りが佐藤家の家計を大きく圧迫したことは間違いない。「子供の教育に金を使って、だんノ \ 落ちぶれて、母の晩年はみじめだった」 ( 『文藝春秋』昭和三〇年一月号 ) とは市郎の回想である。 どうも′、 確かに、子供達の教育に注ぐ秀助・茂世の執念は瞠目に値する。いや、秀助・茂世のみなら ず、そもそも佐藤一族が教育にかけるその意気込みが尋常ではないのである。 佐藤一族の教育にたいする執着は、男子をして立身出世せしめ、女子をして佐藤家の家格を 保たしめることと完全に表裏をなす。とりわけ息子たちを栄達の道に送り出すための努力はす さまじい。岸信介がのちに官界の出世階段を登りつめ、政界を駟け上がっていくその行動規範 は、多分、佐藤家におけるこの教育環境を抜きにしては理解できないであろう。 岸が巣鴨で書いた前出「我が思び出の記」を読んでまず驚くのは、曾祖父佐藤信 曾祖父信寛 寛にたいする尊敬と誇りである。岸は信寛を「佐藤家の歴史に於ては最も傑出し への尊敬 た人であった」とのべている。彼は信寛をその叔父九右衛門とともに、佐藤家に 伝わる政治家的な性格を最も顕著に体現した人物として畏敬する。信寛が自分の名前から一字 をとって「信介ーと名付けてくれたことも、岸に信寛との深い因縁を感得させずにはおかなか 信寛は明治三五年、すなわち岸が六歳のとき、八十余歳の長寿を全うしてこの世を去る。岸 えびすがした は五歳の頃、田布施の国木から数キロ離れた戎ケ下の別荘に病臥の信寛を母や姉とともに見舞 っこ 0 びようが
ではいつも抜群の成績で首席を通したが、西田布施の高等小学校に進んでもその最優秀の地位 は変わらなかった。松介はこれを大いに喜び、その褒賞として、東京での医学会出張に合わせ て岸を引率している。岸にとって東京はもちろん初めてであり、東京座の芝居、上野動物園、 浅草の花屋敷など、みるもの聞くものが、わずか一〇歳そこそこの少年にどれほど強い衝撃を 与えたか測り知れない。 この東京行きの翌年、すなわち岸が西田布施の高等小学校一一年のとき、松介は岸を 岡山へ 自分の手許で教育するため、岡山の小学校に転校させる。岸の秀逸な頭脳を見込ん だ松介が、当時俊秀の集まることで有名な岡山中学にいずれ彼を入れるためであった。九月の うちさんげ 転校に備えて、松介は夏休みに家庭教師を岸につける。転校先となる内山下小学校 ( 当時学制は、 地方によって異なっていたので、西田布施の高等小学校一一年であった岸は、岡山では尋常高等小学校六年 おく に編入する ) の学業レベルが西田布施の小学校に比べてはるかに高く、岸の「後れ」は歴然とし 火 残ていたからである。 新個人教授を引き受けた内山下小学校教師の新谷淑 ( 岸の転校先の担任となる ) は、算数、国語、 維 地理などあらゆる学科を岸に短期集中指導するが、岸の理解力と記憶力に驚嘆する。九月に転 章 校を実現した岸を新谷がクラスの生徒たちに紹介したとき、よほど本気に勉強せんと佐藤に負 第 かされてしまうぞ、といって檄を飛ばしたという。
も 佐藤一族のなかで岸の人生に鞦別 -0 意味を ま人の人物といえ ~ 、叔父松 叔父松介の 介を ' 間いぞまが、にないいまの。 ~ たように、曾祖父信寛の存在が半ば幻想のなか 支援と教育 で増幅されていったのにたいし、松介は少年時代における岸の経済的支援者であ ると同時に、関呑すみ。た。松介は茂世の実弟、すなわち岸の祖父信彦夫妻の長 ようすけ 男として佐藤本家を継いだ人物である。松介の妻は、のちの外相松岡洋右の実妹藤枝である。 松介・藤枝の長女寛子が佐藤本家を継承するため、岸の実弟栄作を入婿として迎えるのである。 松介は東京大学で医学を学び、卒業後同大学の助手を務めたのち、岡山医専に移り、産婦人 科学の教授となる。東大の助手時代には実弟の寛造 ( 医者 ) 、作三 ( 医者 ) のほかに、岸の姉タケ や兄市郎を田布施から呼び寄せてそれぞれ東京の学校に通わせている。