ー第二章ー支配・搾取型の統治 意的に選ばれた者たちであった。総督が選んだインド側の代表には、ヒンズー教、イスラム教、 キリスト教、シーク教などの利害を担った顔ぶれが揃えられていたので、会議は混乱し、事実 上決裂して失敗に終わった。これは代表者選定の段階から仕組まれていた筋書きによる茶番劇 であり、果たせるかな、インド人はまたしてもイギリス流「分割統治」の策謀にまんまとはめ られてしまったのである。 しかもこの会議のためにガンジーがイキリスに行っている不在期間を利用して、インドにお いては、民族的な闘争に対する徹底した弾厂リ化の体制が敷かれていた。 ヘンガル州では「非常事態条例ーが 民衆の闘いが激しく行われていた北西辺境州、連合州、、 発令され、おびただしい数の逮捕者を出していた。一九三一年一二月二八日に帰国したガンジー は、直ちに総督に会見を申し入れたが、この申し入れは無視された。 そこで会議派運営委員会は一九三二年一月一日に「植民地政府と協力しないー方針を打ち出 し、一月四日から市民的不服従運動を再開したところ、ガンジーはすぐさま逮捕された。 逮捕状なしの逮捕・拘留、会議派の建物・資金・財産などの没収、一定区域内への立ち入り 禁止などを定めた弾圧法規や布告が相次いで出された。不法扇動条例、ポイコット防止条例、 不法結社条例なども施行された。会議派は再び非合法化され、有力メンバ 1 はことごとく捕ら 139
イギリスの支配が及んでくると、それまでのギリシャ系とトルコ系の平和共存という状況は 一変した。イギリスが両住民間の対立を煽る政策に転。オのである。その結果、ギリシャ正教 の教会ではキプロスをギリシャに併合すべしとする「エノシス」 (Enosis) の主張が説かれるよ うになり、「エノシスーを国民運動に高めることを狙った一般住民への働きかけが進められた。 ギリシャ系の学校では、生徒に反トルコ感情を叩きこむ教育が行われるようになった。 これはイギリスにとっては願ってもない好都合な事態である。植民地支配の手法として、分 割統治 (divide and rule) はまさにイギリスの得意技なのである。そこでイギリスは「エノ シスー運動に寛容であるばかりか、むしろこれを助長する態度で臨んだ。 こうして一九一四年のイギリスへの併合以降は、「エノシスー支持、反トルコ運動が激化の 一途を辿り、ギリシャへの併合に反対するトルコ系住民の抵抗には仮借なき弾圧が加えられた。 そしてっしし ( 、こよギリシャ系住民の戦闘的な地下組織「エオカー (EOKA) が組織されるに至った。 そのテロ活動が激化した一九五五 5 五八年の期間には、反「エノシス」の住民千二〇〇名が殺 害され、六千名ものトルコ系住民が三二に及ぶ自分たちの村を捨てて難民とならざるを得なく なった。 166
の飢饉で二千八五〇万人もの餓死者を出している。イギリスの植民地支配による収奪が進行す るにつれて、餓死者は急増しており、この趨勢は二〇世紀に入っても続いた 独立後の初代首相に就任したネールは、一九四三年に起きたべンガルの大飢饉について、次 のよ、つに記している 「 ( この大飢饉は ) 幾世代にもわたったイギリス支配のあげくにおける貧しさと醜さとそし て人間的堕落の全貌をさらけ出してみせた。それがインドにおけるイギリス支配の行き着 いた頂点であり、結実であった」 ( ジャワハルラール・ネール著『インドの発見』岩波書店」 ) そこで、まずイギリスがこの国を植民地にした過程カら振り返ってみたい。 〈植民地化推進の経緯〉 イギリスのインド進出は、一六〇〇年にエリザベス女王の勅許状を下賜された東インド会社 が一六一二年に西海岸のスラートに最初の商館を開設したことをもって始まった。それ以降、 会社はどんどんとその地盤を拡大強化して行った。やがてこの会社は、会社とはいえ堅固な要 120
