いったんだが、仲々そうされないんだ」 ( 同前 ) 。 こうして岸は興国同志会と決別し、その後上杉とも個人的関係は別として、思想的には明確 に距離を置くことになる。しかし、岸が興国同志会を離れた理由は、実はこれだけではない。 彼は同事件に関連して、そもそも私有財産制を否定するマルクス的社会主義にある種の共感を もっていたからである。岸がクロポトキンはもちろんのこと森戸辰男の思想そのものを支持す ることはなかったにしても、興国同志会ないし上杉慎吉の単線的かっ極端な保守反動に比べれ ば、岸の国家主義はいま少し複層的かっ多面的であり、それだけに相矛盾する要素も抱えてい たといえよう。 岸はこう語っている。「私には私有財産制というものを維持しようという考えはなかった。 だから例の森戸辰男の論文にたいしても、私は国体とか天皇制の維持は考えるけど、私有財産 制を現在のまま認めなければならないとは思っていなかった。私有財産と国体とを分けて考え 印 るというのは、その当時の我々の問題の基礎をなしていた。したがって私有財産制の維持とい 刻 春うものにたいしては非常に強い疑問をもっていた」 ( 同前 ) 。 青 章 第
りよう の伝統精神を諒とし、国権主義を主張する木曜会 ( のちに興国同志会となる ) へと流れ込んでいく。 また憲法学では、天皇機関説すなわち主権は国家にあ。て天皇は国家の最高機関であるとする 美濃部達吉と、天皇主権説を唱える上杉慎吉とが、これまた激しい確執をみせていた。 大学内におけるこうした政治気候にあ。て、岸は人学早々上杉の講義に示された国体論に共 鳴するとともに、すでに上杉門下にあ。た山口中学の先輩たちに手引きされて上杉邸に出入り すゑ岸が晩年、「私は初めは上杉先生の思想よりも、その人柄に惚れた」 ( 岸インタビ、ー ) と らいらく 回想しているように、晩的をしながら学生たちを相手に磊落な話術を展開する上杉のその人柄 紋付き袴姿で重厚、流麗に講義する上杉の国士的風格もまた、 は、岸を大いに魅了したらしい。 いたく岸の心を捉えたようである。 こうして岸は、上杉の人格に惹かれつつ、その反動的国粋主義に傾斜していくのであり、上 杉の木曜会に入るのもこうした背景があ。たからである。岸はこの時期、上杉の人格とその憲 仰法論を通して、いわま」謐教的、・・ - ・・日本主義的な価値体系基盤・ど・す・を第羇を深めてい 0 たと 春いえよう。 青 しかし、岸が上杉の「天皇絶対主義」を無条件に支持していたと考えるのは誤りで 章北一輝の ある。岸の国粋主義は上杉のそれよりも思想的にははるかに重層的であり、したが 衝撃力 。て単純に割り切れるものではなか。た。なぜなら、岸はこの頃、上杉の思想以外
岸は、みずからが社会主義ないしマルクス主義に共鳴を覚えたなどと認めたことはもちろん ない。彼の回想によれば、大学時代に『資本論』や、マルクス、エンゲルスの往復書簡などを 読むには読んだが、「 ( これらの著作が ) どうも根本的に初めから ( 自分と ) 相容れない」もので あったし、「ある意味からいえば理解できない点が随分多かった」。そしてマルクスの巨大な社 会主義論に「私は参らなか。た」と岸はいう ( 岸インタビ、ー ) 。「反共の闘士岸信介ーの思想的 一貫性を誇示しているようでもある。 しかし岸がマルクスに「参らなか 0 た」にしても、何らかの形でマルクスの影響下にあった 一輝、大川周明らに彼自身「参。た」ことは紛れもない事実である。北や大川がそうであ。 たように、学生時代の岸における国家社会主義ないし国家統制論のなかに少なくともマルクス 的な社会主義が混在していたことだけは確かである。後年岸は、商工省および満州の革新官僚 として計画的、統制的経済政策を推し進め、戦後の政界復帰にあた。ては社会主義者をも糾合 印 した新党構想に走り、さらには首相在任中、社会党の政策を先取りして、国民年金制度を含む 刻 春社会保障制度の充実に努める。これらが直ちにマルクス的社会主義に結びつくことはないにし 青 ても、少なくも岸の思想体系のどこかにこの種の社会主義に通底する部分があったのではない 2 かという仮説を立てることは十分可能である。
