総選挙 - みる会図書館


検索対象: 岸信介 : 権勢の政治家
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1. 岸信介 : 権勢の政治家

保守党と、保守の一部を含む革新政党とが競い合う「二大政党制ーの構想は、すでに岸のなか に固く根を下ろしていたのであり、したが 0 て彼のこうした動きはある意味で当然であった。 社会主義者の取り込みに失敗した再建連盟は、その結成後わずか数カ月にして重大 総選挙で な試練に直面する。すなわち同連盟は、二七年八月吉田首相が打った、いわゆる 惨敗 「抜き打ち解散」とそれに続く総選挙 ( 同年一〇月 ) に巻き込まれていくからである。 この選挙に再建連盟が政党として打って出るべきだとする三好、武知、綾部健太郎ら幹部と、 あくまで同連盟を国民運動の推進母体と考える会長岸とが対立し、結局は岸が折れて、再建連 盟は独自候補および系統候補合わせて数十名を同選挙で擁立することになる。 しせきいへい しかし、結果は惨敗であった。岸は立候補しなかったが、三好、有馬英治、福家、始関伊平 て等々の独自候補はすべて落選し、わずかに武知のみが愛媛から当選した。ただ連盟系統の川島 正次郎、南条徳男、森下国雄らが自由党から、小泉純也、笹本一雄らが改進党からそれぞれ出 向 馬して当選したのはせめてもの救いであ「た。 守ともあれ、再建連盟はこの総選挙によ。て完全に挫折した。しかし同連盟が掲げた諸政策、 保 とりわけ「共産主義の侵略の排除と自由外交の堅持」、「日米経済の提携とアジアとの通商」、 章 制の用は、岸戦後政治、ともなるべきものであり、こ そして「憲法と 第 れを 丿ングボード ) してコ二のステッが始まるのである。 151

2. 岸信介 : 権勢の政治家

進歩党系民主クラブを吸収して民主自由党となり、この民主自由党が二五年三月、同じく進歩 党 ( 昭和一一〇年一一月一六日結成 ) をその前身とする民主党の一部 ( 大養派 ) を吸引する形で自由党が 生まれる、という流れである。吉田が一貫して指導してきたいわゆる「保守本流」である。 いま一つは、進歩党が民主党となり ( 昭和一三年三月 ) 、他方協同党が協同民主党 ( 昭和一一一年五 . 月結成 ) を経て国民協同党 ( 昭和一三年三月結成 ) となったのち、両者すなわち民主党の一部 ( 芦田 派 ) と国協党が主勢力となって国民民主党が結成され ( 昭和一一五年四月 ) 、これが二七年一一月、改 。「保守傍流」といわれるものである。 進党の結成を導いてい 「バカヤロー解散による総選挙に初当選した岸がいよいよ取り組むことになる「政界再 編」とは、戦後絶え間なく続いた以上のような保守政党同士の離合集散に終止符を打って自由 て党・改進党を主勢力とする保守新党をつくり、その保守新党が、やがて統合されるであろう社 会党中心の新党と拮抗するシステム、すなわち一一大政党制の実現を意味するものであった。 向 岸が二大政党制を主張する理由は、およそ次のようなところにある。すなわち共 集 結ニ大政党と 産主義に対抗しうる「強力な安定政権ーの確立である。しかもその政権は「総裁 小選挙区制 保 中心」ではなく、あくまで「政策中心」の政党を基礎に樹立されなければならな 章 い ( 『風声』創刊号 ) 。一一つの大政党がそれぞれ理念と政策の選択肢を国民に示し、議会政治の枠 第 のなかで国民がこれを選びとる、政権交代の政治システムが重要なのである。したがって彼が、 155