松介が岡山に居を定め てからは、信介の姉たち ( 駒子、音世 ) を地元の高等女学校に入れて生活の面倒をみ、最晩年の 二年間は岸を田布施から引き取って物心両面、実の親にも劣らぬ熱意で岸の教育にあたってい すべ る。「叔父の全収入は私共の教育費に総てつぎ込まれたのであって、其の急逝した後に一銭の 蓄へも残さなかったのはその為であった」とは岸の述懐である ( 『風声』第四号 ) 。 岸が松介を頼って岡山に移ったのは、小学校六年のときだが、それ以前から松介は、夏休み になると岸を岡山に呼んで何くれとなく世話をしている。他の兄姉にたいしてと同様、岸の学 業成績にたいする松介の関心は並々ならぬものであった。岸は田布施の国木にある尋常小学校
その意気込みこそ、松介存命中はもちろん、その死後も岸の精神的な " づイグ " リンとなるので ある。松介に死なれて岡山中学から山口中学に転校し、そこで終始首席を通したのも、一高か オもさらには官界に入って ら東大に進んで我妻・栄 - ( ・の・ぢ・é応 - k 拠 ) ・ど・・ト・ツ・・プ・・の成績・を・争らー・こ・・のー 4 ー 出世街道を極めようたのも、父松介の「期待」を岸が背負っていたことと、 ではない。学業で、そして官界での出世競争でよい「点数ーをとったとき、岸の想いはいつも 同じであった、父に喜ん . でもら - い。 . たカった、という感慨がそれである。 しかし、それにしても驚くのは、叔父松介が急死したあとにみせる佐藤一族の対 山口中学へ 応である。岸はこの松介の葬儀に出ることも叶わず、友人、教師に別れの挨拶を しようさく することもなく忽然と岡山から消えていく。叔父吉田祥朔 ( 茂世の実妹さわの夫 ) が風の如く岸 を山口に連れ去ったからである。山口中学の教師であった吉田祥朔は、松介の死を聞いて直ち に岸の面倒をみる決意をするとともに、の勉学が一日たりとも遅れてはならなもという配慮 火 残から、自分の勤務校山口中学に時を移さず岸を転校させてしまうのである。佐藤一族の結 新固さと、子弟の教育に注ぐ強烈な意志がここにある。 維 吉田祥朔は、山口中学で歴史、地理を教えていた。篤学の士であり、厳格な人物であった。 章 郷土史家としても研究に励み、だ詩・を・・お・ぐし・自宅には血縁の岸だけでなく同中学の生 第 徒を幾人も寄宿させたが、彼らには大いにロやかましかったらしい。自分の子供たちにも厳し
受けているということである。誠ーをもって革命の先覚とオを . カ中学 代・・岸、に鉅ぐ - 劾な・込 - ま・れ・た・・一 1 ・と・は重要で、みる。 幕藩体制崩壊の渦中にあって、アヘン戦争に示されるが如き西欧列強のアジア支配を凝視し ていた松陰は、みずから君臣一体」。・・の皇国思をを誌 0 が、そうした姿が岸における国家思想 の素朴な原像を形づくったといってよい。「 ( 松陰の思想は ) 私のを貫いて今日まで残って 以下の「インタビー いる」 ( 筆者による岸インタビ、ー はすべて筆者によるもの ) と岸はのちに 述懐している。岸が中学時代「政治家志望ーを固めていくその道筋は、曾祖父信寛とそれにつ ながる長州の志士たちへの格別な想いがいまや叔父祥朔を介して、素朴ではあるが、しかし一 個の具体的な思想となって岸のなかに根づく過程でもあった。 多くの人がそうであるように、岸の人格形成にお、一・一判す〔既一〔〔〔〔〔〔 " " ー 間は決定的でさえあ る。しかもこの人格形成は、主として佐藤一族という血縁共同体と、それを取り巻く長州の維 クライメット 新的気候のなかで鋳造されたものである。毛利家の元家臣としての家格にこだわり、その家 ふさわ 格に相応しい立身栄達の道へ子弟を押し上げていく教育への執着、そしてこの教育への執着を 「 G ・結束を・も・ ? - ・て実現・し・て・い・ぐ・ぞ・å・烈・し・いなは、岸の人格形成を紛れもなく貫いている。 岸における立志の野心は、佐藤一族が放っ教育 ~ の熱気と、一族に伝わる長卅・ 0 維新、・革新 じとによ
