《第四章》他国に類例を見ない日本の統治形態 ・日本の国体ー徳をもって治める 2 ・平和志向の国柄 1 舌し合いによって国が統合された ⑦日本は征服欲で海外に侵攻したことはない ③秀吉の朝鮮出兵 ④日本は民間人を攻撃の対象にしない ⑤近代史における軍部主導の動きー平和志向の合理主義は沈黙させられたー 3 ・日本のアイデンティティー い日本の立ち位置 ②日本の中身 ⑧日本軍が目撃したインド兵の地獄絵 ⑨原爆投下をめぐるアメリカの身勝手な言い分 g 連合国側の戦争犯罪 ⑩ビルマのイギリス軍捕虜収容所での一幕 契約案にも色濃く残る白人優越意識 251 241
ー第五章ー海外での日本の統治 ナ問題を軍部と協力して解決することを約東し、事変を積極的に推進するようになった。 こうして関東軍は一九三二年二月初め頃にはほば満州全土を占領し、三月一日、満州国の建 国が宣言された。国家元首にあたる「執政」には、愛新覚羅溥儀が就いた。そして同年六月 一四日、衆議院本会議において、満州国承認決議案が全会一致で可決された。 た , 少、う この後、一九三三 ( 昭和八 ) 年五月二一日には日中間で轗停戦協定が結ばれ、非武装地帯 が設定されて、関東軍、中国軍の双方が撤退した。この撼沽協定で、中国は事実上、満州国を 承認したことになるのである ( 国際法上の黙示の承認 ) 。 これに先立ち、一九三二年三月、中華民国の提訴と日本の提案により、連盟からリットン調 査団が派遣され、三か月にわたり満州を調査し、九月に報告書を提出した。この報告書は、満 州国の維持は否認するものの、中国が要求する原状回復も認めないとしつつ、満州に自治を許 す内容となっており、しかも日本が満州にもっ条約上の権益、居住権、商権は尊重されるべき であるとしていた。このように報告書は、日本にとって「名を捨てて実をとる」ことを公的に 許す内容であったにも拘わらず、日本は報告書の公表前に満州国を承認し、「満州国が国際的 な承認を得る。という一点だけは譲れないとして、報告書に反発した。 たんく - っ 3 引
義的に一歩前進しようとした。しかし満州事変を転機として、軍のファシズム的政治の下に自 」・乢も義的な流れは沈黙せしめられた。こうした動きの裏には、共産主義の策動もあ 0 たと推察 される。 そして大東亜戦争に突入してしまい、敗戦後は占領軍の指導の下に、状況は一八〇度反転し、 民主主義国としての日本が形成されたのである。 日本のアイデンティティー 日本の統治の本質は如何なるものであるのかについて述べてきたが、ここで万世一系の天皇 をいただく日本のアイデンティティーについて、改めて考察してみたい。 既述の通り、嘗ては個性豊かな国として知られていた日本が、近年においては、「日本は不 可解な国ーだとか「顔の見えない日本人ーなどと言われるようになり、国の個性喪失の危機が 叫ばれている。 なせそうなったのか。それは戦後における日本人の国家意識の低落の中で、国家存立の基礎 となる国のアイデンティティーを、われわれが明確に意識し、世界にこれを明示することをし 276
ー第四章ー他国に類例を見ない日本の統治形態 「たしかに日本の軍隊には暗いところもたくさんあった。戦後になってそれをいやという ほど聞かされた。しかし、いま多くの人々は、戦争の悪と軍人の悪とを混同しているよう に思われる。また、その末期の症状を日本軍の本来の姿と考えているような気がする。外 地ではたくさんの残虐行為もしただろう。しかしそれはおおむね戦地の興奮ゃあてのな いひさしい駐屯で精神のバランスを失ったり、また相手がゲリラ戦闘員と非戦闘員の区別 かっかなかったりして、おこったことだった。すくなくともナチスのしたようなことは まったくなかった。あのような冷酷な計算による悪魔的所業はなかった。」 ( 竹山道雄著『昭 和の精神史』福武書店 ) 以上の結論として、明治維新以来の日本の歴史の流れを総括すると、維新後の日本には、早 この流れは主として民間 い時期から自由主義もしくは民主主義の流れがなかった訳ではない。 において認められた。しかしそれに並行して、強力な国家主義の流れが存在し、これは主とし て政府と軍がその主体となり、この二つの流れのせめぎ合いが日本の近代史を形作った。 やがて第一次世界大戦後に至り、政府と民間との二つの流れが合流して軍に対抗し、民主主 275