3. 岸信介 : 権勢の政治家

力が確保されたことを意味していた。 第三は、しかしこの選挙が政局連営のための安定多数をどの政党にも与えなかったというこ とである。議席の大幅増によって第一党に躍り出た与党の民主党でさえ、過半数には遠く及ば ず、したがってこのことは、たとえ第二次鳩山内閣が組織されたとしても、それまでと同様き わめて不安定な政治状況が続くことを予想させるものであった。 総選挙から一一〇日ほど経た三月一八日、鳩山は今度は自由党の支持を得て再び首 行き詰まっ 班に指名される。しかし前記三点から割り出される重要なポイントは、同内閣の た憲法改正 最大施策の一つとして打ち出された「憲法改正ーが、完全に行き詰まったという ことである。もっとも、この選挙を取り仕切った幹事長岸からすれば、憲法改正がそう簡単に て実現するとは考えていなかった。彼はいう。「憲法改正は私の政界における一貫した狙いだが、 そう容易にできるものとは思 0 ていなか 0 た。だからこの選挙で三分の二が取れるなんて考え 知ていなか。た。ただ憲法改正についてこの選挙で国民に理解を求め、国民を啓蒙するというこ 守とはもちろん考えていた」 ( 岸インタビ、 保 岸にとって憲法改正は、「保守勢力を結集して、その安定政権の上にやるべきもの」である 章 ( 同前 ) 。鳩山内閣が、以後この改憲構想を引っ込めて、もう一つの最大施策「日ソ国交回復ー 第 に専念するに至るのは、こうした事情があったからである。 167

4. 岸信介 : 権勢の政治家

安心した。ところで、鳩山君は病身だからいっ故障が起こるかわからん。そういう場合に 混乱が生じないように、私も ( 総理をやる ) 心構えをしていなければならない。ついては、その 場合一番大事な問題は外交だ。外相を君 ( 岸 ) にやってもらうのが一番よいと思う』」 ( 同前 ) 。緒 方が永眠したのは、それからわずか三週間後であった。 緒方亡きあと、岸が密かに期待したのは、鳩山から政権を禅譲されることであった。しかし、 日ソ共同宣一一一口 ( 昭和三一年一〇月一九日調印 ) による「日ソ国交回復」と引き換えに、みずからの 政治生命を終えようとしていた鳩山には、岸を後継首班に推すほどの余力はなかった。岸の後 ろ楯となってきた三木武吉がすでにこの世になかったことも ( 昭和一二一年七月死亡 ) 、政権獲得を 狙う岸には大きな痛手であった。 自民党第一一代総裁選出のための選挙が行なわれたのは、日ソ共同宣言の調印から二カ月後の 一二月一四日である。保守合同の完成からちょうど一年が過ぎていた。 党所属の衆 ( 二九七名 ) 、参 ( 一一一四名 ) 両院議員計四一一一名、地方代議員九一一名から 石橋内閣と なる総計五一三名の過半数を獲得するための総裁選挙は、結局、石橋湛山、石井 その崩壊 光次郎、岸信介の三者によって争われることになる。第一回投票で岸 ( 一三三票 ) は、下馬評通り、石橋 ( 一五一票 ) 、石井 ( 一三七票 ) を抑えて第一位となるが、過半数には至らな かった。決戦投票では石橋、石井のいわゆる「二、三位連合」によって、石橋 ( 二五八票 ) が岸 182

5. 岸信介 : 権勢の政治家

中ソ国交回復ーをもって、吉田の「改憲慎重ー論には、「憲法改正」論をもって対抗するとい った具合である。すなわち「独立の完成ーの具体化であった。 「対中ソ国交回復ーと「憲法改正ーがそのまま総選挙の争点になったことはいうまでもない。 とりわけ「憲法改正」の問題提起は、両社会党を強く刺激する。両社会党は鳩山内閣の「憲法 改正」が再軍備と徴兵制を導くとしてこれを厳しく批判し、「改憲阻止」の旗印は、この選挙 を有利に闘う格好のスローガンとなる。戦後一〇年目のこの総選挙は、「憲法改正」を挟んで 戦後最初の保革対立という構図を呈したといえよう。 一一月一一七日に行われた総選挙の結果は、国民の意思をかなり特徴的に示していた。 国民の意思 第一は、結成されたばかりの日本民主党が獲得議席数において自由党を大きく上 回ったということである。民主党が解散時の一二四議席から一八五議席へと勢力拡大し、自由 党が解散時の一八〇議席から一一一一議席へと凋落したことは、鳩山新政権が、被占領体制を支 えてきた「吉田自由党」を後方に退けて勝利を収めた、ということを意味していた。 第二は、社会主義勢力の大幅な議席増である。右社が解散時の六一議席から六七議席へと微 増にとどまったものの、左社が解散時の七四議席から八九議席へと躍進したことによって、社 会党は戦後初めて全議席 ( 四六七議席 ) の三分の一を確保したのである。このことは、労農党 ( 四 議席 ) や共産党 ( 二議席 ) の議席を加算するとなおのこと、憲法改正の発議を否決するに十分な勢 166

