明らかだった。これはギリシャ系住民内の反対者数千人をも粛清した血塗られたクーデターで あったが、 矢面に立たされた一番の被害者はトルコ系住民であり、さらに多くのトルコ系集落 が襲撃に遭って放棄され、夥しい数の難民が新たに発生した。クーデタ 1 がギリシャ政府によ るキプロスの実効支配を狙ったものであったことは明白だった。 日々トルコ系住民の虐殺が続く切迫した状況の中で、トルコに唯一残された道は、チュー丿ノ ヒ、ロンドン両協定に基づく保障国 (guarantor) としての権利・義務を行使して、行動を起こ す選択肢しかなかった。トルコは条約の規程により、他の保障国であるイギリスとギリシャに 協議を呼びかけたが、両国ともこれに応じなかったので、単独行動に出ざるを得ず、トルコ軍 の派兵となった。キプロスに進駐したトルコ軍は島の北部一帯を制圧し、ここをトルコ系住民 安住の地にせんとしたのである。 この派兵は一九六〇年の条約上の権利・義務に従って、トルコ系住民を虐殺から守り、「複 合民族国家」がギリシャに吸収されないよう、その独立と安全保障を目的としてトルコ政府が 決断したものに他ならない現にトルコ政府は「トルコ軍の進駐は保障条約に従った、已むを 得ざる行動に過ぎず、キプロス問題が双方の住民に受け入れ可能な形で解決され次第、直ちに 撤退する」という旨を、繰り返し明言している。実際トルコ軍ないしトルコ政府は、トルコ系 170
ワルトハイム事務総長に提出した。事務総長はこれを具体的且っ現実的な提案として評価した が、ギリシャ系住民側はこの提案を検討すら行うことなく、直ちに拒否した。 ギリシャ系住民側はここでもまた、自ら行った合意を踏みにじって、かたくなな態度に戻る 豹変を繰り返したのである。そしてギリシャ本国とギリシャ系住民は「キプロス問題は一にか かって一九七四年のトルコ軍の侵攻と北部占領によりもたらされたものであり、トルコ軍が撤 退し、難民が元の居住地に戻れば解決する」との実際の状況を無視した身勝手な論法を打ちだ し、これを国際的に宣伝するキャンペーンに乗り出した。そこでは、なぜトルコの軍事侵攻と なったのかについては、一九七四年に先立っトルコ系住民虐殺にも、ギリシャ側が目標として いる「エノシスーにも言及されることなく、あたかもトルコが領土的野心から行動を起こした かの如く、ただただトルコの軍事侵攻のみが悪の根源として非難された。 こうしてギリシャ系住民側はトルコ系に対する封鎖解除を拒否し続け、いったんは自らが合 意していた「二住民集団の連邦体制ーという基本的枠組みも、「トルコ系住民の安全確保ーの 原則も認めようとしないばかりか、トルコ系住民の放逐を最終目標とする旨を公言してはばか らなかった。 ギリシャ側は欧米のギリシャロビーを動員し、こうしたプロバガンダを欧米主導のマスメ 172
ー第一章ー共存・同化型の統治 ( 注 ) アレヴィー教はシーア派を基本とし、シャーマニズムやキリスト教をも加味して、人間的要素を加えた形でイス ラムを解釈せんとする分派であり、今日でもトルコでは盛んである。 ③アイデンティティー 国を興した初期の段階では、それに携わった民族への帰属意識が中心的紐帯となるのが通例 であり、オスマン帝国も例外ではなかった。しかし帝国が世界帝国化した一六世紀中葉以降に なると、「トルコ人意識」は支配層の人々の自意識の中では次第に薄れていった。支配を広げ た広大な領域の住民に、指導層が「トルコ人ーとしてのアイデンティティーを持たせる努力を 払うことは一切なくなり、実際にこのような自覚が国民一般の間で持たれることはなかった。 支配層の中でも中枢を占めた様々な出自のエリ 1 トたちは、自らを「オスマン人 ( オスマン ル ) ーと称し、トルコ語を基礎としつつもアラビア語、ベルシャ語の語彙をふんだんに取り入 皮らは自国を「オスマン国」と呼び、「トルコーの呼称は用い れた「オスマン語」を話した。彳 なかった。従って「オスマン・トルコ」という呼称はヨ 1 ロッパ人が勝手にそう呼んでいる不 適切な呼び方なのである。 ロ語であるトルコ語を話すトルコ族の民衆は「田舎者ーと見なされ、「トルコ人ーという呼称は、 -4
