重要文化財 - みる会図書館


検索対象: 湘南散歩 境川・引地川
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1. 湘南散歩 境川・引地川

万福寺 ( H10. 11. 16 撮影 ) 万福寺は上村橋の近く東方にある。 入口の門に 「関東六老僧 荒木万福寺」 「真宗大谷派 鵠沼山清光院」 とある。 万福寺の境内と正面の本堂 % 森皇大神宮 ( H10. 11. 16 撮影 ) 万福寺から更に東へ行った所に烏森皇 大神宮がある。 第 53 代淳和天皇の天長 9 年 ( 832 年 ) を 社殿造立の記録がある。祭神は天照皇 大神。第 60 代醍醐天皇のとき延喜式が 選進されたころ、奈良時代以来今の藤 沢、西富、大鋸、鵠沼、辻堂などの地 域を合わせて唱えられていた相模国土甘郷の総社に列せられ、以来「相模国土甘 郷総社神明宮」と称された。その後長治元年 ( 1104 年 ) 鎌倉権五郎景政が所領の 大庭荘を伊勢神宮に寄進し大庭御厨となってから「伊勢神領大庭御厨総鎮守」と 定められた経緯がある。例祭は 8 月 17 日。当日 9 基の盛装した人形山車の参進は 壮観で神奈川県の民族芸能として指定され、また藤沢市の重要有形民俗文化財に 指定されている。境内には延喜式内石楯尾神社はじめ多くの神社が同座している。 とかみごう 235

2. 湘南散歩 境川・引地川

⑨梵鐘 ( 清浄光寺銅鐘 ) 県指定重要文化財 ( 工芸品 ) 清浄光寺銅鐘総高 167Cm 、口径 92cm 本堂の左手に鐘楼があり、その梵鐘 鋳造は銘文によると延文元年 ( 1356 ) 。遊行 8 代渡 船上人の時にあたる。遊行寺開山以来ようやく時 ( 銅鐘 ) は神奈川県および藤沢市の 宗が隆盛期に達した時代であった。冶工は中世の 重要文化財に指定されている。 関東地方で活躍した鋳物師の物部氏の一人光連と 考えられる。この他の光連の遺作には、伊勢原市 日向宝城坊の暦応 3 年 ( 1340 ) 銘梵鐘、鎌倉市東慶 寺蔵の観応元年 ( 1350 ) 銘梵鐘がある。この銅鐘は 5 段 5 列の乳の配列、上帯の飛雲文、下帯の蓮華 唐草文、撞座の蓮華文などに物部様式の特徴を持 つが、龍頭部や宝珠の表現には既に形式化が見え る。銅鐘の銘文は藤沢市伝来の梵鐘の中で最古の 田 ものであり、中世の時宗の姿や遊行寺を有する当 時の藤沢の様子を伝える貴重な史料である。この 銅鐘は永正 10 年 ( 1513 ) に後北条氏によって小田 原へ持ち去られ陣鐘として使用された。さらに足 柄下郡の寿昌寺に移転されたが、江戸時代初めの てきみかたくようとう 寛永 3 年 ( 1626 ) 遊行寺の檀徒の手により取り戻さ ⑩敵御方供養塔 れ、再びここに設置されたものである。 県道 30 号側からの入口東門を入 平成 2 年 2 月 13 日指定藤沢市教育委員会 ってすぐ左に、柵で囲われた中に 国指定史跡 国指定史跡の敵御 ( 味 ) 方供養塔 藤沢敵御方供養塔 おんじん 大正 15 年 10 月 20 日指定 ( 怨親平等の碑 ) がある。 室町時代初めの応永 23 年 ( 1416 ) に上杉氏憲 ( 禅 秀 ) が足利持氏に対し反乱 ( 禅秀の乱 ) を起した時 幕府は持氏を援助したため氏憲は敗れ去りまし た。この乱によって両方に死傷者が多く出たので 遊行寺の住職遊行十五世尊恵上人が一山の僧と近 在の人たちを集めて敵味方両軍の傷ついた人たち を収容して治療を行うと共に戦没者を葬り敵御 ( 味 ) 方区別ない平等な供養塔を建立してその霊 を弔いました。このようないわゆる博愛思想を示 す塔や碑はほかにもありますがこの塔はその中で も時期が古くまた郷土の歴史を知る上でも大切な 資料の一つです。 神奈川県教育委員会 ほうじよう ⑩放生池 寺務所の前にこの池があり、緋鯉真鯉が泳いでいる。 放生池 この池は一名放生の池とも称し、江戸幕府の記録で ある「徳川実紀」元禄 7 年 10 月の日記によれば、 金魚銀魚を放生せんと思えば清浄光寺道場の池へ と命され、かっ放生の際はその員数をしるし目付へ 届け出づべし、と記録されている。古来より由緒あ るこの池に金魚、鯉等を放生すればその功徳より家 内の繁栄は勿論のこと長寿を保っとされている。 146

