大和市 - みる会図書館


検索対象: 湘南散歩 境川・引地川
246件見つかりました。

1. 湘南散歩 境川・引地川

佛導寺 鹿島橋の通りを相鉄線路沿いに西へ直進する と左手に佛導寺がある。東向きの山門前の門柱 には「親縁山一心院」・「浄土宗佛導寺」と標刻 ーこには 4 つの大和市指定重要文 されている。 化財がある。その文化財について下記のように 纏めて書かれた掲示板がある。 イ弗導寺所在の市指定重要文化財 佛導寺は、寺伝によると天文年間 ( 1532 ~ 1555 ) に称念上人が開山した といわれています。現在本寺には大和 市指定重要文化財が 4 件あります。坂 本家の墓、梵鐘、慶長年間の墓、徳本 念仏塔です。坂本家は江戸時代の旗本 であり、深見村を所領していました。 ーは 3 基あり、板碑型のも ので、被葬者は 4 代重安の弟の貞俊、 3 代貞吉、貞吉の夫人の 3 人です。 4 代坂本重安は村内にあった 1200 坪 の屋敷から大坂の合戦の時に出陣し たといわれています。 は元禄 11 年 ( 1698 ) に江戸鋳物 師木村将監・木村三郎の手で製作され た梵鐘で市内では最も古い梵鐘です。 ーは慶長 3 年 ( 1598 ) の 銘が刻まれた墓で、板碑型の形式で雄 大な石碑です。市域を含む近隣地では 石塔を建てて故人を供養するという 行為は 1600 年頃はまだ少数であり貴 重です。 1650 年頃から急激に増加し、 以降 50 年を経過しないうちに石塔を 建てて供養するという行為が定着し たといいます。 ーは文政元年 ( 1818 ) に建 立された石塔で尖頭角柱型の形式で す。 大和市教育委員会 梵鐘 総高 117Cm 口径 66 c m ( 昭和 56 年 8 月 1 日指定 ) 第 - ー℃ 佛導寺の山門 ( H11. 8.5 撮影 ) 佛導寺本堂 ( H11. 8.5 撮影 ) 徳本念佛塔 高さ 174 c m 幅 35 c m 奥行 33 c m ( 昭和 47 年 2 月 25 日指定 ) 文化財の梵鐘が吊るされている鐘楼 101

2. 湘南散歩 境川・引地川

大和天満宮 小田急線及び相鉄線の大和駅に近 い街の中の菅原道真を祀る神社。 元は厚木基地にあった空神社をこ こに移転したという。 本殿建設記念碑によると昭和 38 年 8 月に現在の本殿ができたよう である。 大和天満宮の鳥居と境内 ( H11. 8.5 撮影 ) 寶藏寺 境橋から県道 40 号を 500m 程東へ行くと左手に「高野山真言宗瀬谷山寶藏寺」があ る。門を入ると右手に観音像があり、「富士見楽寿観音第五番」と標示されている。 左手には「十二支出生年お守りご本尊」 8 体があり、各唱え言葉が書かれている。 本堂は西向きに建てられており、向かいには八福神の一つ「弁財天」の堂がある。 影 撮 を : 第。普賢菩薩 生まれ御守本尊 ) - 文殊菩薩 堂 - ~ 年生まれ御守本尊 ) 本 寺 。虚空菩薩 年生まれ「御守本尊 ) 千手世音菩薩 ( おル、御守本尊 ) 弁財天 ( H11. 8. 5 撮影 ) ~ 弥陀如来 。生まれ御守本尊 ) 不動明王 ( 年生まれ御守本尊 ) 大日如来 年生まれ ( 御守本尊 ) 勢至菩薩 介第まれ御守本尊 ) + ニ支歩生年 おり御薹 104