り日米安保体制を合理的に改めなければならない。その前提としての日本自身の防衛という立 場を強化するとともに、日米安保条約を対等のものにすべきだという感じをそのとき私はもっ た」 ( 岸インタビ、ー ) 。岸が政権をとるや否や、まずは「安保改定」に照準を定め、そのための 「訪米」を推進していった背景には、実はこうした経緯があったのである。 岸は、首相就任から四カ月後の六月、ワシントンで引」ゼョ " 〈イ " よび 駐日大使と ダレス国務長官との間で日米首脳会談をもつが、ここに至るまでの準備は確かに の予備会談 精力的かっ周到であった。岸が展開した訪米準備作業のなかでとくに重要なのは、 彼みずからが駐日大使マッカーサーとの間で予備会「をねたことである。 アメリカの外交文書によれば、岸はマッカーサー大使との予備会談を四月一〇日を皮切りに 少なくとも七回もっている。これら一連の予備会談を貫く最も著しい特徴の一つは、日米安保 っ 3 体制に関する日本国民の意識を岸がきわめて包括的、体系的に分析してみせたということであ る。岸はマッカーサー大使に向か。て、日本国民の対米批判が次の四つの側面から強ま。てい カることを警告する。第一はアメリカの対日軍事政策への反発、第二に日米安保条約における日 本の従属的地位への怒り、第三に領土問題 ( アメリカが半永久的に沖縄・小笠原諸島をその支配下に 章 置いていること ) への反感、第四はアメリカ国内における日本製品への差別的な扱いと、アメリ 第 力による日中通商禁止にたいする不満 (From 】 Tokyo, To: Secretary Of State, NO 【 2256. Apr. 一 0.
岸は大川周明の印象を次のように回想したことがある。「大川は物事をいい切る人 大アジア だ。そういうことが若い者に非常に印象的であった。学者は、ああでもない、 主義 でもないといろいろな学説を並べるが、とにかく大川さんという人は決断をもって 若者にこうだといい切るんだ。上杉先生と同じように、それが非常に魅力的であった」。続け て岸はいう。「その頃はまだ大東亜共栄圏なんていう考えは頭になかったが、こういった考え 方や私の満州行きの基礎には、大川さんの考え方があったことは否めないー ( 岸インタビ、ー ) 。 つまり岸は、昭和一一年一〇月商工省から満州国へ転進する、その思想的基盤が大川の大ア ジア主義であることを率直に認めているのである。岸のなかに理論的に構築されつつあった北 一輝的国家主義、すなわち国内改造論と対外膨張論とを一体化させた国家社会主義は、同時に 大川の大アジア主義によってさらに肉付けされていったといえよう。なぜなら、岸が北一輝の 抱く対外膨張論の対象を「アジア」にみてとったのは、大川の大アジア主義によるところ大で あったし、その「アジア」への自意識を思想的に正当化しえたのも、やはり大川を経由したか 春らである。 青 大川においては、「維新日本」ないし「革命日本ーを実現してはじめて日本はアジア諸国の 盟主となる。昭和一一年に著した論文「日本精神研究」で彼は、「世界統一の使命を有する」日 本は、その「使命」の実現をまず満州に求め、「朝鮮之に次ぎ」、「進んで支那に及び、更に全 これ
