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検索対象: 植民地残酷物語 : 白人優越意識を解き明かす
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1. 植民地残酷物語 : 白人優越意識を解き明かす

る決定をした。「一九一九年統治法」では、一〇年後の一九二九年に委員会が任命されること になっていたが、これを二年前倒ししたのである。委員の中にインド人は一人も加わっていな かった。言って ( 憲法にあたる基本法の に、インド側には一言の発一言権も許されなかっ たのである。イギリス製インド憲法を押し付けられることは、民族的屈辱以外の何ものでもな く、全インドには激の嵐が巻き起こった。 長らく対立してきたヒンズ 1 教徒とイスラム教徒の間には、これを契機に、統一戦線結成の 機運が高まり、委員会ポイコットで足並みを揃えることとなった。労働組合活動や青年運動も ポイコットに同調した。 一九二八年二月に七人の委員がインドに到着すると、反対運動は一段と高まり、イギリス製 品の徹底した不買運動やストライキが続発した。こうした動きに対して、植民地政府は血なま ぐさい弾圧を開始した。警官はデモ隊を容赦なく襲撃した。 これに先立つ一九二七年一二月に開かれた会議派のマドラス大会では、インドの「完全独立」 を目標とする旨の決議が採択され、同時に自分たちの憲法はインド人自身で作るべきだとの認 識のもとに、サイモン委員会のポイコットとインド人による憲法作成のための全政党協議会の 招集が決議された。 134

2. 植民地残酷物語 : 白人優越意識を解き明かす

争戦術を編み出し、政治闘争を指導するようになった。 ガンジ 1 が長年にわたる南アフリカ滞在の後、帰国したのは第一次世界大戦勃発後の 一九一五年、彼が四五歳の時であった。 彼は英雄的存在として、その名声は知れ渡り、帰国時には盛大な歓迎会も催されたが、帰国 後しばらくの間は独り全国を歩き回り、多くの民衆と接することに努め、民衆の闘いに加わる ようになったのは一九一七年頃からのことであった。 一九一九年、インド人の戦争協力にも拘わらす、政治活動への弾圧を続けるイギリスに抗議 して、ガンジーは全国的にハルタール ( Harta 一 ) を呼びかけた。ハルタールとは店を閉めて断 食をし、身を清めて祈りを捧げる行為であり、本来は喪に服するために守られてきた行事であっ た。この手法を採用して、商店や工場などの一斉休業という闘争に出たのである。 ところが、この運動が全国に飛び火している最中、北インドのアムリットサルで前代未聞の 虐殺事件が起きた。一九一九年四月一三日、弾圧政治に抗議して二万人の市民が小さな公園で 集会を開いている最中、突然イギリス軍は丸腰の市民に向けて、無差別の発砲を行ったのであ る。その結果、死者三七九人、負傷者千一三七人 ( この数字は政府側の調査委員会の報告によ るものであるが、会議派の調査では死者千二〇〇人、負傷者三千六〇〇人 ) という大惨事となっ 130

3. 植民地残酷物語 : 白人優越意識を解き明かす

サンフランシスコに着いてはみたれど英語を知らずちんぶんかんぶんで しゆく シカゴにニューヨーク、ボストンなんぞと宿送り 日本人のお世話になってイギリス渡りや ロンドン見物している最中にとうとう首尾よく迷子になって 巡査は支那の公使館に連れて行く いずこの国でもすることなすこと話の種となり そのくせ日本に帰りや知らぬ顔 わがはい 「ウイルソンにクレマンソーはみんな我輩のフレンドじゃーなんぞと ぐいっと反り身になってステッキを振り回す 浮かれ浮かれて恐ろしゃ 徳富蘇峰は、鎖国状態から一転して開国という急激な変化の中で、日本人が陥ったこのよう な様子を次のように記している。 196

4. 植民地残酷物語 : 白人優越意識を解き明かす

8 《第三章》台人優越意識 ・白人優越意識の由来 2 ・優越意識を裏書きする具体的事例 ①リンカーン大統領の差別意識 ②日本人移民の排除 ③ケニアの独立 ④トロカデロ広場での出来事 3 ・日本近代史に見る白人優越意識 い各国公使の驕慢無礼 ②ノルマントン号沈没事件 ③コレラの蔓延 ④ニコライニ世の発想 ⑤葬り去られた人種差別撤廃提案 ⑥大東亜戦争の真の原因も白人優越意識 ⑦チャーチル首相の関心 〈そもそもの元凶はイギリスの統治〉 193 187

5. 植民地残酷物語 : 白人優越意識を解き明かす

やがて、アジア一帯に猛然と勢力を伸ばしてきたのは蒙古軍であり、中国全土を支配下に治 めて元帝国 ( 一二七一 5 一三 , ハ八年 ) を興した。 ハガン王国も元朝初代皇帝フビライの軍勢に蹂躙され、一二八七年にはついに王都バガンが 制圧された。これはバガン王国に痛撃を与え、王国の存立は風前の灯となった。その後もしば らくの期間、王朝は存続し続けたものの、一三一二年、名目だけの王として玉座にあったソー ニット王を最後にバガン王朝は三世紀近く続いた歴史の幕を閉じ、名実ともに終焉を迎えた。 この後、ミャンマ 1 はタウングー王朝、コンバウン王朝に引き継がれて行くこととなるが、 一八八六年にイギリスの植民地にされてしまう宿命になっていたのである。