3. 湘南散歩 境川・引地川

町田市立定方寺公園 この関東地域には、今から約 2 万 5 千年ぐらい以前から私たちの祖先が住み始め ていたといわれています。近くにある「先 ( 無 ) 土器時代」の遺跡から発見され る石器に使われていた黒曜石は今の長野県和田峠、静岡県天城山から産出されて いたものでした。当時から物の交流があったわけです。この様な事から「道」が 出来ていったのでしよう。 4 世紀頃大和政権の勢力がこの地域に及ぶ以前から、 関東以北は蝦夷といわれ力強い部族が住んでいました。 3 世紀の後半「百済記」 しきまなかひ に出てくる「識麻那古比跪」 ( 千熊長彦 ) は相武の国の人で、大和政権の使者と して軍に従い、 3 度にわたり百済・新羅にむかったとあります。それ以降 6 世紀 頃の万葉集に出てくる防人の多くは東国の農民でした。 666 年 ( 天智 5 年 ) 戦禍を逃れてきた百済の人約 2 千人を東国に送り 3 年間官食 を与え農地の開発に当たらせました。また、 716 年 ( 霊亀 2 年 ) 東国に分散して いた高麗人 1799 人を武蔵国に移し高麗郡を設けました。このようにして技術 ( 灌 漑用水・古墳等の土木技術・窯業・鉄 ) を持った帰化人がこの地方に大きな技術・ 文化の発展をもたらしました。 [ 歴史と地名 ] 「高座郡」古くは高麗郡・高倉郡と書き「高倉は高麗人の邑号にて、武州新羅郡を新座 と言う如く、元は高麗ならん」とあります。また高座郡は韓国語の大きな倉の 意味があると言います。 「境川」古くは田倉川、高倉川と呼んでいました。その後武蔵・相模の国がはっきり分か れるようになってからこう呼ばれました。 「町屋」この公園の周辺町屋・公所には古くから石 ( 黒曜石 ) の道、大和につながる道 ( 矢 倉沢街道・古東海道 ) ・鎌倉道の他大山道など近世以降の参詣の道があり交通上 重要な位置になりました。町屋は 646 年 ( 大化改新の翌年 ) 馬による地方道の 整備を始めた時以来その中継地として呼ばれた地名です。 「公所」 ( 風土記久自与 ) 平安時代に国境または交通の要所に置かれ、公の役所のあった 所と言われ後には関所も兼ねました。 「金森・金目・秦野」先に述べた帰化人の氏名に関係がある地名。「高木」 ( 小字名 ) 江戸初期高木伊勢守が上・下鶴間の境に居城を持ち、この城主伊勢守の館のあ った所で、境川をはさみ杉山神社の鳥居正面に向いていたと言われています。 他にもこの付近には牢場・しようじんば ( 雨乞いの時精進潔斎した所 ) 等いろ いろな地名が残っています。 境国山定方寺 ( 曹洞宗 ) 。開基、慶長 15 年 ( 161 の。開山、竹峰了嬾大和尚 ( 町谷生 ) 。 創立当時は下鶴間字公所高木の境川流域にあったが、再三にわたり水害にあい、 元禄 3 年 ( 1690 ) 当山 3 世中興弧嶽泰益大和尚禅師の時に古道の T 字路にあたっ ている現在の地に移転しました。 1985 年 5 月吉日 ・文献町田の歴史をさぐる ( 町田市 ) 私たちの相模原 ( 市教育委員会 ) 80 大和地名考 ( 富沢美晴 ) 神奈川の歴史 ( 中丸和伯 )

