中村橋 ( s 44 年架設 ) ( H10. 10.29 撮影 ) 中村橋上から見た上流の眺め 善然寺 ( H10. 11. 19 撮影 ) 下土棚大橋の道を東へ行くと右側に善然寺 があり、その奥に白山神社がある。 「竜王山西光院善然寺浄土宗芝増上寺末」 この地域は渋谷金王丸の封地で、氏神白山 権現 ( 白山神社 ) の本地は滝見観音といい 金王丸の守本尊として観音堂に安置されて いたのを西光が再興して一寺としたとい 宗祖は法然上人 ( 源空 ) 開宗は承安 5 年 ( 1175 年 ) 白山神社 ( H10. 11.19 撮影 ) 白山神社の社と境内 白山神社の入口 214
大戸観音 川堺橋の手前、県道 48 号と 47 号 をつなぐ T 字路信号交差点の手 前の道路沿いに大戸観音がある。 ここには一際目を見張る大きな イチョウの木が聳え立っている。 樹齢 : 約 4 0 0 年 樹高 : 1 5 . 3 m 幹周 : 4 . 2 m 町田市名木百選に 大戸観音と大銀杏 ( H11. 4.21 撮影 ) 昭和 51 年 11 月指定 境内には町田市教育委員会による「町田の民話と伝承」の一つとして「大戸の地名」 にまつわる下記のような記述の立札がある。 。大戸の地名 " 大戸は元禄 3 年 ( 1690 ) から多摩郡横山之庄「上相原村」が村名であったが、土地の人は 通称「大戸」と呼び通称の方が近郷に知られていたので大戸の呼名は上相原の屋号ともい える。「大戸踏切 8 時半貨車がすぎます走ります。」と誰が読んだか、現在の町田街道 はそのころ大戸往還と呼ばれたのである。この街道が古くは鶴間から分岐して秩父、高崎 方面に向う「鎌倉街道山之道」といわれ、この場所から山路への入口であり、又横山之庄 の相州ロとして大木戸番所が置かれたと伝えられ、大木戸をいっしか大戸と呼ぶようにな った。この番所のかたわらに「了心庵」という草庵があり、後に八王子市山田の雲津院の 末寺で「祐照庵」と呼ばれた。境内に観音堂が創立されたのが慶長元年 ( 1596 ) で当時か ら大戸の観音様と呼ばれ、門前には旅人宿や居酒屋が立並んで賑わい鐘楼は八王子八景の 景勝の地として「大戸の晩鐘」とうたわれている。 大戸の晩鐘“タかすみたつや大戸の鐘の音に妻木を負うて帰る里人” 川堺穆 ( S 11 年架設 ) 大戸観音の近く、境川が県道 48 号 ( 鍛冶谷相模原線 ) を斜めに横切 って流れているところに架けられ たのが川堺橋である。 川は僅かに水かさを増しながら町 田市と城山町の境界線を流れて行 町田市教育委員会 1 9 9 8 年 3 月 川堺橋と 48 号道路全景 ( H11. 4.27 撮影 ) 21
金山神社 上鶴間橋の西側 100m ほどの所に 金山神社がある。 境内は改修工事中であった。 金山神社の入口 ( H11. 7.23 撮影 ) 鶴金橋 ( s 48 年架設 ) 「つるかねはし」といい、町田市 側の 56 号道路につながる道にあ る。この橋から上流側の都県の境 界線は一部川より町田市側に食 い込んでおり、この橋も相模原市 所属である。 ~ 物第表ミを物新ま 西側から見た鶴金橋 ( H11. 7.23 撮影 ) 金森天満宮 目黒町町田線 ( 56 号道路 ) 沿いに 小さな社がある。鶴金橋に近い。 菅原道真を主祭神とする天満宮で ある。金森の天神様とも呼ばれて いる。 天満宮 ( H11. 7.23 撮影 ) 77
