入口 - みる会図書館


検索対象: 湘南散歩 境川・引地川
97件見つかりました。

1. 湘南散歩 境川・引地川

八坂神社 中里橋から南に入った竹薮の中にひ っそりと祀られている。 鳥居も無く質素な社殿で判りにくい が、車道から私道への入口に八坂神社 入口と刻された小さな古い石柱があ り、ようやく見つけることができた。 龍像寺 八坂神社から南へ下り境橋に近づいたところに曹洞宗龍像寺がある。 淵源山という標札のついた山門の左手に、古い山門がある。これはかっての旧山 門なのであろう。その横に下記の内容が書かれた掲示板がある。なお、その更に 左手丘陵には広大な墓地があり、そ の中には渕野辺村の地頭で旗本であ った岡野家累代の墓もあるという。 龍像す えんげんざん この寺は山号を「淵源山」といい、 厚木市七沢にある曹洞宗広沢寺の 末寺です。縁起によると暦応年間 ( 1338 ~ 134D 境川に棲んでいたと 言う大蛇をこの地の地頭淵辺義博 が退治し、 3 体に分散した蛇体をお のおのの地に葬ってそれぞれ龍頭 寺・龍像寺・龍尾寺としたと伝え られています。その後 3 寺とも荒 廃してしまいましたが、弘治 2 年 ( 1556 ) に巨海和尚によってこの 龍像寺だけ再興されました。寺宝 としてこの龍骨の一部と義博使用 の矢じりと板碑が所蔵されていま す。また、墓地内には江戸時代に この地の地頭であった岡野一族の 墓があります。 相模原市観光協会 ( H11. 7. 2 撮影 ) ( H11. 7.2 撮影 ) ふちべ 山門 本堂 ( H11. 7.2 撮影 ) 59

2. 湘南散歩 境川・引地川

境川高架橋 ほぼ直線で相模原市を通って きた国道 16 号 ( 東京環状 ) は 大和市に入り、鶴間橋を通る 県道 56 号と交わる「つきみ野 入口」交差点辺りから左に湾 曲し、境川を横切って東京都 町田市へ向かう。その境川の 上の橋がこの高架橋である。 ニ津屋橋 ( S50 年架設 ) 「ふたつやばし」という。 上流側には国道 16 号線の高 架橋、下流側には東急田園都 市線の鉄橋が見える。 水道管橋 ( 年架設 ) 東急の鉄橋の下をくぐると 巨大なアーチ型をした水道 管が架かっている。 変化の乏しい河川の風景に アクセントをつけている。 平成 6 年施工のものである。 上流から見た水道管橋 83 ( H11. 7.23 撮影 )

3. 湘南散歩 境川・引地川

大山阿夫利神社御分霊社 ( 大黒天開運神社 ) 観音寺から少し西へ行った所に「大山阿夫利神社御分霊社」がある。 入口前左手に 3 つの石柱石碑が立っている。 左 : 新田義貞公鎌倉進撃路 中 : 東・西相州鶴間村宿 是より東江戸 10 里、 是より西大山 7 里 右 : 新田軍の鎌倉進撃路、 南朝忠臣新田氏縁の家、 挙兵六百五十年記念 と刻まれている。 また、右手の赤い鳥居の奥に本殿があり その横に次のような掲示がある。 お金に困らない財布なぜ清めの 大黒天金運生の由来 古い道として親しまれてきた旧矢倉沢街道又 別名大山街道と称していた。この処は当時相州 鶴間村宿場であった。江戸方面の旅人等は当地 に一夜を明かし、又は休み、わらじを取り替え て身を清め関東の霊山大山阿夫利神社の参拝 詣の行にはかならず財布をなぜ清めて金運に あやかるように祈願していたのである。 出世・金運・長命大黒天開運神社 人口前の道路沿いに置かれた石碑類 ( H11. 7.29 撮影 ) 阿久利神上 分霊社入口 ( H11. 7.29 撮影 ) 大国主大神、 ー、太閤豊臣秀吉 要亡をを祀る社 右の新田義貞の像は 「元弘 3 年 ( 1333 ) 5 月、第 9 代後醍醐天皇より北条氏 追討の勅命を受け、鎌倉攻めの時稲村ヶ崎の岸壁より天 皇から拝領した黄金造りの太刀を海神に投げ、海水が沖 へ引くように願いを込めている姿」で、「潮はみるみる うちに引き義貞の軍勢は干潟を渡って鎌倉幕府の北条 氏を打ち破った」という。 新田義貞銅像 87