4. 湘南散歩 境川・引地川

木に指定されているイチョウ、ケヤキ、クスノキ、タブノキ、ハルニレなどの樹木 類も多く存在する。その他、境川周辺には「高ヶ坂石器時代遺跡」「下鶴間甲一号遺 跡」「長堀南遺跡」などの古墳類、「青木家屋敷」「八王子千人同心旧家」「大津家長 屋門」「旧小池邸」などの歴史的建物が建設当時のまま残されているもの、「原宿用 水取入口跡」「相原起番地之碑」「本然学舎・橋本学校跡」「井出の沢」「武相困民党 発祥の地」「鶴鳴学舎跡」「瀬谷銀行跡」「小栗塚之跡」など歴史的出来事や建造物の 跡を示す石碑類、「木曽一里塚」「江の島弁財天道標」など昔の街道や参詣道の道標 としたもの等がある。 更に市民の自然とふれあう憩いの場としての公園も数多く設けられている。 そして大部分の川沿いには側道があり散策を楽しめるように工夫されている。特に 大和市大和橋から藤沢市御殿橋間の右岸沿いには、舗装された立派な道 ( 「一般県道 藤沢大和自転車道」通称「境川自転車道」 ) が設けられており、自動車の通行に煩わ されずにサイクリングやジョギングを楽しめるようになっている。 ー満々に湛えた境川は最後の橋「片瀬橋」の下をくぐりゆったりと 相模湾 ( 太平洋 ) へと流れ出て、約 52km の旅を終える。片瀬橋の上から眺めると、 河口の向う正面に観光名所「江の島」が洋上に浮かんで見える。河口の左手には江 の島へ渡る「江の島大橋」 ( 車道 ) と「江の島弁天橋」 ( 人道 ) が並行に架けられて いる。本書には掲載していないが、江の島には「江島神社 ( 辺津宮、中津宮、奥津 宮 ) 」「岩屋」「江の島植物園」「江の島灯台」「江ノ島ョットハーバー」等見所が多く、 観光客で賑わい、また片瀬海岸は海水浴やサーフィンを楽しむ若者で賑わっている ところである。 境川の全流域を訪ね終えて、河口岸に佇み静かな流れの川面を眺めていると、ふと 戸田健夫氏の書かれた次の詩と言葉を思い出した。 大河の流れ 今穏やかで大きな流れとなり 想像もできないような 安堵の大海を目指している河 すべてのいのちを育み 哀しみ苦しみ憎しみそして怒り 歓喜満足希望そして愛 あらゆるものを見てきた河 岸辺には枯れた葦原が 果てしなく秋風にそよいでいる 旅立つまえに 水は旅して・・・・高い山からはてしない海へ、 私たちがふだん何の注意も払わない水も、見 えない大きな手に導かれて、ずいぶん波乱に とんだ旅をしているのです。小さな水の一滴 も渇いた生命にはかけがえのないものなので す。 ( 戸田健夫氏著詩集「水は旅して」 女子バウロ会発行より )

5. 湘南散歩 境川・引地川

福田 5 号語 ~ 福田 13 橋 八幡橋を過ぎると引地川 は西に流れを変えるが神 明橋から再び南へ向い、 大和市内流域最後の橋福 田 13 号橋に至る。 小田急電鉄江ノ島線の桜 ヶ丘駅付近から高座渋谷 駅更に南の藤沢市の境界 までの南北に長く東は綾 瀬市に接しているこの地 域一帯が「福田」である。 この地に最初に入植し開 拓したのは保田筑後守で 永正 2 年 ( 1505 年 ) のこ とである。その後次々と 入植者が増え 9 人 ( 保田 福田 1 3 号橋 筑後守、田辺因幡守、広 田刑部介、斉藤民部、小林大玄、山下 福田 5 号橋 ( H10. 11.2 撮影 ) 半哉、駒井文太夫、広瀬藤八、市川源 ( s 49 年架設 ) 兵衛 ) となったところで大永 4 年 ( 1524 年 ) に相談し東西南北の境を 定め、開拓草分けの保田、田辺の田を とり将来の繁栄幸福を願って福田村 と名づけ家々子孫まで相守る盟約を したためた。これが通称「福田盟約書」 といわれ連署の 9 名を福田九家或い は福田九人衆と称されている。 福田 8 号同 5 橋 1 4 号橋 神明神社 明 寺卍 大和 若宮八幡幵 宮橋 福 福 1 1 号橋 東海道新幹彳「 王社 慶寺 田 / 福田橋 下和田 福田 5 号橋上から見た上流 204