鹿嶋神社 大日堂の隣、北側奥にある神社で、 境内にはケヤキやカシの木が多く 市の保存樹林に指定されている。 虎神社 鹿嶋神社 ( H11. 7. 16 撮影 ) 八坂神社 境川橋を通る道の右側、 町田街道寄りにある神社。 ひのきオ喬 ( S47 年架設 ) 八坂神社 ( H11. 7. 16 撮影 ) 境川橋から約 700m ほど下った所にある橋で、昭和 61 年に追加施工された上流 側の歩道部は高い手摺で仕切られている。下流側の欄干はガードレールを取り 付けたような欄干であるが、スプレーで悪戯書きされているのは残念である。 下流を眺めると J R 横浜線の鉄橋が見える。 西側から見たひのき橋 ( H11. 7. 16 撮影 ) ひのき橋の下流 ( H11. 7.16 撮影 ) 63
深見神社 佛導寺の南側に「 ( 相模国十三座の内 ) 延喜式内深見神社」がある。最初の鳥居の 左脇に市指定重要文化財の「社号標」がある。また、本殿の左に市指定天然記念物 で神奈川の名木 100 選に選定されているハルニレの巨木がある。 境内入口の鳥居横に立てられている市教育委 員会による掲示板には深見神社について次の ように書かれている。 深見神社 「深見」という地名は「倭名類聚鈔」 ( 931 ~ 937 ) に相模国高座郡深見郷と記されており、 市内の地名が初めて文献に登場したものです。 しかし、この時の深見の範囲は現在地を含めて かなり広い範囲を総称していたもののようで す。深見神社は鹿島社の別称がありますが、 い伝えによれば、領主であった坂本氏が茨城県 鹿島神宮の祭神を勧請したためといいます。市 内に存在している神社の中では唯一の「延喜 式」神名帳 ( 927 ) に掲載された延喜式内社と なっています。縁起式内社は全国で 3132 社あ るが、この制度の目的は天皇家の安泰と国の隆 盛・五穀豊穣を祈願するというものであり、当 時の国の中枢である天皇家と直接結びつくも のでありました。村の鎮守という一面と地方を 代表するものという一面の両者を持っていた といえます。なお、境内には大和市指定重要文 化財である寛政 3 年に建立された「深見神社社 号標」と天然記念物であるハルニレがありま す。 大和市教育委員会 標 号 社 社 神 見 大和市指定重要文化財 ( 有第 4 号 ) 昭和 47 年 2 月 25 日指定 深見神社社号標 形状尖頭角柱製、高さ 146Cm 、幅 31cm 、奥行き 25cm 年代寛政 3 年 ( 179D この社号標は、深見村の領主であった旗本坂本重治が造立し たと伝えられています。正面には「相模国十三座之内深見神 社」と書かれ、深見神社が縁起式内社であることが明記され ています。縁起式内社とは延長 5 年 ( 927 ) に完成した延喜 式の神名帳に列記された神社のことで、相模国には寒川神社 など全部で 13 座ありました。このことから深見神社は平安 時代にはすでに存在していたことがわかります。 平成 9 年 3 月 大和市教育委員会 102
おきぬさま信仰 蠶守神大神とおきぬさま信仰 かって養蚕は農家の生活を支える重要な産業でし 皇武神社の境内に祀られてい た。そのためあちらこちらの家からカイコのざわ めきが聞こえそのまわりには果てしない桑畑が広 る蚕守神とおきぬさま信仰に がっていました。この蠶守神大神は養蚕の守り神 です。大きくどぐろを巻いた蛇を御神体とし、古 ついては右のような説明が石 くから人々の信仰を集めていました。特に明治時 碑に書かれている。 代にはこの地よりおきぬさま信仰もはじまり、そ れは遠く埼玉県や群馬県にも影響を及ぼしていま した。このおきぬさまにまつわる話は次のようで す。むかしこの神社の氏子の家で養蚕の作業が忙 しい時期に人手が無くて困っていました。そこ 神主の娘が手伝いに現れ、てきばきと仕事を片付 けていきます。