供に次々恵まれたま、、ゞ、 ーももカその教育のための稼ぎに追われ、学問などの騒ぎではなかった。 佐藤家は、当時の旧家によくあることだが、代々酒造の権利をもっていた。しばら 佐藤酒場 くそれを他家に貸していたのだが、茂世が分家したときその酒造権を返してもらう ことになる。しかし、学者肌で商売気のない秀助に酒造業は馴染むはずもなく、山口県庁勤め も実はこうした背景があってのことである。 岸が生まれて間もなく田布施に戻った秀助は、いよいよ酒造りに取り組むことになる。佐藤 とうじ いわいしま 酒場と称し、「松の旭ーという銘柄の酒を醸造販売した。年末には祝島から杜氏が訪れ、一番 手子、二番手子たちを従え、およそ四カ月をかけて「松の旭ーをつくるのである。並酒の入っ た大きな壺が二つほど家に据えられ、その壺から毎日一一合、三合と小売りされた。岸は終戦直 ぶりよう 後、戦犯容疑者として巣鴨プリズンにあったとき、無聊を慰めるままにみずからの生いたちを メモに残しているが ( のちに、「我が思び出の記」などとして、岸の後援会誌『風声』に収録 ) 、それに 火 すこぶ よれば、「タ食前の薄暮には子供達や老人、おかみさん達が徳利を下げて買ひに来、一時頗る 残 新賑はふのが常であった」という。 維 しかし、秀助は帳簿の整理と加減乗除のそろばんにおいてはなかなかの練達であったが、商 章 才のなさは如何ともし難かった。毎年一「三度に分けてそれぞれ数百円ずつ納める税金は、秀 第 助をいつも金策に走らせることになる。加えて、一〇人の子供に教育を授けるための資金づく なみしゅ
原彬久 1939 年北海道釧路市に生まれる 1963 年早稲田大学第一政経学部政治学科卒業 平和」全 3 巻 ( 訳者代表 , 福村出版 ) H. J. モーゲンソー「国際政治一一権力と ( 福村出版 ) 訳書ー A. M. スコット「国際政治の機能と分析」 大学出版部 ) 「現代国際政治のダイナミクス」 ( 共編 , 早稲田 「国際関係論基礎研究」供編 , 福村出版 ) 「国際政治分析ーーー理論と現実」 ( 新評論 ) 「日米関係の構図」 ( NHK ブックス ) 力学」 ( 中央公論社 ) 著書ー「戦後日本と国際政治一一安保改定の政治 専攻ー国際政治学 , 日本外交史 , 日米関係論 よび 1990 年ケンプリッジ大学客員研究員 この間 , 1977 ~ 78 年プリンストン大学お 現在ー東京国際大学教授 , 法学博士 ( 一橋大学 ) 定価はカバーに表示してあります岩波新書 ( 新赤版 ) 368 岸信介 きしのぶすけ 著者 発行者 発行所 電話 1995 年 1 月 20 日第 1 刷発行 1995 年 4 月 5 日第 5 刷発行 はらよしひさ 原彬久 安江良介 株式会社岩波書店 〒 101-02 東京都千代田区ーツ橋 2 ー 5 ー 5 案内 03 ー 5210-4000 営業部 03 ー 5210 ー 4111 新書編集部 03 ー 5210 ー 4054 印刷・精興社カバー・半七印刷製本・永井製本 OYoshihisa Hara 1995 ISBN 4 ー 00 ー 430368 一 0 Printed in Japan
~ 序信介原彬久著 9 7 8 4 0 0 4 5 0 5 6 8 8 I S B N 4 ー 0 0 ー 4 5 0 5 6 8 ー 0 C 0 2 2 5 P 6 2 0 E 定価 620 円 ( 本体 602 円 ) 岸信介ー権勢の政治家 戦前、革新官僚として満州国の産業開発を主導、東条内閣 の商工大臣を務めた岸信介は、 < 級戦犯容疑者とされなが ら政界復帰を果たし、首相の座に就いて安保改定を強行、 退陣後も改憲をめざして隠然たる力をふるった。その九〇 年の生涯と時代との交錯を生前の長時間インタビュー、未 公開の巣鴨獄中日記や米側資料を駆使して見事に描く。 岩波新書から 戦後政治史石川真澄著 現代日本の保守政治内田健三著 一九六〇年五月一九日日高六郎編 政治とカネ広瀬道貞著 政治家の条件森嶋通夫著期 ーーイギリス、 0 、日本・ー 原彬久著 岸信介 ー権勢の政治家ー 1 91 0 2 2 5 0 0 6 2 0 0 岩波新書 岩波新書 368 368 62 ( )
