漢民族の移植と同化政策による文化的ジェノサイド 非漢民族地域の統治で特徴的なのは、支配下に置いた地域に漢民族を大々的に移住させる政 策であり、彼らはこれを強制的に実施してきた。 共産党一党独裁の中国は当初の「解放」という旗印が色あせた後、「開発」「発展ーという新 しいスロ 1 ガンを掲げて、漢民族移植行為を一段と強化してきた。この動きの背景には、「漢 民族は先進的で少数民族は常に助けを必要としているので、漢民族が大挙して移住し、開発と 発展を彼等にもたらせば、野蛮人たちの発展段階は向上し、彼らはその固有の宗教や遊牧経済 を放棄して中華民族の天蓋に帰順する」との考えがある。 この発想は少数民族を漢民族に同化させるという思想にほかならず、各民族固有の生活様式 や文化や言語までを失わせ、アイデンティティーの喪失をもたらす結果に結びつく何とも恐ろ しい政策である。政治、経済、社会、文化面での同質化を図る戦略に基づく文化的ジェノサイ ドに他ならない 漢民族は「辺境の地を文明化させるーという使命感をもって、遅れた少数民族を開化してい ると考えている。頭から少数民族は未開野蛮だと決めつけ、文化的に高いレベルにある漢民族 374
ー第六章ー植民地主義的発想の再浮上 孫文や周恩来も漢民族を中心とする国を興すことを考えていた点では変わりない。少数民族 を支配して大中華を復活させたいという思想に凝り固まっていたのである。換言するならば、 これは漢民族中心の帝国主義的膨張政策に他ならず、必然的に周辺国を併呑して支配下に置く こととなる 昔から漢民族にとっての伝統的境界線は「万里の長城」であった。そしてこの長城の内側に、 モンゴル人、チベット人、ウイグル人、満州人が入ることを「異族入侵」っまり侵略だととら えてきた。ところが逆に漢人が「万里の長城ーを越えて周辺世界に進出することは侵略ではな く「開彊拡土」と称している。自分のやることは、、 ししことで、他人のやることはすべて悪いと する発想である。 この発想の背後にあるのは、「先進的な漢」対「立ち遅れた周辺国」という認識があり、「遅 れた連中を解放して先進社会に迎え入れるーという理屈がある。これはまさに「文明開化の使 命」を表に掲げて、アジアや中近東・アフリカを侵略してきた欧米植民帝国主義の発想と変わ るところがない。 373
ー第三章ー白人優越意識 ちならない言動が幅を利かせ、時としてこれが人々の顰蹙を買うかと思えば、又逆に、羨まし がられることもあるなど、悲喜こもごもの社会現象を呈していた。 人々は白色人種が、ことにその中のもっとも活動的な北方民族が全人類の支配者たるべく神 から定められていると思いこんで疑わないようになった。「黄禍論」はまさにそのあらわれで あり、白人は黄色人種に何をしてもいいが、黄色人種は白人に何をしてもいけないという観念 が広まった。竹山道雄はこう記している 「北方民族は金髪獣であり、これがあらゆる生物の中で最高の種であるというニーチェの 説も、この背景の上に成立しているのであろう。純潔な金髪をなびかせ、鋼のような知性 シ 1 クフリード魂の持主ー・これが理想の像だった。 ( 竹山道雄 と峻酷な心情をもった、。 著『竹山道雄著作集第一巻妄想とその犠牲』福武書店 ) ョ 1 ロッパ世界と非ヨーロッパ世界の間に差別の一線を画し、ヨーロッパ文明を上位に置い て、それ以外の地域を低く見下す発想は、こうして世界中に定着してしまった。 ひんしゆく 185
中国の帝国主義的膨張政策がたいへんな勢いで進展している。しかもこの動きは過去の話では なく、まさに目下進行中の現実なのである。この事実は何としても見逃せない恐ろしい事態で あるので、この章の最後にこれもとりあげない訳には行かない。 大漢民族主義 一一〇一一一年秋に中国共産党中央委員会総書記に就任した習近平は、その就任演説で「中華民 族の復興」を何度も強調した。「中華民族の復興」とはとりもなおさず中華帝国の復興であり、 中華とは漢民族中心の伝統的な文化・思考を意味する。実はこのような発想は、共産主義体制 になるずっと以前から、漢民族の間にあったものなのである。 古来中華帝国は中華思想に立脚して国の営みを続け、その中心部に当たる中原の人間が最も ばんじゅういてき 優れていると考え、周辺部の人間を蛮戎夷狄として見下し、禽獣と見なしてきた。そして周辺 あまわ 国に朝貢させることにより、自分たちの天子の威光がアジア全域に遍く行きわたっていると考 力し える華夷秩序の思想が伝統となってきた。唯一の例外である可愛いげのない周辺国は、なまい したた よ - つだい きにも「日出ずるところの天子 : : : 」などと認めた国書を聖徳太子から隋の煬帝に送ってきた 日本だったのである。 きんじゅ - っ 372
ー第五章ー海外での日本の統治 ないのはなぜなのか という理屈を被支 その答えは、西洋人がもたらす「文化進化論」的発想による「文明開化 配者の側も素直に認め、往々にして、これを有り難がって受け止めてきたからなのであろう。 アジアやアフリカの人たちは高度に発展した西洋文明を、自分たちはとても太刀打ちできない ほど進んだものと受けとめ、汲々として西洋文化を吸収せんとし、西洋かぶれが一種のファッ ションとすらなってきた。 これに反し、アジアでは、日露戦争の勝利で、日本に注目が集まるようになったとは言え、 古来、アジアの国際秩序は中華帝国を中心とした「華夷秩序」の観念を基本としてきた。従っ て、日本の文物を有り難く受けとめるという風潮は乏しく、殊に中国や朝鮮にしてみれば、日 本の統治に甘んじることは「華夷秩序」の逆転現象としか見なされず、むしろ拒絶、反発する 心理が強く働く傾向があった。これが日本への風当たりが何時までたっても止まらない最大の 理由となっているのではなかろうか。現に日本非難を、しつこく続けているのは、「華夷秩序、 の本家本元である中国と、この秩序墨守に凝り固まってきた南北朝鮮であることが、この事情 を裏書きしている。 それでは海外での日本の統治はどのように行われたのか、その模様を具体的に検分してみたい。 291