ところが仕事が一段落すると娘は たちまち白蛇となり神社の拝殿の中へ消えてしま いました。これは神社の神様が神主の娘に姿を変 えて手伝いに来てくれたものだったのです。それ 以来養蚕の時期になると蛇のお礼と娘の人形おき ぬさまを受けに大勢の人々がこの神社を訪れまし 蠶守神大神 ( H11. 7.2 撮影 ) た。今では養蚕を営む農家もほとんどなくなりお きぬさまを信仰する人もおりません。しかし先人 淡嶋神社 より受け継いだ伝承をさらに伝え残すことが我々 の責務と考え、 ーこに蠶守神大神を復興すること 根岸橋の東方、根岸町の新興 平成 2 年 3 月吉日 といたしました。 住宅地の中にこの淡嶋神社がある。 淡嶋神社人口 ( H11. 7.7 撮影 ) 入口にある石碑には次のように由緒が記されている。 淡嶋神社由緒 御祭神 : 少彦名命 ( 医薬の神 ) 天照皇大神 ( 神社の総本神 ) 菅原道真公 ( 学問の神 ) 起源 : 不詳。享保の頃既に祀られた碑がある。更に文政年間に現祭神の他数体の神を 祀って御神体とした奉納札が現有する。少彦名命を祀った淡嶋神社は和歌山市 加太を本宮とするが全国的には少なく東京都には当根岸町のみである。 変遷 : 明治の神仏分離で独立し村の有志の寄進等で境内も広がった。 昭和 42 年に宗教法人となり平成の区画整理により整備された。 55 淡嶋神社本殿 ( H11. 7.7 撮影 )
柏山橋 ( S 59 年架設 ) 天神橋付近から引地川橋まで の左岸一帯は稲荷という地名 となっている。これは大庭景親 が平清盛に頼んで城の守護神 として勧請したという柏山稲 荷神社に因むといわれている。 その柏山稲荷神社の傍に有る かしわやまばし 橋であることから柏山橋と名 付けられた。 柏山公園 ( H10. 10.26 撮影 ) 柏山稲荷神社の南側一帯が 柏山公園となっている。 柏山稲荷神社 ( H10. 10.26 撮影 ) しようげん ( H10. 11. 16 撮影 ) 境内にある将監稲荷は大庭城の水門の堰守吉田・西山両将監が住んでいたところ しようげんぶち にあり、 ーこにある淵は将監淵と呼んでいる。 柏山稲荷神社の人口 231 第ネッす物 : 阯を第 西側から見た柏山橋の全景 柏山稲荷神社本殿 柏山公園 柏山公開 第犬市立
密蔵寺 上諏訪神社と同じ通りに面して真言 宗寶盛山密蔵寺がある。 境内に入ると中央左手に、「愛染明 王」 ( 真言密教で信仰する明王の一 っ ) と刻まれた石柱のそばに桂の木 が植えられており、立札に 「愛染かつら記念植樹 昭和 32 年 4 月 24 日小暮実千代」 と記されている。 小暮実千代の記念植樹愛染かつら 西浜橋 ( S 62 年架設 ) 川は境橋から大きく湾曲して東へ向う途中、江ノ電の湘南海岸公園駅の近くに西浜 橋がある。橋の両側に歩道があり幅員の大きい橋である。 2 を 密蔵寺の山門 ( H11. 5.31 撮影 ) 密蔵寺の本堂 ( H11. 5.31 撮影 ) 上流から見た西浜橋 ( H11. 5. 31 撮影 ) 上流側の西浜橋 ( H11. 5.31 撮影 ) 165