3. 湘南散歩 境川・引地川

圓林寺 下馬の橋から北へ行き町田街道に 出ると圓林寺がある。 ( 天台宗雲乗山圓林寺 ) 「蓮寺」ともいわれている。 パンフレットには圓林寺について 次のように説明されている。 本堂正面 ( H11. 5.5 撮影 ) 本堂に安置されている左の像 2 体 については境内の立札に次のよう に紹介されている。 町田市指定有形文化財 1985 年 ( 昭和 60 年 ) 4 月 17 日指定 円林寺木造阿弥陀如来坐像 円林寺の本尊像である。寄木造の技法 になり、肉身部は金泥塗、衣部を古色 とし、玉眼を嵌入する。頭部、頸がや や長く、全体に丁寧に彫刻されている。 また衣文の表現等はかなり硬さが目立 っている。室町時代後期 ( 16 世紀 ) の作 品である。なおこの像の像底には 60 余名の結縁交名 ( 省略 ) が記されてい るが、残念なことに制作年時や作者名 は記されていない。像高 67. 7cm 円林寺木造地蔵菩薩立像 円林寺の本堂に向って右側の壇上に安 置されている地蔵菩薩像で、地蔵院と 呼ばれた頃の本尊とも言われている。 寄木造。彩色が鮮やかに残っており、 玉眼を嵌入する。左手に宝珠を持ち右 手で錫杖を執る通形の地蔵菩薩像で、 角張った頭部に細い眼や小振りの鼻や 唇を付すところに特色があり、衣文な どを入念に彫刻しこぢんまりと技巧的 にまとめられている。室町時代末から 江戸時代初めにかけての頃 ( 16 世紀後 上 : 阿弥陀如来坐像 左 : 本尊地蔵菩薩立像 半 ) の制作と推定される。像高 48. 5cm ( 本寺のパンフレットより ) 町田市教育委員会 圓林寺略縁起 当山は正長元年 ( 1428 ) 2 月 24 日慈願大 和尚の開基になる天台宗総本山延暦寺の 末寺である。位置は町田街道沿いにあり、 相原耕地から津久井山塊を望み、霊峰富 士を座仰する。蓮寺としてのいわれは、 昭和 38 年に故大賀一郎博士の二千年蓮を 分根、境内に移植し、昭和 40 年 8 月 15 日に初めて開花したことに発し、今は毎 夏様々な蓮が咲き境内を賑わせている。 本堂は室町時代中期の建立と推定される が、その後小修理を重ね更に昭和 63 年新 本堂建立が成った。 こに安置されてい る地蔵菩薩立像、阿弥陀如来坐像は重要 文化財に指定されている。 ( 以下省略 ) 26