じよじようふ 実母の茂世は、気位の高い勝気な女丈夫であったといわれる。幼時から両親にはもちろんの しようあい のぶひろ こと祖父信寛 ( 信介の曾祖父 ) からもいたく鍾愛され、「茂世は佐藤家に残す」という了解がいっ ようせつ の間にか一族のなかに成り立っていた。茂世は、父信彦 ( 信介の祖父 ) が比較的早く夭折したの さくぞう まっすけかんぞう で、若いときからその才知と男まさりの器量で弟妹 ( 松介、寛造、さわ、作一一 l) の面倒をみながら、 なおかつ一〇人のわが子の養育に専心した。 子供たちにたいする茂世のスパルタ教育は徹底していた。信介の実兄佐藤市郎は、「父はお となしかったが、そのかわり母は非常に厳格で、子供の頃はいたずらをすると、お尻をつねら れたり、土蔵にほうり込まれたり、とても怖かった」 ( 『文藝春秋』昭和三〇年一月号 ) と回想して いる。岸自身も、母親から尻をびねられ、物差しで叩かれ、線香で焼かれたりして、風呂に人 ると、いつも尻が真黒になっていたことを思い出すという。茂世は学校教育なるものをほとん ど受けていないが、成人した信介らをつかまえると、お前たちはカネと時間を使って理屈を覚 えたろうが、私は道理では負けないよ、といって胸を張っていた ( 同誌 ) 。 父秀助は、市郎がいうように、確かにおとなしい寡黙の人であった。温厚でなおかっ勉強好 きであった。学問で身を立てようとしたが、名門の地主とはいえ岸家の資力がこれを許さず、 佐藤家に婿入りすれば希望が叶えられると思ったらしい。漢学者であった、茂世の父信彦も秀 助の向学心を大いに買っていた。しかし秀助の期待は見事に裏切られる。結婚して一〇人の子 いちろう
供に次々恵まれたま、、ゞ、 ーももカその教育のための稼ぎに追われ、学問などの騒ぎではなかった。 佐藤家は、当時の旧家によくあることだが、代々酒造の権利をもっていた。しばら 佐藤酒場 くそれを他家に貸していたのだが、茂世が分家したときその酒造権を返してもらう ことになる。しかし、学者肌で商売気のない秀助に酒造業は馴染むはずもなく、山口県庁勤め も実はこうした背景があってのことである。 岸が生まれて間もなく田布施に戻った秀助は、いよいよ酒造りに取り組むことになる。佐藤 とうじ いわいしま 酒場と称し、「松の旭ーという銘柄の酒を醸造販売した。年末には祝島から杜氏が訪れ、一番 手子、二番手子たちを従え、およそ四カ月をかけて「松の旭ーをつくるのである。並酒の入っ た大きな壺が二つほど家に据えられ、その壺から毎日一一合、三合と小売りされた。岸は終戦直 ぶりよう 後、戦犯容疑者として巣鴨プリズンにあったとき、無聊を慰めるままにみずからの生いたちを メモに残しているが ( のちに、「我が思び出の記」などとして、岸の後援会誌『風声』に収録 ) 、それに 火 すこぶ よれば、「タ食前の薄暮には子供達や老人、おかみさん達が徳利を下げて買ひに来、一時頗る 残 新賑はふのが常であった」という。 維 しかし、秀助は帳簿の整理と加減乗除のそろばんにおいてはなかなかの練達であったが、商 章 才のなさは如何ともし難かった。毎年一「三度に分けてそれぞれ数百円ずつ納める税金は、秀 第 助をいつも金策に走らせることになる。加えて、一〇人の子供に教育を授けるための資金づく なみしゅ
ぬことが、内閣瓦解の一つの原因でもあった。これについてはさすが山千の藤原 ( 銀次郎 ) が自 分 ( 伊沢 ) の処で驚いて話した」。 ここでいう「数千万円ーを仮に「三〇〇〇万円ーとするなら、今日の貨幣価値でざっと「二 五〇億円」にもなろうか。岸と東条が満州時代からカネの面でも結ばれており、しかも、アへ ン絡みでもあったらしい、ということは既述の通りである。『細川日記』におけるこの件は、 東条と岸のそれまでの親密な関係が、カネをめぐる行き違いで破綻し、それが内閣総辞職の誘 因の一つになったということを示唆するものでもある。 