棄てる一方で、安保改定で苦労をかけた藤山外相に一度は立候補を勧めながら、投票直前にな って「立候補断念」を要求する。藤山は「断念」を拒否して投票に臨むが、池田、石井に続い て三位に終わる。池田、石井の決選投票で池田が勝利したのは、岸その人が第一回投票におけ る藤山票のほとんどすべてを池田に回したからである。最後の決定的なカギが岸に握られてい たことは間違いない。 こうして岸は「次期政権ーを辛くもみずからの主導力によって生み出した。ついに七月一五 日、岸内閣は名実ともに終幕した。岸は三年五カ月にわたって率いたみずからの政権を、宴の りようりよう あとにも似た寥々たる風景のなかに沈めたのである。 もちろん、岸は政権を投げ出しても、政治の舞台から消えたわけではない。退陣後、 沖縄返還 池田政権 ( 昭和三五年七月ー三九年一一月 ) から佐藤政権 ( 昭和三九年一一月ー四七年七月 ) へ、佐藤政権から田中角栄 ( 昭和四七年七月ー四九年一一一月 ) 、三木武夫 ( 昭和四九年一一一月ー五一年 一一一月 ) 、福田赳夫 ( 昭和五一年一一一月ー五三年一一一月 ) 、大平正芳 ( 昭和五三年一一一月ー五五年六月 ) 、 鈴木善幸 ( 昭和五五年七月ー五七年一一月 ) の各政権を経て、中曾根康弘政権 ( 昭和五七年一一月ー六 二年一一月 ) に至るまでおよそ四半世紀、岸が政界に隠然たる力を及ばしていたことは紛れもな い事実である。 例えば、佐藤内閣が仕上げた沖縄返還協定 ( 昭和四六年六月 ) で岸が果たした役割は重要であ 232
( 彎。いをを叫 も一、 0 い 4 1 euruS 原彬久著 ー権勢の政治家ー こっ 岩波新書 368 れ 0 そ u ー 登 4 新 50 、
そもそも思想的に合うはずがなかた。それが典型的にあらわれるのは、昭和一五年一二月に 閣議決定した「経済新体制確立要綱」をめぐってである。第一次近衛内閣のときに起こった前 出「近衛新党ー運動は、第一一次内閣誕生とともに新体制運動として再興し、諸政党の解党によ る大政翼賛会の結成 ( 昭和一五年一〇月 ) や、労働者を「国策の本義ーに東ねていくための大日本 産業報国会の成立などを導く。こうした文脈のなかで、企画院は高度国防国家体制に向けて 「経済新体制確立要綱ーを立案することになる。 資本と経営の分離、私益追求の否定、企業への政府監督権の強化等々、「国防国家ー施策を 盛り込んだ同「要綱ー案の作成に、商工省側から岸が関与したことはいうまでもない。しかし この作業中、大臣の小林がたまたま蘭印 ( インドネシア ) に出張していたため、岸は独断で事を 進める。帰国してその「要綱ー案のことを報告された小林は、「自分を無視した」岸にたいし て て激怒したばかりでなく、「要綱」案そのものを「アカの思想」として公然と批判することに 率 を なるのである。 制 体 こうした経過の延長線上に起こったのが企画院事件である。小林にとって同事件は 時 戦「岸解任ー 「岸解任ーを実現する格好の機会と映った。両者間で「辞めろ」、「辞めない」の応 と後日譚 章 酬が続くが、岸の抵抗は徹底していた。大臣が、風邪で欠勤中の岸邸に押しかけ辞 第 表提出を迫り、一方、岸が面会を拒否して寝室から筆談で「辞職」をはねつけるという図は滑
じよ - つじ しかし、松本烝治国務相が中心となって草したいわゆる松本案は、いかにも旧態依然であった。 松本案を「旧明治憲法の字句をかえた程度のものー ( 『マッカーサー回想記』 ) と断じたマッカーサ ー元帥は、急遽、新憲法の起草をみずからの主導権で行なうことにする。マッカーサーの「新 憲法ーが、戦前からの保守勢力に自由主義のタガをはめ、しかもそれが、社会党右派などを含 む「穏健な民主主義」勢力を育てていったことは否定できない。 もちろん岸は、新憲法の骨格ともいうべき平和主義や民主主義の諸原則を認めないわけでは ない。しかしそれでも彼においては、国家の基本法が他国力ら押しつけられた」こと自体が 問題なのであり、それこそが民族の自立を阻害するというのである。岸が巣鴨刑務所から自由 を得て戦後政治に登場したその原点、すなわち「独立の完成ーのための「憲法改正」は、首相 退陣後の岸を依然として衝き動かしていたわけである。 首相引退から五年後の昭和四〇年、すなわち佐藤内閣のとき岸がアメリカの雑誌 ( F ミ ゝ、夛 0 。 (. 一 000 ) に寄せたその論 ( 彼の「広改・正〕・・・侖が依然・すが・い・ぢっ・・ ) 、・一 - 一 を示している。彼はこの論文で、守党内・の沢争ーに重大な危惧をも。ていること、それゆ えこれら諸派閥を一つに東ねるための政治課題こそ「憲法改正、であり、わけても「戦力」ー保ー 持を阻む条項 ( 第九条 ) の改正が必要であることを説く。しかも、日本敗戦とアメリカ対日占領 の後遺症を根絶する方途は、この「憲法改正」を措いてほかにない、 というのが彼の主張であ 234