4. 湘南散歩 境川・引地川

◇はじめに◇ 藤沢市に移り住んで 7 年になったある時、地元のことを知らないことが意外と多 いことに気がっき、よりよく知り理解を深めるための試みとして、先ず藤沢市内を 流れている引地川の全流域を辿って見ようと思い立ちました。源流地から河口まで 歩き同時に周辺の神社仏閣や史跡等を見て回ることによっていろいろと興味深い発 見や再認識することが多くありました。これに味をしめて境川にも挑戦することに しました。いずれの川も全国的にはあまり知られていない 2 級河川ですが、流域の 住民にとってはかけがえのない大切な役割をもっているという認識を深くしました。 本書の中の「引地川」は平成 10 年 10 月下旬から 11 月中旬にかけて歩き、「境川」 は平成 11 年 4 月下旬から 8 月中旬にかけて歩いた時にそれぞれ撮った写真と記録を まとめたものです。 編集にあたっては、源流地点から河口まで順に川と橋に重点を置きながらも出来る だけ多く周辺の神社仏閣をはじめ史跡や公園等の施設など対象を広げて撮影した写 真とそこに掲示されている歴史的由緒や情報を忠実に掲載することに努めました。 引地川の場合、通過した地域は大和市と藤沢市で、掲載した橋の数は 67 橋、神社 は 21 社、寺院は 10 寺であり、境川の場合は、東京都の町田市、神奈川県の城山町、 相模原市、大和市、横浜市瀬谷区・泉区・戸塚区、藤沢市を通過し、掲載した橋の 数は 127 橋、神社は 67 社、寺院は 61 寺となりました。 これらの地域やそこにある様々な建造物等を見て回ることによって、地理的なこ とだけでなくその地域の歴史や生活の様子を垣間見ることが出来たように思います。 また、数多くある神社や寺院は、それぞれの地域住民にとって昔から生活と信仰の 中心となっており、地域のコミュニケーションの場としての役割を担っていると同 時に、一方では歴史的に貴重な有形無形の重要文化財や天然記念物の樹木等を保存 するという重要な役割も果たしているのです。 この写真集は、普段なかなか行けない所を居ながらにしてまとめて見て楽しむだ けでなく、記録掲載してある地理的・歴史的記録資料を参考にしながら本書を片手 に川沿いとその周辺の散策に活用して頂ければ幸いであります。 村岡義章 3

5. 湘南散歩 境川・引地川

清水寺 ( 妙心寺派臨済宗瑞石山 ) 町田街道の稲荷橋交差点から東へ少し せいすいじ 行った道路際に清水寺の標柱があり、 参道への入口が見える。 入口に「町田市文化財記念碑」と刻ま れた石柱 ( 昭和 49 年 1 月建 ) があり、 この鐘楼、水屋、観音堂は町田市重 宝に指定されている。 ーの「アカガシ群落」は町田 また 清水寺入口 ( H11. 5. 18 撮影 ) 市指定の天然記念物 ( 昭和 39 年 11 月 25 日指定 ) となっている。境内、特に東側背部にはシラカシ、アラカシ、ツクバネ ガシ、アカガシ等多くのフ。ナ科の樹木が繁茂している。 町田市指定有形文化財清水寺鐘楼 を , を 時期 : 江戸時代後期 指定 : 昭和 48 年 3 月 8 日 清水寺鐘楼は桁行 1 間・梁行 1 間・ 1 重、 四方吹放し、入母屋造・平入・銅板葺で 中央に径 2. 37 尺 ( 約 72cm ) の鐘を吊って いる。大きさは腰貫の位置で方 8.6 尺 ( 約 261Cm ) 、柱径は最大径で 0.78 尺 ( 約 24cm) である。頭貫を虹梁に替え、木鼻を獅子 鼻とし、柱頂に台輪をめぐらす。斗拱は 柱上と柱間の中間に出組斗拱をくみ琵琶 板と支輪に朱雀・龍・虎・玄武の彫刻を はめ込む、天井は彩色を施した格天井で ある。建立年代は天保 13 年 ( 1842 ) と想 町田市教育委員会 われる。 鐘楼 ( H11. 5. 18 撮影 ) 町田市指定有形文化財清水寺水屋 昭和 48 年 3 月 8 日指定 ( 時期 : 江戸後期 ) 清水寺水屋は桁行 1 間・梁行 1 間・ 1 軒繁 垂木・切妻造・平入の水屋である。屋根は 銅板葺であるが、もとは柿葺であったと伝 えられている。大きさは桁行 6.77 尺 ( 約 2. 05m ) 、梁行 5. 18 尺 ( 約 1. 57m ) 、柱径は 最大径で 0.46 尺 ( 約 0. 14m ) である。頭貫 を虹梁形にして獅子鼻を出し、柱頭に台輪 をわたしている。斗拱は実肘木っき三斗で、 中備には桁行に松と 2 人の人物、梁行に龍 の彫物がはめ込まれ、妻飾に鳳凰及び菊水 彫物を配している。建立年代は水鉢の刻銘 に「天保ロ酉」とあることから天保 8 年 ( 1837 ) 頃と想われる。町田市教育委員会 水 38