【閑話休題】白人たちの人種差別意識は非白人に向けられただけではなく、彼らの中でもユダヤ人に対する 差別意識は強烈す、その反ユダヤ感情が如何に根深いものであるかは、一驚に値する。 ヨーロッパのユダヤ人問題は、宗教的差別から始まった。中世には、異教徒であることはとりもなおさず悪 であり、これを迫害することは正しいこととされた。異教徒を減、ほすことは、来たるべき神の国のためにつく す戦いだった。敵は人の皮をつけた獣であり悪魔の手先であり、それを天使が剣をふるってこらしめるとい う図式が心に思い描かれた。 一九世紀には多くの文化人か強烈な反ユダヤ主義者となった。音楽家のワグナーなどはその急先鋒であった。 ニ〇世紀になるとこの感情は政治的性格をもつようになり、反ユダヤ主義を表に掲げた政党が数多く現出す るようになった。ニーチェは「すべてのドイツ人は反ユダヤ主義者である」と述べている。 これが実際の行動に結びついた極端な例は、ナチス・ドイツのホロコーストであり、六百万人のユダヤ人が アウシュビッツやトレブリンカで抹殺された。ヒットラーに指導された当時のドイツ人の心情としては、ケル マン人種は支配者たるべき使命をさずかって生まれているのであり、その政治的軍事的征服は、ただ植民地を 奪い、富を集めるというのではなかった。それによって人類が人種的に変えられ、血が浄化されるべきである と考えられた。すべてはこのように露骨な人種優越思想が発想の原点となっていた。ゲルマン人種以外は、程 度の差こそあれ「劣等人間」であり、これは精神的、霊魂的にいかなる獣よりも下等だと考えられ、その最た 186
日本の役割 前章では冷戦後の国際社会で、文化進化論的発想、換言するならば白人優越意識に根ざした 植民地主義的発想が再浮上してきている現況についての考察を行った。世界が東西冷戦という 枠組みの崩壊後、これに代わる新たな国際秩序を構築し得ないまま続いている混沌とした無秩 序状態の中で、こうした事態が進行しているのである。 そこでこの章においては、かかる状況において日本の果たすべき役割について考えてみたい。 国際社会は主権国家の上に立っ公権力の存在しない無政府状態 今日、人類はグロ ーバル時代を迎え、地球規模の接触、交流が活発に行われている。しかし、
1 日清・日露戦争以降の状況 ②張作霖爆殺事件 ③満州事変と満州国の建国 ④日本の満州経営と欧米の植民地統治との相違 8 《第六章》植民地主義的発想の再浮上 ・文化論の変化と冷戦後における「文化進化論」的発想の再浮上 2 ・一国の国造りに対する国際社会の関与のあり方 1 国家体制の根幹にかかわる国造りは当事国自身に委ねる 〈欧米によるミャンマー ・バッシングの誤謬〉 ②古代ギリシャでも他国への有難迷惑な干渉は起きていた ③国際社会による関与でのニつの例外 〈人道的関与〉 〈先制行動論〉 〈問題は認定する主体〉 3 ・満州の経営 338
一 ~ 植民地主義的発想の再浮上 第二次世界大戦の後、アジアやアフリカの植民地は次々に独立し、発言力をもっこととなっ た。こうした状況の変化に応じ、嘗ては植民地支配下に置いた現地の人たちを虫けら同然に見 下し、そのような扱いをしてきた欧米人の言い分だけが通用する世の中ではなくなってきた。 文化論の変化と冷戦後における「文化進化論」的発想の再浮上 文化論についても、欧米列強による植民地支配の表看板となってきた「文化進化論」一辺倒 で済む時代ではなくなってきた。旧来の「文化進化論」に代わって「文化相対論」が唱えられ るようになり、これが文化論の主流を占めるようになったのである。世界の各国、各民族、各 かっ
ー第六章ー植民地主義的発想の再浮上 が援助に来たのだと観念しているのである。欧米列強の帝国主義的植民地支配の表看板と全く 同じ発想と言える。 内モンゴルを例にとると、戦後間もなくここを自国に併呑した中国は、漢民族移植を組織的 に進め、一九四五年には五百万人だった漢民族が今や三千万人に膨れ上がり、モンゴル人の七 倍となっている。 「生態移民」と称する強制移住政策の下で、移り住んだ漢民族はどこであろうと、現地の自 然環境には一切構わず、耕作地にして収穫を挙げ、その地を占領したとの実感を抱いた。こう して中国が内モンゴルを併呑した後、五回にわたって大規模な草原開墾を実施したが、耕作を 続けずに、より好条件の就職口があるとこれを放棄する者が少なくなかったので、結果的には 美しいステップを砂漠に変えてしまった。そしてこの砂漠化が至るところで弊害をもたらして いる。遊牧民が何千年にわたって暮らし続けてきた緑の大草原が、漢民族がやってきてから、 たった数十年で黄砂をアジア中にまき散らす砂漠になってしまったのである。 私は数年前に依頼を受けて、内モンゴル自治区工業大学に講演に出掛けたことがあった。モ フフホト ンゴルだから、広々とした一面の草原を想像していたが、同自治区の首都呼和浩特に着いてみ 375