で藤山外相が、「極東の範囲ーを「大体フィリピン以北、日本の周囲と定義したことから、 この問題は火を噴く。最終的には、政府の「統一的、確定的解釈、すなわち「大体において フィリビン以北並びに日本及び周辺の地域であって、韓国及び中華民国の支配下にある地域も これに含まれる」という最終的見解をもって一応決着する。しかし岸は、この問題に不本意に もみずから巻き込まれてしまったことを自嘲するかのように、後年、「極東の範囲は「愚論 あすかたいちお の範囲」であったと悔やむ ( 同前 ) 。社会党の安保特別委員の一人飛鳥田一雄は、「あの議論は われわれ自身バカバカしいと思ったが、大衆性があった」と回想する ( 飛鳥田インタビ 確かに「極東の範囲は、理論的にはほとんど意味をなしていなかった。なぜなら、在日米 軍の行動はそれが「極東の平和と安全ー ( 第六条 ) を目的とする限り、地域的に制約されないの であって、「極東の平和と安全のためならば極東地域の外に出て行動してさしつかえない」 ( 『安 っ 竝全保障条約論』 ) という旧条約上の論理は、新条約においても正しいからである。だが、極東条 庇項そのものに問題があることを捉えて、あえて迂回作戦をとった野党勢力の攪乱行動は、審議 カ引き延ばしにはそれなりに有効であった。 権 時間は容赦なく流れる。「徹底審議」を求める野党と「日程」に拘束される政権側 章五・一九 との確執のなかで、会期末 ( 五月一一六日 ) から逆算して「三〇日間」、すなわち参議院 採決 の「自然承認」に必要な日数を差し引いた「四月一一六日」が過ぎていく。岸は、こ 217
岸が昭和一四年一〇月、満州をあとにして古巣の商工省に次官として返り咲いたの のぶゆき 近衛文麿 は、陸軍大将 ( 予備役 ) 阿部信行が内閣首班のときであった。岸は広田内閣の時代に を軸に 渡満したのだが、以後わずか三年の間に林銑十郎内閣 ( 昭和一二年一一月ー六月 ) 、第一 次近衛内閣 ( 昭和一一一年六月ー一四年一月 ) 、平沼騏一郎内閣 ( 昭和一四年一月ー八月 ) 、そしてこの 阿部内閣 ( 昭和一四年八月ー一五年一月 ) へと四代の政権が入れ替わった。 これら四代の内閣を貫く最も枢要な流れといえは、対外的には、日中戦争の勃発および同戦 争政策の展開であり、国内的には、これら対外面の戦争政策と表裏をなす国家一元化ないし国 家総動員化の趨勢であった。しかも、これら日本の国際的、国内的な潮流が、多かれ少なかれ 近衛文麿を軸に動いていったということは重要である。 五摂家筆頭の家門である近衛が、短命わずか四カ月の林内閣のあとを受けて首相になったの きんもち は、昭和一一一年六月、岸在満中である。元老西園寺公望の秘蔵っ子ともいうべき近衛は、その 国民的人気もあって、四五歳の若さでいよいよ総理大臣として登場する。組閣の大命が降りた とき、当時の東京朝日新聞 ( 昭和一二年六月二日付 ) は、「歴代老齢者をもって誇るわが内閣史上 において、これは当年四七歳 ( 数え年 ) の青年宰相 ! まさに画時代的なことだ」ともてはやし 軍部、政党、財界を抱合する「挙国一致内閣ーをもって出発した第一次近衛内閣は、組閣後
世界に向って進めらるべきものである」と主張した。のちの革新官僚岸信介が、大川における ま一度これを こうしたアジア侵略の具体的なプランをなぞっていくその符合の鮮やかさは、、 かみしめておく必要がある。 このように、大学時代における岸の国家主義思想は、単に上杉慎吉の国粋主義にとどまらず、 北一輝の国家社会主義と、それに連なる大川周明の大アジア主義から種々の要素を吸収して深 められていくが、しかし、彼らが岸の国家主義形成にとってすべてであったとはもちろんいえ かのこぎかずのぶ ない。例えば、のちに一一一一口論報国会事務局長を務める哲学者鹿子木員信の国粋主義と大アジア主 義が大学時代の岸に強い影響を与えたことは、岸自身も認めている。 