ー第三章ー白人優越意識 チャーチルが常に気にしていたのは、アメリカの出方であった。イギリスにとって、ナチス・ ドイツから自国を守るためには、アメリカの援助が必要不可欠だった。アメリカの戦争への全 面的介入がなければ、ヒットラーを倒せる見込みはなかった。そこで、チャーチルは暫定協定 案によって、アメリカが対日参戦から遠のくことを望まなかったのである 一九四二年一〇月、チャーチルはアントニー・イ 1 デン外相に宛てて、「正直にいって、もっ ばらヨーロッパ 近代国家と文明を生んだヨーロッパ大陸ーーーの栄光復活のことしか私の頭 にはない」と書いている。さらに、彼はアジアのことを「あの野蛮な地」といって閣僚たちを びつくりさせたりしているのである ここでも「白人優越意識」に裏打ちされた発想がありありと見てとれる。 ⑧日本軍が目撃したインド兵の地獄絵 大東亜戦争でイギリス軍と交戦した日本軍は、イギリス軍として狩り出されていたインド兵 が、上官によって極めて非人間的な扱いを受けている場面を目撃し、衝撃を受けた。イギリス 植民地であったマレー半島やビルマで、イギリス軍はインド兵を鎖で繋いで、否応なしに戦わ せていたのである。 219
かくて日本が満州での地歩を築いた状況下において、馬賊出身の張作霖は、日露戦争で日本 に協力したため、その庇護を受け、日本の関東軍 ( 注 ) による支援の下、満州での実効支配を 確立し、有力な軍閥指導者にのしあがった。ところが彼は野心家で、中国本土への進出の野望 を逞しくし、この野望実現のための行動を起こすようになったが、それでも日本との良好な関 係は保っていた。 ( 注 ) ここで意味する関東とは、万里の長城の東端とされた山海関の東側、つまり満州全体を意味しており、日本の関東地方とは関 係ない。関東軍は中華民国からの日本の租借地であった関東州 ( 遼東半島先端 ) の守備、及び南満州鉄道付属地警備を目的と した守備隊として始まり、徐々に機能を拡大させて、満州駐留の大日本帝国陸軍部隊を指す呼称となった。 しかしその後、欧米 ( イギリス、フランス、ドイツ、アメリカなど ) の支援を得つつあった 蒋介石の向こうを張って、張作霖も欧米寄りの姿勢に転じるようになり、日本依存を低下させ るばかりか、反日的態度をとるようになった。その結果、権益の拡大を策していた欧米、特に 大陸進出に出遅れていたアメリカが張作霖を積極的に支援した。こうしてライバルたちを倒し た張作霖は、一九二六年一一一月、奉天派と呼ばれる配下の部隊を率いて北京に入城し、大元帥 への就任を宣言して、自らが「中華民国の主権者となる」と発表した。そこで彼は一段と反共・ 324
ー第五章ー海外での日本の統治 想が異なっていた。欧米人の植民地経営は、自分たち本国の国民だけが良ければいいのであっ て、植民地は搾取の対象でしかなかった。欧米人は現地の人たちの安寧や福利を図ることなど 念頭になく、植民地に学校を作って教育を受けさせることもしなかった。彼らはただただ原住 民を牛馬のように酷使して、そこでの生産物を自国に持ち帰ったり、そこに本国産品を売りつ けたりして、自分たちだけが潤っていたのである。 しかし日本人は歴史上初めて海外に統治領域を拡大した際、どの土地も日本のようないい国 にしようとし、そこの住民を対等に扱った。現地の人を日本人化しようとして行った施策は、 時にやり方がまずかったために摩擦を起こしたこともあったが、あくまでも日本の統治はこれ らの土地を日本のように近代化しようとした善意の発想に基づくものであったのである。 このような発想の当然の帰結として、日本は海外領民の軍事利用には消極的であった。 イギリスは第二次世界大戦中に三〇〇万人を超えるインド人兵士を動員し、フランスやアメ リカも同様に植民地人を動員した。これらの植民地人は兵士として前戦に動員されたが、将官 に栄達するケースは皆無と言ってよい状況であった。 これに対し、日本政府は李氏朝鮮の時代から朝鮮人にも日本軍の幹部を養成する陸軍幼年 学校や陸軍士官学校への入学を許可したので、日本軍の将官になった朝鮮人も多かった。 287