諏訪神社 目黒橋の西方にある神社で、境内に長 文の由緒が掲示されている。要約する と下記の如くである。 諏訪神社由緒 祭神建御名方神 創立年代は不詳。古来式内石楯尾神社と 伝えられ、鎌倉中期の頃諏訪社として祀 られたものと思われる。元禄 6 年 ( 1693 ) 領主江原氏、都筑氏の各代官が本地を寄 進し御神体として本殿に奉安した。宝永 8 年 ( 171 の再建。安永 7 年 ( 1778 ) 再 建。明治 5 年 ( 1872 ) 社殿再建。大正 12 年関東大震災で被害。昭和 4 年復旧 工事完了。昭和 15 年村社に昇格。社名 「諏訪神社」に変更。昭和 57 年覆殿幣 殿神饌所祭具所玉垣等再建、社殿改修。 末社 : 稲荷社八坂神社 秋葉神社古峯神社 境外末社 : 日枝神社伊勢社 諏訪神社本殿 ( H11. 7. 29 撮影 ) なお、当神社にある御神像と奉納額は大和市指定の重要文化財となっている。 その現物は見られないが、境内にある掲示板によると下記のようなものである。 市指定重要文化財 ( 有第 2 号 ) 諏訪神社御神像昭和 47 年 2 月 25 日指定 形状 : 立像、寄木造り、玉眼嵌入高さ : 54.4 c m 年代 : 8 世紀前半頃 市指定重要文化財 ( 有第 17 号 ) 諏訪神社北辰一刀流奉納額 平成 6 年 4 月 1 日指定 形状 : 奉納額寸法 : 縦 182.0 c m 横 273.5 c m 年代 : 明治 19 年 10 月 15 日 江戸時代後期に成立した剣道の 4 つの新興流派 ( 北辰一刀流、鏡心明智流、無刀流、 天然理心流 ) の分布が、額面に記載された奉納関係者一覧によって把握できる。 [ 参考 ] 北辰一刀流 : 千葉周作 無刀流 : 山岡鉄舟 鏡心明智流 : ( 初代 ) 桃井直由、 ( 2 代 ) 桃井春蔵直一 天然理心流 : 近藤内蔵之助長裕 ( 近藤勇は 4 代目 ) 千葉周作、桃井春蔵直一、斎藤弥九郎は三剣士といわれた。 90
学引 第六天神社 この第六天神社は鶴間 1 号橋と鶴瀬橋の ほぼ中間の位置にある小さな社である。 地図には「大六天神社」とあるが、鳥居 には「第六天神社」となっている。 鶴間山観音寺 鶴瀬橋の西にある真言宗の寺院である。 境内の中程にある「鶴間山観音寺縁起」 と題する石碑に次の如く刻まれている。 鶴間山観音寺縁起 当山は高野山真言宗で中興開山頼満和尚 は慶長 13 年 ( 1608 ) に入寂、その昔は金 亀坊といわれたが開山開基は不詳である。 市指定重要文化財の厨子は天文 13 年 ( 1544 ) 造で、室町時代の様式を伝える貴 重なものであるが、創建を知る手掛りにな るのであろうか。本尊の十一面観世音菩薩 は寺伝によると宝暦年間 ( 1751 ~ 63 ) 住職 者宥仁和尚と同様瀬谷村中屋敷高橋是右 衛門にも、この家に伝わる十一面観世音菩 薩が霊夢に立たれ当山に奉安せよとのお 告げがあった。深見村の小林九兵衛はこの 勧請を扶け、又、下鶴間村領主で旗本の江 原公の協力も得て観音堂を新築し安置さ れた。後大火により地域一帯が焼失したが 観音堂だけが難を免れた。村人はその奇瑞 に驚き以降この十一面観世音菩薩を本尊 と仰ぎ、寺号を今の観音寺に改めたといわ れる。しかし宝暦より前に観音寺の記述が 古文書に見られる。古老の話では以前は地 蔵菩薩が本尊で真言院といわれたという。 建武 5 年と延文 2 年の板碑があるが、新編 相模風土記稿に履歴を伝えずと記されて いる。弁天堂には江原公奉納の弁財天や十 五童子などがまつられ、当時の堂宇も江原 公や村内巳待講中が施主であった。宝暦 9 年 ( 1759 ) 武蔵相模に武相観音札所が創設 され、その第 1 番となり、以来卯歳には御 開扉供養が一斉に厳修される。 第六天神社の正面 ( H11. 7.29 撮影 ) 観音寺の本堂正面境内 ( H11. 7.29 撮影 ) 文化財「観音寺厨子」 指定 昭和 47 年 2 月 25 日 高さ 61.5 c m 43. 8 c m 奥行 33.4 c m 文化財 「木造地蔵菩薩半迦像」 指定 昭和 56 年 8 月 1 日 像高 101. 5cm 総高 139. 9c m 86