ところで、北一輝や大川周明の思想にマルクス的社会主義の影が陰に陽につきま マルクス主 とっているということは、これまでの記述からもおおよそ見当がつくであろう。 義の妖気 前出の通り、堺利彦、幸徳秋水、片山潜ら日本の先駆的社会主義者たちが北一輝 への接近を試みたことからもわかるように、岸が共鳴した北一輝の社会主義革命論には確かに マルクス主義の妖気が漂っている。大川周明は前出「日本精神研究」で、「かくて予は社会制 わがし 度の根本的改造を必要とし、実にマルクスを仰いで吾師とした」と吐露しているように、大川 が生涯にわたってどのような思想的遍歴を経ようと、一度はマルクスに傾倒したことは間違い
言で特徴づければ、民心の変化と社会変動の時代であったといえる。米騒動が象徴しているよ うに、国民経済の悪化、労働者のストライキ、社会不安の深刻化、そしてそれに伴う民衆の権 利主張は、左の社会主義から右の国家主義に至るまでさまざまな思潮ないし運動となって拡大 していく。 こうしたなか、大正八年 ( 一九一九年 ) 一月には、第一次大戦の講和会議がパリで開かれる。 この講和会議で特筆すべきは、日本がイギリス、アメリカ、フランス、イタリアとともに五大 国の一つとして戦後処理に指導的役割を果たすとともに、中国山東省にあるドイツ権益の日本 割譲を実現するなど、アジアにたいする露骨な干渉に打って出たことである。同年五月四日こ を展開した、いわゆる五・四 の山東問題に抗議して一一一〇〇〇人以上・。・中学生・・が反・日示威運動、・・ ! ・ 運動は、日本の帝国主義的野心にたいするアジア諸国民の抵抗という、以後牢固として続く歴 史の構図を早くも一小すものであった。 こうした激動の時代に、東大法科の学生であった岸がどのようにみずからの思想 上杉慎吉の を深めていったかという問題は興味深い。当時の政治思潮を反映して、東大では 国粋主義 吉野作造をリーダーとする民本主義の流れと、上杉慎吉を中心とする国粋主義の 勢力が厳しく対峙していた。前者は、「人類の解放ーと「現代日本の合理的改造ーを目的とす る社会主義的、民主主義的集団、すなわち新人会へと糾合された。これにたいして後者は国家
ひさいち のみならず、次期政権として「寺内寿一長州内閣」の実現を画策していることを知っていた高 木は、この岸の「提案に強い警戒心を抱く。彼は岸のこの働きかけについて、「政治屋の言 動ほど当てにならぬものはない」としたあと、「 ( 東条、寺内の ) どちらに転んでも損しないと いう虫のいい両面作戦なのだろう」と推断している。 岸は戦後政界に復帰してからは「両岸」といわれたが、この高木への「提案」も、岸の行動 が直線的でありながら曲折し、曲折しながら多重層化するという、きわめて複雑な構造をもっ ていることを示している。 岸は満州から帰国したあと、これまでみてきたように、およそ五年をかけて商工次官、商工 相、そして軍需次官兼国務相を歴任したわけだが、この間、確かに日中戦争および対米戦争遂 行の中枢にあ。て内閣を支えてきたし、その支えてきた内閣を今度は潰す原動力にもなった。 て い高木惣吉に、「岸国務相の肚は判らぬ」と嘆かせるほど、実際、岸の政治的行動は、いまや明 を 敏な切れ者というにはあまりにも錯綜的であり、単に辣腕家と評するにはあまりにも野心的か 制 時っ策謀的であったといわなければならない。 戦 岸におけるこうした行動の多重層性は、彼が昭和一七年四月のいわゆる翼賛選挙 章 翼賛選挙へ に打って出たことにもあらわれている。昭和一七年四月といえば、前記の通り、 の立候補 太平洋戦争の緒戦に戦果を挙げて日本中が祝勝気分に包まれていた時分である。 はら 101