4. 湘南散歩 境川・引地川

大庭城址公園 チビッ子 天神橋の西方の小高い大地に大庭城址公園が 冒険広場 ある。西側の正面入口から石畳のゆるやかな坂 館址広場 道を上がると広々とした大芝生広場、チビッ子 ( 堀建物址 ) 冒険広場が続いてある。ここの桜は美しく春に は花見客で賑わう。また、大芝生広場の北側に は城郭をイメージした藤棚のパーゴラ、東側奥 には市制 50 周年記念モニュメント「足型の丘」 があり、チビッ子冒険広場から東の奥へ行くと 花の広場がある。更に南方の奥へ進むと館址広 場がある。こは多数の石柱が置かれた「堀立 柱建物址」となっている。 右の写真の記念碑は公園南端 ( 南側入口から上 がった所 ) に建立されているものである。 ( H10. 11. 16 撮影 ) 正面入口 リ入口 型の 大芝生広 管理事務所 花ム場 南但 大庭城址の記念碑 らを 大芝生広場の南側 大芝生広場の北側 225

5. 湘南散歩 境川・引地川

原宿用水取人口跡 境橋に程近い所に原宿用水取入口跡の 年間大切にされてきた」 県営水道が普及するまでの約 400 こから原宿まで引いたもの ( 左側面 ) 「江戸時代初期に境川の水を この側面に次のように記されている。 石標が立っている。 27 ( H11. 5.5 撮影 ) 川の整備工事が進められている。 るとのことである。この橋の上流は河 橋で地元の人は「横溝橋」と呼んでい 川島橋はもともと横溝氏個人が架けた 巡らされている古い橋である。 改修工事のためのネットが周辺に張り 境橋からかなり下流に下った所に河川 ( S30 年架設 ) 川島橋 南側から見た境橋の全貌 ( H11. 5.5 撮影 ) 第を考第 ( 下写真の矢印地点 ) れる小松川が合流している。 いるようであるが、地図では増堺橋となっている。この橋の直ぐ下流で城山町を流 ますさかいばし 県道 47 号と 48 号を結ぶ道路に架けられている橋である。橋名は境橋とも呼ばれて 回 ( s 58 年架設 ) 増堺樛 ( H11. 5. 5 撮影 ) ( 右側面 ) 「平成 5 年 3 月城山町教育委員会」

6. 湘南散歩 境川・引地川

無量寺 高鎌橋の東、県道 22 号の北にある 寺院である。入口の掲示板には次の ように記されている。 帰命山長寿院無量寺 当山は鎌倉安養院第 19 世深誉 呑霊上人が文禄 2 年 ( 1593 ) に 開創したと伝えられている。ま た「相模風土記稿」には開山は 善如 ( 承應 2 年寂 1653 ) とある。 伝承では初め他所に創建された が天災により本堂庫裡等すべて 倒壊してしまい現在地に移転し て再建されたという。本尊阿弥 陀如来像は相州鎌倉郡扇ヶ谷の 仏師後藤左近の作 ( 元禄 15 年 1702 ) 。 浄土宗 刀、日 本尊 阿弥陀如来 総本山 京都知恩院 称名 南無阿弥陀仏 境内にある 宗祖 法然上人 名木古木指定 所求 極楽浄土往生 のイチョウ ( H11. 7. 1 撮影 ) 三柱神社 無量寺の南方にある神社で境内には上飯田南町町内会館がある。この神社の由来は 入口の立札によると、「上飯田下組といわれた地域内に古くから祀られていた日枝 神社大山咋命 ( 山王様 ) ・神明社豊受津姫命 ( 稲荷様 ) ・天満宮 ( 菅原道真 ) の 3 っ みはしら の神社を大正元年 12 月に寄宮して三柱神社としたのが始まり」とのことである。 無量寺入口、正面が本堂 ( H11. 7. 1 撮影 ) 5 第 5 三柱神社入口 三柱神社本殿 ( H11. 7. 1 撮影 ) ( H11 . 7. 1 撮影 ) 120