6. 湘南散歩 境川・引地川

信法寺 薬王院の南西に浄土宗信法寺がある。 薬王院はこの信法寺の別院である。 信法寺の山門 ( H11. 8.18 撮影 ) 大和市指定史跡旧石川家墓地 指定 : 昭和 63 年 4 月 1 日 面不責 : 25.06 帚 旧上和田村は天正 19 年 ( 1591 ) 以降徳川家の旗本石川家の領地 信法寺本堂 ( H11. 8. 18 撮影 ) となりました。当時の領主石川永 正は村内に屋敷を設けていたと 旧石川家墓地は市指定重要文化財 ( 史跡 ) で、 いわれ、徳川家康に仕え関が原の 合戦・大坂の陣に従軍しました。 この墓地の前に右記の説明盤がある。 その後重正、勝正、政方、政敬、 政武、政徳、正養とつづき、大番、 御納戸番、御 / 」鮏などとして当主 は代々の将軍に仕えていますが、 旧上和田村は石川家の主要な領 地とされ明治維新まで相伝され ています。この墓地には石川永正 から政養にいたるまでの歴代当 主および一族の墓碑や供養塔が 建立されています。また近世末期 の古絵図「上和田村信法寺付近絵 図」にも「御殿様御廟所」が信法 寺裏山に描かれています。市内に 現存する旧旗本領主家のまとま った墓地としてはこの他に旧坂 本家、旧中根家のものが知られて はいますが、歴代当主のものが残 史跡 旧石川家の墓地 ( H11. 8.18 撮影 ) されているのは旧石川家墓地の みであり、市域の近世史を知る上 で意義深いものといえます。 平成 10 年 3 月大和市教育委員会 113

7. 湘南散歩 境川・引地川

引地川を訪ねて 皿それは相模原台地の南部大和市の上草柳に源を発し、台地を浸し様々な 恵を与えつつゆったりと流れ、途中蓼川、一色川、小糸川などの支流と合流しなが ら次第に大きくなり、藤沢市の鵠沼海岸で約 2 0 km の旅を終え相模湾に注ぐ。 流域面積約 7 0 km2 、高度差 6 Om の 2 級河川である。 水源地のある上草柳の「泉の森」は厚木航空基地のすぐ北側に位置し、 貴重な自然が豊富に残されている森林地帯である。 ここには県の天然記念物にも指定されているシラカシや古き相模原を偲ばせる雑木 林がうっそうと茂っている。雨水はこれらの木々をつたい落ち葉や土中に蓄えられ 谷間の低地に湧き出し泉となり池をつくりやがて小川となって流出していく。源流 となっている泉は神奈川県企業庁が管理している浄水場の金網の内部にあり、一般 者が直接手にすることはできないが、この清水は付近の 1 8 0 0 戸余の飲料水とし て利用されている。 ー水源から下流 500m ほどの間は上草柳調整池とな。ており、その 一帯は泉の森公園として整備され市民が自由に自然と親しみ、憩いの場として利用 できるようになっている。この公園は、面積約 4 2 ha で神奈川トラスト緑地として 指定され、神奈川県、大和市、 ( 財 ) かながわトラストみどり財団の三者で緑地の保 全を図っている。こでは様々な植物、昆虫、野鳥を観察しながら散策を楽しむこ とができる。 ー「引地川」は、現在は「ひきじがわ」と読むのが正しいと思われる が、この川の橋をつぶさに訪ねてみると橋によっては川の名を「ひきちがわ」と標 している所がある。 川の周辺には人が集まり田畑を開墾し集落ができる。その住民はそれぞれその地区 を流れる川に名前をつける。引地川も例えば長後では長後川、下土棚では土棚川、 かっては村によって呼名が違っていたよう 鵠沼では堀川とか清水川というように である。源流から河口まで一つの名称に統一されるようになったのは近代になって 河川管理が必要になったからである。 「引地」というのは川の水によって土地が押し出されるという意味があるといわれ、 181