と築き上げたその人脈はぞ・れ自体巨大権力で・あり、したが。で精緻に構造化され、て・いる。構造 が岸に向けて流し出す力ネは、ほかならぬ構造という名の「濾過装置ーをくぐり抜けながら岸 彼の至近 その人に届くのである。しかし、こうしたカネが直接、岸の手を煩わすことはない。 , 距離に設けられたもう一つの濾過装置、すなわち取り巻きを通して政治資金の集配がなされる からである。家族から不都合な人物を排除するよう迫られると、岸はこういったという。「ど ワルでも使い道によっては役に立つ」 ( 岸 んなによい人物でも、何もしないのでは仕方がない。 仲「ナインタビュ とまれ第一次 ( 昭和三一ー三四年 ) 、第二次 ( 同四二ー四三年 ) 、第三次 ( 同四九ー五二年 ) に及ぶ >•< ( 次期主力戦闘機 ) 選定をめぐる疑惑をはじめ数々のスキャンダルに岸の名は挙がっても、彼 に関する限り、それらは結局、構造の彼方に吸い込まれていく。戦前、戦中、そして戦後と一 貫して時代の風を受けながら巨大な政治的足跡を残してきた岸なればこそ、こうした疑惑はそ の「政治的足跡ーと掛け合わされて、彼をしばしは「妖怪」にまで仕立てあげてしまうのであ る。 岸は、「織田信長が好きだ」という ( 岸インタビ、ー ) 。徳川家康が最終的に握った はことのほかこ 「天下」への道をそもそも切り拓いたのが信長であるがゆえに、 む。彼はいう。 「天下人として日本を統一しようという考えを一番早く ' ・信長を好。 乱世を生 きて 238
協力者ーとして日本を遇することはできないと主張したのである。 しかも、この「自助および相互援助」の力とは軍事力そのものであって、それ以外の何物で というのがアメリカの立場であった。旧条約の交渉当事者西村熊雄 ( 外務省条約局長 ) によれば、日本の労働力、経済力など非軍事的要素をもってアメリカに「有用な協力 . をなし うるのだという日本側の見解は、アメリカ側から全く問題にされなかった ( 『安全保障条約論』 ) 。 「自助および相互援助」の力をもたない日本がアメリカと対等互防衛条約を結ぶことは、 ありえな・いと、い、テわ、げ、すあみ。アメリカが日本との間で調印した旧安保条約が「アメリカの日 本防衛義務」を欠落させるという「本質的欠陥ーを残したまま、単なる駐軍協定となった理由 はここにある。 加えて、アメリカの駐軍目的が「日本の安全に寄与する」ためのみならず、「極東ー 吉田と岸 の安全のためでもあるとしたことは、この条約の特異性を一層際立たせるものであ った。吉田のサンフランシスコ体制は、こうして占領と被占領の関係を見事に刻みつつ出発し たのである。 グ これまでの叙述から明らかなように、岸の安保改定に 1 訂・の・旧条約・に内蔵ざ・れ・て・・い、をゴ・引ー ピした被占領的体質を「是正ーするために、くろまれたものである。「安保改定」に定めた岸の 狙いは、第一に「対等の協力者ーの証しとして「アメリカの日本防衛義務」を条文化すること 227
継首班ーを約東した、例の「対大野念書」のためでもある。 一方、岸がみずからの安保改定作業にとって最重要人物とみる池田は、明らかに岸協力に傾 いていた。首相秘書官中村長芳がいうように、「 ( 五・一九採決の ) 準備は相当やった」が ( 中村 インタビュー ) 、この準備過程で池田がコミットした形跡はない。しかし、川島の証言によれば、 池田は「会期延長」議決のあとの新条約・新協定採決には事前に同調の態度を示している ( 東 京新聞、昭和四一一年一〇月一一日付 ) 。池田のこうした行動は、彼がこの時期すでに、「次期政権 をいわは至近距離に実感したことと無関係ではない。 五・一九採決の六日後 ( 五月一一五日 ) 、岸は池田とサシで会談し、「池田後継ーをほのめかす。 「三木や松村はひねくれ」ており、「河野や大野は総理総裁の器ではない」し、池田こそ「党 内正流」として「大きな期待をかけている」、というのが池田にたいする岸の甘いささやきで あった ( 岸インタビ = ー ) 。岸特有の話法である。しかもその前に、つまり五・一九採決の数日 前、池田は岸の黒幕といわれる矢次一夫から、「岸の意中」として「池田後継ーを示唆されて いる ( 矢次インタビー ) 。池田が、それまで通底していた反主流勢力と決別し、岸への協力を加 速させていった理由はここにある。 さて、岸政権の命脈はいよいよ尽き果てようとしていた。前述の通り、岸にとって 総辞職 「アイク訪日中止ーの決断がそのまま「内閣総辞職ーの決断につながったからであ 222