ー第二章ー支配・搾取型の統治 ディアに働きかけて精力的に展開した。国連では、トルコ系住民の代表は不在という不利な状 況のまま、ギリシャ本国とギリシャ系住民側の宣伝のみが効果をあげ、その結果トルコ側を一 方的に悪者とする国連決議が相次いで採択された。 〈北キプロス・トルコ共和国の誕生〉 このような経過を経て、「二住民集団の連邦ーによる国家建設への望みを全く断たれたトル コ系住民側は、ついにやむなく一九八三年十一月一五日、民族自決の権利を行使して「北キプ ロス・トルコ共和国ー ( The Turkish Republic Of Northern Cyprus ) の独立を宣言するに至り、 直ちにこれを国連事務総長に報告した。この報告において、トルコ系住民側は独立宣言をせざ るを得なくなった理由を明確に述べるとともに、これは決して分離を意図するものではなく、 トルコ系住民側をギリシャ系と対等な立場に格上げすることにより、むしろ真の連邦設立を促 さんとするものである旨を説明している こうして独立した「北キプロス・トルコ共和国ーはトルコがこれを直ちに承認したが、それ 以外の国からは承認されていない 173
の納得のもとに、すべての関係当事者に満足のいく妥協が成立し、無事独立に漕ぎつけたかに 思われた。 ところが実際には、ギリシャ系住民の指導者たちは、この合意を単に自分たちの最終目的で ある「エノシス」達成のための手段としか見なしておらず、やがてその本心が明らかになるに 及んで、六〇年体制はたちまち破綻を来たすこととなってしまった。 一九六三年十一月、ギリシャ系住民側はトルコ系住民が到底受け入れられない憲法改正案を 提起し、改正不可能となるや、暴力による実力行使を始めた。トルコ系住民の家屋や財産が襲 撃に遭い 、トルコ系住民は難民となった。トルコ系住民が抵抗を続ける地域一帯は封鎖され、 補給を断たれて孤立させられた。六〇年憲法の体制は完全に瓦解し、トルコ系住民はあらゆる 公職から追放され、その命運はギリシャ系一色となった軍隊及びギリシャ本国から乗り込んで きたギリシャ軍の掌中に握られた。 こうしてギリシャ系住民は、トルコ系住民を排除した国家体制を一方的に作り上げて既成事 実化し、トルコ系への襲撃を通じてその正当性を否応なしに認めさせようとした。しかしトル コ系は頑としてこれを拒絶し、ギリシャ系の画策に対する抵抗を続け、混乱状態は一九七四年 にまで及んだ。 168
オスマン政府はギリシャ人などの定住民たちを大切にし、そもそも自分たちの出自であるト ルコ族に対しては、これを優遇するどころか、むしろその動きには警戒の目を向けた。 帝国内のトルコ族は非トルコ族エリ 1 ト集団によって統治され、支配されたのである。この ようにオスマン帝国では、軍も官僚も民族的基盤に立った祖国をもたない根無し草であった。 トルコ族のオスマンが開祖である帝国が、なぜその支配階層からトルコ族を遠ざけるように なったのであろうか。その最大の理由は、騎馬民族が軍事的に強いので、反乱を起こす危険が あり、統治が及ばなくなることを恐れたからである。遊牧騎馬民族は、日々の ~ か軍事訓糸 のようなものであって、自すと戦には自信があり、彼らは土地にへばりついている定住民のギ リシャ人やアルメニア人などを低く見下して定住を好まなかった。 オスマン政府は国家の運営に要する税金を徴収するには定住人口を必要としたので、既存の 定住民だけでなく、トルコ系の遊牧民をも定住させようとしたが、彼らはなかなかこれに従わ ずに反抗し、税を払うことを拒否し続けたため、一六〇〇年以降、遊牧民と為政者との争いが 絶えなかった。アレヴィー教徒 ( 注 ) を主とするトルコ族グループの領袖の名をとって「ジェ ラルの反乱」と呼ばれた争乱は、二百年以上にわたって猛威をふるった。
イギリスの支配が及んでくると、それまでのギリシャ系とトルコ系の平和共存という状況は 一変した。イギリスが両住民間の対立を煽る政策に転。オのである。その結果、ギリシャ正教 の教会ではキプロスをギリシャに併合すべしとする「エノシス」 (Enosis) の主張が説かれるよ うになり、「エノシスーを国民運動に高めることを狙った一般住民への働きかけが進められた。 ギリシャ系の学校では、生徒に反トルコ感情を叩きこむ教育が行われるようになった。 これはイギリスにとっては願ってもない好都合な事態である。植民地支配の手法として、分 割統治 (divide and rule) はまさにイギリスの得意技なのである。そこでイギリスは「エノ シスー運動に寛容であるばかりか、むしろこれを助長する態度で臨んだ。 こうして一九一四年のイギリスへの併合以降は、「エノシスー支持、反トルコ運動が激化の 一途を辿り、ギリシャへの併合に反対するトルコ系住民の抵抗には仮借なき弾圧が加えられた。 そしてっしし ( 、こよギリシャ系住民の戦闘的な地下組織「エオカー (EOKA) が組織されるに至った。 そのテロ活動が激化した一九五五 5 五八年の期間には、反「エノシス」の住民千二〇〇名が殺 害され、六千名ものトルコ系住民が三二に及ぶ自分たちの村を捨てて難民とならざるを得なく なった。 166