6. 湘南散歩 境川・引地川

薬王院 下分橋の西方の道路に面して生 養山薬王院 ( 薬師堂 ) がある。 本堂前の掲示板にはこの縁起に ついて下記のように記されてい る。 を第ツなを 薬王院入口と薬師堂 ( H11. 8. 18 撮影 ) 薬師如来縁起 当山に安置し奉る薬師如来は行基大士の御作と称し、往古より霊験あらたかなること世 人のすべてに能く知る所なり。夫れ薬師如来は諸病悉除の誓願あり。中古三浦大助の二 男和田小太郎義盛は当村の士頃なりし時、眼疾を患いて尊像を祈る事 17 日、ついに羽奣 する事を得たり。其後誓って云く「若し擁護を蒙りて侍所の別当たるを得ば一院を創せ ん」と志願空しからずして其職に任ずる事を得たり。因って一院を創建す。即ち薬王院 是なり。亦元和年中石川家祖先の内室目丙にて医薬効なきを以て乃ち尊像にネ廳貞する事 17 日昼夜速やかに明眼を得たり。故に再建する今の伽藍是なり。夫れより以来毎年 9 月 8 日をトして会日とし寅年を以て開扉し普く平等大悲に結縁せしむる事となり。大正 12 年 9 月 1 日の大震災は関東一円の堂塔仏寺の大半は倒潰せしも当薬王院の伽藍は幸にも 其難を免る事を得たり。之偏に薬師如来の諸難悉除の霊験なり。このあらたかなる尊像 を安置し奉る。是薬師如来の縁起なり。神奈川県高座君 1 輟谷村上和田薬王院信徒一同 また入口の横にある掲示板には次のような説明が記されている。 大和市指定重要無形民俗文化財薬王院の双盤念仏 念仏にあわせて演奏される仏法音楽で太鼓と鉦で行われます。その音は単純で素朴です が、それを聞けば正念増上するといわれ、今昔物語にも阿弥陀の聖が金鼓を打って念仏 したと記載されています。この信法寺の別院薬王院の双隴念イム兼倉光明寺の流れと伝 えられています。「享保元丙申稔極月吉日粉河市正作」の銘が陰刻されている鉦があるの で、この頃には ( 1716 ) 既に演奏されていたことがわかります。この念仏を 9 月 8 日の 薬田躡彖日に行えば、無病息災・家運隆昌の利益を授けられるとされています。また農 剩所事の虫送り、風祭り、氷祭りにもこれを唱えて五穀豊穣を祈って今日に至っている といいます。また南西方向にある信法寺には市指定重要文イオの旧石川家墓地がありま す。石川家は江戸日弋に上和田村を知行地としていた徳川家の旗本で村内に屋敷を構え ていて、付近は御蔵屋敷と呼 ( ています。 大和市教育委員会 112