7. 湘南散歩 境川・引地川

御嶽神社 金沢橋の西方道路沿いにある神社で「みたけじん じゃ」という。鳥居の左脇に「御嶽山神礼寺文殊 院跡」と標した木柱が立っている。参道を進み本 殿への石段の前に来ると「猿田彦大神石廟入口」 と刻んだ石碑があり、本殿の左奥にその石廟があ る。これは藤沢市の重要 文化財に指定されており、 正面の扉に鍵のかかった 木製の小屋に保存されて いる。この文化財に関す る掲示板には次のように 記されている。 猿田彦大神石廟保管小屋 御嶽神社本殿 ( H11. 6.26 撮影 ) 市指定重要文化財 ( 有形民俗文化財 ) 猿田彦大神石廟 高床式、切妻造、総高 93cm 、間ロ 60cm 、奥行 66cmo この石廟は延宝 8 年 ( 1680 ) 造立。 その後天明 6 年 ( 1786 ) に修復されたものである。 4 柱間の前面扉及び石室の 3 面壁に花 応院、文殊院以下村民 48 人の助縁者名が刻まれている。全体が安山岩質の石造りで、廟の 前方に縁を出し、石廟は上床、人口の扉は観音開きになっており、屋根はゆるい勾配で 2 枚板石の合せ葺き、前屋根に 2 匹の猿像を陽刻しているのが特徴である。右側の猿は半迦 の姿勢で左手に葉っきの桃を持ち、左側の猿は両手を広げて匍匐している。もと字御所ケ 谷に祠られてあったのを後年ここに移したと言われている。西俣野には神道系の庚申塔と 見られる「猿田彦大神」石造塔が数基残っているが、これは仏教系の庚申信仰に対し御嶽神 社を信仰するものによって造立され、この猿田彦大神石廟は当地のそうした流れのなかの 藤沢市教育委員会 昭和 40 年 5 月 31 日指定 所産と見ることができる。 神明社 小御嶽神社 東西橋の西方 御嶽神社から少 道路沿いにあ し南へ下ったと る神社で、村の ころに小御嶽神 鎮守という感 社がある。文字 じである。鳥居 通り御嶽神社の の傍に高いイ 子供のような小 チョウの木が 聳えている。 小御嶽神社 ( H11. 6.26 撮影 ) 神明社入口の鳥居と銀杏 ( H11. 6. 12 撮影 ) 132

8. 湘南散歩 境川・引地川

鹿島神社 境橋の西方に鹿島神社と青柳寺が並 んである。鹿島神社の人口の掲示板 に長文の由緒が記されている。 それによると、 たけみかっちのみこと 祭神は武甕槌命、創建は不詳だが、 おそらく建久年間源頼朝が鶴舞の里 ( 鶴間 ) に鶴舞神社 ( 今の浅間神社 ) を創建したと伝えられる頃、これに 鹿島神社入口 ( H11. 7. 16 撮影 ) 因んで村人が関東・東北地方を開拓し茨城県の鹿嶋神宮の御分霊を各村に勧請した のであろう。当地にも下森、森野、鵜野森の 3 村に鹿島神社が祀られ、住民は「三 鹿島」と呼んでいたとのこと。当社はその一つである。 青柳寺 青柳寺の境内と本堂 ( H11. 7.16 撮影 ) 武相困民党発祥之地石碑 境内の掲示板には当寺について次のように書かれている。 青柳寺 この寺は山号を「方運山」といい、日蓮宗身延山久遠寺の末寺です。これの由来について は足利義昭に仕える渋谷越後守義重という人が夢のお告げによってこの地に寺院を建て ることを志し、僧律正院日題と共に天正年間 ( 1573 ~ 1592 ) に開山したと伝えられていま す。義重はその後出家し、方運院義重日後と称しています。境内にあった旧庫裡は県の重 要文化財に指定されています。また、明治時代に農民のために運動した「武相困民党」は この寺の境内で決起され、後年その記念碑が建てられています。相模原市観光協会 70