8. 湘南散歩 境川・引地川

引地川の源流地である「泉の森」は面積 42ha あり、森林地と水辺空間が一体とな り様々な植物、昆虫、野鳥を観察しながら 2 ~ 4km の散策を楽しめる公園となって いる。大和市自然観察センター「しらかしのいえ」は管理事務所で自然を守り育 てるための活動の拠点となる施設である。「緑のかけ橋」は調整池の東西を結ぶ木 製のつり橋で泉の森のシンボルともなっている。「水車小屋」は直径 3. 64m の水 車が回り、小屋の中には米搗き臼 2 基がある。 ( H10. 11.9 撮影 ) 緑のかけ橋 泉の森の上を横断している 水車小屋 188

9. 湘南散歩 境川・引地川

◇はじめに◇ 藤沢市に移り住んで 7 年になったある時、地元のことを知らないことが意外と多 いことに気がっき、よりよく知り理解を深めるための試みとして、先ず藤沢市内を 流れている引地川の全流域を辿って見ようと思い立ちました。源流地から河口まで 歩き同時に周辺の神社仏閣や史跡等を見て回ることによっていろいろと興味深い発 見や再認識することが多くありました。これに味をしめて境川にも挑戦することに しました。いずれの川も全国的にはあまり知られていない 2 級河川ですが、流域の 住民にとってはかけがえのない大切な役割をもっているという認識を深くしました。 本書の中の「引地川」は平成 10 年 10 月下旬から 11 月中旬にかけて歩き、「境川」 は平成 11 年 4 月下旬から 8 月中旬にかけて歩いた時にそれぞれ撮った写真と記録を まとめたものです。 編集にあたっては、源流地点から河口まで順に川と橋に重点を置きながらも出来る だけ多く周辺の神社仏閣をはじめ史跡や公園等の施設など対象を広げて撮影した写 真とそこに掲示されている歴史的由緒や情報を忠実に掲載することに努めました。 引地川の場合、通過した地域は大和市と藤沢市で、掲載した橋の数は 67 橋、神社 は 21 社、寺院は 10 寺であり、境川の場合は、東京都の町田市、神奈川県の城山町、 相模原市、大和市、横浜市瀬谷区・泉区・戸塚区、藤沢市を通過し、掲載した橋の 数は 127 橋、神社は 67 社、寺院は 61 寺となりました。 これらの地域やそこにある様々な建造物等を見て回ることによって、地理的なこ とだけでなくその地域の歴史や生活の様子を垣間見ることが出来たように思います。 また、数多くある神社や寺院は、それぞれの地域住民にとって昔から生活と信仰の 中心となっており、地域のコミュニケーションの場としての役割を担っていると同 時に、一方では歴史的に貴重な有形無形の重要文化財や天然記念物の樹木等を保存 するという重要な役割も果たしているのです。 この写真集は、普段なかなか行けない所を居ながらにしてまとめて見て楽しむだ けでなく、記録掲載してある地理的・歴史的記録資料を参考にしながら本書を片手 に川沿いとその周辺の散策に活用して頂ければ幸いであります。 村岡義章 3

10. 湘南散歩 境川・引地川

下流の眺め ( s 53 年架設 ) 橋 0 表札 0 = は、昭和、 0 年 大和市南部第 = 上地区画 整理組合」とある。 0 、幡橋 0 南 0 = 田中丿、幡 宮がある。 引地 ) 、、 0 、住地 0 中 0 両 側 0 桜並、 00 守 000 が ら静かに流れて、、く。 両岸 0 桜は千本さくら 、、われ、春 0 満開時 00 は花 見客で賑わう。 川、 = は大き鯉が群れ 然と泳いでいる。 東側から見た丿、幡橋 丿、幡橋から下流 0 眺め 202