7. 湘南散歩 境川・引地川

社務所の前中央に「湯 立神楽」の舞台となる お祓所がある。 その神楽は藤沢市指 定無形民俗文化財で、 掲示板には下記のよ うに記されている。 湯立神楽の舞台となる御祓所 ( H11. 6. 12 撮影 ) ゆだてかぐら 市指定無形民俗文化財湯立神楽 白旗神社を中心に神官により継承されている神事芸能。湯立を伴う神楽で、湯 花神楽、鎌倉神楽等の名称で藤沢 , 鎌倉から三浦半島一円に及んでいる。古くは 関東一帯に分布したとされる神代神楽を源流とし、鎌倉の鶴岡八幡宮の神楽男 が伝承し、次第に近隣に定着したものとされる。「湯立」という神事手法に組み 込まれた神楽には品格があり、舞にも洗練されたものである。演目は 11 で、打 囃子、初能、御祓、御幣招、湯上、中入、掻湯、大散供、笹の舞、弓祓、最後 の剣舞毛止幾で神人共楽の内に終了する。 白旗神社神事 10 月 28 日 平成 8 年 3 月 1 日指定 藤沢市教育委員会 白旗神社境内の東側には「弁慶藤」の藤棚と「芭蕉句碑」がある。 石碑には次のような 俳句が刻されている。 化藤 じ比豸 や の 年 くたびれ 弁慶藤と芭蕉句碑 ( H11. 6. 12 撮影 ) 139

8. 湘南散歩 境川・引地川

( H10. 11. 11 撮影 ) 神明橋の東方にある 禅寺である。天正 16 年 ( 1588 年 ) に藤沢 市遠藤の宝泉寺第 6 世住職浅岩存夙和尚 が開山した曹洞宗清 流山常泉寺で、開基は関水和泉 ( 福田 9 家の一人広田刑部介の子孫 ) といわれて いる。本堂の横に中根家の墓地がある。 中根家は徳川家の旗本で当地を領するよ うになり、常泉寺を菩提所の一つにされ た。現在この墓地は市の重要史跡文化財 に昭和 63 年 4 月 1 日指定されている。 なお、この寺は神奈川県が平成 7 年に選 定した「神奈川花の名所 100 選」に選ば 旧中根家墓地 れた「花の寺」である。青陰文雄住職は上写真右から 無類の花好きで、広い境内はミツマタ、中根家臣田中桂蔵の墓 ( 明治 3 年 ( 187 の没 ) 中根正邦の娘正子の墓 ( 明治 23 年 ( 1890 ) 没 ) ハナモモ、ボタン、ヒガンバナなど沢山中根正賀の弟茂正の墓 ( 元禄 13 年 ( 170 の没 ) 中根正章の子正賀の墓 ( 元禄 5 年 ( 1692 ) 没 ) の花木や草花で埋まっている。 中根正賀の子新太郎の墓 ( 享保 11 年 ( 1726 ) 没 ) また、寺の境内にはあちこちにカッパ 事ご水あ神て当もしいあま人ずでなでか の像が置かれている。「かつば七福神 を参難っとら山負ぶ精りた間そ、の、つ お拝よめしれがけと神、河のれ人か当ばか のいわれ」についての掲示板に右の 祈のけててた水なくカこ童方で間と山七つ 、にのにがもに申独福ば り方のい ように記されている。 申々神まかと縁生忍あ粘は根あもし特神七 しにさすっかのき耐やり相負き挑まのさ福 上、ま。ばらあ方強か強手けら戦す福ま神 す神てま神をゑたきわあ心ずを、い ま河わ ま汞宝ミいミたきをき荷旱で童れ のしのの寄福のさため全そ回す相すの ごまおせ田でまちな部うもが撲。 がいなのうなく、か。でかいしし あま呼りあ地いまたすはな , 、てた りすば信る名じしく能最かん河七 ま。れ仰福にめくまカ後勝好童福 す、をの建に、しもにてき達神 常泉寺 を かつば七福神 206