ー第五章ー海外での日本の統治 言え、突如として自分たちの居住地が割譲され、国籍が日本になると知らされた住民たちは動 揺した。 中でも台湾に住む清朝の役人と中国系移民の一部が清朝のやり口に反発して、一八九五年五 月二五日、「台湾民主国」を建国し、日本への割譲に抵抗した。しかし日本軍が台北への進軍 を開始すると、傭兵を主体とする台湾民主国軍は民衆の支持を得られすに、あえなく瓦解した。 その後台南では暫く抵抗が続けられたが、これも日本軍が南下して鎮圧し、「台湾民主国」は ことごとく姿を消した。 ところがその後も抗日武装運動はさまざまな形で散発的に続き、これに武断政治をもって対 処するという強硬な統治は一九一五年まで続けられた。 しかし日本は高圧的な統治と並行して、民生政策を充実させる硬軟両様の措置を講じたので、 一般民衆は抗日活動を傍観するにとどまり、民衆蜂起に結びつくような事態を迎えることはな かった。それと言うのも、抗日活動は台湾を制圧して清朝への再帰属を目指しており、台湾人 としての自覚よりは、清朝との関係の中で発生した武力闘争に過ぎなかったのである。 台湾統治の方法としては、当初の時期には台湾に日本国内の内地法を適用せす、別個の特殊 な方式によって統治した。特別統治主義に基づく政策である。この間、台湾総督には「特別立 295
ー第四章ー他国に類例を見ない日本の統治形態 まり、真の協力関係を築くことができる。そうせずに、これまでのようにアメリカに付き従っ ているのでは、アメリカとしては好都合なので、日本の首相が訪米すれば、「愛い奴じゃ」と ばかりに大統領からお世辞の一つも言われるであろうが、心の底では日本の首相など「なんと 自主性のない政治家か」と馬鹿にされているのである。そんなことも分からすに、日本の首相 かアメリカに頭を撫でられて、気を良くしているようでは情ない。 日本の識者の中には「ハンディキャップ国家論」なる見解を唱える者がいる。この論者は、 日本は「普通の国ーではないのだと見ており、日本という国は「普通の国ーになると必ずや軍 部や軍事力が突出する危険な国になると危惧している。彼らは軍事に関するすべてを否定する というアレルギ 1 に冒されており、「日本は今は平和主義に見えても、ひとたび枷が外れれば、 なだれ 雪崩を打って軍国主義に走りかねないーと考える日本人不信論と結びついている 一三卩 二良である。彼は一九九四年のノーベル文学賞受賞スピーチ で「日本が国連平和維持活動に参加すべきだという声を聞くたびに、私の心は沈んでしまう」 と述べ、日本が危険な道を歩もうとしているとのメッセ 1 ジを世界に発信した。これに先立っ 九二年に日本政府は法案を成立させていたのである。また大江は別の機会に、将来の かせ 279
ー第五章ー海外での日本の統治 反日的な姿勢をとりつつ、欧米と結ぶ路線を明確に打ち出し、欧米資本を引き込んで南満州鉄 道に対抗する鉄道路線網を建設しようとするまでになり、南満州鉄道と関東軍の権益を損なう ことになった。 他方の蒋介石は一九二八年四月、欧米の支援を得て、再度の北伐に乗り出した。当時の中華 民国では民族意識が高揚し、反日暴動が多発していたが、こうした状況下において、蒋介石は「山 海関以東 ( 満州 ) には侵攻しないーとの言質を与えていたので、日本は国民党を好意的に見る ようになり、関東軍の意向に従わなくなった張作霖は日本にとって邪魔な存在となってきたの である。 2 張作霖爆殺事件 このような事態に日本はどう対処すべきかにつき、この時点での日本側の見解は分かれてい た。時の首相田中義一は、かねてより張作霖を見知っており、「この人物には利用価値がある ので東三省に戻して再起させる」という方針を打ち出していた。 ところが関東軍は、軍閥を通した間接統治には限界があると見て、社会インフラを整備しつ つ、傀儡政権による統治、つまり満州国建国を画策し、「張作霖の東三省復帰はその障害になる」 325