ー第一章ー共存・同化型の統治 ビザン・チン帝国は一四五一二年、最後に残った首都コンスタンチノープルがオスマン帝国によ り攻略され、完全に姿を消した。 民族共存の国家体制 オスマン帝国は、官僚も軍隊も非トルコ人の改宗者エリ 1 ト集団が支配する多民族モサイク 国家であり、トルコ人の国家と言うには程遠い存在だった。専制君主であるスルタン自身、四 代目のバヤジット一世 ( 在位一三八九 5 一四〇二年 ) までは、トルコ族の女性から生まれた子 であったが、 それ以降はキリスト教世界から連れてこられた女性から子を得ることが続いたの で、実際はトルコ人の血をほとんど受け継がなくなってしまった。 帝国は次々に新たな領土を征服して、版図を広げたが、警告に従って、抵抗することなく開 城した都市には、旧来の支配階層を存続させて大幅な自治を許し、宗教の自由を与えて、イス ラム教を強制することもなかった。 言語の点でも、帝国の広大な版図は種々雑多な民族で構成されていたので、各言語グループ 内ではそれぞれの言葉が使われた。オスマンの宮廷内では、オスマン語と称されるトルコ語、 アラビア語、ベルシャ語を主体とする独特の混合言語が常用され、行政用語として公文書に使
ー第二章ー支配・搾取型の統治 支配地域でのいかなる政治的関与も差し控えている。その後駐留トルコ軍は情勢の安定化に 伴って縮小はしているものの、今日なお完全撤退には至っていない他方ギリシャ軍の進駐の 方は、とっくの昔からじわじわと進められ、既成事実となっていたのである。 〈ギリシャ系は再度合意を反故に〉 トルコ軍の北部進駐によってもたらされた新しい事態に対処するため、双方の住民代表者間 で交渉が行われ、南部をギリシャ系、北部をトルコ系住民の居住地域に区分けする二住民集団・ 一一地域方式 (bi-communal. bi ・ zonal solution) を目指すこととなり、南部在住のトルコ系住民 を北部へ、北部在住のギリシャ系住民を南部へと相互に交換する合意が成立した。住民交換は 国連による監視のもとに一九七五年に行われた。 一九七七年には、ワルトハイム国連事務総長 ( 当時 ) 同席のもとに両住民代表者の間で交渉 が行われ、最終的解決のためのガイドラインが合意された。この合意では、二住民集団連邦の 共和国を設立することとされ、連邦政府の権限と機能は、二住民集団国家としての一体性を確 保するような形で定めることとされた。 このガイドラインに従って、トルコ系住民側は一九七九年にキプロス問題の総合的解決案を 171
ー第二章ー支配・搾取型の統治 〈複合民族国家としての独立〉 キプロス情勢が混乱する中、島内におけるギリシャ系キプロス人の活動に呼応して、ギリシャ 自身も国連を通じ、民族自決を装って「エノシス」を実現しようとした。しかし事はギリシャ の思惑通りには進まず、結局一九五八年、国連は「関係当事者は妥当な解決を図るために交渉 を行、つべし」との決議を採択した。ここに言、つ「関係当事者」とはギリシャ、トルコ、イギリス、 ギリシャ系キプロス住民、トルコ系キプロス住民のことであり、この五者は決議に従って交渉 一九五九年にようやく交渉が妥結した。その結果結ばれたチュ ーリッヒ協定及びロン ドン協定によって、キプロスは二住民集団共存を基軸とする新たな共和国として、一九六〇年 に独立した。 ューリッヒ、ロンドン両協定に従って制定された一九六〇年の憲法では、ト ク数派であるト ルコ系住民の立場とその権利に配慮した「複合民族国家」 (bi-national state) としての体制が 整えられた。即ち、大統領はギリシャ系、副大統領はトルコ系に割り当てられ、それぞれの住 民グループがこれを選出することや、閣僚、国会議員、裁判官、公務員の配分など、立法、行 政、司法すべてにつき、少数派の利益が損なわれないように規定され、ギリシャ語及びトルコ 語が公用語と定められた。こうしてキプロスは一九六〇年、ギリシャ系、トルコ系双方の住民 167