6. 岸信介 : 権勢の政治家

ひでゆき 郎 ( 元蔵相 ) 、三浦一雄 ( 元農林次官 ) など多くの友人に立候補を勧誘し、川島正次郎、三好英之な ど戦後一貫して岸の側近となる人々とこの時点で緊密な連携をとったのも、こうした岸の特徴 を典型的に示している。 ありまよりやす かやおきのり 選挙区の山口には、賀屋興宣 ( 蔵相 ) 、有馬頼寧 ( 元農林相 ) 、吉野信次 ( 元商工相 ) 、久米正雄 ( 作 家 ) 、藤山愛一郎など中央各界の大物たちが、大挙して応援に駆けつけた。政治家岸信介の巨 大な人脈をいまさらながら誇示するものであ。た。三万票の最高得票で当選した岸は、この選 挙によって「余の官僚生活に終止符を打ち政治家として出発するに付き、強き自信を持っこと が出来た」 ( 同前 ) と巣鴨で回想している。 政治家岸信介に関して最も注目すべきことの一つは、敗戦直前すなわち昭和一九年 「岸新党」 から二〇年にかけて活性化した、いわゆる「岸新党ーの動きである。 て 東条首相は、翼賛選挙直後の一七年五月、「政事結社ーとしての翼賛政治会 ( 翼政会 ) を結成 率 を して一国一党体制を築くが、しかし一国一党体制は、本来分断されるべき各種思想・利益集団 制 時が強力な権力によって無理に東ねられているという一面をもつ。「強力な権力ーがそうでなく 戦 なるとき、この一国一党体制が崩れるのは理の当然である。 章 東条の強権内閣が瓦解したことは、まさにこの理屈を証明するものであった。東条政権の後 第 継として小磯国昭内閣が誕生したのは一九年七月であるが、それから七カ月後の一一〇年一一月、 ~ 、に . お 103

7. 岸信介 : 権勢の政治家

東条内閣はこの有利な情勢を駆って、いわば翼賛議会体制確立のために総選挙を実施すること になる。もちろん「議会選挙ーとは名ばかりで、当選者の大半は、結局政府の息のかか。たも ので占められた。つまり、政府が組織した翼賛政治体制協議会 ( 阿部信行会長 ) なるものによっ て候補者が推薦され、これら推薦候補者は選挙資金をはじめとするあらゆる便宜を政府から与 えられるという仕組みである。 一方、非推薦候補にたいする政府の弾圧は厳しく、なかには無産党系の現職議員のように、 立候補そのものの断念に追い込まれるものも多くいた。当選者の内訳が推薦候補三八一名、非 推薦候補八五名、すなわち前者が圧勝したその背景には、こうした事情があったのである。 ひろや さて、この翼賛選挙に閣僚のまま推薦候補として立ったのが、岸と井野碩哉 ( 農林大臣 ) の二 人である。岸の立候補意欲がきわめて強かったことは、彼の巣鴨時代の手記 ( 「断想録」 ) をみれ ばよくわかる。この手記によれば、岸は東条首相に直接立候補の意思を伝え、「若し首相が閣 まま 僚が現職の儘立候補することを欲しないならば商相の地位を去っても立候補したき念願であ る」と訴えている。戦争遂行のための政治カ結集を図るにはみずから政治家として立たねばな らないこと、したがって衆議院に議席をもっことは「数年来の念願ーであったことを、岸はの ちに回想している。 岸の行動の特徴は、目的を定めるや時を移さず同志、手勢を糾合することである。石渡荘太 いしわた

8. 岸信介 : 権勢の政治家

日本民主党結成から一カ月を経ずして吉田内閣は瓦解した。一一九年一一一月七日であ 吉田からる。、鋼七年二川に・・材だ、を斑 - 椡描ば・、桂太郎内閣 ( 七年一〇カ月 ) 、伊藤博文内 鳩山へ 閣 ( 七年五カ月 ) に次ぐ長寿記録である。民主党、左右社会党の野党三派による内閣 不信任案可決が確実とされた同日、吉田は、それまで強く固執していた「解散ーを諦めてつい に総辞職し、同時に自由党総裁をも辞したのである。 かくて後継首相に就いたのが日本民主党総裁曲」・・郎であ。一二月九日、国会で鳩山と自 由党新総裁緒方とが首班指名を争い、左右社会党の支持を得た鳩山が首相の座を獲得すること になる。民主党および両社会党の三党共同声明が、「昭和三〇年三月上旬までに衆議院議員の 総選挙を完了する」として早期解散を確認していることは、両社会党が鳩山内閣をあくまで選挙 て管理内閣としてしか認めていないことを物語。ていた。ともあれ、昭和二一年五月、首相就任 を目前にして追放処分となり、追放解除 ( 昭和一一六年八月六日 ) の一一カ月前、つまり政治活動を再 知開しようとしていた矢先に脳溢血で倒れ、それから三年四カ月、病身を押して吉田からの政権 守奪還に執念を燃やしてきた鳩山は、ここにきてついに戦後六人目の総理大臣とな。たのである。 保 「三月上旬」までに実施される総選挙を前にして、首相鳩山の立居振舞いはすべて吉田の反 章 対であった。「ワンマン」と称された吉田の権威主義にたいして、鳩山はっとめて「庶民宰相」 第 を演出し、一種の鳩山プームを巻き起こした。その政策も、吉田の「対米追従外交」には「対 165