9. 湘南散歩 境川・引地川

慈眼寺 境川の東、渡内地区の県道 302 号の北側にある寺院で「じげんじ」という。入口に 鎌倉札所 33 番の石柱が立っている。道路際の階段を上ると山門があり、その前左 に「平氏満の墓」がある。山門から境内に入ると右手に複雑な形の樹木「混生樹 ( 寄 り木 ) 」、その左正面が本堂で、本堂の右横に「梵鐘」が吊るされている。また、本 堂本尊には文化財に指定されている「十一面観音立像」が祀られている。 これらについて夫々 掲示板にて説明が書 かれているのでその 内容を以下列記する。 一物 慈眼寺の本堂 平氏満の墓 坂戸町 ( 現在の藤沢本町 ) の旅籠小 松屋の隠居歌名を旦上平氏満という 詩歌を好み「我棲里」の著者でもあ る小川泰堂とも親交があり、嘉永元 年 ( 1848 ) の「藤沢山日鑑」 ( 遊行寺の 日記 ) には「千種集」と題した千句の 和歌を遊行上人に献上したことが記 されている。「千種集」は天地二巻よ りなり、遊行上人の返し歌も記され ており現在も遊行寺什宝として宝物 館に所蔵されている。没後は海の見 える場所に埋葬してほしいとのこと から、慈眼寺の高台の一隅に墓を設 平氏満の墓 ( H11. 6. 10 撮影 ) けたものであったが、昭和 62 年 ( 1987 ) からの区画整理によりこの場 所に移動したものである。 平成 6 年 3 月藤沢市教育委員会 ( H11. 6. 10 撮影 ) 150

10. 湘南散歩 境川・引地川

箭幹八幡宮 宮前橋の北東、町田街道寄りの位置にこの やがら 「箭幹八幡宮」がある。「矢部八幡宮」とも 呼ばれている。南側正面の鳥居から入ると 鬱蒼と繁る並木の中の長い参道がある。そ の突き当たりの広い敷地の中央に木製の鳥 居がある。その先に「随身門」、その奥に本 殿がある。境内にはこの神社の由緒につい て下記のように記された石碑がある。 南正面入口の鳥居 ( H11. 7.2 撮影 ) また、この神社への入口は東西にあり夫々鳥居が立っている。 なお、「随身門」と「獅子舞」は市の文化財に指定されている。 ( H11. 7.2 撮影 ) 箭幹八幡宮の本殿 ( H11. 7.2 撮影 ) 箭幹八幡宮由緒 祭神應神天皇配祀神功皇后例大祭 9 月 15 日 康平 5 年源義家安倍氏を討ち奥州より帰る途中木曽に宿り病にかかって毎夜悪鬼に責めら れる夢に見た当社に祈願せしめられたところ、夢に神翁現れ悪鬼を射倒すと見て病忽ち快 こに於いて本宮末社に至るまで尽く再興して神恩に報いたと言い、この時屋根 癒した。 に羽矢を挿入し又境内に矢竹繁茂せるを以って箭幹八幡宮と名づけこの地を矢部と称し たと伝う。保元平治の乱に敗れた源義賢は大蔵の館に拠り、これを迎撃した源義平は木曽 仲三兼任渋谷金王丸、鎌田正清等を率いて団師原付近に於いて会戦した。勝敗容易に決せ ず、両軍乱戦死闘、義平の軍危うしと見えた時、突如老翁と童子現れ、矢を拾って郷土軍 ーこに於いて将兵等これ八幡宮の化身ならんと神意を恐れ、遂に社前に和睦を を援けた。 誓った。この時甲冑矢の根を埋めた所を根岸と名づけた。後小山田有重所領 17 郷の総鎮 守として尊信篤く社地建造物の寄進も多く社参の道に今も鳥居坂の地名が残っている。寛 文 5 年代官高木伊勢守大鐘を鋳て鐘楼に掛け、後代官築田隠岐守亦社殿を再建して領民と 共に盛大な祭儀を挙行した。明治に至り宮号は廃止されたが、戦後再び古名に復した。祭 神の神徳広大学問産業災厄防除の守護神として広く尊信されている。 昭和 38 年 4 月奥宮開扉大祭記念 52