ー第二章ー支配・搾取型の統治 当時の表向きの説明では、首謀者はウ・ソーとされ、彼は捕らえられて、死刑になった。 ところがミャンマー人は誰一人として、ウ・ソーの背後にあるイギリスとの結びつきを疑う 者はいない。つまりウ・ソーは表面的には首謀者であっても、実はイギリスの反動勢力に踊ら されていたのである。ウ・ソーはイギリスの植民統治下で、三代目の首相になった人物であり、 アウン・サン将軍への対抗意識をもっていたことは事実である。しかし首相まで務めた人物が、 単に自分の野心のためだけに、このような件を起すことは考え それと言うのも、当時アトリー首相との間で進められた交渉により、ミャンマ 1 は英連邦に は入らずに、完全な主権国家として独立する手筈が整えられていたのである。植民宗主国の 権益を手放したがらないイギリスの反動勢力にとっては、これは面白くなかった。こうした反 動勢力によって想定された筋書きでは、「独立交渉の立役者であるアウン・サン将軍を亡き者 にし、ミャンマーが混乱に陥る機に乗じてイギリスは独立の約東を反故にし、代わりにイギリ スの意に適う人物を選んで内閣を組織させる。そしてこの内閣が法と秩序を維持するとの名目 のもとに、イギリスに好都合な措置を打ち出すーといった段取りが見込まれていたのである 哀れウ・ソーはこのような筋書きのもとに、将来のポストを約東されて、まんまと抱き込まれ てしまった。 炻 1
リスがファシズムに対抗して真に民主主義のために戦うのであれば、まず植民地支配をやめ、 インドに自由と民主主義を与えるべきであるとする声明を出した。 しかし、イギリス政府の回答は、「イギリスは戦争終結後、インドの各党、各派の代表と憲 法改正について協議する用意がある」というにとどまり、誠意を示すものではなかった。 会議派運営委員会は直ちにこれに反発し、戦争協力反対を表明するとともに、会議派が占め る八つの州内閣の総辞職を要請した。一九四〇年三月の会議派党大会では、反帝・反戦の内容 を盛り込んだ決議を採択し、イギリスの戦争目的への非協力とインドの完全独立を要求した。 同年七月の会議派全国委員会では、完全独立というインド側提示の条件につきイギリス側が 誠意ある態度を示すならば、参戦するとの態度を示した。 しかしこれに対するイギリスの反応は再度、会議派の要求からはほど遠いものであった。即 ち、戦後インドには独立ではなく自治領の地位を与えるとしながらも、「少数派の意見尊重」 という美名のもとに、コミュニティー間の合意が得られない限り、インド側に権力を移譲しな あら いとした。まさにイギリス流分割統治の手法を用いて、この国を分断する下心を顕わにしたの である。 この間、会議派とガンジ 1 との間には、意見の齟齬を来たすこともあり、必ずしも同一歩調 144
インド防衛法を制定し、これによってインド人の政治活動の自由を制限した。 こうした事態に対処して、それまでイギリスの分割統治政策によって、分裂・抗争に陥って いた国民会議派とムスリム同盟が一九一六年一一月に同団結して大会を開き、「自治政府実 現」で共同歩調をとることを確認した。この戦線統一によって、民族運動は一層はずみがっき、 ロシアの社会主義革叩の成功にも刺激されて、新しい盛り上がりを示した。 こうなるとイギリスはインドの協力を得るには、なんらかの手を打たざるを得なくなり、 一九一七年八月、インドに責任政府の漸進的実現による自治制度の導入を公約した。 こうしてイギリスは、世界大戦のさ中、形式的であれインドに自治を約東し、民族運動の動 きを一時、せきとめることに成功した。しかしイギリスに協力するのは民族自決のための戦い であると考え、勝利の暁には恩恵を受けるものと信じていたインド人の期待は、一九一八年の 晩秋に大戦の砲火が止むと、完全に裏切られた。 イギリスは公約を果たすと称して、一九一九年にインド統治法を制定した。この法律は立法・ 行政の面で、はじめて州に一定の権限を許容したが、支配権に関わる事項はすべてイギリスが 掌握し続けることとなっており、一種の懐柔策に、。 自、、制内容とするも のであった。加えて、戦時特別立法であったインド防衛法に代わる措置として、戦後、ロ 1 ラッ 128
き、事態の深刻さに気付いた。 彼らは反乱の鎮圧に手を焼き、多大の犠牲者を出したが、最新兵器で優るイギリス軍は援軍 の加勢も得て、なんとかこの事態に対処することができた。九月一九日、四か月持ちこたえた デリーの抵抗は遂に終焉を迎え、デリーは落城した。反乱に立ち上がった愛国者たちは一斉に 捕らえられ、その多くは処刑された。降伏した皇帝は裁判にかけられた上で、ラング 1 ン ( 現 一八六二年、この流刑地で八七歳の生涯を閉じた。 ャンゴン ) に流刑となり、 全国に広がった蜂起はこの後一年以上続き、こ デリーの反乱は四か月しかもたなかったが、 れを完全に終息させるには、イギリス軍はさらなる奮戦を強いられたのであった。 この反乱を契機にイギリスは、インド全土に覇権を確立し、イギリス領インド帝国として名 八五八年には、イギリスは東インド会社を解散して、インドをイギ 実ともに植民地化した リス国王の直轄統治下に置き、その後支配の反動化を一層強めていった。 他方、インド人の側からすると、この大反乱は、それまで四分五裂のままイギリスに各個撃 破されてきたインド地の地方力を、統一したインドとしう玉にまとめあげる効果を したと評することか、る。この意味においてセポイの反乱は民族独立運動の魁であったと 見做すことができる。大反乱は敗北したが、その後人々の民族自立への情熱は別の形態を求 126
