえれば、われわれ日本人がいわば岸という役者にいかなる舞台を用意したのかを明らかにす ることは、日本政治そのものの本質を探るためにも、そして「戦後五〇年ーを機に再出発する 私たちそれぞれの座標軸を定めるためにも必要なのではないだろうか。 本書は、岸信介をして日本政治を語らしめ、印本政治を、し、て岸ま介・吾らし・め・るどは - て、政治家なるものの本然的姿態と時代状況との交錯のありようを明らかにしようとするもの である。 そもそも本書は、岸政権の安保改定に関する拙著 ( 『戦後日本と国際政治ーー安保改定の政治カ 学』中央公論社、『日米関係の構図』 z ブックス ) の延長線上で執筆されたものである。一国の 政治、外交が、虚構としての「国家ーよりも、むしろ、実体としての政策決定者とそれを取り 巻く政治過程によって造形されていくという立場に立てば、安保改定を完成した政策決定者岸 信介が、それまでに一体いかなる政治的系譜を背負い、歴史にみずからをどう刻んでいったの かを知ることは、重要である。 私は前記拙著を執筆する準備過程で、たまたま岸信介氏にインタビーする機会に恵まれた。 昭和五五年一二月からおよそ一年半に及ぶ一一十数回のインタビ ーは、自身の安保改定作業は 242

3. 岸信介 : 権勢の政治家

良吏であった。が、帰って行った岸君は商工省を離れて、客観的に立派な日本の政治家に成長 していた」 ( 『特集文藝春秋・人物読本』昭和三二年一〇月 ) 。要するに星野は、岸が満州の三年間に 「立派な政治家」への変貌を遂げたといいたいのである。 しかし、岸は満州で「政治家」になったのではない。 , ー 彼よ商工省時代すで・に・軍部と相通じて いたことからもわかるように、満州に渡る前からすでに政治家であった。とはいえ、「政治家」 岸信介が在満三年で「立派な政治家ーに「成長していた」という星野の見方は、やはり重要な 意味をもっている。なぜなら、この星野の観察は、彼いうところの「立派な政治家ー岸が、そ もそも満州の何によってつくられたのか、という素朴な疑問をわれわれに抱かせるからである。 岸を「政治家」として「成長」させた最大の要因は、満州の権力機構そのものに 権力機構と ある「主権者ーである皇帝溥儀の権限はなきに等しく、行政権をもつ国務院は、 関東軍人脈 丿ート官僚に支配されていた。立法権もまた、制度的には 事実上、岸ら日本のエー 立法院にあるのだが、実際には、日本人の掌握する法制口か、各部局からくる法案を成立させ ることができた。しかも、これらすべての活動と権限は、関東軍のいわゆる「内面指導」に従 属するのであり、関東軍こそ満州の絶対的支配者であった。 岸が産業開発五カ年計画を遂行するにあたっては、前述の通り、 いかに関東軍から権限を委 ねられていたとはいえ、つねづね同軍との関係に意を用いていたことは事実である。彼は重要 ふぎ

4. 岸信介 : 権勢の政治家

~ 序信介原彬久著 9 7 8 4 0 0 4 5 0 5 6 8 8 I S B N 4 ー 0 0 ー 4 5 0 5 6 8 ー 0 C 0 2 2 5 P 6 2 0 E 定価 620 円 ( 本体 602 円 ) 岸信介ー権勢の政治家 戦前、革新官僚として満州国の産業開発を主導、東条内閣 の商工大臣を務めた岸信介は、 < 級戦犯容疑者とされなが ら政界復帰を果たし、首相の座に就いて安保改定を強行、 退陣後も改憲をめざして隠然たる力をふるった。その九〇 年の生涯と時代との交錯を生前の長時間インタビュー、未 公開の巣鴨獄中日記や米側資料を駆使して見事に描く。 岩波新書から 戦後政治史石川真澄著 現代日本の保守政治内田健三著 一九六〇年五月一九日日高六郎編 政治とカネ広瀬道貞著 政治家の条件森嶋通夫著期 ーーイギリス、 0 、日本・ー 原彬久著 岸信介 ー権勢の政治家ー 1 91 0 2 2 5 0 0 6 2 0 0 岩波新書 岩波新書 368 368 62 ( )