9. 岸信介 : 権勢の政治家

岸が昭和一一三年一二月二四日、三年三カ月ぶりに獄窓を出て真「先に目指したの 吉田政治の は、永田町の官房長官公邸であ。た。実弟佐藤栄作の居宅である。前運輸次官佐 本格的始動 藤は、二カ月前に発足した第一一次吉田内閣 ( 昭和一一三年一〇月ー二四年一一月 ) の官房 長官に抜擢されるが、岸が囚人服を脱ぎ捨てて娑婆への第一歩を印したその行き先が、首相官 邸の近くに立っ官房長官公邸であ。たというのはいかにも興味深い風景ではある。岸が以後一 〇年を経ずして今度は官房長官公邸どころか首相官邸そのものの主人におさま。てしまうとい う、いま一つの光景をこれに重ねてみるとき、われわれは歴史の巧まざる妙を感じないわけに もー刀 / も 岸が官房長官公邸に転がり込んだその日は、奇しくも政権与党の民自党 ( 民主自由党 ) が臨時 党大会を開いた日でもあ。た。次期総選挙の告一小を三日後 ( 一二月二七日 ) に控えて、同大会は 吉田総裁出席のもとに大会宣言、選挙スローガン、緊急政策等々を採択し、第一次公認候補一一 六〇余名を発表している。 一カ月後の翌二四年一月二三日に実施されたこの総選挙で、民自党は解散当時の勢力分布 ( 一五二議席 ) を大きく上回「て二六四議席 ( 全議席四六六 ) の過半数を獲得した。戦後初の絶対多 数党政権がここに誕生するのである。第三次吉田内閣、すなわち吉田政治の本格的な始動であ る。いわゆる「保守永久政権ーを固めたその画期でもあ。た。アメリカ占領下にあ。て日本の 146

10. 岸信介 : 権勢の政治家

三九議席から三五議席へと伸び悩む。同選挙における保守勢力全体の退潮は明らかであった。 第五次吉田内閣が単独少数党政権として成立したのは、この総選挙から一カ月後の一一八年五 月一一一日である。「吉田下野ー論が強まるなか、ようやく成立した内閣である。衆議院首班指 名選挙 ( 五月一九日 ) における第一回投票で過半数を得られなかった吉田は、改進党総裁重光と の決戦投票では、両派社会党の棄権に助けられて辛くも首班指名を獲得することになる。政局 不安は早くも深刻であった。 少数与党の第五次内閣を発足させたあと、吉田が多数派工作の標的にしたのは、まずは分自 党である。とりわけ同党党首鳩山への復党工作は、鳩山の姻戚石橋正一一郎 9 リヂストンタイヤ 社長 ) や親鳩山の安藤正純 ( 国務相 ) らが中心になって激しさを加えていく。そして、ついに一 月一七日の吉田・鳩山会談 ~ こよって「鳩山復党」はほば決定的なものとなる。吉田からの政権 譲渡を期待する鳩山と、この鳩山の胸中を見透かしながらこれへの「了解」をちらっかせる吉 田との危うい接点の上に「鳩山復党ーが成立したのである。鳩山を含む一一三名の分自党議員が ぶきち 三木武吉ら八名を残して自由党に帰るのは、それから一二日後の一一月二九日であった。 こうした経緯のなか、岸がかなり頻繁に接触したのは、リ念 一。田理緒方竹虎である。少 ″岸派″の 数党政権の行く末に強い危機感を抱いていた緒方は、この当面の課題すなわち「分 母体 自党復党」問題もさることながら「保守再編」を射程に置くという点では、立場の 158