9. 湘南散歩 境川・引地川

らずしも川の流れと一致していない部分があるが、恐らく現在の境界線が元の境川 の流れであったのであろうと思われる。 ー最初の「一の橋」から最後の「片瀬橋」まで橋名が分っているもの だけでその数は支流のものを除いて 118 ある。本書に掲載する橋の総数は、 2 つの 水道橋と支流の 7 橋を含めて 127 橋である。 これらの中には同じ名称が付けられている橋がいくっかある。最も多いのが「境橋」 で「新境橋」「増堺橋 ( 以前はいずれも境橋といわれていたようである ) 」も含める と 7 橋あり、「境川橋」は 3 橋 ( 「境川大橋」「境川高架橋」も含めると 5 橋 ) 、「両国 橋」、「鶴間橋」、「大正橋」、「小山橋」、「鹿島橋」がそれぞれ 2 橋ある。また、相模 原市の宮下本町には「大正橋」、「昭和橋」、「平成橋」と年号名を連続して付けられ ている橋がある。橋の名前も時代によっていくっかの変遷があるようで、例えば遊 行寺の前の「遊行寺橋」は、古くは「菊名橋」とか「喜久名橋」、明治時代には「大 鋸橋」とよばれたこともあったとのことである。 一方これらの橋の形状、大きさ、使用材料等は架設場所の川幅や流れの状態、交通 の条件、架設年代、その地域の住民や行政の考え方などが反映されているように思 われる。「一の橋」のように木板を渡しただけの橋、ガードレールを取り付けただけ の橋、欄干も含めコンクリートで造られた橋、シンプルなスマートな橋、その地方 の特徴を示すものをモチーフにした飾を取り付けた橋、どっしりと重厚な橋、華麗 な橋等様々である。相対的には下流になるほど、交通量 ( 人通り ) の多い橋ほど、 その造りは立派になる。中でも河口に近い「弁天橋」はその形状、色彩のほか橋の 中央に彫像を配するなど工夫され通行するのが楽しくなる人道橋で、「神奈川県の 名橋百選」の一つに指定されている。 ー今こそ境川は河川改修や護岸工事が進み安全な川とな。ているが、 昔の境川は暴れ川ともいわれ氾濫などによる被害が絶えなかったようである。従っ てそれにまつわる伝説や信仰も生まれている。「二十三夜様」「瞽女淵の碑と土手番 様」などはその例である。また、村の鎮守としての神社や極楽浄土を願う寺院が数 多く建立されている。本書で取り上げたものだけでも、神社は 67 社、寺院は 61 寺 に及ぶ。これらの神社仏閣にはそれぞれ独自の歴史があり、その由緒や縁起には歴 史上の有名な人物や言い伝えが数多く登場しており誠に興味深いものがある。 花応院や遊行寺の「小栗判官と照手姫」伝説、龍ロ寺の「日蓮上人の龍のロ刑場」 伝説などはその代表的なものといえよう。また中には有形・無形の重要文化財に指 定されているもの、境内に 300 年以上も大切に保存され天然記念物あるいは名木古 10

10. 湘南散歩 境川・引地川

遊行寺 ( H11. 6.6 ~ 8 撮影 ) とうたくさんむりようこういんしようじようこうじ 「遊行寺」の正式名は「藤沢山無量光院清浄光寺」。別名「藤沢道場」とも呼 ばれる。遊行寺橋を渡り東へ直進すると遊行寺の大きな総門 ( 黒門 ) があり、そ こからいろは坂を登り詰めたところが遊行寺の本堂がある広い境内である。 その境内の掲示板に記されている遊行寺の説明文を以下に示す。 時宗総本山遊行寺 清浄光寺が公式の寺名ですが遊行上人の寺ということから広く一般に遊行寺と 呼ばれています。宗祖は一遍上人 ( 1239 ~ 1289 ) で南無阿弥陀仏のお札を配って 各地を回り修業された ( 遊行といいます ) 念仏の宗門です。この遊行寺は正中 2 年 ( 1225 ) 遊行 4 代呑海上人によって藤沢の地に開かれ、時宗の総本山となって います。宝物として国宝「一遍聖絵」、国重要文化財「時衆過去帳」など多数があ ります。境内には日本三大黒門の一つである総門、銀杏の巨木、中雀門、市指定 文化財の梵鐘、国指定の藤沢敵御方供養塔、小栗判官と照手姫の墓、板割浅太郎 の墓、有名歌人の句碑などもあります。また、桜、ふじ、花しようぶの名所で観 光百選の一つにもなっています。 以下遊行寺の主な見どころを黒門から順にたどって見ることにする。 ①黒門 ②いろは坂 遊行寺の総門の冠木門で日本三大黒門の一つ 参道の石段は 48 段あることから 「いろは坂」と呼ばれている。 といわれている。 ゆぎようじ 下から見たいろは坂 143