5. 岸信介 : 権勢の政治家

あとがき 、あ AJ が」 戦後政治において、岸信介という人物ほど毀誉褒貶の渦に巻き込まれた政治家はいない。い ま少しありていにいえば、岸信介ほど悪徳と保守反動の烙印を押された政治家はいないし、岸 信介ほ。カミソリの如き頭脳と剛毅の辣腕家としてその大物ぶりを評価された人物もいない。 きよかい そして、ときに「妖怪」、「巨魁」といわれるように、岸信介ほど謎めいたイメージに包まれ、 そのイメージの独り歩きを許した政治家もいない。 まのべたいくつかの要素の ところが奇妙なことに、びとたび「岸信介ーが論ぜられれば、、 それぞれに傾いた、いわば単純化された「岸像」が牢固として根を張る。かって、岸嫌いのあ る学者が、「岸に会ってみないか」と誘われたとき、「自分の岸イメージが崩れるから、会いた くない」といったのは有名な話である。固定された「岸像」に身を委ねて安心を得るこの学者 の心理は、かなり一般的な心理でもあろう。 しかし私たちは、こうした「岸像ーのステレオタイプをいつまでも許容しておくほど安穏の ことの善し悪しは別にして、そして好悪の感情はさておいて、 時代に生きているわけではない。 241

6. 岸信介 : 権勢の政治家

それとも満州行きを企図していたから、自分を嫌う小川の大臣就任とともに商工省を辞したの か、わからなくなる。しかし、少なくとも岸の満州転進が軍部からの熱烈な岸待望論と、岸自 身の満州 ~ の野心との鮮やかな交錯の地点で実現したことけは確・か . で .. 効 . 曷 - 一 ..... -..... 、 -. 、、 .. ーーーーー .... - ー ...... -... 、 岸が商工省エ務局長から満州国実業部総務司長に転出した昭和一一年一〇月といえば、前記 の通り、広田弘毅が政権を握っていたときである。政党政治の衰弱と軍部専横の傾向をとりわ け濃くしていった田中義一内閣以来、日本の政治はおよそ民主主義とはほど遠い軍事右傾化の 道をびた走ることになるが、陸海軍大臣現役武官制を復活させた広田内閣の時代は、ある意味 でこうした歴史的趨勢の一つの極点を体現していたといえる。 ちょうりようばっこ ところで、こうした軍部の跳梁跋扈はどこからくるのだろうか。そもそも民主主 満州国政府 義の成否は、敢えてこれを単純化していえば、軍部の政治力と政党政治 ( 議会制民 最高首脳に 験 主主義 ) の政治力との間にみられる力関係のあり方を反映するものである。日本 実 におけるこの時代の軍部は、政党ないし政党人の政治的力量と識見を注意深く値踏みしつつ、 家みずからの力を政治の舞口に投映していったといえよう。一方、政党人はときに軍部の懐柔に 国 乗せられ、軍部の脅迫におびえ、みずからの腐敗と日和見に自壊し、結局は軍部の勢力を増殖 4 させていったのである。憲政史上最大のクーデター事件、すなわち二・二六事件 ( 昭和二年二 月一一六日、皇道派青年将校が政権奪取を狙って高橋是清蔵相らを殺害した事件 ) は、こうした時代文脈

7. 岸信介 : 権勢の政治家

い躾をした。祥朔・さわ夫妻の長男寛は類まれな秀才で、のちに外交官となり、・吉田茂の長女 ようせ ( 櫻子と結婚するが、惜しくも四〇歳にして夭逝する。岸が戦後巣鴨から解放されて政界に復帰 するや、ときの吉田政権にたてついて保守合同を推進し、その過程で同政権を駆逐してしまう ふぐたいてん が、不倶戴天の岸と吉田が、実はきわめて近い縁戚関係にあったというのは興味深い 山口中学は、県下の秀才が集まる名門として知られていた。岸は転校早々首席となり、一度 の例外を除いて卒業までその地位を譲らなかった。「例外」とは、五年の一一学期にのちの海軍 よほう 少将澄川道男が首席となり、岸が一一番に甘んじたことを指す。佐藤一族の輿望を担うに十分な 成績ではあった。 岸が将来政治家になることを考えたのは、前記の通り、この山口中学時代である。 政治家志望 ご多分にもれず、彼においても小学校の頃は軍人志望であった。「長州の陸軍ー は明治維新以来の伝統ではあったが、日清、日露両戦争を経て、山口では当時海軍への関心も 高まり、すべからく「軍人ーは、優秀な若者たちの憧れの的であった。軍人志望者への「貸与 給費」もとくに設けられ、中学には将官が足繁く訪れて軍人への志を生徒たちに鼓舞した。 しかしそれにもかかわらず、岸の軍人志望熱は中学三年の頃から冷めていく。「思ひ出の記」 によれば、中学卒業時には、「法科を志望して将来政治家として立ちたいと云ふやうな気持が 段々強まって」 いったのである。岸は当時を振り返って、政治家志望に至ったその理由を三つ しつけ かん