ー第二章ー支配・搾取型の統治 する革命運動的な性格をもったケースも稀にあったが、これはあくまでも例外でしかなかった。 2 イギリス領インド帝国 イギリスがそのお家芸とも言える「分割統治」 (divide and rule) の手法を駆使して、狡猾な 統治を行った典型的なケ 1 スとして知られるインドにおいては、どのような植民地経営が行わ れたのであろうか イギリスが産業革命に成功し、巨大な植民地帝国を築き上げ、繁栄を誇り得たのも、実はイ ギリスがインドの富を奪い、インドの民衆を極貧に陥れ、彼らを犠牲にして初めて可能となっ たのである。現にイギリス東インド会社はインドの富を暴力的に収奪し、イギリス産業革命の 物質的基盤を構築していった。 インドが抱えてきた貧困をはじめとする困難な諸問題は、二世紀に及んだイギリスの植民地 支配と収奪の結果生じ、増幅されてきた。インドの経済は荒廃し、民衆の生活は悪化の一途を 辿った。一七七〇年に発生したべンガルの大飢饉では、一千万人もの餓死者が出た。その後こ のように多くの餓死者を出した飢饉は頻発するようになり、一九世紀前半には七四回の飢饉で 一五〇万人が餓死し、一九世紀後半になると二四四回 ( 内一八四回は最後の二五年間に集中 ) 1 19
トリック教会から離脱した。そのヘンリー八世の重臣であり、教師でもあった人文主義者ト マス・モアが、アメリゴ・ヴェスブッチの航海記を下敷きに、西の海のかなたに空想の理想郷 を構想して『ュートピア』を出版 ( 一五一六年 ) したが、これはこの時代のイギリス人が西方 の海に抱く関心をかき立てた。そして幾つかの大西洋探検航海が試みられたが、何れもあまり 大きな成果は得られなかった。そこでこの時代のイギリスにとっては、大国スペインに対抗す る力を備えることが何よりの国家目的となっていた。 イギリス艦隊がスペインの無敵艦隊を破ったアルマダの海戦 ( 一五八八年 ) は海上権がイギ リスの手中に移る始まりとなり、これでイギリスは自信をつけたが、それでもスペインとポル トガルが席巻していたアメリカ新大陸への進出には、なかなか手を出せなかった。 その後イギリスでは、チャールス一世と議会派との抗争が一六四二年には内乱に発展し、 一六四九年一月、ついに国王が敗北して処刑され、イギリスは共和国となった。クロムウエル が率いる議会派は、国王派の勢力が支配的な海外植民地であるヴァ 1 ジニア、 アンティグア、バルバドスなどに艦隊を派遣して、共和国政府の主権を認めさせようとした。 その一環として、一六五五年、クロムウエルの有名な「西方計画」なるものが立案され、実行 に移された。この計画は「スペイン王の精神、政治両面にわたる悲惨な東縛と拘東、からアメ ーミューダ 1
ー第三章ー白人優越意識 チャーチルが常に気にしていたのは、アメリカの出方であった。イギリスにとって、ナチス・ ドイツから自国を守るためには、アメリカの援助が必要不可欠だった。アメリカの戦争への全 面的介入がなければ、ヒットラーを倒せる見込みはなかった。そこで、チャーチルは暫定協定 案によって、アメリカが対日参戦から遠のくことを望まなかったのである 一九四二年一〇月、チャーチルはアントニー・イ 1 デン外相に宛てて、「正直にいって、もっ ばらヨーロッパ 近代国家と文明を生んだヨーロッパ大陸ーーーの栄光復活のことしか私の頭 にはない」と書いている。さらに、彼はアジアのことを「あの野蛮な地」といって閣僚たちを びつくりさせたりしているのである ここでも「白人優越意識」に裏打ちされた発想がありありと見てとれる。 ⑧日本軍が目撃したインド兵の地獄絵 大東亜戦争でイギリス軍と交戦した日本軍は、イギリス軍として狩り出されていたインド兵 が、上官によって極めて非人間的な扱いを受けている場面を目撃し、衝撃を受けた。イギリス 植民地であったマレー半島やビルマで、イギリス軍はインド兵を鎖で繋いで、否応なしに戦わ せていたのである。 219