6. 植民地残酷物語 : 白人優越意識を解き明かす

《第四章》他国に類例を見ない日本の統治形態 ・日本の国体ー徳をもって治める 2 ・平和志向の国柄 1 舌し合いによって国が統合された ⑦日本は征服欲で海外に侵攻したことはない ③秀吉の朝鮮出兵 ④日本は民間人を攻撃の対象にしない ⑤近代史における軍部主導の動きー平和志向の合理主義は沈黙させられたー 3 ・日本のアイデンティティー い日本の立ち位置 ②日本の中身 ⑧日本軍が目撃したインド兵の地獄絵 ⑨原爆投下をめぐるアメリカの身勝手な言い分 g 連合国側の戦争犯罪 ⑩ビルマのイギリス軍捕虜収容所での一幕 契約案にも色濃く残る白人優越意識 251 241

7. 植民地残酷物語 : 白人優越意識を解き明かす

他国では多くの場合、強い王が武力でほかの国を征服する。そしてその国の宗教や伝統や言 葉まで消し去って、自国の宗教、文化、言語を押し付ける。そうするとやがてその国もまた、 別の国によって滅ばされてしまう、ということを繰り返してきた。これに対して日本で天皇制 が長く続いてきたのは、天皇がこのように徳によって国を治めてきたからなのである。 である日米修好通商条約に調印し、続いてオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の 条約を結んだ。この屈辱的な条約を幕府が独断で結んだ時、明治天皇の父でおられる孝明天皇 は国の将来を憂慮し、自分はどうなっても、 しいか、国民を不幸にさせるようなことがあっては ならない 、と次の御製を詠んだ。 明治天皇も次の御製を残している。 「澄ましえぬ水にわが身は沈むともにごしはせじなよろず国民 「罪あらば我を咎めよ天っ神民はわが身の産みし子なれば」 くにたみ 248

8. 植民地残酷物語 : 白人優越意識を解き明かす

「然るに彼の自国に還るや、彼は極東派遣の一外交官たる以上の待遇に預る能はざりし也。 たまた 偶ま我が官吏の英国にあるもの、彼が日本弁慶、英国処女の二重情態を見て、始めて彼の 鼎の軽重を知り得たるものありしと云う。然も英国に於ては猫の如きパークスも再び日本 に来れば、亦た虎の如かりし也。ー ( 徳富蘇峰著前掲書 ) ノルマントン号沈没事件 ークスのこのような「内弁慶」ならぬ「外弁慶」ぶりから見ても、彼が「外」では如何に てんきよういん 斯る挙動を敢てせん乎、彼は狂人として、癲狂院 ( 精神病院 ) に送らるるの外なからむ」 ( 徳 富蘇峰著前掲書 ) 。 このような傍若無人の振る舞いを常としたパークスではあったが、明治新政府は彼を無二の 相談相手として丁重に扱ったので、彼はますます付け上がるばかりであった。 ところが彼は、明治三 ( 一八七〇 ) 年四月に離任して、イギリスに戻った。その後の彼の様 子については、蘇峰が次のように記している 202

9. 植民地残酷物語 : 白人優越意識を解き明かす

ミャンマー政府の広報資料は、この点について次のように明記している 「ミャンマーの国家的英雄であるアウン・サン将軍とその閣僚らは、一九四七年に植民地 政府の共謀のもとに殺害された。これはミャンマーの歴史の中で、国に最も大きなダメー ジを与えるできごとであった。ー ( ミャンマー国防戦略研究所発行『ミャンマーの政治情勢 及び地域における役割』 ) しかし幸いにしてアトリ 1 首相は事件につけこんで、反動勢力が期待したような行動に出る ことはなく、事件後、直ちにウ・ヌーに新しい内閣の組閣を要請した。つまり反動勢力の思惑 通りに事は進まなかったのである この事件によってミャンマーはかけがえのない人物を三二歳・の若ざで失い、大きな痛手を 蒙った。これ以来、事件が起きた七月一九日は「殉難の日として国民の祝日となっており、 毎年官民をあげて殉難者に弔意を表している。そして事件の背後にあるイギリスの存在を誰し も疑わす、外国勢力と結託する者への反感は人々の心に一段と根深く宿ることとなったのであ る。 0 0 162

10. 植民地残酷物語 : 白人優越意識を解き明かす

いよ腹を固めた。やがて中国大陸がスペインに征服された暁には、日本はスペインと明の連合 軍と対峙しなければならなくなる。スペインの動向を察知してこの危険を見抜いていた秀吉は、 できるだけ早く行動を起こさねばならぬと考えた。それには日本が単独で動くしかなかったの である。 スペインの世界制覇の野望は、 , 一 , , 五、 ノノにス。イ・ン、の - 無・敵艘隊・が・イ・ギ・リ・・ス・に・敗 - れた、」・とで 大きく後退した。これに代わってイギリス「 - ランダいう新興植民地主義国が頭角を現し、 その方針も宗教を抜きにした経済支配の傾向にとって代わられることになった。しかしトルデ シリャス条約によって、スペインとポルトガルが描いた世界を支配する夢は簡単に消えるもの まっ ではなかった。祭壇に武器を祀ったイエズス会を尖兵とする彼らの動きには、少なくとも一七 世紀初めまでは油断がならなかったのである。 そこで秀吉は天正一五 ( 一五八七 ) 年、バテレン追放令を出しリシタ、を弾圧し、 と処刑を行った。見せしめにキリシタン大名高山右近の追放処分も行った。 スペインの政治的な動きの意味を理解していたからこそ、秀吉はこの果断な措置に出たので 264