後者についていえば、すなわち岸の「反東条・倒閣」が、一筋縄では理解しえな 「両面作戦」 い彼自身の相矛盾した行動から成り立っているということである。当時陰の倒閣 推進者であり、なおかっ、この時期取り沙汰された「東条暗殺計画」に何らかの形で関与して そうきち いたとされる高木惣吉 ( 海軍教育局長 ) は、細密な日記を書き遺しているが、そのなかで内閣改 造たけなわの頃、つまり七月 , ハ日における岸との会見の模様を記している ( 『高木惣吉日記』昭一 九・七・六 ) 。 岸は高木にたいして、「 ( 東条に代わりうる人材が見当たらないので ) 東条をして何とか国力 を結集して戦争に向わせる外なしと思う故、助力ありたしーとのべ、「次の手」として「東条 だけ残って閣僚も三長官も総替りする位のことが必要」と訴えている。岸が「反東条・倒閣ー くだり 100
彼は前年夏すでに在日基地の「長期確保」のための「安保改定」をワシントンに示唆している (EmbteIs 67. JuIy 一ご 309. Aug. 8. 1956 ) 。 しかし、岸に衝き動かされたマッカーサー大使の危機意識は、いまや明確な政策提言として 国務長官ダレスを動かそうとしていた。マッカーサーは四月一七日付ダレス宛文書 (From 】 Tokyo. To 】 Secretary of state. NO 】 2336. Apr. 一 7. 4PM) で一 ) 、つ警生ロする。「ワシントンでの ( 日米・ ートナーシップを目指すための根本 首脳 ) 会談の結果として、もしも日米関係における真のパ 的な再調整の基礎ができないなら、日本は次第に、アメリカの利益に反する、しかも取り返し のつかない決定をなすことになろう」。 対日政策の根本的見直しを訴えるマッカーサーの迫力には並々ならぬものがあった。彼は続 にしていくのではない けてこうのべている。「私が恐れるのは、・印本 - が漸進的・に車立主 っ こか、ということである」 ()b ミし。同大使は日本がアメリカの最も恐れる「中立化」 ( あるいは「共 産化」 ) に走らないその歯止めとして、いまこそ日米安保体制の「再調整ーが必要である旨をダ カレスに勧告したのである。 権 さて、岸が日米首脳会談を前にして準備したのは、このマッカーサーとの予備会談 章「アジア だけではない。安保改定をアメリカ側に提起する環境づくりとしての「東南アジア の盟主」 訪問」も重要な意味をもっていた。岸は五月一一〇日から一六日間にわたって台湾、
のようである。いずれにしても、強力な国家体制によってはじめて可能なこのソ連五カ年計画 が、岸や吉野ら統制論者たちに、脅威と共感の入り混った複雑な感慨を与えたこと、そしてそ れが彼らの産業合理化運動の推進にそれなりの刺激を与えたことは否定できない。 加えて、当時の国際経済が全体的に保護主義を強めていたことも、日本の統制経済論者を勢 いづかせたといえる。第一次大戦後、ドイツはもちろんのことイギリス、アメリカなど世界各 国は企業合同 ( トラスト ) 政策を積極的に打ち出し、国産愛用・保護連動を推進する。イギリス のインペリアル・ケミカル 9 ランナー・モンドなど四つの企業が合同 ) は企業合同の典型であった し、一九一三年におけるアメリカの高関税率実施は、国産愛用・保護政策の最たるものであっ まや動かし難いものと た。カルテル化もまた欧米を席巻し、世界経済の保護主義的傾向は、い なった。日本の産業合理化運動は、まさにこうした国際経済環境のなかで産声をあげようとし ていたのである。 ところで、この産業合理化運動の推進母体となった機構は、商工省内に新設された 臨時産業 臨時産業合理局というものであった。同合理局は、浜口内閣誕生一一カ月後の昭和 合理局 五年六月、吉野工務局長の発案で設置されたものであり、二つの部をもっ商工省外 局として発足する。長官は俵商工相、第一部長には、それまで文書課長であった木戸幸一を専 任として充て ( 木戸は同年一〇月、内大臣秘書官長に転出する ) 一第二部長には吉野自身が工務局長