8. 岸信介 : 権勢の政治家

がたとえ「二流官庁」ではあっても、いや「二流官庁ーであるからこそ、活躍の舞台がより大 きく与えられ、その舞台が政治家への踏み台になると岸に映ったことは十分考えられる。「従 来なら内務省とか大蔵省が政治家への近道であったかもしれないが、これからの政治の実体は 経済にありと考えた」 ( 同前 ) という岸の回想は、彼が権力への接近を「権力の中枢」に求める のではなく、一見非権力にみえる「経済に求めるという迂回的、逆説的な選択をしたことを 意味する。 官僚としての岸のキャリアは二つの時期に大別されよう。第一の時期は、農商務省ないし商 工省の時代、すなわち大正九年から昭和一一年までの一六年間である。第二のそれは、昭和一 一年満州国実業部に着任してから同一四年商工次官就任のために帰国するまでの、いわゆる満 州国時代である。この二つの時期に共通する岸の行動の特徴は、日本が政治、経済において国 家統制を強めつつ軍国体制を固めていくその軌道と完全に符合しているということである。岸 帆は、農商務省入省から満州国を去るまでの一九年間というもの、一貫して日本の国権拡大と軍 代国体制強化に力を注ぐと同時に、みずからをその渦中に埋没させていったのである。 時 まず、第一の時期についてみてみよう。農商務省が機構改革によって農林省と商工 章欧米訪問 省に分離したのは大正一四年であるが、商工省に配属された岸が最初に出くわした 第 大事は、翌大正一五年 ( 一九二六年 ) の欧米訪問である。彼はアメリカ独立一五〇周年記念の世

9. 岸信介 : 権勢の政治家

岸が東京帝大を卒業するのは、前記の通り、大正九年 ( 七月 ) であるが、前年 ( 大正八 農商務省 年 ) すでに高文 ( 高等文官試験 ) に合格していた彼は、卒業後、農商務省に就職する。 に就職 しかし、岸の農商務省入りが周囲から意想外と受けとられたことは事実である。な ぜなら、大学時代我妻栄とトップの成績を争った岸ならば、当時優秀な学生がそうであったよ うに、大蔵省か内務省に入ってもおかしくはなかったからである。 かみやまみつのしん 実際、彼は学生時代の保証人であった上山満之進から内務省行きを強く勧められている。上 山は熊本県知事 ( 明治四五年就任 ) をはじめ内務官僚として活躍し、また大正三年には農商務次 官にもなっている。上山は岸から農商務省行きの決意を聞いて、激しく叱った。彼は岸にこう さと 諭している。「俺は内務省と農商務省の両方を知っている。お前は山口に生まれたから、当然 政治家を志しているんだろう。それなら内務省に行くべきだ。政治家になるなら、農商務省に 行くのは間違っている」。これにたいして岸は、「政治家志望であるからこそ、農商務省に行き ながみつきん たいのです」と反論している ( 岸インタビ = ー ) 。岸は結局、農商務省の商務局監理課長長満欽 司の強い勧誘に従って農商務省人りを果たすことになるのである。 それにしても、彼が国家権力の中枢としての内務省を袖にしたことは、のちの権力主義者岸 信介にしては意外な選択ではある。しかし、政治的野心に溢れる岸は、最も優秀なエリー 集まる内務省や大蔵省で官僚として自己完結することを潔しとしなかった。農商務省は、それ

10. 岸信介 : 権勢の政治家

ほど挙げている。 。・「に自分の体に自信がもてなか。たということである。軍人志望者に必須の器械体操が不 得手であるということも、虚弱体質であ。た岸少年の心を軍人から遠ざけてしまう。第二の理 由は、姻戚筋の松岡洋右が外交官として活躍していたことである。松岡は前にふれた通り、叔 父松介の妻藤枝の実兄であり、当時異色の外交官として活動していた。韓国併合 ( 明治四三年八 月 ) 、関税自主権確立 ( 明治四四年一一月 ) に象徴されるように、日本が国家主権を回復し国際社会 にいよいよ打って出ていくその時代の「外交官」は、軍人とは異質のある種新鮮な印象を岸に いざな 植えつけ、政冶への道に彼を誘ったといえよう。 第三の理由は、あの尊敬してやまない叔父松介 0 感化である。松介は、悠揚として迫らぬ政 「」淪がんでみらた。岸が後年、「 ( 叔父松介は ) 生前既に老成したる立派な政治的才能を具備」 した人物であ 0 た ( 『風声』第二号 ) 、とのべているように、松介を知る人はみな彼を、医者では 火 残なく「立派な政治家」になるべき人とみていた。松介の器量に心酔していた岸は、松介のなか 新に「政治家岸信介、の将来像をみていたのかもしれない。軍人志望を棄てた少年が、さりとて 維 松介のような医者となるには、あまりにもその野心は旺盛に過ぎたというべきか。 章 岸の政治家志望に関連して、いま一つ注目すべきことがある。すなわち岸がこの 第ー松の想 中学時代、叔父吉田祥朔から陰お・び松陰門下生・の・想・に・つ・い・て実際・に・教邑